第36話 木陰に潜む悪意
西を目指して走り、ブナの数が増えてきた頃。ダウワースが一度だけ振り返って北を指した。
「俺は向こうからまわる。お前ら南のほうから行け」
この広い森の中で三人が固まって移動するメリットはない。カミルはダウワースに頷いて、方向を修正しつつラーニャの手を引いた。
貴族たちの気配が北のほうにあることは、ダウワースなら当然わかっているはずだ。そこで北側を彼が選んだことに意味があるのかないのか、ラーニャには判断がつかなかった。
いや、意味を考えるのはすなわちダウワースを疑っているということ。王位争いは人を疑心暗鬼にさせる。
ラーニャはぎゅっと寄っていた眉間から意識的に力を抜き、周囲を観察しながら走った。
が、森歩きに適した靴ではないし、そもそも日頃から運動不足である。体はすでにヘトヘトで気力だけで足を動かしている。カミルが当初より速度を緩めてくれていることに気付き、ラーニャは手を振りほどいた。
「おいラーニャ」
「行ってください、すぐ追いかけますから」
「ざっけんな。猛獣がいないから安心ってこたぁねーんだぞ」
「わっ、わっ」
カミルはラーニャの脇腹に手を差し入れる。いつだったか、アンヌフでもやった小脇に抱える方式だ。
「顔覆っとけ」
そう言って走り出す。かなり早い。
確かに、藪からいくつもの枝がラーニャ目掛けてにゅっと出ている。幸いにして目はレースで覆っているから大きな問題はないが、しかし気を付けないと肌を傷つけるだろう。
乱暴な言葉遣いは明らかに余裕がないことを表しているのに、そんな細かなことさえ気遣ってくれるカミルになぜか涙がこみ上げてきた。悔しさと嬉しさと申し訳なさとが綯い交ぜになって、どうにかしてこの人のためになりたいと思う。
どれくらいの距離を走っただろうか、カミルの足が少しずつゆっくりになり、ついには歩き出した。彼の腕の中でラーニャももぞもぞと動き、地に降り立つ。
カミルは何も言わないまま、口元に人差し指を立てた。近くに何かいる、ということだろう。常人よりは耳のいいラーニャだが、森の中で何かの気配を探るという技術は持っていない。その点においてはアンヌフ解放の英雄であるカミルのほうが遥かに洗練されているはずだ。
ラーニャは音をたてぬよう細心の注意を払いながらカミルの後をゆっくりとついて行く。
大きく枝葉を広げるブナの乱立する場所に光は届かない。暗くじめっとした中を進むと大風または寿命や枯死などで大樹が倒れた際にできる「森の隙間」があった。日差しが燦々と……というわけにはいかないが、他の場所よりはいくぶんか明るい。
そこに、人影があった。ルトフィーユだ。
せっせとキルスティ・ウォードの葉を摘んでは麻のバッグに放り込む姿に、ラーニャの横に立つカミルから安堵の息が漏れる。
「ルティ……こんなと――ッ! くそ!」
突然カミルがラーニャを抱いて転がった。ガサガサと枝や石がふたりの背に刺さる。半身を起こして元いた場所を見れば、そこには矢が刺さっていた。
カミルは小さく舌打ちをして木陰に視線を走らせる。
獲物と間違えただけならば、ここにいるのが人間であると伝えれば済むだろう。だが、わかっててやっているとしたら? 声を掛けるのは、みすみす自分の居場所を敵に知らせるようなものだ。
「わ。誰かいるの……?」
じりじりとした空気の中、しかしルトフィーユにはこの状況の危うさがわからない。
物音を聞きつけたらしい紫の星ルトフィーユは、立ち上がって麻のバッグを抱え、周囲を見渡しながら歩き出す。その足元をリスが走り抜けた。
「わぁっ。びっくりしたぁ……。リスかぁ」
ふふふと嬉しそうに目を細めたルトフィーユの後ろ、少し離れた場所で草が揺れる。
人影だ。矢を構えている。
カミルが飛び出したが、間に合うような距離ではないと素人のラーニャでもわかる。
それからの数秒はとてもゆっくりに思えた。映像をそのまま記憶し、自由に振り返ることのできるラーニャにとって一瞬は永遠でもある。だが、いまこの瞬間は確かに時が止まったように感じたのだ。
すぐにトップスピードに乗ったカミルがルトフィーユに向けて手を伸ばす。もちろん、届くような距離にはいない。矢が放たれ、葉の隙間から入った一筋の光が矢尻を一瞬だけ煌めかせた。それは確かにルトフィーユを狙っている。
と同時に、ルトフィーユの傍らの草が揺れた。
飛び出してきたのは熊のような大男であった。リスが通り抜けて消えて行った場所を見つめるルトフィーユが、カミルに気付いて顔を上げる。その後ろから大男、ダウワースがルトフィーユを羽交い締めにした。
驚いたルトフィーユは、しかし大男にのしかかられながら、前へと倒れる。麻のバッグが前方へ放り出された。
「ルティ! 兄上!」
滑り込むようにしてその場へ到着したカミルが二人に声を掛ける。
矢を放った人物は立ち去ったのか隠れたのか、姿が見えなくなっていた。
ラーニャはカミルの声にハッとして立ち上がり、三人のほうへと駆け寄った。駆け寄りながら、状況を把握した。
ルトフィーユに覆い被さるように倒れたダウワースの背に、深々と矢が刺さっているのだ。
「なに、なに、どうしたの」
泣きそうな顔のルトフィーユだが、ダウワースが重いせいか身動きできないようだ。そのダウワースは震える腕で自身の身体を持ち上げ、ルトフィーユが這い出る隙間を作る。
「カミル……これで、チャラ、だな」
ぜいぜいと苦し気に呼吸を繰り返すダウワースは、末の弟が抜け出たことを確認するなり、どう、と音を立てて崩れ落ちた。
「喋るな、兄上。喋るな」
何か言いかけるダウワースの手をカミルが握ったとき、遠くからたくさんの馬の足音が聞こえてきた。




