第23話 バスリーにできること
ラーニャもまた壁伝いに少しずつにじり寄って迎え、スカラリーメイドの肩を抱く。
「どうしたの、皆と一緒にいるほうがまだ安全でしょう」
まだほんの十二、三歳くらいの少女は目に涙を浮かべたまま、しかし気丈にも胸を張ってラーニャに右手を差し出した。その手の中にあったのは鉛筆だ。
ラーニャがその意図を問おうとしたとき、ラーニャの耳を掠めるようにして礫が飛んできた。
「えっと、これは――きゃあっ!」
思わずメイドとふたりで抱きしめ合う。
「おい! 向き気をつけろ!」
カミルの怒声が飛んだ。どうやら魔導士が騎士に向けて放った魔術の流れ弾が飛んできていたらしい。とはいえ普通なら守るべき対象を背にするのがセオリーであり、四人で七人を相手どっている今、魔導士の向きだけに注意を払うのは至難の業だ。
また、彼が殊更にラーニャを気にするようになったことは、相手方もすぐに気づいたようである。複数の敵がじりじりと近づいてくる気配があった。
ラーニャは年若いメイドを巻き込まぬようにと、抱きしめていた腕を解いた。
「あなたは皆のところへ戻って」
「はい。あ、それ、だ、だんな様から」
「お父様が? ……わかったわ。ありがとう」
侍従たちのほうへと目をやれば、確かに体の大きなシェフの陰にウィサムのチョコレートブラウンの髪が見えた。
ウィサムが無事であったことにホッとしつつも、鉛筆を持たされた意図をラーニャはまだ理解できていない。どこにでもある普通の鉛筆で、過去に家宝だと紹介された覚えもない。
何か別のものと間違えたのだろうかと首を傾げながらラーニャがメイドの背を押したとき、視界がうっすらと暗くなった。影が差したのだと理解して振り返ると、剣を振り上げる剣士と目が合ってしまう。
闇に飲まれたように光を感じないにも関わらず、喜びに満ちた瞳だった。人を殺すことが楽しくて仕方ないとでも言うように。
いざという時、人間は動けなくなるものだとラーニャは身をもって知った。特に、歓喜の笑みを浮かべながら剣を振り下ろそうとする狂気の前では。
「おい、一匹漏らしてるぞ!」
間に飛び込んで来たのはカミルだった。パールグレーの髪が壁に掛けられた明かりでほのかに黄色く光りながら揺れる。どこかで騎士の謝罪が聞こえた。漏らしたとはこちら側の陣形を抜けられたということだろうか。
カミルは己の剣で斬撃を受けながら、前方に高く上げた足の裏を相手の鳩尾に当て、膝の力を用いて勢いよく後方へ押しやる。体勢を崩した剣士にさらに切りかかろうとするも、暗器使いが迫ったため左へ身を翻して躱した。
「やっぱあの女が穴だぜ!」
敵方の誰かが言い、同時に魔導士の手の甲に刻まれた魔紋が光る。光ったということは魔力を通してしまった後であり、ここから発動を阻止するのは難しい。ラーニャは見えづらいながらもその輝く魔紋がどういった魔術であるかを読み取ろうと試みた。どんなことでもいいから、情報がほしいのだ。
が。
ラーニャの身体はふいに宙に浮き、逞しい腕に抱きしめられながら転がった。直後、彼女がいたはずの壁には大きな穴が開くこととなる。
「絶対守るから、怖かったら目を閉じてて」
カミルが耳元でそう囁いて離れた。その左腕からは血が流れている。さきほど、剣士の前に飛び込んで来たときにはなかったはずの怪我だ。たった今、ラーニャを助ける際に敵の攻撃を受けたのか、それとも魔法が掠めたのか。
王子を守るのは従者の役目である。それを守られるばかりか「穴だ」と狙い撃ちされて足を引っ張っている現状に、ラーニャは無意識のまま強く拳を握った。
やはり魔導士が邪魔だ。魔導士のせいで全員の動きが制限されている。
どうにかしなければと握った拳の中で、鉛筆がラーニャの指に食い込んだ。
「魔導士……鉛筆……」
ラーニャはハッとして周囲を見渡した。壊れた椅子、割れた花瓶、散らばったグラスの破片。そんな雑多な中からテーブルナプキンを引っ張り出して埃を払う。
無力なんかではない。バスリーだからこそできることがあるのだ。
鉛筆を握り、ナプキンに必要なものを書きつける間、騎士がひとり膝をついた。彼の足元には血だまりができており、気力を振り絞ってとどめを刺そうとする敵をいなしてはいるものの、戦力として数えることはできないだろう。
もう、後がない。ラーニャはカミルの名を呼んだ。
「殿下、お願い。お願いします!」
ちらりとラーニャを振り返ったカミルは、剣を大きく振って敵と距離を取り、走り寄ってラーニャの手からナプキンをひったくった。
そこに描かれていたのは魔紋である。カミルは右手で剣を振り、左手と自身の胸を使って広げた魔紋に魔力を通す。彼の瞳の色と同じ、快晴の空のような透き通った青が魔紋へ流れて行った。
キィン……と、剣と剣とをこすり合わせたような高い音が鳴る。魔紋から青が弾けて食堂いっぱいに広がった。
異変はカミルのすぐそばにいた暗器使いが短剣を取り落としたところから始まる。彼は「あ……あが……」と意味不明な呟きを繰り返しながら頭を抱えた。
あっという間にそれは伝播し、襲撃者たちはそれぞれが武器を取り落としてうずくまったり、よたよたと歩き出したりしている。
たったひとり、歓喜に満ちた瞳でラーニャを殺めようとした剣士を除いて。




