3.朝の日課
狩野田宰の朝は早い。
彼自身が決めた朝のローテーションはこうだ。
朝四時三十分起床。軽い体操の後、朝のランニング十キロを済ませ、シャワーを浴びて、タンパク質多めの——彼はゆで卵は必ず半熟と決めていた——の朝食を取る。サイホンで淹れたコーヒーを飲みながら、経済新聞を読み、世の中の情勢を把握するのが彼の常だった。テレビの騒々しさを好まない宰は、世界が起き出す前の品の良い静寂を愛した。
そして彼のローテーションのなかに、最近いくつか新しい項目が加わった。
彼はコーヒーを片手にベランダへ出た。まだ目覚め切らぬ朝の空気に、香ばしい湯気が燻る。社会勉強のため、宰は一般的な学生が入るような安価なアパートを住まいとしている。隣人の気配を感じる壁の薄さを「room shareみたいなものさ」と楽しむ余裕が彼にはあった。
東から昇る朝日が目に染みる。その眩しさに微笑みながら、彼はマグカップを軽く掲げて呟いた。
「Good morning……、航ちゃん」
それは完璧な発音だった。宰は英検一級である。自他ともに認めるスーパーアルファである彼は、英語のほかにも中国語とフランス語、ドイツ語、タガログ語をマスターしていた。
——一度見たり聞いたりしたものは、覚えちゃうんですよね。
なぜそんなたくさんの言語を、と問われれば、必ず彼はそう答えた。困ったように肩をすくめながら。彼は生まれながらの完璧主義者だった。そして自らを、完璧だとも思っていた。
事実、彼は世間一般的に見れば限りなく完璧に近い男だった。百八十三センチのすらりと伸びた体躯に、彫りが深く、造りの繊細な顔立ち。柔らかな髪は墨を流したように滑らかで、彼が歩いた後には高級シャンプーの華やかな香りが残る。
宰にできないことはなかった。勉強でも運動でも、少し本気を出しただけで一番になれた。
なぜなら彼は、スーパーアルファだからだ。ただのアルファではない。アルファのなかでも、特に優れたアルファ。
いずれ自分は日本を背負って立つ——そんな思いが宰の背筋を伸ばした。
「……そんな僕でも、空を飛ぶことはできないんだけどね」
愛しきつがいに想いを馳せながら、宰は自嘲気味に言った。
「無力な僕を許してくれ、航ちゃん」
宰はつい先日、運命の出会いを果たした。出会い、といってもそれはフリマアプリを通じてのことだったが、宰にとっては、まさにそれは出会いとしか呼べないものだった。
ロロフレーレンのスウェットを部屋着にしようと思っていた宰 (彼は部屋着にも気を使うタイプだった)は、庶民の感覚を学ぼうとカルメリを利用した。メッセージ欄で行われる熾烈な値引き交渉と出品者の打ち出す謎ルールのオンパレードにぞっとしたものの、宰はそのなかでも擦れていない出品者を見つけ、興味を惹かれたのだ。
そして届いたスウェットには、運命のつがいの匂いが染み付いていた。つがい——航太にそんなつもりはなかっただろうが、ぴったりと肌に合うその香りは一瞬で宰を虜にした。甘く心地良い、唯一の香り。
「さて……」
コーヒーを飲み切り歯を磨いた後、彼は衣装ケースの前に立った。増えたローテーションの始まりだった。
一番上の引き出しを引き、そこから現れた宝物に破顔する。
それは真空パックにされたロロフレーレンのスウェットだった。香りが飛んでしまわないよう、宰が取った苦肉の策だった。
「航ちゃん……」
愛おしいひとを抱き寄せるように、彼は真空パックをうっとりと胸に寄せた。腕のなかで、メコメコと無機質な音がする。市販の簡易的な真空パックでは不安が残ったため、彼は業務用の袋と機材 ——吸引力が八十キロパスカルのもの——を購入し、完璧な状態でスウェットを保存しておくことに成功した。
一度嗅いだ香りは決して忘れない。なぜなら宰は、スーパーアルファだからだ。その気になればいつだって、つがいの豊潤な香りを思い返すことができる。
——もし本物の航ちゃんに会えたときも、こうして優しく抱きとめてあげよう。
——航ちゃんは恥ずかしがって頬を染めるだろう。僕はその頬をくすぐりながら、そっと顔を近付けて……
「おっと、初日でこれ以上はやりすぎかな?」
僕としたことが、とわずかに紅潮した顔でおどけながら言うと、宰はいそいそと真空パックをしまい直した。貞操観念の強い彼は、いまだ清い身体だった。
続いて宰は、ケースの二段めから、これまた真空パックにされた送り状を取り出した。そして愛するひとが宰を想いながら一生懸命書いてくれた文字を、恍惚とした表情で撫でる。
——宰くんっていうんだ、かっこいいね。
そんな航太の声が聞こえるようだった。可愛らしさにまた宰の口元が緩む。送り元の航太の住所は既に暗記していた。そしてゴーゴルアースで、航太の住むアパートの外観や位置も把握済みだった。そのアパートの空室検索で、航太が住んでいるであろう部屋の間取りも把握した。
——きっと航ちゃんはここにベッドを置いているだろう、くつろぐときはここで……。
脳内で航太の部屋の配置をあれこれ想像するのが、宰の最近のマイブームだ。
いずれ招いてくれるだろうか。そのときは僕は、さりげなくベッドに腰掛けてみよう。航ちゃんは慌てるかもしれない。でも大丈夫、僕はスーパーアルファ。余裕のある男であることを証明してみせよう……。
そんな想像を胸に目蓋を閉じ微笑むと、宰は真空パック ——送り状の方だ——を引き出しにしまった。
続いて玄関へ向かい、大きなビニールで包んだ段ボールを取り出す。二回目に航太が荷物を送ってきたときに使われた段ボールだ。さすがに大きすぎて真空パックにはできなかったため、宰はこれについては別の使い方をしていた。
「ああっ……!」
段ボールを頭から被ると、スウェットほどではないにしろ、航太の瑞々しい香りに包まれた。三百六十度、3Dで愛するひとの匂いがする。胸いっぱい深呼吸をすれば、すぐそばに航太がいるような気がした。至福のあまり宰は倒れそうになったが、慌てて段ボールを外して苦笑する。
「やれやれ、航ちゃんはおそろしい男だな……」
そんなところも可愛いけど、と呟き、宰はまた段ボールにビニールをかけた。つい二、三日前に届いた大量の服は、まだ真空パックにしていないものがある。今日は早めに帰って作業をしなければ、彼は満足げに微笑んだ。
宰は一旦部屋に戻り身なりを整えると、大学へ行くため、玄関へと向かった。ビニールで梱包された段ボールが、寂しげに彼を見つめていた。はにかみながら、宰は溌剌と声をかける。
「航ちゃん、いってきます!」
新しい一日の、始まりである。