夏の夕
夏の夕暮れは、どこか寂しい。迷子になった気分で、「おかあさん!」と叫びたくなる。
いや、私の場合、本当に言いたいのは、「カエデ、どこに行ったの?」だ。あの夏、私をおいていってしまったカエデ。十七から年をとらない少年のままのカエデ。
「私はもう、二十一になるのになあ……」
新幹線の車窓からは、大嫌いな故郷が見え始めた。父が持っている大きな畑も、開発されないままの駅前も、井戸端会議に励むおじいさんたちも見える。
電車のアナウンスが響き、私は荷物を抱きかかえた。新幹線の扉が開き、ホームへと足を進める。田舎特有の土のにおいが鼻腔をついた瞬間、泣きたくなった。この匂いは何一つ前と変わらないのに、カエデはもう、いない。――いないのだ。
「夏蝶、久しぶりー!」
その声に振り返ると、ポニーテールの幼馴染が手を振っていた。青色の車から顔をのぞかせて、大きく手を振っている。
「香奈! 綺麗になっちゃって!」
「夏蝶こそ。やっぱり東京の学校に行ってると、違うなあ」
「なに言ってるの。この車、どうしたの?」
「大学に入ってからすぐにバイト始めたから、そのお金で買ったんだ。いい色でしょ?」
田舎では必需品だからね、という香奈の顔は輝いていた。透き通る空のような色は、香奈によく似合っていた。
いつもそばにいてくれた香奈。悩みの尽きない私のことを、笑って励ましてくれた香奈。この町に帰りたかった私には、香奈の「会いたいね」という言葉が勇気になった。
「お父さんにも、会うの?」
「まさか。もう、あの家には何もないもん」
「そっか……」
「なにか聞いてる?」
「夏蝶がお父さんに大けがさせられて、病院に運ばれてからは、いい噂がないよ。お母さんも離婚して家を出て行っちゃったし、夏蝶のお兄ちゃん二人も東京の病院に勤めて田舎には帰ってこないだろうって評判だし」
助手席に滑り込むと、人目を避けるように車は走り出した。この田舎では噂話がすぐに広がる。大病院の院長が起こした、娘への虐待事件は、三年経った今でも、語り草だと容易に想像がつく。私が帰ってきたことが知られたら、父にも話がいくかもしれない。顔を隠すようにすると、香奈は、車の窓を閉めた。
「いまはたまに家政婦さんが来て家のことやってるみたいだけど。それも居つかなくてすぐにやめてしまうみたいでね」
「どうせ、お父さんのせいでしょ」
「そうみたい。最初は妻に離婚されたって同情もされてたけど、今じゃ全然。夏蝶は家をでて、本当によかったよ」
しみじみという香奈に、私は苦笑いをする。かつては我が物顔で歩いていた町で、肩身の狭い思いをする。それがどんなに小さな町でも、父にとっては大きな打撃であることが想像できて、いっそ可哀そうになった。
東京に行って気づいたことがある。東京には、その町一番の秀才と天才が集まる。毎年、毎月、毎秒のように。そのなかで秀才も天才も淘汰されていき、生き残るのはごくわずかだ。みんな自分の才能のなさや能力の低さに驚き、ショックを受ける。その後立ち直れるか、威張れる田舎に帰るかは人によるけれど、父は、そんな街のことを何も知らない。そのことが可哀そうで、あれだけ殴られて虐げられたあととはいえ、憐れみがわいた。
「夏蝶、お母さんとは連絡とっているの?」
「うん。今はパートで事務の仕事をしながら、ベリーダンスを習っているって」
「ベリーダンス! あのおとなしい人からは想像つかないね!」
「ほんと! あの家出てから別人みたい。今度、がんばって貯めたお金でハワイにワーキングホリデーに行くんだって言ってる」
「お母さんも、外に出られてよかったねえ……」
心の底から思ってそう言ってくれる香奈に、感謝しかなかった。
毎日父に罵倒され、縮こまっていた母。娘や息子にも気を遣って、いつも二階にある父の書斎の物音に怯えていた母。その母が、今はお化粧もして、髪も整え、毎日活発に友達と笑っている。それを見られただけでも、家を出れてよかったと心底思う。
「あ、公園、近づいてきたよ」
その声で、顔を上げる。目の前には、児童公園があった。といっても、最近は大人の事情で、遊具は全部片づけられている。あるのはベンチと、砂場と、時計台だけ。その奥には川もあるけれど、足を踏み入れる人はめったにいない。
「香奈……ありがとうね」
「なによ、いきなり」
「私一人じゃ、カエデと最後に約束してたこの公園には来れなかったと思うから」
そう言って、車から出る。あの夏――カエデが死んだ夏に、「告白しに行きたいから、いつもの公園で待っていてください」と言われたこの公園。カエデが救急車で運ばれて手術していた時間帯にも、「遅刻かな」とのんきに考えていた、あの公園。
目の前に広がるベンチも、木々のざわめきも、あの時のままだ。違うのはーーカエデはもう一生、この公園には来ないことだけ。
「あ! 私用事があったから……。車に戻ってるね」
唐突に言った香奈を振り返る。香奈は慌てたように、運転席に戻った。自分が泣きそうな顔をしていたのだろうと気づいて、思わず苦笑する。
まだ車から一歩降りただけなのに、この公園には、カエデとの思い出が詰まりすぎている。土の匂いも、夏の夕方特有の静けさも、あの頃のままだった。
車道から遠く離れたベンチに座ると、木の冷たさが伝わってくる。このベンチに座って、カエデから、毎日のように本を借りていた。本を読むことすら禁じられていた私に、カエデは、自宅にある本を持ってきてくれたのだ。
「……カエデ……」
思わず、口に出す。空を見上げると、まだ十六時の空は青い。あの頃、カエデと笑い合ったときの空の青さと変わらない。
――いつか、あの青い空の向こう側にいきましょう。
――この町にあるしがらみもすべて捨ててしまいましょう。
――二人で遠くに行って、そこで幸せに過ごすんです。おとぎ話みたいに。
そう言って笑った顔が、今でも思い出せる。
でも、カエデは、その願いを叶えることは、できなかった。
車に轢かれて死んでしまった。落ちた蛾のように、全身をぼろきれのように痛めつけられながら、この世界から旅立ってしまった。
――夏蝶って、いい名前ですね。
――どこまでも遠くに飛びたてる名前ですね。
――カエデって名前は、いつか落ちていく名前で苦手です。
苦笑するカエデに、私は、なんて返せばよかったんだろう。蝶のようにどこまでも行ってくださいと言われて、その通りに生きている私。紅葉のように赤い血をばらまいて地面のうえでつぶされてしまったカエデ。名前は体を表すとは思いたくない。でも、私たちにとっては現実になってしまった。
「カエデ……」
「なに?」
無意識に呟いていると、返事があった。驚いて声のした方をみると、学校帰りの子どもたちが五人ほど、笑って走っていた。いや、正確には、走っていたのは四人だけ。残りの一人は、友人たちに追いつこうと必死だったが、叶わずに足をひきずっていた。
「なに? カナデ、こんなのにもついて来れないの?」
「カナデのせいで、ゲームするの遅れんだろ。早くしろよ」
同級生たちの容赦のない声に、泣きそうになりながら「カナデ」と呼ばれた少年は追いつこうとする。だが、その右足を引きずっていた。補助器具もつけているから、小児麻痺などで片足がうまく動かせないのだろう。
「もういいよ。カナデ置いていこう」
「今日夜から塾だし、ゲームする時間減っちゃうもん」
「家が近いってだけで集団下校しなきゃいけないのめんどくさいよな」
子どもは残酷だ。視野が狭い分、困っている誰かを助けようと思える人は数少ない。だからこそ、私はカエデに救われたのだ。
同級生たちが去った道路で、「カナデ」少年は、泣きそうな顔で立ち止まった。もう走らなくていいという思いと、自分はどうしてこんな体に生まれたんだろうという悲しみで感情の整理がつかない顔をしている。自分の足を何度も殴る姿は痛ましかった。
「……かっこいいね」
ベンチに座ったまま、「カナデ」少年に話しかける。少年は顔を上げて、私を見つける。知らない大人から声をかけられても答えてはいけないと言われているだろうが、悲しいことがあった時、人間は、それを救ってくれるかもしれない誰かにすがりつく。私がカエデに頼り切っていたように。
「その足。銀色の機械がキラキラ光ってて、宝石みたい」
「……お姉ちゃん、だれ? この町のひとじゃないよね?」
たしかに、三年も町にいなければ、小学生にとっては初対面みたいなもんだろう。
「まあ、そんな感じ。今日町に来て、今日帰る予定だし」
「旅行で来たの? 誰か知り合いがいるの?」
「知り合いがいた、かな……」
困ったように答えると、少年は何かを悟ったようだった。それ以上は聞いてはいけないと思ったのか、自分の足をみつめてうつむく。
「宝石なんて、初めて言われた」
私は、少年のそばに寄り添い、その銀色の機械に触れる。
「よく磨かれているし、錆一つない。子どもの補助機って普通は傷だらけなのに、うまく修復されている。これを作った人も、あなたのお父さんお母さんも、この機械を大事にしてるんだね」
「パパはいないの」
「そうなの?」
「僕の足がこんなだから、逃げちゃった」
そう聞いて、胸がチリリと痛んだ。カエデの家と、まるで同じだったから。子どもに障害がある時、男親はすぐに逃げるという論文を読んだことがある。けれど、それを真実として目の当たりにすると、そのたびに心が痛む。
「でも、ママは僕のことを好きだよって言うの。でも、本当なのかなって。本当は、僕のこと嫌いなんじゃないかなって。みんなと同じように……」
泣きそうな少年の頭に、いつの間にか触れていた。驚いたような顔をする少年の頭を、そのままなでる。カエデのことも、一度撫でたことがあった。
カエデは心地よさそうに目をつむってから、ハッと気づいて「何するんですか!」と恥ずかしそうに顔を真っ赤にしていた。その顔が可愛くて、私は何度も頭をわしゃわしゃかきまわしたものだ。
「ママが嫌いなわけないじゃん。足の機械の整備ってね、とても時間がかかるの。お金もかかる。でもそれをこんなに丁寧にするなんて、愛してないとできないよ」
「お姉ちゃん、お医者さんなの?」
「ううん。理学療法士。足がよく動くように訓練する人、かな」
「へえ。すごいね!」
「そんなことないよ。お医者さんとかのほうが偉いでしょ」
「病気を治してくれる人に、偉いとか、偉くないとかあるの?」
その言葉にハッとした。
兄二人は、父に期待されて医学部に行った。けれど私は、父の介護要員だった。そのせいで、進学さえ許されておらず、奨学金を借りて専門学校に行くことしかできなかったのだ。
でも、足を引きずっていたカエデのような子を助けたいという思いは叶いそうだ。半年後の試験に合格したら、行きたい病院ももう決まっている。
ずっと、「医者になれなかった」ことはコンプレックスの一つだったけど、もういいんじゃないか、と思えた。まるで温泉につかった時のように、手足がじんわりと温かくなる。
「君は、すごいねえ」
「ぼく?」
「ここで待ち合わせしていた人もね、たった一つの言葉で、私の人生観を変えてくれたの。そして君も、今の言葉一つで、私がずっと悩んでいたことを解決してくれたから」
「ぼく、何もしてないよ」
「そう。何もしてないと思えるくらい、自然に誰かを癒すことができるのが、すごいんだよ」
私が微笑むと、少年は、少しくすぐったそうな顔をした。それから、何かに気づいたようにランドセルのなかをまさぐる。
「これ、あげる」
そういって手渡されたのは、押し花の栞だった。
工作の時間につくったのか、半渇きのノリの匂いがした。
「百日草……?」
「学校でね、好きな花を使って作りましょうって」
「へえ……」
「百日草ってね、花弁が丈夫で、一年中咲いているの。それに、絶対、色褪せないの」
色褪せない。その言葉が、心のなかにズシンと響いた。まるで、カエデの思い出のようだった。いまでも、カエデの夢をみて飛び起きる。夢のなかで、私は、カエデと同じ家で暮らしている。朝ごはんをつくり、味噌汁がしょっぱすぎると言って笑い、一緒に家をでるときにはカエデの歩幅に合わせる。
「先に行っていいですよ」というカエデに、「ゆっくりのほうが、街の景色がみれるでしょ」と私は返す。カエデは、ふにゃりと嬉しそうに笑い、私も幸せになるーー。
起きたときには、いつも涙がこぼれている。どうして、本物のカエデは隣にいないんだろうかと思って、苦しくなる。夢のなかで幸せだった分、カエデの不在が苦しくなるのだ。
「でも、うまいね。私、小学生のときに、こんなに上手に工作できなかったよ」
目じりをぬぐってそう微笑むと、少年は、パッと顔を輝かせた。
「親戚のおばちゃんがね、「足がダメなら、手が器用になればいいんじゃない?」って言ったから」
「なるほど。使えるところを最大限使うと。いいおばちゃんだねえ」
「うん。その人も息子さん、足が悪くてね。しかも事故で死んじゃったんだって」
「え……。それって……」
カエデのお母さんなんじゃないか、と思った。
この町に、足の悪い子どもはそんなにいない。それにカエデのお母さんなら、言いそうな言葉だった。強くて、優しくて、しなやかなカエデのお母さん。
「最近はね、押し花とか、工作で作ったもの、ネットで売ってるんだよ。ちょっとでも、ママの手助けしたいし、病院代も稼がないといけないし」
そう言った少年に、私は思わず笑ってしまった。強い。この子は……いや、この子「も」強い。私なんかよりずっと。
「……私の好きな人も、あなたと同じように足が悪くてね。でもすごく強い人だった」
「強い?」
「うん。心がね。誰よりもしなやかで、強くて。……大好きだった」
しんみりして告げると、少年の手が、突然私の頭にのった。
「え?」
「ママとおばちゃんもね、僕が泣きそうな顔をしていると、こうしてくれるから」
そういって、頭をぽんぽんと撫でてくれる。でもどこか不器用で、セットした髪が崩れていく。そのことさえ愛おしくて、私は笑っていた。この公園で、また笑える日がくるとは思わなくて、じんわりと、目の奥がいたむ。カエデはもういない。でも私は生きている。そのことを、撫でられるたびに自覚させられた。「私」の輪郭が、だんだんと整っていくような気がした。
「カナデ―」
少年の名前を呼ぶ声がして、私と少年が同時に顔を上げる。
公園の入り口で、女の子がひとり、不安そうに少年を見つめていた。
「カナデ、置いてってごめんね」
「帰ってきたの? どうして?」
「だってみんな、やっぱりカナデがいないとつまらないっていうから。呼んで来いって」
「え……」
「みんな馬鹿なんだよ。カナデがいないとダメなのに、わざとカナデをいじめるんだから」
「別に……ぼくは、平気だよ」
少年は嬉しさが混じった顔でいってから、公園の入口へと向かう。
ハッと気づいて私を振り向く。私は、笑顔で手を振った。この少年には、少年の世界がある。それを邪魔してはいけない。とくに、友達同士の仲が改善しようとしている時には。
「急がなくていいからね。みんなも、カナデが来るまで、ゆっくり待とうっていってたから」
女の子はそう言って、カナデ少年の隣に寄りそった。その姿が、私とカエデの背中に重なって、二年半前にタイムスリップした気分になった。
鞄を開けて、なかの本を取り出す。カエデが死んだあの日、返そうと思っていた本だった。ずっと手放せないまま、今回の帰省にも持ってきてしまった。
「空の青さを見つめていると
私に帰るところがあるような気がする」
――谷川俊太郎
カエデが好きで、何度も、この部分を口ずさんでいた。私も、辛いことがあるとこの詩を口に出す。そうするとカエデが傍にいるようで安心するのだ。
空を見上げる。夏の十六時五十八分。
あの日の、カエデとの約束の時間まで、あと二分。
夕方の空は、ゆっくりと落ちていく。赤い陽がさしはじめて、カエデと目指した青空を打ち消していく。
でも……。たとえ空が青くなくなっても、青春時代をすぎても、私の心はカエデとともにある。
少年にもらった百日草を空にかざすと、半分に、青い空が反射していた。そして残りの半分に夕暮れの空が反射して、黄金色に輝いている。まるでカエデとの過去を祝福してくれるようで、鼻の奥がツンと痛む。
「カエデ……」
もう一度呟く。
愛する人、好きな人の名前を呟くとき、それは殆ど、祈りに近い。
自分を許し、認めてくれる人がいること。それだけで生きていけることを、私は知っている。
「カエデ、カエデ、カエデ! 寂しいよぉ……!」
でも、それでも。私を愛していてくれた人が、もう目の前にいないこと。それが寂しい、悲しい、悔しい。あんなにいい人が去ってしまったことが、限りなく苦しい。
「カエデぇ、帰ってきてよぉ……」
そういって膝を抱える。
もしカエデをこの世に戻してくれるなら。
――神様、私はなんでもします。
悪魔に魂を売ってもいい。あのカエデの笑顔をもう一度見られるなら。カエデの声をもう一度聞けるなら。だからお願いします。カエデを、もう一度この世界に戻して……。
「夏蝶さん」
「え?」
一瞬、カエデの声が聞こえた気がして、顔を上げる。
公園には、夏の風が通り抜けている。私以外には、誰もいない。
時計をみれば、ちょうど五時になったところだった。カエデと約束したあの時間に。
「……カエデ? いるの?」
声は返ってこない。私は、思わず走った。公園の茂みに、木々の裏に、もしかしたらカエデが隠れているかもしれないと。
「ねえ、カエデ! 私、ここにいるよ。帰ってきたよ!」
でも、どこにもいない。夏はこんなに美しいのに、木々はこんなに生い茂っているのに。ただカエデだけが、この世界から消えてしまった。
「がんばったんだよ! カエデと同じ子を助けるんだって。辛いことも多かった。それでも、一人でがんばったんだよ。ねえ、カエデ、いるの?」
半袖から出た腕が、公園の木々に傷ついていくのが分かる。それでもよかった。涙がこぼれてくる中で、心の痛みを忘れられるなら、体はどれだけ辛くてもよかった。
「お願い、カエデ。出てきてよ! 頑張ったねって言って。よくやったって言って。さすがですねって言ってよ……!」
木々の茂みから、唐突に抜けた。荒くなった息を整えていると、目の前には、ホタルの飛ぶ川が広がっていた。
「……え?」
この公園が、川に繋がっていることは知っていた。
子どものとき、たった一人で、何度も来たことがあった。
父に殴られ、母に守られず、誰にも相談できずに傷だらけで。
「こんな時間に、ホタル……?」
普通なら、光り出すのは、もっと遅い時間のはずなのに。
私が川に足を踏み入れると、ホタルたちが、私の腕や体に寄り添ってきた。羽ばたきが、愛しているよという囁きにすら聞こえる。
そのなかの一匹が、私の指にとまった。何度も何度も光りながら、じっとして離れない。
「……カエデなの?」
そんなわけない、と思ったのに、呟いてしまった。ホタルは、頷くように光り続けている。顔を近づけても、けっして逃げようとしないのをみて、思わず、ぽろぽろと涙がこぼれてきた。この公園にきてから、ずっと我慢してきたものが、ついに決壊してしまった。
「カエデ……。ずっといるって言ったのに……」
そう言ってしまったら、もう止められなかった。後から後からあふれ出てくるものが、熱く私の頬を伝っていく。拭うこともせず、子どものように泣き続ける。声を抑えようとしても、溢れてくる思いは止まらなかった。
――夏蝶さん。
カエデが、すぐそばにいる気がする。指にとまったままのホタルのおかげだろうか。東京にいるとき以上に、カエデが近くにいた気がした。
ホタルが止まった指を、まるで手をつなぐように伸ばしてみる。ホタルは、指先から離れると、私の手もとを一周した。まるでそこに、手があるというように。
「……カエデ?」
――はい、夏蝶さん。
そんな声が聞こえた気がする。ホタルは、けっして私から離れて行かない。何度も、何度も私の手の周りを飛び続ける。手を繋いでいる気分になって、私は、ぎゅっと拳を握る。ホタルは、その拳のうえに止まって、私をみて光り続けていた。
――夏蝶さんなら、やれると信じていました
カエデの声が、脳裏に響く。
ホタルが、そんなことを言うわけはない。カエデはもういない。じゃあ、この声はなに? 分からない。分からないけれど、私はこの声を聞き逃していいはずがなかった。
――また、暇なときに会いに来てください。でも無理はしないでくださいね。
「どうして? いつも会いに来た方が寂しくないんじゃないの?」
――だって、僕は、いつも夏蝶さんの傍にいるから。ずっと、隣にいますから。
そんな声のあとに、ホタルは二回光ってから、飛び立った。
沢山のホタルの群れのなかに消えていき、もうどこにいるかもわからない。そうしてホタルの大群は川の向こうの茂みへと消え、先ほどまでの美しい光の輝きは、しずまっていった。一瞬の夢のように、元の川に戻ったのだ。
空を見上げれば、青い部分はなくなって、夕暮れが支配している。
「空の青さを見つめていると 私に帰るところがあるような気がする」
詩人はそう言った。けれど、私は違うのかもしれない。
カエデのことを思い出せば、居場所があると思えるのかもしれない。
彼は確実に、この世界にいた。それだけで、よかったのかもしれない。
川のせせらぎの音を背にして、私は公園へと戻る。沢山の茂みが、私の目の前に道をつくるように切り開かれている。もう、腕も足も痛くはなかった。
――帰ろう。
香奈なら、私の腫れた目をみても、気にしないふりをしてくれるだろう。
もう、「お墓参り」も終わった。また、あの土地に……カエデが行きたがっていた東京に戻ろう。私の心は、すでにこの町にはない。私を見守っているカエデと一緒に、半年後の試験のために勉強を再開しよう。
――さあ。帰ろう。カエデとともに。
大きな一歩を踏み出す。そんな私に、小さな声が聞こえてきた。それは蛍の羽音のように小さくて、なんと言っているかは聞こえなかった。けれどーーそれが祝福であることを、私は知っていたような気がする。
(了)




