第28話 観察する人
護衛にシーツを拾ってもらい、怒鳴り散らすチーフメイドのほうへと向かう。彼女はラーニャの気配に気づいて口を噤んだが、グズと呼んだ若いメイドを解放するつもりはまだないようだ。
さらに近づくと、ふたりは隅に避けて頭を下げた。貴族がそばを通る際に行うごく一般的なマナーである。彼女たちの前で立ち止まったラーニャはおずおずと口を開く。
「あの、シーツの話をしていたようだけど」
ラーニャの言葉に驚いた様子で顔を上げたチーフメイドは、護衛の手にある白い布に目を留めた。そして怯えた表情でそれを見つめる。
「彼がこれはシーツだと言うの。探していたのはこれ? 落ちていたものだから汚れているかもしれないわ」
護衛が差し出した布を、チーフメイドは飛びつくようにして受け取った。
「これは……! あの、いえ、ありがとうございます。わたくしは……申し訳ありませんが、し、失礼いたしますっ!」
チーフメイドは何か言いかけた口を閉じ、深々と頭を下げてから走り去った。貴族を相手にとっていい行動とは言い難いが、切羽詰まった様子にラーニャはそれを不問とすることにした。
残された若いメイドは頭を下げたまま震えている。
「シーツは風で飛ばされたのかしら? それにしてもずいぶん絞られてたわね」
「あのシーツは冷涼な肌触りが続くよう作られた特別製なんだそうです。ヨーネス王子殿下がご愛用なされていて」
「ヨーネス殿下……」
若いメイドは身体と声をさらに小さくして続けた。
「普通のと作りが違うからなのか、殿下のシーツばかり頻回にどこかへ飛んで行ってしまって。先日お叱りの言葉をいただいたばかりでございました」
「それで彼女は焦ってたのね」
「ちゃんと飛ばないようにしっかり留めていたのです! なのに……っ!」
今日は風もそんなに強くはなく、誰かが故意に飛ばしたとしか考えられない。誰か、いやヨーネス自身がなんらかの理由で持ちだしたのだ。
そのシーツでなければ叱るというほど愛用している品なのだから、手の中の白い布が自分のものか否かわからないはずがない。そんな大事な品物を自分の手で庭に放り投げた意図はまるでわからないけれども。
「きっと小鳥がいたずらしたんだわ」
もちろん王国の星たる王子がそのようなことをしたと告げ口をすることはできないし、したところでなんの意味もないため、ラーニャは気休めを口にした。この後、彼女が再び叱られることはどうあがいても変わらないだろう。
俯いたまま何度も小さく頷くメイドを遠くから誰かが呼びつけ、彼女は一礼して小走りで去っていった。
「北宮へ戻りましょうか」
ラーニャが護衛にそう声を掛けて来た道を振り返ったとき、視界の中に異様なものが映った。
バスリーは多くの人が驚いたときにする、二度見をしない。それは、その一瞬でさえ記憶して脳内で精査することができるからであり、また、見えていることを周囲に悟らせないためである。
何食わぬ顔で歩きながら、しかしその実ラーニャは怯えていた。
視界の隅に入ったのはヨーネスだったのだ。じっとこちらを見ていた。楽しそうな、まるで蟻の行列を観察する子どものような表情で。いや、彼は正しく観察しているのだ、人間を。
――人間って誰しもいろんな顔を持っているでしょう。だから普段隠している部分をどうにかして見られないかって考えてしまうんですよ。
――ほら見てください。あのチーフメイド、普段はもっと……。
怒鳴り散らしていたチーフメイドが普段どんな様子であるか、ラーニャは知らない。けれども先ほどの切羽詰まった表情を思えば、若いメイドに向けた怒りが恐怖に由来するものだとわかる。王子からすでに叱られている状態で、また同じことを繰り返そうとしているのだから当然のことだ。
だが、その状況を作り出したのはヨーネス自身であった。
北宮へ到着したとき、ラーニャは知らず知らずのうちに腕の中の本をぎゅっと抱きしめていたことに気付いた。一度だけそっと後ろを振り返って誰もいないことを確認し、小さく息をつく。
その時。北宮から訝しげな表情でラーニャたちのほうへ近づく男がいた。ムフレスだ。
「フェルハート、何かありましたか? ラーニャ嬢の顔色が優れない」
フェルハートとはラーニャの護衛の任についている騎士である。カミルの部下の中では最も腕がたちカミルが信頼を寄せている……ようにラーニャの目には映っている。
「大したことはないですよ。オレがついてるんですからあるわけがない」
「ほー。じゃあラーニャ嬢を疲れさせたんですかね? これじゃお役目を変えたほうがいいと殿下に進言したほうが……」
「殿下からの信頼が薄くお嬢様の護衛を任せてもらえなかったへっぽこ魔導士が何か?」
ラーニャは耳を疑いつつふたりの様子を見守ることにした。
「剣を振り回すしか能がない騎士と違ってこっちは殿下の右腕として書類仕事も任されてるんで?」
「雑用するだけで右腕を自負できるなんてすごいですね、オレなんて毎日殿下の鍛錬の相手を務めてますけど」
「領地経営の補助など脳筋騎士にはできないでしょうが。アンタは殿下の左側でも守って、どうぞ」
なるほど彼らはカミルの右腕の座をめぐって争っているらしい。まことに不毛である。ラーニャはそっと咳ばらいをしてニッコリと笑いかけた。
「近衛の祖と言われる勇士マグディ曰く『王の右に立つ者剣となり、左に立つ者盾とならん』。これは急所である心臓が左側にあるため、警護の観点から左のほうが――」
ラーニャが言い終えるより早く、ふたりはカミルの左側に立つのがどちらかで揉め始めた。分担を提案しようと思ったがうまくいかないものである。
ラーニャはふたりを置いて先に北宮の中へと入ることにした。
「まぁまぁ! お嬢様、やっとお戻りになった!」
すっかり疲れきってしまったラーニャを迎えたのは、人生で最もよく聞いた声だ。
「レベッカ、もう来てくれたの?」
「ええ、ええ! 知らせをいただいてすぐに飛んで参りましたよ」
現在はバスリーのタウンハウスでメイド長として働くレベッカ・ベッカ、ラーニャの元ナニーメイドである。
追いかけて来た護衛フェルハートと簡単な挨拶を済ませると、レベッカはラーニャから本を取り上げてその手を取った。
「なんだかお疲れのご様子でございますね。さぁさ、お部屋へ戻ってゆっくりなさってくださいませ。カミル王子殿下は夕方まで戻らないと伺ってますからね」
「本を読んでくれる?」
「それは明日以降になさいませ。今日はゆっくりされたほうがよろしいですよ、お顔色がすぐれませんから」
何に縛られることなく見たいものを見た幼い頃、ラーニャはよく熱を出していた。レベッカにとっては今もまだそのイメージがあるのか、心配性な一面があるのだった。
ラーニャの私室まではフェルハートが案内を勤め、部屋へ入るとレベッカがテキパキとお茶の用意をする。
お茶の豊かな香りが室内に漂い始めて、ラーニャはやっと肩の力を抜くことができた。




