第33話 双子
自分ではない誰かの振りをしてカジノを楽しんだ翌日は、朝から雨がしとしとと降っていた。ドレスがじんわりと肌にまとわりつくような感覚の中、北宮を出たラーニャは護衛のフェルハートと共に本城の図書室を目指している。読み聞かせ役のレベッカを定期的に呼び出せるようになったため、大手を振って城の蔵書に手を伸ばせるからだ。
本来なら浮足立つような気分のはずなのだが、ラーニャの表情は少々暗い。それは天気のせいだけではなかった。昨夜のカジノで偶然にも目撃した光景がどうにも気にかかるのだ。
姿や口調は隠していても声までは隠せない。ラーニャが相手であればなおさらだ。だからあれは第五王子にして緑の星、ヨーネスで間違いない。問題は、ヨーネスが何を企んでいるのかということ。
一瞬見せたカミルの難しそうな表情もまた、ラーニャを不安にさせていた。
何か見落としていないだろうかと昨夜の記憶を振り返りながら歩くラーニャの耳にフェルハートの声が飛ぶ。
「ラーニャお嬢さっ……」
「痛っ!」
「……ま」
彼の注意は一瞬遅く、ラーニャは曲がり角で人にぶつかってしまった。相手は急ぎ足だったらしくラーニャの身体が弾けるように後方に飛び、フェルハートがそれを支える。
レースの奥で薄目を開けて確認したところ、相手は北方に領地を持つ侯爵であった。彼の支持は第二王子ダウワースで、北側諸国との緊張関係を維持または拡大させたいと考えているというのがラーニャの見立てだ。
「おい、どこを見て歩いて……ん? バスリーの小娘か」
「あ……失礼しました、私は――」
普段通りであれば目をつぶっていても回避できたはずだ。耳も鼻も肌も周囲の異変を感じ取るよう修練して生きてきたのだから。しかし考え込んでいたラーニャの耳はまるで足音に気付けなかった。
最近ではカミルにエスコートされる機会が増えて、注意が散漫になっていたせいもあるかもしれないが。
言いかけたラーニャの言葉を遮るように、フェルハートが前へ出て深く頭を下げた。
「侯爵閣下、申し訳ありません! 自分の不注意によるものです!」
「他人に迷惑かけても誰かが身代わりになってくれるわけかね。目が見えないやつは楽でいいなぁ、ん?」
どうやら彼は反バスリーの勢力でもあったらしい。戦争をおこしたくて仕方ない北方勢と違い、国王はどちらかと言えば穏健派である。それが相談役たるバスリーのせいだと考える人物は少なくない。
ラーニャはさっと膝を曲げて腰を落とし、淑女の礼をとった。こういう輩は文句を言いたいだけであることがほとんどで、さっさと謝って距離をとるに限る。
「おっしゃる通り、私の目が不自由なばかりにご迷惑をおかけいたしました。謝罪申し上げますわ」
「謝るのにどっちを向いているんだ、より失礼ではないか」
「閣下、お嬢様は目が――」
「言い訳はいい! 手で場所を確認するなり方法はいくらでもあろう、それもできない、見えないから仕方ないと言うなら外に出るべきじゃないのではないかね」
増長するタイプだったかと内心で舌打ちしながら、ラーニャはだんまりを決め込むことにした。注意を怠った自業自得とはいえ、全くツイていない。
彼は禿頭に汗をにじませながらさらに声を荒げる。
「貴様、なんとか言ったらどうだ!」
と、そのとき彼の背後から涼やかな声が聞こえた。
「そんな大きな声をあげてどうした」
振り返った侯爵が狼狽え、小さく一歩下がる。
礼をとったままラーニャが再び薄っすらと目を開けると、そこにはプラチナブロンドの若い男の姿があった。瞳はスカイブルーで遠目に見ればザインによく似ているが、顔の造形はヨーネスと瓜二つであるため双子の弟クテブであろう。
双子は声も似ると聞くがクテブの声はヨーネスより一段低く、やはり昨夜の男はヨーネスであったと再確認した。
「クテブ殿下。いやこの女が吾輩にぶつかって来たので謝罪を要求していたのですよ」
「……謝っているように見えるが?」
「だ、だが明後日のほうを向いている」
「お前は乳飲み子に乳をやれるのか? 持っていないものをあげつらい責め立てて何になる」
侯爵は「しかし」や「そうは言っても」などもごもごと口にしたが、その先に続く言葉はないようであった。そのうちに、ドタドタと大きな足音を響かせながらどこかへ去って行った。
「災難だったな、バスリー伯爵令嬢」
「いえ。青の星のご慈悲がございましたおかげで、今日という日を晴れやかな気持ちで過ごすことができます」
「慈悲などではない。オレは正しい目的もなく曲がったことをする奴が嫌いなんだ。……顔をあげろ」
クテブが立ち上がったラーニャの手をとり、握手をするかのようにその手を握る。
「ダウワース兄さまの殺害未遂の件、話に聞いた。優秀な人材は好きだ。何か困ったことがあれば言うといい、できるだけ力になろう」
「勿体ないお言葉ですわ。ありがとうございます」
ラーニャがクテブの手を握り返すと、彼とそっくりな顔の赤毛の男が現れた。
「堅物のクテブが誰と話してるのかと思えば、バスリー嬢でしたか。いやいや珍しいな、クテブが女性に興味を持つなんて」
ヨーネスがふたりの手元に視線を落とすと、クテブはそっとラーニャの手を離した。
「アクシデントがございまして、助けていただいたのです」
「ふーん? あ、そんなことより禿げ侯爵を見かけませんでしたか? ちょっと話があって……」
「侯爵なら向こうへ。しかしヨーネス、他者の容姿をそのように言うんじゃない」
「はいはい。それじゃワタシとクテブは侯爵のほうへ。バスリー嬢、今度またゆっくりお話ししましょうね」
ラーニャが再び淑女の礼をとると、ふたりは雑談を交わしながら侯爵の向かったほうへと歩き去った。
先日のシーツの件もあってヨーネスに対して苦手意識があったが、その弟のクテブは思ったよりもまともな好人物に感じられる。彼がそばにいる限りは、ヨーネスをそこまで警戒しなくてもいいのかもしれない。
今度こそ誰にもぶつからないようにと、ラーニャは昨夜のことを考えるのはやめて大きく一歩を踏み出した。




