第百三十四話 血世界の主
第百三十四話 血世界の主
「―――ッ!! ―――・・・」
その一方で塚本は『自身』の身に起きた驚天動地の事態に大きく目を見開く。きょろきょろっ、っとどこかに抜け道のようなものはないだろうか、彼塚本は端々に視線を送る。やはりこの『血世界』という異能の領域より外に出るしかないのだろうか? 塚本はそう考え、そこに至る。なぜ、塚本がそこまで必死になって逃げ道を探るのか。それを塚本は一番よく解っていた、この『血世界』というエシャールの世界では自身の『曲がる』異能がうまく働かず、自在に使えなくなっていたからだ。
「見よ『哂い眼鏡』。・・・これこそが我が内なる『世界』・・・、『血世界』―――もうこの私『紅のエシャール』に死角はない。この私『紅のエシャール』に死角を造り出せるのはチェスター殿下だけなのだよ」
「・・・っ」
紅き世界を通して塚本の目に太陽が赤銅色に見えた。イニーフィネ皇国近衛異能団団長エシャール・ヌン=ハイマリュン、通り名を『紅のエシャール』彼の内なる『世界』『血世界』―――、その鉄臭がひどい血の気を含んだエシャールの紅い氣はさらに拡がり、瞬く間に塚本とエシャールが戦っているこの場所―――日下部市のグラウンドを紅い氣が柱状に覆ったのだ。
イニーフィネ皇国近衛異能団団長エシャール・ヌン=ハイマリュン彼が造り出し、己の世界―――『血世界』。
塚本の頬を伝う汗は、顎に集まり、ポタっ、っとその紅き地に落ちる。
「―――っつ」
その紅き世界で塚本は―――、面にできるだけその心の内の動揺を出さないようにと努めていた。だが、内心で塚本は非常に焦っていた。なにせ、自身の『曲がる』異能が制限を受けているかのように上手く扱えないのだ、この血世界という固有の領域を持つエシャールの異能の中では。
「私を見よ、『哂い眼鏡』よ―――」
異能を使った戦いの中で、敵に自分を見よ、と言われてわざわざ見るような者はあまりいない。
「・・・、―――、―――」
だが、塚本はここを、この血世界から抜け出せる何らかの答えがあるかもしれないと、逡巡した結果、エシャールにその視線をもっていく。ゆるゆる、っとエシャールはその右人差し指を自身の頸につけた紅い一筋の裂傷へと持っていく。
「どうかね?『哂い眼鏡』きみは『これ』をどう思う」
塚本の目が驚きに見開かれる。ずずっ―――、
「―――っつ」
その、エシャールが自分自身で己の頸につけた傷に人差し指を持っていった直後のことだ。ずずっ、っとまるで早送りをしているかのように、エシャールの頸にあって、それまで紅い血を噴き流していた一筋の傷がずずっ、すぅっ、っと癒えていく。それは跡形もなく消え、本当に酷い裂傷だったのに、今はもう傷の跡すら残っておらず、また傷の跡も全く見えない。
ずずっ―――っと。そして、塚本により、塚本の正拳突きにより折られたその白い歯―――、それと折られたエシャールの形のよい鼻―――、それまでもが、まるで塚本に殴られたことがなかったかのように癒えてゆく・・・。
「この我が内なる世界『血世界』では私の思うがままに事は運ぶのだよ、『哂い眼鏡』」
「―――ほんとにそうかな?エシャールさん。―――、―――」
塚本は焦った自分の心を鎮め、冷静になるために小さく、すぅっ、っと息を吸って吐く。塚本は左手を後ろ手に持っていき、臀部の左ポケットへと左手を入れる。そこには確か、仕込んだ手榴弾がまだ残っていたはずだ。そしてあと一つは右の臀部のポケットにもあるはずだ。
うん、っと内心で塚本は肯く。確かにある。そのごつごつとした触感は確かに自分が用意をして尻のポケットに忍ばせた手榴弾のものだ。この手榴弾でなにかエシャールに手傷を負わせれば、この血世界を抜け出せるきっかけを作ることができるかもしれない、と。
「くくっ―――きみの思い通りに事は運ぶと、ほんとにそう思っているのかい?」
塚本は、内心の焦りを隠し、今までのようにその哂みを湛えて振る舞う。ピンっ、っと塚本は小気味のいい音を出して手榴弾の信管を外し、それをぽいっ、っと眼前のエシャールに放る。
塚本の手から放たれた手榴弾は放物線を描いてエシャールに飛んでいく。信管の外れた手榴弾は数秒後には大爆発を熾して、その中身を四散させる、はずだ。現に塚本はそう思っていた。
ぱしっ、っと。
「ふむ―――」
エシャールは自分に向かって投げられたその黒くごつごつとした手榴弾をその自身の右手で掴み取った。
「きみこそ、エシャールさん。きみは知らないのかな、その手榴弾がどれほどの威力を持っている、、、の、かを・・・」
塚本の声が途切れるように消えた。塚本は動揺こそ面には出さないが、その内心では驚いていたのだ。なにせ、自分の投げた手榴弾が、それを掴むエシャールの右手の中で盛大に爆発しないのだ。
「芸がないな『哂い眼鏡』よ。言ったはずだよ、この私『紅のエシャール』は―――」
ぐぐっ、ぎりぎりっ―――っとエシャールはその手榴弾を持つ右手に力を籠めていく。
「な、なにを―――」
さすがの塚本もその信管の外れた手榴弾を握り締めるというエシャールの『自殺行為』を見て驚いているようだった。
「私の異能―――この私の内なる世界―――」
めりめり、みしみし―――っと、手榴弾の黒鉄の外装が悲鳴を上げる。通常では有り得ないほどの握力だ。
「この『血世界』の主はこの私『紅のエシャール』だ、ということを―――っ!!」
バギィッ―――、エシャールは握り込む手榴弾はついに、、、その黒鉄の外装はその外からの圧力に耐え切れず罅が入り―――、エシャールの手の中で砕けた。パラパラっ、っと砕けた外装、、、そして火薬と、その榴弾がエシャールの手の中から零れ落ちる。
塚本の顔に戦慄が走る・・・!!
「な―――っ!!」
手榴弾はエシャールの手の中で爆発することはない。そのまま―――、まるでただの脆い卵の殻を握り潰したかのように、エシャールの手の中でばらばらに砕けたのだ。
ぱんぱんぱんぱんっ、っとエシャールは両手をはたき合わせて、右手に着いた手榴弾の火薬を振り払う。
「驚いているのかね、『哂い眼鏡』。見せたはずだよ、私は。この我が内なる世界『血世界』では私の思うがままに事は運ぶ、と―――」
ぐぐっ、っとエシャールはその右手を水平に上げて、その右腕をまっすぐ縦にして、指先を塚本へと伸ばす。敬礼と同じ指の形で、四本の指を閉じて合わせ、親指を付け根から折り曲げて掌に添え、とそのような手指の格好だ。
―――そのエシャールの指先は、・・・ジジジジ、ジリ・・・ッっと、真紅の妖しい煌めきを放ち―――、その右手指の中で一番先に出ている中指に妖しく赤く輝く光が集束していく―――。
指先から放つ氣の指弾だ。塚本はそれに気づき、両脚に力を入れ跳躍して回避しようと―――、
がくん―――っ、と。何かに引っ張られるように塚本の身体がつんのめる。
「え―――っ!!」
塚本の目が驚きに見開かれる。そんな塚本の目は、その視線は自身の足元を、足首を向いている。自分自身の、塚本の足が真紅に染まっている―――。否―――、それは真紅の色をした手―――。すでに塚本の足元はひたひたと、エシャールの血氣が拡がっていた。まるで血糊のようになった真紅の血氣、、、そこから伸びた真紅の血氣の腕が、その手が塚本の右足首を掴んでいたのだ。まるで塚本の足首から、じわじわ―――と、下は靴下を履く靴、上はその履いた長ズボンを伝って毛細管現象のようにそのエシャールの紅い血で紅に染まっていく。
「ふひゃひゃひゃひゃっ―――『紅手腕』だよ。『哂い眼鏡』すでに貴殿はトリモチに囚われた鼠に等しいということだ」
にゅっ・・・―――、塚本の足元に拡がっていくまるで血糊のような血氣からもう一本の腕が生えて現れ、その血塗れの真紅の手がさらに塚本の左足首にも掴みにかかったのだ。
「くそ・・・っ!!」
ばたばたっ、っと塚本は残った左足で、己の左足首を掴もうとする血塗れの真紅の手を踏みつけようと地団駄を踏む。
「ふひゃひゃひゃひゃ・・・なんと無様なことか『哂い眼鏡』―――」
エシャールは右手に紅い氣を籠めたまま、そんな塚本をにやにやと余裕の笑みを浮かべて見つめていた。
「っつ」
塚本が上から左足で踏みつけようとすれば、その『紅手腕』は左に避け、蹴ろうとすれば、にゅるりっ、っと腕を燻らせて塚本の蹴りをやり過ごすのだ。
「、、、だが、それも無駄な徒労に終わろう・・・、『哂い眼鏡』よ」
ぽつり、っとエシャールが静かに呟いた。
「―――、―――、―――」
左足で『紅手腕』と必死の攻防戦を繰り広げる塚本はまだ気づいてもいないし、このエシャールの静かな呟きも聴こえていないのだ。
にゅるっ、にゅるっ、っと塚本の背後の地面から迫る二本の『紅手腕』、それがすでに己の背後にいることに。