第18話 短命の理由
バスリーの屋敷へ戻った翌朝、珍しく父のウィサムが戻って来て、忙しく屋敷内を歩き回っていた。腕の中の書類の束を見て、ラーニャはそれが死ぬための準備であることを悟る。
「お帰りなさい、おとうさま。私も殿下に帰れって言われて」
「そのようだね、こちらにも連絡がきたよ。だが大丈夫、すぐに戻って来いと言われるさ」
「なんで……あ、陛下のご意向ってこと?」
ウィサムは明確にそれを肯定しないまま微笑んだ。
「陛下は聡明な方だよ。中でも、直観力に優れた方だ」
「直観って」
バスリーは積み重ねられた情報の中から必要な真実を探り出す。何も知らぬ者から見ればそれもまた直観のように思うだろう。だが一般的な直観とバスリーが提示する回答は真逆に位置している。
だから、直観など到底信じられるものではないのだが。とはいえ長い時間を陛下のおそばで過ごしたウィサムが言うのだから、そう言うに足る実績があるのだろう。
ラーニャは話題を変えようとウィサムの腕の中の資料に目を落とす。
「私たちが短命なのはわかるけど、それにしたって準備が早すぎるんじゃない?」
ウィサムは腕の中の荷物の半分をラーニャに持たせて、地下へと向かった。
地下には代々の当主にしか開けることのできない大きな金庫がある。その中には王家や国政にまつわる絶対に開示してはならぬ、しかし風化させてもならない秘密があるのだと言われているが、真実かどうかをラーニャが知ることは永遠にない。
地下へ降りて最奥の部屋へ入ると、確かに大きな金庫が存在した。これは好奇心旺盛だった幼少の頃にも見たことがある。
そっと手を伸ばして触れようとすると、バチっと痺れるような火花のような反応が指先に伝わる。無理に運び出したり開けたりしようとすれば、相応の防御反応が返ってくる魔術が組み込まれているのだ。
開けるためには、鍵となる魔紋を描く必要がある。
しかしこれはバスリーの当主だけが知り得る紋であり、忘却を知らぬバスリーだけがこの場で再現できるという代物であった。
ウィサムは金庫を見つめながら口を開いた。
「歴代の当主は皆いくつで死んだんだったかな」
「おじいさまから一人ずつ遡っていくと、五十五歳、五十八歳、四十歳、五十六歳、三十七歳……」
近年の調査によると、成人まで無事生きた者の平均的な寿命は六十五歳である。バスリーの能力者はそれより十年弱短いと言えよう。
「短命という言葉で片付けがたい年齢があるね」
「例外はどこにだってあり……」
バスリーは忘却を知らない。だが積み重ねられた知の中から共通する項や異なる見地を発見できるかどうかはまた別の問題だ。
病死、老衰、水難事故、病死、工事中の事故。平均より若くして死んだ先祖の死因が事故であるのは当たり前だと思っていた。ではその事故が故意に起こされたものであったなら?
ラーニャの表情を見てウィサムが頷く。
「政治ってのは綺麗じゃない。濁った水を大切に撒いてこそ咲く花もあるんだ。でも、その水をもっと濁らせたい人物も、濁らせていることを知られたくない人物もいる。わかるかな」
清い水には棲めない生物もいるという。濁った水もそれはそれとして使うのが政治であると。一方で、すべての水を濁らせて自分にとってのみ住み良い国にしたい勢力もあるということだ。
「命を狙われていると自覚するに足る何かがあったの……?」
「王位争いの渦中に娘をやりたい父親なんていないんだ、本当はね。だけどくそったれなことに、この家よりそっちのほうが安全なんだよなぁ」
ウィサムはラーニャの腕から荷物を受け取って、乱雑に床に置いた。その顔は泣き笑いと表現するのが最も適している、いびつな笑顔だった。
城に戻るようにと再び父に言われて地下を追い出されたラーニャは、どうするべきか悩みながら庭を歩き回った。
もちろん、父の傍にいたからと言って彼を守れようはずもない。むしろ足手まといにすらなり得る。だが、言われたとおり城に戻ることだってできるわけがない。
なぜなら、庭がいつもと違うのだ。バケツの位置、ガーデンライトの向き……どれも些細な違いではあるが、確かにずれている。
幼い頃、庭の違いに癇癪を起こして泣きわめき、熱を出して寝込むことを繰り返した時期がある。その結果、バスリー家の侍従は屋敷内も庭も常に同じになるよう物の位置や向きを統一するようになったのだ。その習慣が、そう簡単に崩れるはずがない。今、この庭に部外者が入り込んでいるのは確実であった。
ここまで気を遣って侵入しているのだから、目立った襲撃ではなく暗殺を狙うはずである。侍従の目が多くあるうちは大丈夫だろうが、どうにかしなくてはならないのもまた確かだ。
名案など浮かばずただウンウンと唸るラーニャのもとに、執事がやって来た。
「ああ、お嬢様! こちらにいらっしゃいましたか。カミル王子殿下より先触れがあったのですが……」
「殿下がなんて?」
「当家にいらっしゃると……ですが、その、すでにご本人がいらっしゃいまして」
「は?」
どうやら王子様は先触れの意味を理解していないらしい、といつものラーニャなら呆れてため息のひとつでもつくところであるが、今日この時においては神の采配かと心中で驚喜した。
足早に、むしろ小走りで屋敷の中へ戻り、応接室へ向かう。
ノックの返事さえ待たずに中へ飛び込むと、カミルがホッとしたように笑って手を挙げた。
「昨日の今日で悪ぃ。ラーニャが読みたがってたアンヌフの郷土史を渡しておこうかと……。ん、どうかした?」
ホッとしたのはラーニャのほうであった。
視界が滲んで見えづらいのは黒のレースのせいだけではない。
「カミ……殿下、助けて……っ!」
ラーニャはムスクの香りの腕の中へ飛び込んで、ふぇぇと泣き出した。




