よくある話。
炊飯器から鳴る電子音が、ご飯が炊けた事を知らせてくれる。
私は冷蔵庫に入っている卵ケースの中から何気なく選んだ卵2個を手に取りつつ、食器棚に仕舞われていた漆器を手にした。
軽く濯いだ器に卵を割り入れ、殻を流しの隅にあるネットに捨てる。
賃貸物件のアパートは家賃は安いくて良いが、台所の立て付けが悪い。
引越して間もない時に料理をした際、まな板の上で小口切りにした胡瓜が逃げ出した時は驚いた。すでに3年前の話なので今では慣れたものだ。
炊飯器の蓋を開けると、白い湯気とともに米の香りを顔面で受け止めて、楽しむ。たぶん、最近貰った香水よりもこの匂いの方が好みかも知れない。
あれはあれで良い匂いだが、多分好みの問題なのだろう。
柑橘系で爽やかな香りがするソレは、私にはサッパリし過ぎている気がした。
どうせ同じ食べ物系の匂いなら、ココナッツや桃のような甘やかな香りが好きだ。
しゃもじを手に取り、水で濡らしてから釜の下からご飯を引き剥がして軽く混ぜ、ドンブリに山盛りご飯をよそう。真ん中を少し凹ませたのは、後で生卵を入れるためだ。
冷蔵庫から醤油と、作り置きしてある水出しの麦茶をグラスに注ぐ。
醤油のボトルと、箸、ドンブリご飯に麦茶、最後に卵の入った器を全てお盆に乗せる。
お盆を持ったままリビングに移動して、テレビのリモコンの電源ボタンを押せば夜のニュースが流れた。
お盆をテーブルに置いたら、箸で生卵の黄身を潰し、醤油を垂らして軽く混ぜ合わせる。
混ぜた生卵をご飯の上に半分かけて、いただきますも言わずに口に───
───入れる前に目が覚める。
「はぁ…………」
ため息を吐き出した先は、今では見慣れた白く透けている布で出来た天蓋付きのベッド。
しばらく眺めていたが、身体を起こす。
天蓋の隙間からティーカップが受け皿ごと出て来たので両手で受け取る。
私が無言で温かい飲み物を飲んでいると、部屋が明るくなった。
部屋の分厚いカーテンを誰かが開けてくれたのだろう。
しばらくするとドアの閉まる音がして、部屋の中から物音がしなくなった。
飲みかけの飲み物を零さないように注意しながら、ベッドからソッと脚を出すと、裸足の足裏に毛足の長い絨毯の感触。
この間、足が冷えると呟いたのを誰かに聞かれていたのだろう。
いつの間にか敷かれた絨毯があるだけで、足先の冷たさは幾分マシになった。
絨毯の上を歩いて行くと、ダイニングテーブルの上に様々な食べ物が乗っていたので、ティーカップをテーブルに置いた代わりに、カゴに盛られた果物を手に取って齧り付く。
甘くて瑞々しく、味は桃によく似たソレは皮ごと食べられる品種のようで、結構気に入っている。
果物を齧りながら窓辺に近づき、鉄格子に手をかけて外の風景を眺めるが、相変わらず凪いだ水面に太陽らしきモノの光が反射してキラキラ輝いているだけだった。
避暑地には最適な眺めだろうが、いかんせんこの鉄格子が無粋な気がしてならない。そんな事を考えていると、勢いよくドアの開く音がした。
気にせず外を眺めながら果物に齧りついていると、何やら一生懸命話しかけているのだろうが、私には『雑音』だ。
『雑音』を発していた者は、私が見向きもしないので諦めたのか、しばらくするとまたドアから出て行った。
果物の大きな種1つを空の皿に乗せて、次は何を食べようかと悩んでいるが、結局また同じ物を手に取って齧り付く。
お腹が膨れたところで、テーブルに置いてある、水の張った桶にタオルを入れて、軽く絞ってから顔全体や果実の汁でベタついた口の周りと手を重点的に拭く。
そうして私はベッドに戻り、天蓋の中で瞼を閉じる。
ドアの開く音と共に、また部屋が暗くなった気がしたので多分誰かが鉄格子のはまった窓の分厚いカーテンを閉めてくれたのだろう。
「はぁ…………っ……」
ベッドシーツに嗚咽混じりの泣き声を押さえつけ、そうしてまた私は浅い眠りについた。
願わくば、夢の中だけでもあの卵かけご飯を口にするために。