第22話 窮地
カミルは立ち止まって「目を閉じろ」と言った。こんな戦場のど真ん中で何を言っているのかと訝しんだラーニャだったが、その声音は真面目そのものだ。
言われるがままに目を閉じて少し歩いたところで、いつかのカミルの言葉を思い出す。
――人が死ぬとこなんか見ちまったら、その日のうちに酒で綺麗さっぱり流さないと
忘却を知らない自身を気遣ってくれたのだと思い至って、泣きたい気持ちを我慢する。今はまだ、そんな場合ではない。
歩を進めるごとに戦闘音が大きくなり、侍従たちと思われる弱々しい悲鳴が混じるようになった。騎士の遺体は目的地である食堂と、元々ふたりがいた位置との中間あたりにある。ラーニャの身体に染み付いた距離感覚が遺体を通り過ぎたと判断したころに、カミルが「もういいぞ」と囁いた。
目を開けて、ふたりは食堂へと足を速める。
出入口へ到着したところでカミルがラーニャから手を離した。ラーニャは急に心細くなってカミルを見上げる。
「ここで待ってて。すぐにさっきの部下が追いかけてくるはずだから、そいつと一緒にいて」
階段下で魔導士と相対していた騎士のことであろう。
カミルは開いたままになっている出入口から頭だけを出して、様子をうかがっている。険しい顔を見れば、安易について行くとは言い難い。
「おとうさまは」
「ここからは見えない。でも伯爵の護りを命じた部下はふたりともいるね」
ここで戦い続けるのであれば、守るべき対象もまたここにいるということだ。
絶命していた騎士の位置を鑑みても、ウィサムは挟み撃ちに遭ったのであろう。一体どれだけの数の襲撃者が侵入したのか考えたくもないが、絶対に殺すという意志を感じてラーニャは唇を噛んだ。国や陛下にひたすら献身した父ウィサムを、己の保身のために殺そうというのだから当然の感情だ。
強く噛んだ唇をカミルの指が優しく撫でた。
「いい子で待ってられるね?」
「……はい。よろしくお願いします」
カミルはラーニャが頷くのと同時に食堂へと飛び込み、一層激しい戦闘音がラーニャの耳を打つ。
彼はアンヌフ解放の英雄である。こんな、ちょっとした襲撃くらいすぐに終わらせてくれるはずだ。そう祈って両手を握った。
だが怖い。自分が今ここにひとりでいることがではなく、カミルが戦っていることが。鋭い音がするたびに、傷ついていやしないかと胃の中のものがせり上がってくるようだ。
恐る恐る食堂の中を覗けば、予想外にカミルたちは押されていた。シェフやキッチンメイドをはじめとした侍従たちが一か所に集まって小さく身を寄せており、騎士たちはそれを守るので精一杯なのだ。ひたすら防戦を強いられているのがわかる。
自分の無力さが情けなくなって何かできることがないかと周囲を見渡したとき、カミルの言っていたとおり、先ほど魔導士と対峙していた騎士がやって来た。
「お嬢様、殿下は」
「中に。応援に行ってもらえませんか。私は大丈夫だから」
「しかし殿下はそうは仰らなかったのでは?」
「そんな――っ!」
教育が行き届きすぎている。
ラーニャは自分の無力さを八つ当たりしそうになって深く息を吸った。ここで怒鳴っても何も解決しない。カミルの命のほうが優先されるはずだと、あらためて相手を諭すのが正道であろう。
騎士もまた、食堂の中を覗くように首を伸ばした。事態を把握すれば優先度も変わるというもの。ラーニャは一語一語確かめるように言葉を発する。
「あなたはカミル様の騎士なん……待って、誰か来るわ。テラスにいた仲間の方でしょうか」
複数の足音が食堂のほうへと向かってくる。足取りはゆっくりで、どちらに行くべきか迷っているようにも感じられた。
増援があればさすがに巻き返せるはずだ。呼びに行こうと提案するラーニャに、しかし騎士は首を横に振ってそれを却下する。
「何かおかしいのでちょっと待ってください」
騎士は剣を構え、ラーニャを背にかばった。
その姿に、今ここに向かってくる者は敵かもしれないのだと気付く。そのような可能性は微塵も考えていなかった。多少の痛みはあれど最後には我々が勝つものだと漠然と信じていたのだ。だが薄暗い廊下には騎士の亡骸が横たわっている。ガタガタと震えが走って、ラーニャは自分で自分の身体を抱いた。
舌打ち。騎士は左腕でラーニャを後ろへと押しやり、自身も後退した。
「中へ。部屋の隅へ走って!」
食堂へと押し込まれる隙に廊下の先に見えたのは、三つの人影であった。外からのさらなる侵入を阻止する命を受けた騎士は二人のはずだ。彼らは合流せず、知らぬ人物が現れた。つまりは、そういうことである。
無力な者は言う通りにするしかない。目が見えない設定なのだからもっと具体的に指示してほしいものだと、妙なボヤキが脳裏をかすめたのは現実逃避であろうか。
本来、守るべき対象はひとところにまとまっているべきなのだろうが、身を寄せ合う侍従たちのところまで走るには少し遠いし半壊した椅子などの障害がある。ラーニャが部屋の隅で目立たぬよう小さくなったところで、彼女を押しやった騎士もまた飛び込んできた。
「敵増員三体! 魔導士、剣士、暗器使い」
「ああくそっ!」
カミルが叫ぶ。
食堂にはもともと四人の敵がいたらしい。カミルの合流で立て直したものの、おそらく最初から守り続けていた騎士二名は疲労や怪我が蓄積し、本来のパフォーマンスは発揮できていない。そこに三人の増員とあっては窮地に立ったと言わざるを得ないだろう。
特に、魔導士が厄介だ。魔術の心得があっても戦闘職を選ぶ者は多くない。それは暗殺ギルドや革命軍も同じことで、ひとつのチームにひとりいれば良いほうだと戦術指南書には記載されている。だというのに、こちらに魔術を防ぐすべがない状態で魔導士を迎え撃つことになるとは。
ラーニャは再び、何かできることはないかと周囲を見回した。
「おじょ、おじょうさ……ヒッ」
ゆっくりと、だが確かに若いスカラリーメイドがラーニャのほうへと移動しているのがわかった。涙を浮かべ、空を切る剣の音に身をすくめながらも、確実に。




