第六話 勝機は一瞬
第六話 勝機は一瞬
俺と向かい合うように対峙する黒髪の彼女は、ううん―――俺とこの黒髪の彼女は十数歩の距離を開けて互いに睨み合っていた。いや、実際に睨むような目つきなのは、眼前にいる黒髪の彼女だけで、俺は別に黒髪の彼女を睨んでいるという自覚はない。
「―――・・・」
黒髪の彼女は、無言で厳しい顔つきで自身が両手で握っていた刀を正眼の位置で構えた。黒髪の彼女のその様子は、いつでも俺に斬り掛かることができるぞ、という気迫を俺は感じ取ったんだ。
「・・・!!」
黒髪の彼女が正眼の構えのまま、摺り足の捌きで俺に肉薄し―――黒髪の彼女自身の間合いの中に俺が入った、ということになる。
「ッ!!」
黒髪の彼女は正眼の構えの刀をやや引き絞るように―――
「せいッ」
そうしてそのまま俺から見て左上から右下へとその刀の刃を袈裟懸け斬り―――!!黒髪の彼女の力強く凛とした掛け声と、俺を峰打ちでしこたま打ち据えるぞ、という覚悟がその黒髪の彼女の形相には刻み込まれている。
「―――・・・っ」
その瞬間、俺は―――俺の頭がどうなったかというと。幼き日の頃の、俺がまだ自分のことを『僕』と言っていて、まだ大好きだった祖父ちゃんがいた頃の想い出が、脳裏に白く光る閃光のようになってその想い出をまざまざと思い出したんだ―――・・・。
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『くそ・・・僕はまたあいつに次元 終夜に勝てなかったよ、祖父ちゃん・・・。くそぉ・・・悔しいなぁ僕・・・っつ』
『悔しいか健太よ?泣くほど悔しければ―――ほら、木刀を取りなさい』
『・・・木刀―――うん。祖父ちゃん・・・』
『小剱流抜刀式を―――、まずは儂の抜刀式の所作、身のこなしをよく見なさい』
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黒髪の彼女が繰り出した袈裟斬りを紙一重で避け、その斬撃の風圧を俺は肌で感じる。
「っ!!」
黒髪の彼女は自身の斬撃が俺に避けられたのが、驚きだったみたいで一瞬眼を見開き―――でもその表情をすぐに改めた彼女は、俺が避けた刀をすぐに返す刃での、今度は俺から見て右から左への薙ぎ斬りを繰り出す。
「・・・?」
なんだろう・・・?俺の突然うずき出したこの『眼』。疼くというよりは―――痒い?ううん、痛い? どっちにしても目がこんなになるなんて初めてのことだ。黒髪の彼女がその刀より繰り出し続ける斬撃―――峰打ちといっても軽く俺の生命を奪うような斬撃だ。動体を見過ぎて眼を酷使させすぎたかものれない。そんな生死を別けるような極限状態で鋭い斬撃を見続けたせいで、ただ眼が疲れただけかもしれないな。
「・・・っ」
黒髪の彼女より揮われたこの薙ぎ斬りの鋩からものうちは、きっと俺の身体に届くことだろう。だから俺はこの黒髪の彼女の刀が俺の身に当たることのないようにすればいいだけだ。でも、俺がこの自身の左手で握り締める鞘に納めた木刀でその黒髪の彼女が持つ刀の刃を払い退けるというわけじゃない、今はまだ―――。
「―――」
俺は、黒髪の彼女の返す刃の薙ぎ斬りの太刀筋が通る瞬間も終始無言のまま、小剱流の摺り足の足捌きで身体をくゆらすような動きも加えて、その黒髪の彼女が繰り出した返す刃の斬撃を避けた。
「・・・え―――」
そのときなぜか素っ頓狂な黒髪の彼女の声が聴こえ―――ううん・・・違う、そんな感じに聴こえたわけじゃなく、黒髪の彼女が発したこの声の調子は・・・それよりも―――。
「―――あ、貴方のその動きは・・・ま、まさか―――」
そう―――黒髪の彼女の声は少し震えを含む狼狽しているような声の調子で、―――そして黒髪の彼女が見つめている視線のほうは俺の剣術、小剱流の足捌きにあった。その所為でこの黒髪の彼女の動きが一瞬だけど止まったんだ。今もこの黒髪の彼女の視点は俺の下半身―――もとい俺の脚を見つめていた。その時間は僅か数秒の中でも、とくに短い刹那の部類に入るに違いない。でも、なぜか今の―――己の身が生死を別けるような斬り合いを強いられている所為かもしれない―――とにかく俺のうずく『眼』には黒髪の彼女の動作がとても緩慢に、まるでスローモーションのように視えたんだ。
「ッ」
だから俺の勝機はこの刹那しかない!! ―――今や黒髪の彼女は俺の間合いの中にいる。黒髪の彼女の、この一瞬何かに気を取られたような様は、試合においては勝敗を分けるものだ。黒髪の彼女ほどの剣士がなぜこんな振る舞いをしたのか俺には解らないけれども、俺にとって彼女のその機はとても棚から牡丹餅なことで、俺の脚に視点を釘づけにし、俺の小剱流の足捌きを、一瞬興味深く見つめた黒髪の彼女―――
この刹那―――俺の勝機はこの今しかないッ!! 今もって、今この機会を逃せば、さらに苛烈になるであろうこの黒髪の彼女の攻勢―――俺には判るんだ。この黒髪の彼女は自分の実力をまだまだ全然俺に見せてなくて、さっきの袈裟斬りが俺の実力を見るための小手調べだったってことが。
「隙ありッ!!」
「ッ!!」
俺の『隙ありッ』の掛け声に、この黒髪の彼女は正気に戻ったみたいだけど、もう遅いッ。だって俺は抜刀式を打ち放つ所作に入っているからだ。
「小剱流抜刀式―――刃一閃ッ」
俺は片膝のうち左膝を固い石畳の舗装に着け、右膝を曲げて、右脚の靴を履いた足裏で石畳を踏ん張る。
さらに左手は鞘付き木刀の鞘、真剣であれば下緒の辺りを握り締める。右手は木刀の柄を持って握る。俺は自身の力みの最高のところから、左手で握り締める鞘より木刀を抜き放つ―――
空気を切り裂きぶぅんっと唸る俺の木刀は、黒髪の彼女の括れた胴を捉える。―――そして俺が抜刀式で放つ鋭く速い木刀はこの黒髪の彼女の胴にめり込みその肉と骨を砕く―――ということを俺はやらない。祖父ちゃんの教えのとおり剣士は無用な殺生をやっていけないんだ。それに、なんでだろう、俺はこの黒髪の彼女が悪人には見えないから。
「―――寸止め」
小剱流抜刀式で鞘から木刀を抜き放った俺は、黒髪の彼女の脇腹に当たるか当たらないかのところでその木刀を止めている。いわゆるこれは寸止めという小剱流抜刀式の中にもある剣技の一つだ。
「俺の勝ちか?」
「っ・・・―――」
俺の問いかけに、黒髪の彼女は目を閉じ、深々と頭を下げて肯いたんだ。
「そっか」
その言質を取り、行動を見届けた俺は、黒髪の彼女の脇腹に寸止めのままにしていた木刀を手元に引き寄せ、そのまま左手で握っていた鞘にゆっくりと納める。
俺は抜刀術を繰り出した体勢からゆっくりとその場に立ち上がった。一方の黒髪の彼女もその右手に持つ業物の素晴らしい打ち刀を、左手を添えた鞘の中に静かに、最後にキンっという小気味のいい音とともに鞘に収めた。
「私に油断があったとはいえ―――・・・いえ、やはりこの私、アイナ=イニーフィナの完敗です。貴方から見てこの試合はいい勝負でしたか?」
それは断言できる。
「うん、いい勝負だったと思う。もし、きみに隙が無かったら―――ううん、俺が判断を誤っていたなら、俺の手に勝利はなかったと思う―――そんな手に汗握るぎりぎりの勝負かな」
そうして自分の言葉を言い終えて、俺は自らをアイナ=イニーフィナと名乗ったこの目の前の黒髪の彼女に頷いた。
「ぎりぎりのいい勝負―――・・・」
アイナという黒髪の彼女は、視線を自らの足元に落とし、『いい勝負』という言葉を静かに呟いた。それはまるでその言葉を自分の中で反芻しているように俺には思えた。
「―――・・・」
俺が見たところアイナという黒髪の彼女の表情や態度に悲壮感はない。でも、心の中ではどうか分からない。面に出さないだけで、本当は物凄くショックなことで、俺に負けた悔しさと悲しみで内心は打ちひしがれているかもしれない。決勝の試合でいつもの相手に負けて涙が出るほど悔しがる俺のようにな。
ややあってアイナは自らの足元に落としていた視線を戻し、ふたたび顔を上げて俺の顔を見た。彼女の色の着いた眼はまるで藍玉のようだ。
「先ほども言った通り、私はアイナ、アイナ=イニーフィナと言います。もしよろしければ小剱流剣術を遣う貴方の名前をこの私に教えてくれませんか?」
「俺?」
「はい」
「俺は小剱 健太っていうんだ」
俺は自身の名前を言い終えてやや視線を落とす。そのせいでアイナが今どんな表情をしているかは、そのときの俺は判らなかったんだ。
本当に彼女から見れば、『知らない知らない』の一点張りな言い訳みたいになってしまうことを今から俺はこのアイナという名前の少女に言おうと思う。そうして俺は視線を上げて、また目の前にいるアイナという彼女に戻した。
「俺さ、ほんとに、いきなり気が付いたらこの街に立っていて・・・―――」
ほんとにきみの言うイデアルなんか俺は知らないんだ、と、このアイナという名前の彼女に言おうとしたものの、俺の言葉はそこで止まってしまった。それはなぜかって、それは―――
「―――っ、コ、コツルギ、=ケンタ・・・っ―――」
「あぁ、うん―――そうだけど―――ん?」
俺の名前を呟いたアイナの目が明らかに驚きで見開かれていて、はぁっと息を呑む声なき声が聞こえたんだ―――