表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/9

7.旅立ちの刻(とき)



 工藤は人の良い青年だった。学内でも珍獣と名高い狩野田宰の世話係をしている工藤を、学内、それも医学部の学生たちは尊敬の眼差しで見ていた。 


 工藤から見ても、宰はまさに珍獣だった。顔も頭も抜群に良い。ただ、思考回路が別の次元にある。こだわりと思い込みが強すぎるのだ。


 時折命知らずの女子たちが寄ってくることもあるが、宰はナチュラルにイラつく物言いをするので、皆、水が引くように去って行ってしまう。もちろん本人に悪気はない。むしろ自分はモテモテだとすら捉えている。ついでに周りをイラつかせている自覚もなかった。


 工藤も進んで自ら宰のサポートをしているわけではない。ただ、なぜか工藤は宰に一回生のころから懐かれていたし、決してベータやオメガを見下さない宰に、工藤も好感を抱いていた。恵まれた家庭に育ち、優れた能力を持ちながら、宰は誰に対してもフラットだった。


 おそらく、自分が飛び抜けて優れているという自負があるため、他の人間は全て同じレベルに見えるのだろう。工藤はそのフラットさを、宰の長所だと思っていた。しかしどうも、ひと月ほど前からフラットさは崩れてきた。ある一人の人間に固執するようになったのだ。


 狩野田宰は、恋を知ってしまった。それから先の宰は、たとえ工藤であろうと手のつけようがなかった。宰にはアクセルしか付いていない。彼はブレーキを母の身体に置いて生まれてきた男だった。速度調節を知らない宰は、初めての恋でアクセルをベタ踏みし続けていた。残念なことに、宰のエンジンは、その都度増す回転数に耐えられるようにできていた。


 なぜなら宰は、スーパーアルファだからだ。


 そして今、居酒屋バイト中の工藤のもとに、その規格外の男が押しかけてきていた。これまで見たことのない、切羽詰まった表情をして。


「なんだ、狩野田。どうした?」


 時刻は午後三時。まだキッチンの仕込み中で人手は足りていたため、工藤は店長に断り、店の前に仁王立ちになっていた宰に声をかけた。普段財布とスマホしか持ち歩かない宰には珍しく、今日は小旅行にでも行けそうな大きさのリュックを背負っている。

 宰は深刻そうに顔を歪めると、周囲を気にしながら言った。


「大変なんだ、航ちゃんが……」


 航ちゃん。その名前が出た瞬間、工藤は話を真剣に聞くのをやめた。またいつもの妄想か、とため息を吐く。一週間ほど前にカルメリから「航ちゃん」が退会してからは、宰もだいぶ大人しくなっていたと思っていたが、どうやらまだその執着は続いているらしい。工藤が遠い目になったのにも気付かず、宰は続けた。


「航ちゃんに、何かあったのかもしれない……」

「……なんで?」

「今日、航ちゃんに電話してみたんだ」

「…………なんで????」


 工藤の頭には疑問しか浮かばなかった。そもそもなぜ電話番号を知っているのか。なぜ電話をするのか。ストーカーとしての道を本格的に歩み出してしまった感すらある。いや、もっと前からストーカー街道は歩いていたのだけれど、電話となるとかなりの本格派である。


「カルメリからいなくなってしまっただろう? 何か事情があるのかと思って、航ちゃんからの連絡が待ってたんだが……。ここはやはり僕から連絡すべきだな、と思ってね」

「……お前と連絡したくなくてカルメリ退会したんだと思うけど」

「ふふ、それにしても航ちゃんの息遣い、かわいかったな……。恥ずかしがってすぐ切られてしまったけれど……」

「……こえーよ、お前」


 さすがの工藤もドン引きだった。航ちゃんの心境を思えば涙が出そうだ。


 ——航ちゃん、迷わず警察へ行くんだ。こいつはもうダメだ。君だけでも助かるんだ。


 遠く東京に住むという「航ちゃん」に念を送りつつ、工藤は無駄だとは分かりつつも、宰をたしなめるために言った。


「いきなり電話はだめだろ、お前。ただの取引相手なんだから」

「運命のつがいだ」

「……あー、うーん、でもさ、もしかしたら航ちゃんももう恋人とか、良い感じの人がいるかも」

「それはない!!!!」

「ひっ」


 道の真ん中で大声を出した宰を、道ゆく人がちらちらと見ている。誰か助けてくれ、と祈るような気持ちで工藤は心の悲鳴を上げた。対する宰は、じりじりと工藤に詰め寄りながら早口でまくしたてる。


「航ちゃんからの三度目の取引メッセージの返信でそれが分かる。航ちゃんは『匂いが付いていたことに関しては申し訳ありません。抑制剤を服用しておりましたが、こちらの配慮が足りませんでした』という文章を僕に送ってきてくれた」

「……めちゃくちゃ心の距離あるじゃん」

「つまり、これがどういうことか分かるか? 航ちゃんは抑制剤を飲んでいる。つまり発情期のときにそれを治める相手がいないということだ」

「へぇ……」

「航ちゃんは、待っててくれてるんだな。僕と出会うその日を……」

「絶対違うと思うぞ」


 うっとりと頬を赤らめた宰に指摘してみるが、まるで聞いてはいなかった。こんな奴が医者になるのか、と工藤は怖気だつ。絶対こんな医者には診られたくない、と彼は強く思った。もうそろそろ退散しようと工藤が後退りを始めると、宰は「そうだ」と何かを思い出したように声を上げる。


「工藤、自転車を貸してくれ」

「え、なんで?」

「航ちゃんに会いに行く」

「ん?」

「もしかしたら何か危ない目に遭ってるのかもしれない。電話で話してくれなかったのも不審だ。様子を見に行かないと」

「…………」


 危ねーのはお前だよ。お前が怖くて電話切ったんだよ。

 そう口を開く気力もなく、工藤は胸の内で呟いた。それにしても。


「……航ちゃん、東京にいるんだよな?」

「そうだ」

「チャリで行けるわけないだろ。ていうかそもそも会いに行くな。いい加減正気になれ。親を泣かせることになるぞ」


 医学部の息子がストーカーで逮捕なんて、目もあてられない。工藤は純粋な親切心で説いたが、対する宰は曇りのない瞳を瞬かせ、はっきりと言った。


「お金がないんだ」

「は?」

「航ちゃんから服をたくさん買ったから、今月はもう自由に使えるお金がない。一ヶ月の限度額は父さんと約束してるからな。今月は残り千円しかない」

「…………」

「新幹線や飛行機は無理だ。となると自転車が一番速い。ただ、あいにく僕は自転車を持っていない」

「お前さ……」

「というわけで、工藤。自転車を貸してくれ」


 何を言ってるんだ、こいつは。工藤は困惑の境地に追いやられていた。大阪から東京までの距離をチャリで。それは自分探しの旅をする奴がよくやるやつだ。正気の沙汰ではない。


 いやしかし、と工藤は考える。そもそも、宰はここしばらく、ずっと正気を失っている。だとしたら、この案すらもこいつにとっては常識の範囲内なのかもしれない。


「だめだ、貸せない」

「……なぜ?」


 工藤はなんとかして宰の奇行をここで食い止めたいと思った。宰のご両親のため。そして遠い空の下で怯え切っているであろう航ちゃんのため。


「お前の言ってることはおかしい。冷静になれ。どうしても東京に行きたいなら、親にでも話して……」

「工藤!!!!」

「えっ」

「君は!! 愛するひとに会うためのお金を!! 親にせびれと言うのか!!」

「ちょっ……大声やめて……」

 周囲から視線が集まり居た堪れなくなる。宰がここまで感情を露わにするのを、工藤は初めて見た。それほどまでに航ちゃんへの想いが強いのだ。でもそんなことはどうでもいいから、早く帰ってほしいと工藤は心から願った。


「見損なったぞ工藤!! 君は心が優しい男だと思っていたのに!!」

「狩野田、人が見てるから……」

「工藤!! 僕の想いの強さをなぜ分かってくれない!! 工藤!!!!」

「分かってるって、分かってるから静かに……」


 とにかく「工藤」の連呼をやめて欲しかった。店からほかのバイト仲間も出てきてしまった。こんな奴と知り合いだなんて思われたくない、と全身に嫌な汗をかきはじめた工藤は、己の志を曲げた。


 ——ごめん、航ちゃん。


 心のなかで土下座しながら、工藤はポケットから自らの自転車の鍵を取り出した。工藤青年が人生で初めて、裏切りの味を知った瞬間だった。


「……ちゃんと返せよ。そこの駐輪場にある」

「工藤……」


 いくら宰でも、チャリで東京まで行けるはずがない。工藤はそう信じたかった。けれど同時に「狩野田ならやってしまうのではないか」という恐れも抱いた。

 なぜなら宰は、スーパーアルファだからだ。


「ありがとう、友よ」


 宰は優雅に微笑むと、その鍵を受け取った。信じていたよ、と呟きながら。




 ◆◆◆




 宰は借りた自転車の鍵を開けて、颯爽と跨った。工藤が中古で買った、シルバーのママチャリ。サドルの位置が低かったので、微調整も忘れない。


 リュックに必要なものは詰めてきた。そして宰の体調は、万全だった。


「System all green……」


 そっと口にして、宰は前を見据えた。陽は傾き始めたところだった。晩秋の夜は冷える。

 手袋を着けて、彼はひとつ大きな深呼吸をした。一刻も早く愛するひとの無事を確認したかった。そして、自分こそが運命のつがいなのだと、会って安心させたかった。


 宰は羽織ったアウターのポケットからスマホを取り出すと、形の良いその唇を、ゆっくりと近付ける。


「Hey,Sari」


 英検一級の完璧な発音で音声アシスタントを呼ぶ。ピコン、という無機質な音にその起動を確認すると、彼は旅の相棒となるアシスタントに、朗々と指示を出した。


「今から言う住所まで、僕を導いてくれるか?」


 愛するひとの住所は諳んじることができた。ゴーゴルアースで確認したアパートの外観も、その周囲の景観も、宰のIQ250の頭脳に狂いなく記憶されていた。


 なぜなら宰は……スーパーアルファだからだ。


 夕陽の朱に目を細め、宰は続ける。


「もちろん、最短ルートでね」


 彼の瞳は、遠く東の空を見ていた。


 愛の旅は、こうして始まった。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ