第12話 人々の生活が見える土地
魔獣との戦闘を近くで見ていたせいか、ラーニャの身体は埃まみれになっていた。アンヌフ城で働くメイドの助けを借りながら湯浴みをして、さっぱりしてから食事をいただく。
特別豪華な食事というわけではないが、カラフルで新鮮な野菜や魚料理はこの土地ならではと言えるだろうか。
強い弾力でなかなか噛み切れないものや、ぷりぷりとした歯応えの不気味な形状のものなどを、味と食感と見た目を観察しながら記憶の中に答えを探した。恐らくイカや貝類なのだろうと当たりを付けるものの、正解かどうかは……あとでカミルに聞くしかないかと食事を終えて口を拭った。
窓の向こうは紺色の闇。けれども夜空が上下に広がって、それを囲むように家々の明かりが灯っている。バスリー家の人間は領地に戻ることが滅多にないため、人々の生活など王都から離れない限り意識しなかったかもしれない。全て本や資料の中の数字のひとつでしかなかったのだ。例えば人口、例えば税収。識字率もそうだし、農業、工業その他様々な生産量も。
美しい景色と土地に根差した美味しい食事、穀物を荒らすネズミに頭を悩ます老婦人や、何度壊されても国境の壁を修復すべく働く人々。それらを実感して、ラーニャはこの土地とこの土地に生きる人々がなんとなく愛おしく感じた。
「なるほど、ここに引っ込みたいと思うわけね」
独り言ちたときふいにカミルの顔を思い出して、隣の部屋に続く扉をノックすることにした。アンヌフの郷土史を読めば、この土地に生きる人々の生活をもっと身近に感じられるかもしれない。
隣の部屋から微かにカミルの声がして、間もなく扉が開いた。
「やぁいらっしゃい、仔猫ちゃん」
「……郷土史、読むだけなんで」
「もちろんわかってるって。でもその前に、アンヌフ自慢のワインを楽しんでもらいたくてさー」
室内のローテーブルにワインと、やはりアンヌフ産だろうか、チーズと干したブドウがあった。三人掛けのソファーの端に郷土史と思われる本が数冊無造作に置いてあり、ラーニャは天を仰ぐ。
こんなわかりやすい罠にはかかるまいと、ひとり掛けのソファーがふたつ並ぶ対面へぐるりと回……ろうとして、カミルに捕まった。
「またまたー。わかってるくせにー」
「なにがですか」
「侍女ちゃんはー、俺が指定した場所に座るべきだよねー、はいココねー」
カミルが腕を引いて三人掛けのほうへラーニャを座らせる。自分はさらにその横に掛け、上機嫌でワインを開けた。
そっと本に伸ばしたラーニャの手を、カミルが押しとどめる。身長差があるのだから当たり前と言えば当たり前だが、その腕の長さに驚愕する。と同時に、カミルの身体が密着したことでラーニャは今さら緊張を覚えた。
「無事の到着と、バスリーの知識に乾杯しよう」
「はぁ……。ん、白ですか」
カミルの注いだワインはゴールドに近い色合いだ。
「そ。この海にはいくつか島があるんだけど、これはそこで作られたワインでさ。まーとりあえず飲んでみてよ」
差し出されたグラスを手に、ふたりで小さく乾杯と呟く。
口元に運んだグラスからはオレンジを思わせる柑橘の香りが立ちのぼる。口に含むと最初に主張するのは酸味。しかし空気と混じりあってリンゴのような甘みが広がり、オーク樽の風味が鼻に抜ける。息をついたラーニャの舌にほんの少しの苦みが残って、次の一口を誘った。
「なんですか、これ」
「ね、すごいっしょ」
「複雑な味なのにどっしりした酸味がそれをしっかりまとめてて……」
嬉しそうに笑ったカミルがラーニャの口の中に干しブドウを放り込んだ。ほのかな甘みがワインの酸味によく合うようだ。
結局、カミルの話に引き込まれたりワインを次から次へと飲んだりするうちに、ラーニャは郷土史のことも忘れていい気分になってしまった。例えば砂漠で水を補給するにはどうしたらいいかなど、ラーニャの知る本には書いていない。
誰かと話すのがこんなに楽しいものかと、その心地よさに浸りながらワインに手を伸ばしたとき、部屋にノックの音が響いた。まん丸の目を見合わせたカミルとラーニャの耳に、ムフレスの声が聞こえて来る。
「殿下、報告書についていくつかお話しておくことが……」
「おっ、おう、ちっと待って」
カミルは立ち上がるなりラーニャを担ぎ上げ、自身のベッドに放り投げた。その上から布団を被せて姿を隠してしまう。もちろん、存在を隠しきることはできていないのだが。
ベッドの中で丸くなったラーニャはなぜここへ放り投げられたのか理解できないまま、しばらく様子を見ることにした。
扉の開く音に続き、ムフレスの声。
「あれ、……お邪魔しましたか、すみません」
「あ、うん」
「まさかラー」
「ちがう、だんじてちがう。よ、用事を言いたまえ」
「は? まさかメイドに手を出しましたか? 今までそんなことしたことなかったでしょアンタ」
ラーニャはやっぱり自分が隠された理由がわからず、しかし存在を主張するのは悪手な気がして息を殺した。
それからふたりは長い間、アンヌフの復興状況についての報告と確認、およびそれに対する指示を繰り返している。アンヌフという素敵な土地にすでに根を下ろしつつあるカミルを羨ましく思いながら、ラーニャは温かなベッドの中で眠りについた。




