第32話 鴨
レッドドッグの卓が一気に沸いた。ディーラーが開いた三枚目のカードは七。すべて同じ数字となったのだ。
「きゃー! ほら、ビギナーズラック!」
ラーニャが振り返ってカミルを見上げる。仮面のおかげで表情はわかりづらいが、青い瞳は見開かれ、口もほんの少しだけ開いたままであった。
「す……ごいな」
「でしょう?」
「さすが俺のハニーだ」
カミルが背を丸め、フードごしにラーニャの頭のてっぺんにキスを落とす。その行為が、「ゲームに大勝した若い女」を店内の全ての男の視線から守るものであることは、雰囲気ですぐに察することができた。
ラーニャもそれに乗じることとする。
「次のゲームは何にする、ダーリン?」
そう言って席を立ったとき、参加者のひとりが大きな声をあげた。
「くそっ、こんなことなら全額賭けとくんだった!」
先ほど、スプレッド五でレイズして負けた男である。
レイズしていなくても、参加していたなら勝ちは勝ち。ベットしたコインは十二倍となって返ってきているはずだ。それで満足できないのなら、これまでの負けが込み過ぎているということであろう。
「今夜の鴨は彼だろうね」
カミルが囁いて、ラーニャが頷く。きっと次のゲームではこの十二倍で得たコインの大半を賭けるに違いない。わかりやすい。わかりやすい故に狙われるのだ。
二人はその後もいろいろなゲームを遊んだが、手元のコインは元手の二割増しほどで落ち着いている。小さな負けを繰り返し、たまに大きく勝って差し引きではプラス。初心者をカジノという沼に沈めるのには完璧なバランスと言えよう。
ゲームを切り上げてバースペースで休憩しながら、ラーニャは自分の戦績を振り返って舌を巻いた。
「ここのディーラーはかなり腕がいいですね」
「やっぱりそう思う?」
「仕組まれてるとわかってても、次から次にゲームしたくなっちゃいます。完敗です」
「楽しんでくれてるようでよかった」
目の前の白のワインは桃やリンゴといった果実を混ぜ合わせたような甘味が、蜂蜜のように濃厚に舌に絡みつく。デザートのようでついつい飲みすぎてしまいそうだ。しかし。
「やっぱり、アンヌフで飲んだワインのほうが好きだなぁ」
呟いたラーニャにカミルが目を細めた。
「落ち着いたらまた一緒に行ってくれる?」
「え? ええ、私は侍女ですし、お供しろとおっしゃるなら……」
「そういうことじゃねぇんだけどなぁ」
ラーニャは、あーあとため息をついたカミルの肩に自分の頭を乗せて目を閉じた。
「ダーリン、ごめんなさい。ちょっとだけ休ませてもらえますか。あまりに面白くて、ディーラーの手元を見つめすぎちゃいました」
単純に鑑賞目的であっても、真剣に見れば見るほど脳は一瞬一瞬の細部までしっかりと確認しようとしてしまう。
見慣れたもの、深く考える必要のないものであれば、この目で見ていても滞りなく記憶を整理できるのだが……短時間の間に多くの情報が入って来たり、入ってくる視覚情報を片っ端から精査し続けようとしたりすれば、頭が疲れてしまうのももっともなことである。
「無理をさせちゃった?」
「いえ、私がはしゃぎ過ぎただけです。楽しくて」
「俺も、君が子どもみたいにムキになる様子が見られてよかったよ。そんな表情もするのかってね」
「ふふ、仮面つけてるのに」
「ん。だから今度は二人だけで遊ぼう。プレイルームにいろんなゲームを用意しとくから」
「ほんと調子いいですね」
ああ、カミルはこうやって女性を口説くのか……と頭の片隅で考えながらも、弦楽器に似た声音が頭の上で静かに話すのをずっと聞いていたくなっていた。
肩や頬に伝わる温もりも、もたれかかったラーニャを危なげなく支える腕もすべてが心地いい。
「もう少しこうしてていいですか? 飲み過ぎたかも」
「もちろん。落ち着いたら帰ろうか」
「ん……」
華やかな店内も、ディーラーとの水面下の駆け引きも面白いが、何よりバスリーや王族というしがらみに囚われないひと時が、ラーニャにとっては新鮮で充実した時間になっていた。
できることなら、もっとこうして立場や身分など関係ないただの恋人同士のように……と考えたところで我に返る。
恋人同士のようにとはなんだ、この女好きの策略にハマってしまうところだった。
慌てて頭を上げたとき、バースペースの隅のほうで男の泣き声が聞こえてきた。
「もうちょっと……もうちょっとだけ貸してください。すぐ返すから。このまんまじゃ店も土地も持っていかれてしまう」
そっと首を伸ばして様子を窺ったカミルが小さく息をつく。
「さっきの鴨だ。相手はさっぱりわかんねぇ」
それはそうだろうとラーニャも頷く。
店内にいるのは誰もが素性を隠しているのだから。
「ふぁ……あー眠い。あなたの勝負見てましたけど、運も度胸もないつまらないゲームばかりだった。貸したところでどうせ負けますよ」
相手の男の声は若く、そして聞き覚えがあった。
カミルの差し出した水を受け取ろうと伸ばした手をぴたりと止めて、ラーニャは耳を澄ませる。
「ででででもな、このままじゃ帰れないし、他に貸してくれる奴もいないんだ」
「ではこうしましょう、僕があなたの負けをすべて引き受けますよ。その代わり、条件がふたつ」
「なんだ? い、言ってくれ!」
「この地下カジノから足を洗うというのがひとつ。それと……ハハ、大したことではないのでそう緊張しないで。そうだ、外で食事でもどうですか。そこでゆっくり」
若い男は、鴨だった男を伴ってカジノを出て行った。
「いまの、緑の星でしたね」
「……え?」
ラーニャが呟くとカミルは出入口のほうを振り返ったが、ふたりはもういない。




