第5章
翌日から、悠一くんはシェロムさんについてもらって、旧世界の言語について学びはじめました。シェロムさんはドイツ人で、話せる言葉はドイツ語だけだそうですが、悠一くんは悠一くんで、日本語と英語が少しくらいしか話せません。にも関わらず、こんなふたりの間で新しい言語の伝達が出来るというのは、なんとも不思議なことでした。
「旧世界でも、それぞれ民族ごとに各言語が存在していたんだ。でも、我々が元いた世界では英語が世界共通語だったみたいに、こちらの世界でもメルヴィル語というのが英語に当たるような共通言語だったらしい。そして、このメルヴィル語さえわかれば、都市の大通りにある標識や、あるいは図書館に置いてある本や、地図なんかも大体のところ読めるようになる。このメルヴィル語は、英語のアルファベットに当てはめることが出来るといっていいと思う……英語のアルファベットが26語であるのに対して、メルヴィル語ではアルファベットに当たるものが34語あるっていうことなんだ。文法は英語というよりも、ロシア語に近い感じだという話。というのも、二コラ・アーデンという、やっぱりヨハン・ウーレンベックが超高層ビルに住んでるのと同じように、彼女は図書館に住んでるんだが、彼女はイギリス人でね。他にロシア語とフランス語とドイツ語が話せる言語学者なんだ。本当は、俺なんかに習うより、彼女についてもらったほうが上達が速いんじゃないかと思うんだけどね。そんな不審なことをすれば、せっかくアビシャグさまが君のことを信頼しているのに、その信頼を損なうことになってもいけないと思って」
「えっと、二コラってことは、女の人なんですか?」
全部で34語あるメルヴィル語のアルファベット表を眺め、次に男性名詞や女性名詞、それに中性名詞に分かれた単語、さらに、「おはよう」、「こんにちは」、「おやすみ」、「初めまして」など……悠一くんは簡単な会話文を読みながら、奇妙な感覚をこの時覚えていました。
何故といって、全部どこかで聞いたことのある言葉のような気がするのに、さっぱり思いだせないような――間違いなく今初めて見る言語なのに、昔から使っている言葉のような、おかしな感覚が脳を突き抜けていく感じがしたからです。
「そうだね。彼女は19世紀の終わり近くにこちらへ流されることになったらしい。といっても、人間嫌いな女性でね……ゾンビたちがこちらの命を脅かす存在でもなく、食糧もある程度あるとわかってからは、もうずっと図書館に篭もりっぱなしで、すぐこちらの言語を覚えると、図書館の本を順に読むようになっていったらしい。まあ、変わった人だけど、言語関係のことや、こちらの世界の歴史のことなんかについては、二コラが一番詳しい。それに、何かわからないことがあった時に、こちらへ教えることを拒むような女性でもない。何分、こちらの世界では、生きた人間である我々は超少数派だからね。お互いに助けあう必要があるということは、彼女もわかっているのさ」
「その……女の人がいるっていうことは……シェロムさんは考えたりしないんですか?元いた世界に戻れそうもないのであれば、誰か女性と結婚して新しい家庭を築こうみたいには……」
「う~ん。どうかな。私も、こちらの世界へ来たばかりの頃は、ミシェルのような女性と結婚したいとか、そうした気持ちはあった気がする。でも、長くこちらの世界にいるうちに、何故かそうした気持ちはなくなっていったね。何故なのかはわからないけど……旧世界の文明は私が元いた世界よりも遥かに科学のほうが進んでいて、そうしたことを研究するのに魅せられてしまったそのせいかもしれない。それに、こんなひどい世界に新しい命を――子供を生み落とすというのは、ひどく残酷なことのような気もする。でもきっと、そんな形で結婚して、子供を生み落とした夫婦というのもいるかもしれない。とりあえず、私の知り合いの生きた人間たちの中にはいないにしても……」
「そうなんですか。こっちの世界は、もしかしたら孤独ということに耐えられさえすれば、そんなに悪くもなかったりするんでしょうか。ほら、ゾンビたちは比較的友好的だし、食糧やエネルギーもたくさんあるし……学校生活がつまらなかったり、働くのが嫌な人にしてみたら……いや、でも僕はやっばり元の世界へどうしても帰りたいけど……」
悠一くんはそんなふうに話す間も、メルヴィル語を少しずつ覚えていきました。ただひとつ不思議なのは、このメルヴィル語を耳では覚えることが出来ないということです。ゆえに、目で見て覚えていくしかありません。つまり、こちらの世界の音声装置にも言語を教える教材のようなものはあるのですが、それを聞いても、悠一くんの耳には日本語が、また、シェロムさんの耳にはドイツ語として翻訳された言葉が聞こえてくるだけなのです。
シェロムさんはこのことをやはり不思議に思って、二コラ・アーデンに聞いたことがあったそうですが、二コラさんはそのことについて、こういう仮説を立てているということでした。つまり、私たちの脳には言語中枢という場所があって、言葉を司っているわけですが、悠一くんはそこの日本語言語野を使い、二コラさんは英語言語野を使っているというわけです。けれども、こちらの世界では何故か……以前はそうではなかったのに何故そうなったのか説明はつかないけれども、ゾンビの話す言葉が理解できるように、誰がどの言語で話そうとも、自動的に脳で翻訳されることになっているのではないだろうか――ということでした。「まあ、死後の世界ではバベルの壁なんて必要ないってことかしらね」とも、二コラさんは話していたそうです。
そしてこの十日後、基本的な言語の学びを終えると、悠一くんはシェロムさんと一緒に、一度南の国の都のほうへ戻ることにしました。さらにその後、アビシャグさまの許可を得ると、悠一くんはさらなる言語の学びのため、旧世界の図書館のほうで勉強を重ねるということにしたのです。また、病院のほうに臓器を新しく造りだす技術について書かれた資料がないかどうか探し求め……その方面についての研究もするつもりでした。
もちろん、ハヤテとヤチヨというゾンビ忍者が護衛につくということになっていましたが、シェロムさんが二コラ・アーデンの元に悠一くんのことを連れていくと、彼女は明らかにいい顔をしませんでした。悠一くん当人がどうこうということではなく、彼の後ろにゾンビ忍者のいたことが、二コラさんに強い警戒心を起こさせたのでした。
<ゴッドリーヴス国際図書館>、それが二コラさんが住まいとしている図書館の名前でした。なんでも、彼女の知る限り、ここが一番多く古い蔵書の収められている場所なのだそうです。
「わたし、あなたに言ったわよね!?ゾンビ世界の政治とは一切関わりあいになりたくないし、向こうにも自分の存在を一切知られたくないって。それなのに、これじゃ……」
シェロムさんは唇の前に人差し指を立てると、申し訳なさそうな顔をして、ウィンクしました。
「もちろんわかってるよ、二コラ。私だってそうしたことは全部、わかっているんだ……だけど、この子は日本人だし、急にいきなりヨハンの元へ連れていくのもどうかという気がしてね。それに、ユーイチがこちらの世界ではじめたいと思ってることを成し遂げるには、君に協力してもらったほうがいいんじゃないかっていう気がして……」
「協力ですって!?」
二コラさんは(そんなこと、とんでもないわ!)というように、とても険しい顔の表情をしていました。二コラ・アーデンは、プラチナ・ブロンドに空色の瞳をした、大体五十台くらいに見える女性でした。髪のほうはショートヘアで、縁なしの眼鏡をかけており、服装のほうもカーディガンにパンツというスタイルだったからでしょうか。悠一くんの二コラに対する第一印象は、『図書館司書としていかにもいそうな女性』というものだったかもしれません。
「ユーイチはこちらの世界へ来てまだ間もないんだ。それで、ゾンビたちの手足は腐りかかってるから、何かともげやすいだろ?だからユーイチは臓器を一から造りだして、それをゾンビたちの体の部位と取り替える研究がしたいって言うんだよ。で、メルヴィル語のアルファベットと簡単な会話文なんかについては、十日間くらいもう勉強してる。ユーイチは物覚えも早いし、筋もいいから、二コラも教師としてきっと教え甲斐があると思うよ」
「それで、ユーイチくんの後ろにいるゾンビは、南の女王アビシャグの配下ということで間違いないのかしら?」
硬化したような態度を崩すことなく、二コラさんは厳しい顔つきのまま、そう聞きました。
「そうだ。私がユーイチと知り合ったのも、アビシャグさまを介してだから。二コラはゾンビ世界に一切関わりを持ちたくないって言ってたけど、それだって、私や他の人が多少はゾンビたちと関わりを持って噂話を持ち帰ってくるから、それである程度今東西南北の国の政情がどうなってるかがわかるんだ。もしそうじゃなかったら、二コラ、君だってこんなふうに図書館で日がな一日のんびり読書に精をだしてばかりもいられないはずさ」
「確かに、それはそうね」
二コラさんは溜息を着いて言いました。
「それに、南の女王は図書館で毎日本ばかり読んで調べものをしている中年女がひとりいると聞いても……すぐにどうこうしようとは考えないでしょうしね。ただ、これは大きな貸しになるわよ、シェロム。わたし、これまでにも十分、あなたの夢の飛空艇のためには協力してきたと思うけど――唯一、ゾンビたちにだけはわたし、自分の存在を知られたくない、わたしのことだけは話さないっていう約束だったはずよ。それなのに……」
「わかってるよ。だけど、今回は本当に特例中の特例なんだ。そのことは、いずれ君にもわかってもらえると思う。ユーイチはもしかしたら、このゾンビ世界を救う救世主かもしれないんだ。そしてそのことは、南の女王のアビシャグさまも、西のゴロツキング王も知ってることでね。そう聞いたら君も、だんだん興味がわいてきただろ?」
「興味がわくも何も……」
二コラさんは、まるでめまいを覚えたとでもいうように、貸し出しカウンターの向こう側で椅子に腰かけていました。
「シェロム、ずるいわよ、あなた。そっちの女王配下のゾンビに顔を知られてしまった以上、『協力なんて冗談じゃないわ、帰ってちょうだい』とも言えないじゃないの」
このあと、二コラさんは「頭痛がしてきた」というそぶりをしていたものの、すぐ目録を調べて、医療関係の書籍の中の、悠一くんにとって特に必要と思われる資料を用意してくれようとしました。
「他の図書館より、ここはいいのよ。他の都市部の図書館はみんな、目録も全部オンラインで管理されてたみたいだから……オンライン目録に移る前までのカード目録がすべて保存してあるのはここくらいなものなの。文字が読めて目録を調べることさえ出来れば、大抵の欲しい本は見つけることが出来るわ」
「すごいですね。こんな……紙の本がこんなにたくさん収められてる図書館を見るのなんて、僕はじめてです」
悠一くんはそう言って、一階のエントランス部分から吹き抜けになっている二十階分の書架を見上げました。悠一くんは、その蜂蜜色の書架に並ぶ本を見ているだけで、なんだかわくわくしてきたものです。もちろん、今の段階ではまだ、ここにある本の中で悠一くんが読み通せるものは一冊もなかったにしても。
けれど、メルヴィル語を覚えるのもなかなか面白かったですし、臓器を一から生み出すだなんて、そんなことが本当に可能かどうかはわかりませんでしたが……やれるだけのことはやってみたいと、悠一くんは強い決意とともに思っていたのです。
(たぶん、この都市の中で一番大きな病院へ行けば、そうしたことに関する技術的な論文とか、そういうものも見つかるだろう。そのためにも、僕はなるべく早くメルヴィル語をマスターしなきゃ……)
もちろん悠一くんはこのことを、ゾンビのためを思ってはじめたのですが、この時は少し違うことを考えていたかもしれません。この死の支配する世界へ流されてきて、約三か月……まだ短い間ですが、色々なことがありました。もし、悠一くんが最初に出会ったゾンビが――ライダースーツゾンビのようにあまり親切でなかったとしたらどうだったでしょう?
けれど、彼が『ヘイ、ユー!ユーは一体、どこから来たんだい?』と、フレンドリーな感じで話しかけてきてくれたから……それで、悠一くんはこのゾンビたちが映画で見るような恐ろしい存在ではないと知ることが出来たのです。またその後、傀儡師のおやっさんのいる病院に悠一くんは案内してもらったのですが、そこで知り合ったゾンビたちもみな、とても善良でした。そうなのです。彼らは容姿こそ醜かったかもしれませんが、悠一くんが元いた世界の人間たちよりずっと善良でした。そして、そのことが悠一くんが「彼らのために何かしてあげたい」と感じる原動力なのでしたが……アビシャグさまに「何故そこまでのことをしようと思うのか?」と聞かれた時には、そのあたりのことをうまく言葉では説明できなかったのです。
(人生に目標を持つことは大切だって、父さんはよく言ってたけど、それは本当にそうなのだと思う。この死の世界でただ何をするでもなく怠惰に過ごしていたりしたら、僕はたぶんそのうち頭がおかしくなってしまうだろう。けれど、ゾンビたちに新しい、腐敗していない新しい臓器を与えたいという望み……そうした善意の気持ちがあればこそ、僕は言ってみれば正気でいられるんじゃないかという気がする)
「ユーイチくん、なんだかあなたは賢そうな顔つきをしてるわね。元いた世界では本を読むのが好きだったりしたのかしら?」
「好き、というか、いつでも何冊かは本を読んでました。二コラさんもこうした場所を選んで住んでいるということは、相当本がお好きなんでしょうね。だから、そういう人になら、話してもわかってもらえるかなって思うんですけど……大好きな本を心の友だちって言ったりすることがあるでしょう?僕はあれ、変な言い方ですけど、作者がすでに亡くなっていたりする場合――霊的な友だちであるように感じることがあるんです。一応、物としては紙に印刷されていて、そこに文字というか文章が並んでるわけですけど、書いてあることは霊的な情報といってもいいんじゃないかなって。そこに書いてあることが「ちょっといい言葉だな」とか「まあまあ面白い物語だった」といった場合、心に響くっていうような表現になりますけど、それがさらに発展してものすごく感動したっていうことになると……心とか精神とかいう言葉じゃ足りなくて、もう魂のというか、霊の領域に達するくらいの影響があるといっていいんじゃないでしょうか」
二コラさんは、ここで目録カードから目を上げると、眼鏡を外してにっこり微笑んでいました。
「わかったわ。確かにあなたはシェロムがわたしとの約束を破って、ここへ連れてきただけのことはある人のようね。医療関係の本が置いてある書架は五階になるわ。あなたの欲しい情報については、わたしが出来るだけ翻訳してあげる。だけど、それと同時に、そのうち大きな病院のほうへ行ったほうがいいでしょうねえ。パソコンの中の情報なんかについては引き出すことが出来ないでしょうけど、印刷された論文とか、そういうのは探せばそれなりに結構あるはずだから」
「ありがとうございます!僕、出来るだけがんばりますので、よろしくお願いします」
二コラさんはここで、もう一度悠一くんのことと、後ろのボディガードの忍者ゾンビふたりとを見つめ返しました。忍者ゾンビたちはここまで、一言も口を聞いていませんでしたが、二コラさんにはなんとなくわかりました。彼らがふたりとも、どうやら悠一くんに対して好意を持っていることだけは間違いないようだ、と。
「それで、ユーイチくん。君は一体いくつなのかしら?」
「十九歳です」
悠一くんが屈託ない顔をしてそう答えると、二コラさんもまた驚いていました。
「十九歳ですって?じゃあ、わたしの息子より年上なんじゃないの!びっくりね。まだ十四歳くらいにしか見えないのに」
「やっぱり二コラもそう思ったか」
そう言ってシェロムさんも笑いました。ハヤテとヤチヨはぴくりとも笑っていませんが、それでも、事態が良好なほうへ流れつつあるようだと感じて、ほっと安心していたのです。
そしてこのあと四人は、二コラさんの案内で図書館の中央にあるエレベーターに乗り、五階へ向かいました。フロアはとても広く、医療関係の書架だけでも相当に細分化されていましたが――二コラさんは少しも迷うことなく、セルプロセシングテクノロジー関連、その他遺伝子治療に関係する書棚へ進むと、本の背をなぞってタイトルを読み、何冊か抜き取りました。
「翻訳にはどれくらいかかるかしらねえ。ほら、リロイが自動翻訳機を開発してくれたのはいいんだけど、細かいところで誤訳が多いのよね。特にこういう学術論文系のものは、専門用語が多いから……なるべくわたしが翻訳したほうがいいとは思うんだけど」
「ありがとうございます。その、僕が元いた世界の年代では、iPS細胞やES細胞についての研究がはじまっていて……iPS細胞っていうのは人工多能性幹細胞、ES細胞っていうのは胚性幹細胞のことで、どちらも再生医療に関係してるんです。iPS細胞、ES細胞ともに、あらゆる臓器に分化することが可能なので、特にゾンビの場合、免疫不全ですとかそうしたことを考えなくていいっていう意味では、どちらでも問題ないのかもしれません。ただ、iPS細胞と違ってES細胞の場合、生命の元である胚(受精卵)を犠牲にするっていう倫理的問題があるので、たぶんこちらの世界ではもうiPS細胞による研究がかなりのところ進んでいるんじゃないかなって想像してるんですけど……でも、こちらの世界ではiPS細胞やES細胞という言い方はしてないかもしれませんし、出来ればなるべくこれに近いことについて書かれた論文などを読んでみたいんです」
悠一くんが考えていたのは、まずは美しい皮膚を新しく造りだすということでした。何分、ゾンビたちには拒絶反応ですとか、そうした心配はしなくていいわけですし、腐敗している皮膚の上に、新しく健康な皮膚を縫いつけることさえ出来れば……つまり、ゾンビたちがその美しい皮膚を自分のものと認識しさえすれば、彼らが死んでいるのに何故動いているのかわからないのと同じ力によって、見た目も性能もいい体が出来てくるのではないかと予想していたのです。
けれどももし、その方法がうまくいかないとなれば、手や足を丸ごと、あるいは臓器をひとつひとつ新しく造りだす方法について、さらに模索するということになるでしょう。
(でも、それでいくと、人工皮膚とかでもいいのかな。それか、こちらの世界にバイオプリンタのようなものがあれば、臓器を丸ごと造るっていうことも出来るはずなんだけど……)
ここで悠一くんはバイオプリンタについて書かれた科学雑誌の記事を思いだし、「あ、あのっ」と、興奮して二コラさんの腕を強く掴んでいました。
「臓器プリンティング……あるいは、3Dバイオプリンティングとか、何かそうしたことについて書かれた本はないでしょうかっ!?」
二コラは、元いた年代が19世紀だった女性です。ですから、悠一くんが何を言っているのかさっぱりわかりませんでしたが、けれども、目録カードのほうを調べれば、もしかしたら何かそうしたワードについて出てくるかもしれません。
二コラはもう一度一階のほうへ戻りましたが、悠一くんやシェロムさんやふたりのゾンビは、そのままその場に残って図書館の内部を見学するということにしました。もっとも、シェロムさんはともかくとして、悠一くんは本のページを捲ってみても、そこに何が書いてあるのかさっぱりわかりません。
そこで悠一くんは、同じ階にあった植物学についての書棚に、花や樹木の写真がふんだんに使われた図鑑があるのを見つけ、それをテーブルの上に置くと、右と左に座ったハヤテやヤチヨと一緒に見るということにしました。
悠一くんはてっきり、ハヤテやヤチヨもメルヴィル語など読めないだろうと思ってばかりいたのですが――なんと、ふたりともスラスラ文字を読んでいくではありませんか!
「これは、アカネだな。友だちのゾンビと同じ名前だ。これはルピナス、エニシダ、カモミール……南の国でもよく見かける花だ」
ヤチヨは花によほど興味があるのか、図鑑を独り占めすると、興味深そうに何ページも捲ってじっと見入っている様子です。
「ヤチヨばかり、ずるいでござる!拙者も何か本を読んでみたいでござるよ!」
「えっと、じゃあ魚の本なんてどうかな。確かそこに海洋関係についての本があったと思うから……」
ちなみに、シェロムさんはこの機会に飛行関係のことについて調べたいことがあるということで、七階のほうへ上がっていって今はいません。
「これなんてどうかな。『世界のさかな図鑑』だって」
ハヤテもまた暫くの間じっと本に見入っていましたが、そのあと、とんとん、とハヤテに肩を叩かれ、悠一くんは振り返りました。
「この魚、拙者に似ているでござる。プププ」
そう言ってハヤテは深海魚のひとつを指差して笑っていました。西の国のゾンビたちもそうですが、彼らにはやはりとてもユーモアがあります。また、ハヤテはヤチヨに「ナルシストゾンビ!」とからかわれても、ケロリとしたものでした。「それは違うでござるよ。拙者は身だしなみにうるさいだけなのでござる。消毒液も噴霧せずに三日も放っておいたら、ハエが卵を産みに寄ってくるだけでござろう。だからいつでも皮膚を用心深くチェック!チェック!なのでござる」……という、そういうことらしいのです。
「北や東の国は海に面していると聞いておりますがな、ほんとにこんな変な生き物が存在するのかどうか、拙者は自分の目で見ないことにはとても信じる気になれないでござるよ」
「そうなんだ。そういえは、この世界の地図ってどうなってるんだろ」
悠一くんは、本に夢中になっているハヤテとヤチヨのことは一旦放っておいて、たまたま地理関係の書棚も同じ階にありましたので、調べてみることにしました。
(だって、どう考えてもおかしいもんな。南の国の南の砂漠は行っても行っても砂漠だけだなんて……それに、大きさといったことから考えてみても、この東西南北の国をすべて合わせた土地しか残っていないだなんて絶対おかしい。ここよりさらに外にも国があると考えるほうが普通だけど、でもそこもまた、ここと同じような死の都市が広がっているばかりということなんだろうか……)
そして、悠一が見つけた世界地図は、かなりのところおかしなものでした。いえ、その世界地図自体がおかしいというわけではありません。ただ、この東西南北を合わせた国の外にも恐ろしいほど広い大陸が他にも存在しているのです。これを一体どう考えたらいいのかが、悠一くんにはまったくもって謎でした。
(果たして、この東西南北の国の他にも、ゾンビ帝国などというものが存在するのかどうか。こちらで覇権争いをしている間に、いつかそんな帝国が大群を引きつれて攻めてくることはないのか……それとも、実は人類は生き残っていて、他の土地に安全に住まっていたりするのだろうか。あるいは、奇病を発したゾンビたちのことはゾンビたちのこととして放っておいて、時が来たら核爆弾によってでもゾンビの全員を消滅させるつもりなのかどうか……)
悠一くんは、こちらの世界へやって来てから何度目になるかわからない溜息を着きました。もし自分がこれから頑張ってゾンビたちを本当の生きた人間のような姿に生まれ変わらせることが出来たとして――そんな外の世界の政府の人間がそのことを快く思わない……などという事態が発生したとすれば、一体どうしたらいいのでしょうか。悠一くんは昔読んだSF小説や、ハリウッドのゾンビ映画の影響などから、そんなふうに想像せずにはいられませんでした。
けれどもこのあと、旧世界の地図と現在のゾンビ世界の地図とは一致しないのではないかと、悠一くんはシェロムさんに教えてもらっていました。
「もし飛空艇が完成したら……西の山岳地帯を越えてもっと向こうへ行くことは可能かもしれない。だが、ゾンビたちはみんな口を揃えて「険しい山を越えて向こうへ行っても何もない」と言うんだ。山を越えてもまた山があるというだけだとな。それは、南の砂漠を越えても越えてもまた砂漠があるというのと同じことらしい。それと、これはあくまで噂だが……北の国の王ドルトムントは、何度も船団を組ませて海を探らせたらしいが、海の向こうにはまた海があるというそれだけらしいのだ。また、東の国では、北の国が海から攻めてきた時のことを想定して、海賊ゾンビたちと手を組んでいるとのもっぱらの噂だしな」
「そうなんですか。でもこれ、絶対変なんですよね……」
悠一くんは、旧世界の超々高等科学技術をもってすれば、もしや次元や空間をねじ曲げることさえ可能だったのではないかとの疑念を捨てきれませんでした。悠一くんは、主人公が次元の違う異世界へ飛ばされる、といった設定の小説や漫画が大好きでしたが、これはそうしたことではなく――もしもそうした<次元装置>があったと仮定してみましょう。そして、日本ではあれほど安全性がうたわれていた原発が事故を起こしたように、その次元装置が事故や不具合を起こしたのだとしたら……自分やシェロムさんや二コラさんが向こうからこちらへ来ることになった理由として説明できるのではないかと思ったのです。
とりあえず、現時点で悠一くんは、二つの仮定を打ち立てました。ひとつ目は、何かの失敗や誤作動などにより、今のゾンビ世界を造ってしまった旧文明の生き残りがいて、こちらの世界のことを今もどこかから見張っている可能性、二つ目は、<次元装置>、あるいは空間に関する何がしかの装置が事故や誤作動を起こして、以前の旧世界にはない、切り離された死の世界を創りだしてしまったのかどうか……。
そんなことを思いながら悠一くんは、アルトムント大陸、ゴルウィア大陸、ドーリス大陸、ロリス大陸という四大陸の上に分割された、大小二百か国以上もの国の載った地図を、一旦閉じるということにしました。
ここで、トゥルル……と、館内の各階カウンターにある電話が鳴って、シェロムさんが内線の5番を取りました。相手はもちろん、二コラさんです。
『ユーイチくん、喜んで!バイオプリンティングっていう単語で、ヒットした本があったの。でね、書いた人がレムリア大学の教授の人みたいなんだけど、場所としてここからそんなに離れてないのよ。そこへ行ったらきっと、さらに何か手がかりが掴めるんじゃないかしら?』
「ほんとですか!?」
悠一くんはここの図書館で、旧世界についてもっと色々調べたかったのですが、二コラさんのこの報告で、そんな気持ちは一気に吹き飛んでしまったかもしれません。
本のある位置のナンバーを教えてもらうと、悠一くんはそこから、『バイオプリンティング技術と再生医療』という本など、その他数冊、3D医療プリンティングに関連する本を見つけることが出来ました。といっても、悠一くんがかろうじて読めたのは、本のタイトルくらいだったのですが――これをまずは先ほど二コラさんの言っていた自動翻訳機にかけてもらうことにしようと思ったのです。そして、明らかに誤訳と思われる箇所については抜き書きして、二コラさんやシェロムさんに聞くということにしてはどうだろうと考えていました。
そして、バイオプリンティング関連の本を六冊ほど抱えて、悠一くんたちは再び一階の司書室のほうへ戻りました。二コラさんはすでに、レムリア大学へ行くまでの地図を書き記してくれています。
「とりあえず、今日はもう二~三時間ばかりもすれば陽も沈む。二コラ、今日はここに泊めてもらっても構わないかな」
「べつに構わないけど……食事のほうは大したものは出せないわよ。じゃがいも料理とスープと、あとは携帯エネルギー食くらいしかないわね」
「十分だよ」と言って、シェロムさんはニコニコと笑いました。二コラさんの手料理はとても美味しいのです。「じゃ、私はちょっとまた七階のほうで調べたいことがあるから……もし何かあったら電話ででも呼んでくれ」
こうして、悠一くんは暫くの間、ひとりメルヴィル語の勉強に勤しむということになりました。二コラさんは図書館内に設置された給湯室で、夕食の準備をすると言います。悠一くんはこの時、心がとても激しく燃えていました。もしバイオプリンティング専用の3Dプリンタでもあれば、真新しい手足や臓器をゾンビたちに造ってあげることが出来、彼らは蛆やハエに悩まされなくても済むようになるのですから!
また、ハヤテとヤチヨは悠一くんが興奮している『ばいおぷりんてぃんぐ』なるものが海のものとも山のものともわからず、相も変わらず植物図鑑とおさかな図鑑を夢中で読み耽っています。
夕食のほうは、図書館の閲覧室のほうでとるということになりました。じゃがいもとマメの煮物に、玉ねぎとキャベツのスープ、レタスやラディッシュのサラダ、それにパン……携帯エネルギー食だけでも、栄養は十分とれるようではあったのですが、やはりこうした<生>のものを調理したもののほうが、遥かにずっと美味しいと感じられました。
「図書館の横にある庭を改良して、じゃがいもやトマトなんかを栽培してるのよ。農業関係のことはゴールディング夫妻が詳しくて、色んなものを栽培してるから、時々分けてもらってるの。種いもとかトマトの苗なんかも全部、御夫妻から分けてもらったものだしね」
「そうなんだ。私もゴールディング夫妻から玉ねぎの苗やエンドウ豆の種なんかを分けてもらったり……育て方のほうも彼らから教えてもらったりしていてね。いい御夫妻だよ。きっと悠一くんに会ったりしたら、たくさん御馳走を作ってくれるんじゃないかな。お客さんをもてなすのが、大好きな御夫妻だから」
悠一くんはこの時、シェロムさんの住む丸太小屋の横、そこに栽培されている人参などの作物のことを思いだしていました。実をいうと、水遣りなど、悠一くんも少しばかり畑仕事を手伝っていたものですから。
「結構、いるものなんですね。こちらの世界へ流されてくる異邦人って。それがどうしてなのかとか、その理由についてはわからないけど……」
悠一くん自身、家族や友だちのことが恋しいように、彼らにもそれぞれ、元いた世界に残してきた懐かしい人があることでしょう。悠一くんは、シェロムさんや二コラさんに対して、あれこれ詮索するつもりはありませんでした。たとえば、「元いた世界では何人家族で、職業は一体何をしていたんですか?」とか、「こんな寂しい世界に一人住まいで本当に平気なんですか」とか、何かそうしたことです。話したければ、彼らのほうで自分から話してくれるでしょうし、そのくらい相手が気を許してくれるようになるまでは、自分から何か聞こうとは思っていませんでした。
「そうね。私たちが知ってるだけでも……」
二コラさんが、ラディッシュをぱくりと口に含み、頭の中で人数を数えていると、シェロムさんが答えました。
「ざっと三十人はいるかな?みんなそれぞれ、自分の専門分野というか、興味のあることに特化して色々研究してるんだ。ゴールディング夫妻は農業関係だけど、他にも小麦だけ栽培して、美味しいパンを作ってるフル二エ氏や……機械工学を専門にしてるリロイ=アームストロングや……ちなみに、コンピューター関係のことは彼に相談してみるといいよ。まあ、彼の話によると、こっちの世界の大抵のコンピューターが、昔磁気嵐が起きたことで、ほとんど駄目になってるってことだったけどね」
「そうなんですか」
悠一くんはこの時、機械やコンピューター関係にそのリロイという人物が強いと聞いて――3Dプリンターにも興味を持ってもらえるだろうかと思いました。
「気のいい明るい男だから、きっとなんでも協力してくれるよ。ちなみに悠一くんの次に、彼は年齢が若いね。それでもまあ、こっちへ来てもう二十年くらいになるのかなあ」
「そうなんですか。でも、そうですよね……コンピューター関係に強いっていうことは、僕たちの元いた世界で最低でもある程度そういうものが発達してたってことですもんね。でも、磁気嵐っていうことは、3Dプリンターも影響受けてるってことかな……」
独り言のように悠一くんがそうつぶやくと、シェロムさんと二コラさんはほぼ同時に笑っていました。
「リロイ、今歳いくつって言ってたっけ?」
二コラさんがそう聞きます。
「確か、ここに来た時の年齢が二十一とかじゃなかったっけ?もちろん、それから二十年くらい過ぎてるから……見た目はあの頃と大して変化ないけど、四十一とかそのくらいかな」
シェロムさんのその口振りから、悠一くんはそのリロイという青年が彼らから好かれているらしいことがわかりました。けれども悠一くんには今のところ、彼がその名前からいって黒人なのだろうということくらいしかわかりません。
「っていうことは、1999年くらいにこっちへ来たっていうことなのかな」
悠一くんはまた独り言のようにそう呟きました。特に返事を期待してのことではなかったのですが、二コラさんとシェロムさんはどこか感慨深そうに溜息を着いています。
「こっちの世界じゃ、向こうより時間の流れるのがとても緩やかだからね」
「そうなの。実はわたし、ガンでもう医者から匙を投げられてたんだけど……その状態でこっちへ来たのね。そしたら、ガンの進行もすごく緩やかになったのかどうか、その後手術してすっかりよくなったのよ。ほら、こっちの世界のほうがそうした医療技術がとても発達してるでしょ?だから、手術したなんて信じられないくらい体に負担もなくて、その後点滴やお薬だけですっかり治っちゃったの」
「…………………」
この時、シェロムさんが何故一瞬暗い顔をしたのか、悠一くんにはわかりませんでした。ただ、悠一くんは自分の父親も外科医として脳腫瘍の手術や、脳に転移したガンの治療などをしていると知っていましたから、それで二コラさんの話に強い興味を覚えたのです。
「たぶん、こっちの世界では、ゲノム解析などもすべて済んでいて、遺伝子レベルでの治療ということが普通に行なわれていたのでしょうね。でも、二コラさんの手術をしてくれたっていうことは、その人は元いた世界でもお医者さんか何かだったっていうことなんですか?」
「そうなのよ。時期としては大体、シェロムと同じ頃にこちらへ来たんじゃなかったかしら。ほら、わたしがこっちへ来たのが大体1888年とか、そのくらいの頃だったから……で、シェロムがこちらへ来たのが1940年頃でしょう?それまでわたし、自分のガンについては放置していて、そのうちそれが原因で死ぬだろうなって思ってたの。だけど、そんなわたしのことをエルヴィンは……」
「あいつの話はよせよ」
まるで(食事がまずくなる)とでも言いたげに、シェロムさんは不機嫌になりました。悠一くんにとって、シェロムさんは出会った時から穏やかな顔しか見たことのない人だったので、この時少し驚いたかもしれません。
「その……そのエルヴィンさんっていう人は、お医者さんなんですよね?もしその人が僕がしようと思ってる研究に協力してくれたらとても助かるんですけど……」
「あいつは今、北の国のほうにいるさ。ドルトムントのお気に入りの生きた人間のひとりとしてな」
「…………………」
悠一くんは驚きのあまり、黙りこみました。北の国のことについては、いい噂をひとつも聞いたことがなかったので、そこへわざわざ行こうという人の気持ちがわからなかったのです。もちろん、嫌々ながら連行されていった……というのならともかく、話の流れとして、どうもそうではないようだと感じたものですから。
「前にも私は、悠一くんにスミスやトマスやバリーのことを話したろ?彼らも今は結局北にいる。ドルトムントは生きた人間の優秀な者を重用するから、向こうでは結構な特権を持っているらしい。私には信じられないよ。最終的にはドルトムントが覇権を握るだろうから、今から取り入っておこうだなんて考える連中のことはね」
「そう、だったんですか……」
三人とも、大体のところ食事を終えていたこともあり、そのままなんだか会話が尻すぼみになるような形で、それぞれ席を立つということになりました。気分を害したせいかどうか、シェロムさんはそのままエレベーターで七階へ行ってしまったのですが、悠一くんは彼の分も食器を下げて、給湯室で皿洗いをしました。
「すごいですよね。こんな、人の絶滅したような場所で、ボタンを押しただけで今もお湯が普通に使えるなんて……」
「そうね。わたしも最初、こちらへ来たばかりの頃は魔法かと思ったものよ」
二コラさんは、悠一くんの隣で彼の洗った食器類を布巾で拭いて片付けています。
「シェロムはね、エルヴィンと仲良かったのよ。だから、彼が北へ行くことにしたことについては、許せないというか、寂しい気持ちがあったんじゃないかしら」
「エルヴィンさんはどうして、北の国になんて行こうとしたんでしょうか?」
「わからないわ。ただ、彼は元いた世界でも軍医だったらしいのね。それで、何か北の国でしかわからないこと、手に入らない医療技術とか、そうしたものがあったのかどうか……」
「なるほど。確かに、こっちの旧世界の文明の進み具合を見てると、治らない病気なんてほとんどなさそうですもんね。僕も、元の世界へ戻れるのかどうかなんてわからないけど――それでも、こちらで色々なことを勉強して、その知識を持ち帰りたいような気持ちはあります。もちろん、もしいつか帰れたらとして、ということだけど……」
食器類を片付け終わると、二コラさんと悠一くんは再び、一階の司書室のほうへ戻りました。そこで悠一くんはメルヴィル語の勉強の続きしを、二コラさんは悠一くんが必要としている本を翻訳機にかけて英語に訳しました。これをさらに日本語に訳すのは、悠一くん自身が行わなくてはいけません。
「ユーイチくん、家族は?」
二コラさんは、翻訳された原稿を束ねると、テーブルの上で整えながらそう聞きました。
「ええと、両親と上に兄がひとりいます」
「そうなの。わたしはね、こちらへ来た時すでに五十四歳だったのよ。つまり、1834年生まれっていうことね。二十五歳の時に結婚して、子供が四人いたの。結婚する前までは大学で教えていて、主人は牧師だったのよ」
生き生きと輝いた顔をして二コラさんはそう語っていました。けれども、次の瞬間ふと、その明るい顔の表情に陰が差します。
「でも、なんだか不思議よね。わたしの夫も子供もみんなとうの昔に亡くなってるだろうに、ガンで一番先に死ぬと思われてたわたしが今も生きているだなんてね……」
「子供さんはその時、おいくつだったんですか?」
「上が三人とも女の子なのよ。でも、主人もわたしもひとりくらい男の子が欲しいってずっと思っててね……それで生まれたのか長男のエリックなの。別れた時はあの子、十七歳だったわ。わたし、ロンドンの病院に入院中で、その時とても苦しかったの。自分はもう長くないなって思ってたその時――真夜中にまばゆい光に包まれて、急に痛みが引いたのね。それで、よく死ぬ前に一時期、それまでの病状の悪さが嘘だったみたいに元気になって、みんなとお別れの挨拶もちゃんと出来るような期間があるっていうでしょう?だからわたし、これは自分の死期がいよいよ近いんだなって思ったんだけど、次に目が覚めた時にはこちらの世界にいたのよ」
悠一くんが沈黙によって相槌を打っていると、二コラさんは続けました。
「夢の中で、窓の外に円盤みたいな飛行物体を見たような気がするんだけど……次にいた場所も病院だったから、もしかしたらわたし、自分が死んで天国みたいな場所にいるのかと思ったわ。でも、ゾンビが徘徊してるこんな場所だったから、ほんと、びっくりよ。体の痛みはその後、一度も起きなかったけど、毎日泣いてばかりいたわ。でもその後、先にこっちに来てた人たちに助けられて――ここは一体どんな場所なのか、どうしてわたしはここにいるのか、そのことを知りたくて、図書館でメルヴィル語を勉強して、たくさん本を読むようになったの」
「そうだったんですか……」
変に慰めの言葉をかけることも、こうしたゾンビ世界で百年以上も過ごすことがどんなことなのかも、彼の理解と想像を越えることだったため……悠一くんは黙りこみました。すると、今度は二コラさんのほうが聞いてきます。
「ユーイチくんだって、元の世界の家族や友人と会いたいでしょう?」
「それは……もちろん。今までだって、両親には感謝してきたつもりですけど、こんなふうになってみると、ますます親に対してはもっとこうしてたら良かったとか、そんなふうに思うことばっかりです」
悠一くんが思わず涙ぐみそうになっていると、二コラさんは悠一くんのことをそっと抱きしめ、頭のてっぺんにキスしてくれました。
「わたしも、今の今まで息子のエリックや主人や娘たちのことを考えない日はないわ。時間的なことで言えば、家族はもうみんな死んでるはずなんだけどね……でも、今もどうしてもそうは思えないのよ。ただわたし、ガンでもう助からないってわかった時、ものすごく神さまのことを恨んだの。牧師の妻として、これまでの間献身的に仕えてきた結果がこれかっていうふうにね。だから、その罰として天国じゃなく、こんな場所へ来ることになったんじゃないかって思うと……本当にとてもつらかったものよ」
「そんな……そんなこと、関係ないですよ。それに、二コラさんがもしそうなら、他の人たちだってみんな、こちらの世界へ流されてきた人は全員、何がしかのそうした罪を背負ってるっていうことになる。でも、シェロムさんや、彼から他にも流されてきた人がいるって聞いて、はっきりわかったんです。特にそんな、理由なんかないんだって。僕だって時々、人生がなんとなく虚しくなったりした時に、自分が生きてる理由とか、どうして今この場所に存在してるんだろうって考えることはあります。でも、結局答えなんてないし、最後に思うのはただ、『今生きてここにいて、<自分>という意識のある以上、とにかく精一杯生きていくしかない』っていうことだけです。僕も、自分がなんでこんなところにいるのかわかりませんし、毎晩眠る前に思うのは、こんなことは全部夢で、次に目が覚めたら元の世界の、自分の部屋のベッドで目覚めていたらどんなにいいかっていう、そのことだけなんです」
お互いにこういった打ち明け話をしたことで、二コラさんと悠一くんとは、特別に親しい結びつきを持つようになりました。悠一くんのほうで、お母さんの面影と二コラさんを重ね合わせることはありませんでしたが、二コラさんのほうでは悠一くんのことを通して息子のエリックのことをよく思いだしていたようだったからです。
この翌日、悠一くんはシェロムさんに案内してもらって、レムリア病院のほうまで行ってみることにしました。近く、と言っても、それはあくまで<比較的近い>という意味でしたので、徒歩で行くとなると相当時間がかかったことでしょう。けれども、シェロムさんは南の女王アビシャグさまに贈呈したのと同じホバークラフトを使っていましたから、ほんの一時間半ほどで目的地まで辿り着くことが出来たのでした。
「本当は都市の探索に使うには、ちょっと危険なんだけどね」
シェロムさんは操縦室で一度、そう言っていたことがありました。
「なんでかっていうとね、それは走行上の問題じゃないんだ。北や東のゾンビたちが中立地帯には徘徊しているものだし、この場合、特に危険なのは北の潜伏ゾンビなんだけど、こういう変な乗り物に乗ってる奴がいた……なんていう報告がされると、今度はさらにそのことを目的にした特殊チームゾンビが組まれて、襲われるってことになりかねないから」
「そうだったんですか。でも、じゃあどうして今回は……」
悠一くんのいるところにはどこにでも、ハヤテとヤチヨがついて来るため、この時もこのふたりのゾンビは操縦室にいました。そして、ホバークラフトの内部を興味深そうに感心して眺めていたものです。
「たまたまね、悠一くんの知りたいというか、欲しい情報のある場所がそんなに遠くもなかったから良かったけど――もしかしたらもっと遠くのほうまで行く必要があるかもしれないだろ?そう思って今回はホバークラフトを出すことにしたんだよ」
「ありがとうこざいます。ほんと、僕はシェロムさんに出会った瞬間から、色々なことを教えてもらって、急に世界が開けてきたような気がします。一生懸命メルヴィル語を覚えたりとか、バイオプリンティングのこととか……そういうことを考えてると、これから先どうしようとか、そういう余計なことを考えなくてよくて、すごくいいんです」
「君の気持ちはわかるよ」
シェロムさんは一言そう言ったきりで、あとはホバークラフトの操縦に専念していましたが、悠一くんには彼が本当に『わかってくれている』ということがわかっていました。悠一くんの人生の中で、たとえば先生などに『君の気持ちはわかるよ』と言われて、相手にわかっていた試しは一度もなかったのですが。
ホバークラフトの運転のほうはシェロムさんに任せておいて、悠一くんは窓の外の景色を楽しみました。軽く百階を越える建物群の間をホバークラフトはすり抜けてゆき、そうした時に窓から見える景色というのはまさに壮観だったといえたでしょう。
「こんなに高度な文明が、どうして滅びちゃったのかな……」
悠一くんは我知らず、そんな言葉が思わず唇から洩れました。悠一くんは今のところ、旧文明世界のどこででも、人の死体、あるいは白骨体といったものに遭遇したことがありません。また、ここに住んでいるすべての人がゾンビになった……というのは、どこか無理のあるような気がし(もちろん、その可能性もあるのですが)、いつかその謎がわかる時がくるだろうかと、悠一くんは外の超高層ビル群を眺めて、溜息を着いていました。
「ユーイチ、ユーイチは本当はここにいるのが嫌なのか?」
ハヤテとヤチヨは、ユーイチくんやシェロム、あるいは彼が二コラさんと話している時でも、ほとんど口を挟んだりはしません。彼らにとってこれはあくまで<任務>であり、話しかけられない限りは話さない、用がない限りは自分からも話しかけない……警護ゾンビと要警護者との関係というのは基本的にそうしたものなのですが、ヤチヨもハヤテもユーイチくんに対しては、仕事を越えた特別な親しみを覚えていたのです。
「嫌とか、そういうことじゃないんだよ」と、悠一くんは、ヤチヨに優しく微笑みかけて言いました。「ただ、僕は別の世界からこちら側へやって来てるから……自分が属しているのはここじゃなくて、どうしても向こうだと思っちゃうんだ。ただ、ひとつだけ僕に言える一番大切なことはね、僕が元いた世界にいる人間たちよりも、君たちゾンビのほうがずっといい人間だっていうことさ。生きてる人間はほんと恐ろしいよ。それに比べたら、死んでる君たちのほうがよほど善良だもの」
ヤチヨとハヤテは、悠一くんの言いたいことを計りかねて、互いに顔を見合わせました。ただ、彼が、何故かはわかりませんが、自分たちゾンビを高く評価しており、それに比べて生きてる人間はそれよりも下だ――といったように言ったのはわかりましたので、そのことをなんとなく喜びました。
「これから、僕のしようとしていることが正しいかどうかはわからない。だけど、ハヤテとヤチヨは、もし外見が生きてる人間のようになったとしたら、嬉しい?」
ここで、ヤチヨとハヤテはもう一度互いに顔を見合わせました。彼らはそれが可能・不可能という以上に、そんなことは今まで一度も想像してみたことさえなかったのです。
「まあ、わたしは嬉しいような気はするが……」
ヤチヨは悠一くんの顔や腕の肌色の皮膚をじっと見つめて言いました。けれども、それ以上はどう表現したらいいのか、彼女にも言葉ではうまく言い表せません。
「そうでござるな。まあ、部屋にハエ取り紙をぶら下げなくて済むのは、もしかしたらありがたいかもしれぬな。拙者はまあ、これ以上いい男になっても困るので、そこがちと悩みどろこかもしれぬが」
「そうね。ハヤテがもし今以上にカッコよくなったりしたら、わたしホレちゃうかもしれないから、そんなのは困るわね」
「ぬふっ。そうでござるか?ヤチヨは気づくのが遅いでござるよ~。拙者が今以上にモテはじめる前に、予約しておいたほうがいいでござる。なに、遠慮はいらぬゆえ」
「ばあーか。わたしがハヤテと一緒になったりしたら、わたし、あんたがござるって言うたびに殴るからね。あと、自分のこといちいち拙者とか言うのもウザいし」
「そ、そうだったのでごさるか!?ええと、じゃあ、これからは言葉に気をつけるでござる……じゃなくて、ござらんか??」
「べつにいいわよ。仕事の同僚としてはそれで。ただ、プライヴェートでまでも一緒にいたら、そうなるって話」
「…………………」
ハヤテがしょんぼり黙りこみましたので、悠一くんは「まあまあ」と言って、彼の肩に手を回して慰めることにしました。この三人の関係性というのは、大体がこのようなものなのですが、その後もこうした実りのない会話をしているうちに、レムリア病院へと到着したのでした。
レムリア病院は、悠一くんが想像していた以上に大きな……というより、巨大な病院でした。悠一くんはきのうのうちに、<内科>や<外科>、<脳神経外科>、<整形外科>などなど、一通りメルヴィル語を覚えてはきました。けれども、バイオプリンティングを専門にした診療科というのがあるかどうかわかりませんでしたから、まずは病院の入口のところで<皮膚科>を探すということにしたのです。
「わあ。これ、面白いですね!<DNA診療科>や<DNAデザイン科>、<腫瘍内科>に<腫瘍外科>……<精神腫瘍外来>なんていうものまである。あ、この<セルプロセシングテクノロジー科>というのもたぶん近いですよ。僕、最初は皮膚科にいってどんなふうに重度の火傷を負った人の治療をしていたのかとか、そういうことを調べたかったんです。でも、まず<セルプロセシングテクノロジー科>へ行って、次に<DNA診療科>へ行ってみようかな。そっか。ここはたぶん、大学病院みたいなとこなんだ。お医者さんを育てる教育機関と、病院と研究機関が一体になってるみたいな……」
ハヤテとヤチヨはもちろんのこと、シェロムさんにも悠一くんが何を言っているのかさっぱりでした。けれども悠一くんは一人興奮しながら、まずは<セルプロセシングテクノロジー科>の外来、次に病棟、それから担当医師の名前をその過程で調べて、医局の、その先生が机を持っている私室のほうまでもを訪ねていきました。
何分、あまりに院内が広くて迷子になりそうなくらいでしたが、悠一くんがわからない案内板の文字は、シェロムさんかハヤテかヤチヨが読んでくれましたから、それでどうにか事なきを得ました。
「ユーイチ、それで、その……セル・プロセシングなんとかというのは、どういうことなんだい?」
「簡単にいうと、人間の細胞を培養・加工・調整するテクノロジーというか、細胞再生医療といったような意味です。たとえば、細胞のどこかに傷がついて、それが原因で病気になったような場合……その傷ついた細胞と新しい細胞が置き換わればいいわけですよね。で、その原因となった遺伝子を特定して治療したりとか、そうしたことがこっちの世界ではもう普通なんですよ」
そう説明されても、シェロムさんですら首をひねっていましたから、ハヤテとヤチヨに至っては、(何言ってんだろ、ユーイチの奴は)と思っていたくらいだったかもしれません。
外来にあったファイルのいくつかと、さらに、病棟に残されていたファイルや本を数冊手にして、悠一くんはさらに研究機関のある大学病院の奥深くへと入りこんでいきました。そこで、<セルプロセシングテクノロジー科>の教授の私室を探りあてると、壁にびっしりと専門書が並んでいて――悠一くんは思わずごくり、と喉を鳴らしていたほどでした。
「やった……!!たぶん、これで僕の欲しい情報は大体手に入るんじゃないかと思う……」
また、セルプロセシングテクノロジーに関係する研究室へ行ってみると、昔悠一くんが写真でだけ見たことのある物体……医療用と思しき3Dプリンタまでもが置いてあったのです!
「やったぞ……!!」
悠一くんが透明なプラスチックのカバー内に置かれた3Dプリンタをさも大事そうに抱きしめましたので、シェロムさんもヤチヨもハヤテも――正直、彼らの目には「そんなものが一体なんだというのか」というシロモノでしたが――彼がそこまで興奮しているくらいなのだから、相当すごいものなのだろう……といったように、とりあえずそう見当をつけていました。
「ああ、でも……説明書みたいのとかないのかな。モノだけこんなところにどでーん!!と置いてあってもさ……」
悠一くんは我を忘れてそんな独り言をつぶやき、研究室の棚という棚を調べはじめました。そこにも<再生医療>に関係したファイルや書籍などがびっしり並んでおりましたので、悠一くんはこれらの知識をある程度収めることが出来れば、バイオプリンタで臓器を再生することが出来るだろうとほぼ確信していたのです。
「まあ、いざ動かそうとしたら、もう動かなかったとか動作不良とか、色々あるかもしれないけど……でも、ブツがこうして目の前にあるんだから、自分で一から組み立て直して開発するとかなんとかすれば……」
なおも悠一くんがブツブツ独り言を呟いていますと、シェロムさんが彼の隣に立ってこう言いました。
「それなら、リロイに頼めよ。あいつ、こういう機械とかコンピューター関係のものが大好きなんだ。彼の話によると、この世界の大抵のコンピューターは、以前あった……そして今も突発的に起きる磁気嵐で、ほとんど全部ダメになってるらしい。それでも、リロイの力を持ってすれば――彼の言い種によると、リロイさまだけどね――中の……なんだっけな。CPUとかメインメモリ……私には悠一が今言ったことだけじゃなく、リロイの言うこともさっぱりなんだが、とにかくそういうものさえ無事なら、どうにかコンピューターを復旧させることが出来るらしい。だからきっと、この機械も……」
悠一くんはシェロムさんの言葉の途中で、「そりゃすごいや!」と、きらきら目を輝かせて言いました。
「それ、本当にすごいことなんですよ!僕、外来にあるパソコンも病棟にあるのも、あるいは教授室にあるものも全部、電源入れても動かなかったから……これがもし動いたらもっともっと色んなことがわかるのに!って、そう思ってたんです」
シェロムさんも、ハヤテとヤチヨも、こんなに興奮した様子の悠一くんのことは見たことがありませんでしたので――これは本当に凄いことなのだろうと、だんだんにようやく理解されて来たかもしれません。
「僕、早速これから、まずは本の読み込みからはじめて、研究をはじめたいと思います!うわあ、うわあ。本当にすごいなあ。僕が元いた時代じゃ、ここまで技術が進むにはまだかなりかかるだろうし、ゲノム医療についても、一般化するにはまだまだ時間がかかると思うから……」
「じゃあ、悠一くんが持っていきたい本とか資料とか、まずはここから運びだそう。それで、ゴッドリーヴス図書館のほうで、まずは翻訳機にかけたりしなきゃならないっていうことだものな」
「そう、ですね……」
悠一くんは今すぐにでも、簡易な説明書のみで3Dプリンタを動かしてみたいくらいでしたが、とりあえず電源が入ることだけは確かめられたので、悠一くんはそれだけでも嬉しくて堪りませんでした。
「ねえ、ハヤテ。僕がどのくらい嬉しいかわかる!?僕がもし『ホーム・アローン』のマコーレー・カルキンだったら、「イエス、イエス、イエスッ!!」って叫んでるところだよ」
「え~と、『いえす、いえす、いえすっ!!』でござるか?」
「そうそう。ねえ、ハヤテもやってみてよ!」
悠一くんが握りこぶしで肘を引く動作をすると、ハヤテも真似しています。
そうやってふたり――正確には生きた人間とゾンビ――は、お互いに動作をそろえて、暫く「イエス、イエス、イエスッ!!」と繰り返しやってばかりいました。
「ユーイチは、よほど嬉しかったのだろうな」
「そうなんだろうね」
シェロムさんはヤチヨに返事しながら、自分でも不思議でした。彼の感覚としては……これまで、(元の世界の時間に換算してということですが)七十年以上もゾンビたちと関わっていながら――今という今まで、彼らと<対等の関係になる>ということは、一度として考えたことはありませんでした。
あくまでも、生きた人間は生きた人間、ゾンビはゾンビという、そうした括りでしか物を見たり考えたりしたことはなかったのです。
(でも、ユーイチは違う。彼は最初から、生きてるとか死んでるとか、そうした偏見のようなものが一切なかったんだ。だからゾンビたちのほうでも彼のことを対等な仲間のように認識するのだろう)
もちろん、ハヤテとヤチヨはこれでも、悠一くんのことは現時点において、女王アビシャグさまに次ぐ、自分たちの主人とは思っていたのですが。
このあと、ヤチヨとハヤテも手伝って、3Dバイオプリンティングに関する資料や本、それとプリンタ本体を、ホバークラフトの中へ運び入れました。悠一くんは、帰り道でも意気揚々としており、こんなに嬉しげで楽しそうな悠一くんのことは、ハヤテもヤチヨも一度も見たことがない……と、そう思っていたほどでした。
そのテンションはゴッドリーヴス図書館へ戻ってからも変わらず、二コラさんもあんまり悠一くんが上機嫌なのでびっくりしたくらいでした。また、夕食の席でも、会話のほうが随分弾みました。
「ほんと、こっちの世界の旧文明はすごいよ。3Dプリンタだけじゃないんだ。ゲノム医療のほうも相当進んでいて、実際に遺伝子治療するっていうことが当たり前みたいになってるんだ。もし、あのバイオプリンタが正常に作動して、もし臓器をプリントすることが出来たとしたら……ゾンビたちはもう手足や他の体の一部が損壊しても、いくらでも交換することが出来るようになるんだよ!」
「あら、ユーイチ。あなたまるで、夢の新薬でも開発した科学者みたいな顔してるわね」
二コラさんもまた、ワインを片手にどこか嬉しそうでした。こちらでは数の少ない生きた人間が増えたことで――しかもそれが若い男の子だったことで――なんだか自分も少しだけ精神年齢が若返ったような、そんな気がして……彼女は自分のそんな変化を喜んでいたのです。
「そりゃそうですよ。僕がこっちの世界へ来てから、ゾンビたちはみんな僕に良くしてくれたから……少しくらい僕だって彼らのために何かしたいんです。ただ、そうなると全身の臓器の入れ替えが可能なのかどうかとか、じゃあ脳さえ入れ替えたら、まったく新しい体にその人を生かすことが出来るのかどうかとか……もちろん、それは試してみないとわからないんですけど」
「えっ!?拙者の体から脳を取りだすのでござるか!?」
食事の間中、悠一くんがひとりで食事している時は別ですが、ハヤテもヤチヨも会話に口を挟んできたことはありません。けれども、この時は驚きのあまり、ハヤテはついそう聞かずにはおれなかったのです。
「そういうことじゃないよ、ハヤテ」
悠一くんはそう言って笑いました。なんでも今日の午後、悠一くんは会うことが出来ませんでしたが、ゴールディング夫妻が訪ねてきて、食糧やワイン、ぶどうジュースなどを置いていったということでした。それで悠一くんもこの時、ぶどうジュースを飲んでいたのです。
「南や西の国内には、手や足や、あるいは体のどこかのパーツの欠けたゾンビがいるだろ?僕が考えてるのは、そうしたゾンビの手足や欠けた体のどこかのパーツを入れ替えてあげたいっていうことなんだ。ただ、それでゾンビたちが喜んでくれるかどうかっていうのは、僕にはわからないんだけど……」
「それはまあ、わたしだったら嬉しいけどね」
ヤチヨはこの時、そう答えていました。彼女はこれまで、生きた人間たちのように『何か食べたい』という欲求を覚えたことはありません。けれども、近ごろ……悠一くんが食事をしながら楽しげに笑っていたりしますと、<何かを食べたい>というより、彼と同じようにしてみたい、また出来ないのは何故なのだろう――といった疑問が胸に去来するのでした。
「うん。でもさ、ほら……変えた体の一部分だけ、まったく新しいのって変じゃないといいなと思って。ほら、僕にはゾンビたちの価値観ってわからないから……仲間外れにされたりしたら、そんなことしないほうがよかったってことになるだろ?」
「まあ、拙者たちゾンビは、なんでもいいから動けばいいという価値観ではござるが……実際、そんなことが出来るのかどうか、現実にどんな感じかを見てみないことには、想像がつかんでござるよ」
そう言ってハヤテは、腕組みをしたまま、しきりと首を傾げてばかりいます。
「ユーイチってさ、よくそこまで考えられるなって感心するよ。私だったらたぶん、絶対ゾンビたちは新品の手足を喜ぶはずだっていう思いこみしかないだろうな」
今日の夕食はじゃがいものグラタンでした。とにかく毎日、必ず一品はじゃがいも料理ということになると、二コラさんは苦笑いしていました。他にトマトスープとサラダ、それにパンというのが今晩の夕食でした。そしてこの時、シェロムさんと二コラさんだけはぶどうジュースではなく、ワインを飲んでいたのです。
「その、昔……いつだったかな、あれ。本で読んだことがあるんです。何かの事故で左手を失った男性が、義手だといかにも義手だということがわかるっていうことで、死体の手首から先をお医者さんに縫いつけてもらったことがあるという話。確か1970年代とか、80年代くらいに出版されたアメリカ人のコラムだったと思うんですけど……その頃は本当に、見た目がマネキンみたいな感じの義手しかなかったそうなんですよね。だから、防腐処理を施すか何かした左手を手首から縫いつけてもらったそうなんですよ。ところが、動かないというだけで見た目はそっくりなのに、行く先々でみんな気づくそうなんです。『あなた、その左手なに?』って。確か、五十台か六十台くらいの男性だったんですけどね、とにかく誰からも同じことを聞かれる。それでしぶしぶ『実はあーでこーで』って説明すると、みんなどん引きするっていうんですよ」
悠一くんはフォークで皿の中のレタスやトマトを刺しながら、遠い記憶を呼び覚まそうとしました。というのも、その本は彼の父親の書斎にあったもので、コラムを読んだこと自体、相当前のことでしたから。
「それである時、飛行機に乗ったんです。そしたら、隣に座った女性が、チラチラ自分の左手を見てくる。彼は思ったそうです。『ああ、またか』って。で、とうとう相手が聞いてきた。『その左手、どうしたの?』って。彼はまたも同じ説明をしました。すると彼女は心底ゾッとしたというように、こう言ったっていうんです。『信じられないわ、そんなこと。あなた、それ、誰か他の人の死体なのよ!?よくもまあそんなことが出来るわね』って……見ず知らずの、その日初めて会った人にですよ?彼は飛行機から降りる時、お医者さんにもう一度相談して、義手にしてもらおうと心に決めたそうです。もちろん、義手なら義手で変な目で見られたりするのは間違いありません。そして彼はそれが嫌だったから、死体の手なんて嫌だったけど、そうした決断をしたわけです。でも、その左手が自分から離れた時、心底ほっとしたということでした。彼は本当は最初からその死体の左手が嫌で嫌で仕方なかったそうです。でも、人から変な目で見られないために……という苦渋の選択をしたのに、義手をつける以上にひどい目にあったっていうことなんですよ。だから……」
「なるほどね」と、二コラがワイングラスをくゆらせながら言いました。「ゾンビたちのそのあたりの価値観がどんな感じなのかって、わたしたちにはわからないものね。わたしたちが仮に良かれと思ってしたことでも、もしもそれがゾンビ社会を乱すきっかけになりでもしたら……」
「そうなんですよ。だから、一度試してみて、どうなるか見てみないと……それに、そうした技術を確立したと北の国が知ったとしたら、向こうはどう出るのか。僕にはわからないことだらけだから、よく考えて、ゾンビのみんなの意見を聞かないとって思ってるんです」
この日、シェロムさんと二コラさんはお酒のほうが実に進みました。悠一くんと話すのが楽しかったからでもありますし、ずっと静止したままだった自分たちの時間が――ゾンビ世界の時間、あるいは時代が、これから少しずつ動いていくのではないかと、なんとなくそんな希望を持ったせいかもしれません。
悠一くんは夕食後、早速今日の戦利品を見渡し、辞書を引きながら興奮する気持ちを抑えられずに一生懸命医学の専門書を訳していきました。何分、あまりに膨大な量ですので、悠一くんは大きな章の見出しをまずは訳し、自分が特に知りたいと思うことを中心に、集中して訳すということにしていました。
そして、そのうちにだんだん……わかってきたのです。こちらの世界のバイオプリンターは、パソコンなどのプリンターにたとえますと、インクカートリッジの部分に特殊な人工細胞培養液を入れ、あとは設計図をコンピューターに読み取らせるのです。つまり、この設計図というのは、たとえば、ある人の指や手や足などを3D撮影したものを読み取らせればいいということになりそうです。
「そうか……!わかったぞ。僕も、病院の廊下を歩いていた時、検査室のほうはちらほら覗いてみたりしたんだ。たぶん、あの中にそういう人体を3D撮影できる専用の装置なんかがあるんだろう。じゃあ、ゾンビたちをレムリア病院へ連れて来て、3D撮影して、手や足を撮影すればいいってことだよな」
この時、悠一くんは鼻血がでそうなくらい興奮していました。何故といって、各体の部位や臓器を大体何時間くらいでプリント出来るのか書き記されている箇所に差し掛かり、その部分を訳すのに時間のかかる自分がもどかしいほどでした。
(咽頭、食道から胃までで、六時間、大腸全体で八時間、肝臓が二時間、心臓は三時間か。それで、人体全部っていうことになると、ちょうど三日、72時間かかるという計算になるんだ……)
他に、本人の細胞を摂取し、培養するのにも結構時間のかかることがわかりました。特殊な人工細胞液の中に本人の細胞を入れ、専用の培養装置に七日間そのままにしておきます。そしてこれを3Dバイオプリンタにセットすればいいのです。
「うわー!また明日、レムリア病院へ行ってこなきゃ……でも、どうしよう。3D人体撮影装置みたいなものがあって、それが正常に作動したとして――まずは手とか足とか、体の一部分で試したほうがいいよな。でも、そうなると……」
ゾンビたちは夜も眠りませんので、この時も、ハヤテとヤチヨはそば近くにいました。悠一くんはこの時、いつも食事をする一階の閲覧室で、本を読みながらブツブツ言ってばかりいたものです。そして、この言葉を聞いたヤチヨが悠一くんにこう申し出たのでした。
「わたしの体を使えばいいさ。手でも腕でも足でも、場所はどこでもいい。もちろん、そこらへんを徘徊しているゾンビに声をかけて、実験体になってもらってもいいのだろうが……それだと、この秘密が一気にゾンビ中に拡散してしまう可能性がある。第一、そんなゾンビが何体もそこらへんを歩いていたら、北や東の間者に不審に思われてすぐ捕獲されてしまうだろう。そうなると、向こうは何か新たに軍事的な研究をしていると勘ぐって、今以上に緊張が高まり、それが戦争の起きる引き金になるということもありうる」
「そっか。確かに本当にそうだな。考えが足りなくてごめん」
「いや……それにわたしも、ユーイチの研究に協力することで、その成果を身をもってアビシャグさまに見せられたとしたら、これ以上に嬉しいことはない」
「ありがとう、ヤチヨ。じゃあまず、明日またレムリア病院へ一緒に行こう。そこでヤチヨのことを3D撮影装置で撮影させてもらいたいんだ。あとは、僕の細胞を人工細胞液に入れて七日待つ。あとはそれをバイオプリンタにセットすればいいんだ」
もちろん、ヤチヨには悠一くんが何を言っているのかさっぱりわかりません。でもヤチヨは悠一くんのことを心から信頼していましたから、とにかく、彼にすべてを任せておけば大丈夫だと思っていたのです。
「ヤチヨばっかりずるいでござるよ!だったら拙者も、ユーイチにその……ナントカコントカいうのをしてもらいたいでござる」
「ハヤテ、おまえはわたしの次だ。何故といって、一度で成功するとは限らないからな。まずはわたしの体で試してみて、うまくいくようだったら、次にハヤテがやってみればいいさ」
「なぬっ!?失敗ですと?いやいやいやいや、そんならヤチヨ、お主だってやっちゃダメでござるよ。それか、拙者が試してから次にヤチヨが試したほうがいいでござる」
「心配しなくても大丈夫さ。失敗したら、また元の手なり足なりに戻せばいいだけの話だからな」
ヤチヨはそう言って微笑みました。とても不思議なことですが、ゾンビたちには基本的に顔に表情というものがありません。けれども、仲間のゾンビだけでなく、相手が楽しいか落ち込んでいるのかなど、そうした感情のほうは悠一くんにも不思議とわかるのでした。
「そうだね。もしうまくいかなかったら、僕がヤチヨの体を必ず綺麗に縫合して元に戻すって約束するよ」
「ああ、頼むよ。どうせ我々ゾンビはもう痛みも感じないのだし、ユーイチが変に気兼ねする必要はない」
ですが、この翌日レムリア病院でヤチヨの体を3D撮影し、人工細胞液のほうに悠一くんの細胞(この場合皮膚片と血液)を入れ、あとは七日後にバイオプリンタにセットすればいい……というところまでこぎつけた時のことでした。頻繁にホバークラフトでゴッドリーヴス図書館とレムリア病院の間を行き来していたのがいけなかったのでしょう。とうとう、バイオプリンターを実際に始動させることが出来るというその日――暗紫色のマントを着たゾンビたち数名が、こちらを銃で撃ってきたのです。
悠一くんはこれまでの間、ゾンビ同士の戦闘らしきものは、ライダースーツゾンビが北の国の手の者と思われるゾンビの頭を撃ち抜いたという、ただ一度しか目撃したことはありません。けれども、その馬に乗った四名ほどのゾンビたちは、さらに執拗に追跡してきました。おそらく、一度この奇妙な空飛ぶ乗り物を目撃してから、あとを尾けていたことがあったのでしょう。彼らはまっすぐレムリア病院へ向かうと、大きな門と広場を抜けた正面口のところに陣取り、悠一くんたちがいつもホバークラフトを置く、駐車場のあたりを一様にガン見していたのです。
「どうする、ユーイチ!?たぶん彼らは……もうすっかりここに目をつけてるんだ。きっとここに何か大事なものがあると思ってるけど、何分院内は大学の施設とも繋がっていてとても広い。どこにその大事なものがあるかは、彼らにもわかってないに違いない」
「どうしよう……せっかくあとは細胞を培養した人工細胞液と3D画像をセットすればいいっていうところまでこぎつけたのに。こんなことで駄目になるなんて……」
悠一くんはどうしたらいいかわかりませんでした。これからはもういつでも彼らがレムリア病院を見張る……いえ、ゴッドリーヴス図書館のことも突き止められたのだとしたら、二コラさんのことをも危険にさらすことになると思い、悠一くんは苦悩しました。
「心配する必要はないさ、ユーイチ。何分相手はたったの四体だ。あのくらいならおそらく、わたしとハヤテだけで片がつく。シェロム、ホバークラフトをどこか安全な、病院に近い場所へ下ろしてくれ」
「そんな……っ。ダメだよ、相手は銃を持ってるんだから!ハヤテもきっとアビシャグさまの側近だから、それなりに強いんだろうけど、でも、せめてこっちも銃くらい持ってなきゃ、絶対勝てないよ。それにヤチヨ、ヤチヨは一応女の子なんだから、そんな危険なことしちゃダメだ!!」
「心配するな、ユーイチ」
ヤチヨは喉をのけぞらせて笑いたいのを堪えながら言いました。
「銃が常に最強だとは限らない……まだこの世界には、向こうからやって来たユーイチにはわからないことが色々あるんだ。だから、心配はいらない。いくぞ、ハヤテ。覚悟はいいか?」
「もちろんでござるよ、ヤチヨ。ユーイチ、我ら忍者十一人衆の実力、とくとご覧あれ!!」
シェロムさんは、レムリア病院の裏手、職員の出入口や大学の研究機関の入口側から病院の屋上へと迫っていきました。これなら、正面口から空を見上げているゾンビたちには、こちらの姿は見えないはずです。
二十階建ての病院本棟の屋上へ下りてからの、ハヤテとヤチヨの行動は実に敏速でした。まずは病院内部へ入り、次にエレベーターで階下まで下りてゆきます。そして、ふたりは一階ではなく二階で下りると、正面エントランスの屋根の上へ下りました。
まずハヤテが煙玉で煙幕を張りますと、この予想だにしていない奇襲に、四人のゾンビは四人とも驚いていました。また、視界が遮られているため、そこかしこに発砲するというわけにもいきません。その不意をついて、まずはヤチヨが、エレベーターを下りる間にクチャクチャ噛んでいたガムを口から出すと、それでゾンビの一体目の首を絞めました。ゾンビの体の節々は生きてる人間のそれよりも脆く、崩れやすくなっています。だからガムで首を絞められただけでもそのゾンビは第二の死を迎えた――というわけではなく、これこそはヤチヨの使う忍術のひとつ、<ゾンビ忍法、ガム紐の術>だったのです。伸ばしたガムは決して切れることはなく、敵ゾンビの首の半ばまで沈んでいくと、一体目のゾンビAはもう動けなくなりました。一方ハヤテは、<ゾンビ忍法、影分身の術>により、自分の影を実体化しますと、敵ゾンビBを襲わせ、ハヤテ自身は敵ゾンビCに向かい、背中に差している刀で首と胴体を切り離しました。ヤチヨもまた、敵ゾンビDに向かい、首の横と頭蓋をくないで突き刺し……こうして、勝敗のほうは五分もかからず決しました。そして煙幕が晴れてみますと、そこには四体の無残なゾンビの遺骸があったのです。
「さて、行くでござるよ、ヤチヨ」
「ああ。だが、ユーイチはちょっと精神がセンサイだからな……このゾンビどもの死体はちょっと脇のほうにでも除けておこう」
「それもそうでござるな」
よっこいしょ、とゾンビ四体の死体を引きずると、正面エントランスからは見えない横のほうへずらしていき、その上から彼らのマントをかけておくということにしました。
こうして、ハヤテとヤチヨはまるで何事もなかったかの如く、もう一度エレベーターに乗り、ホバークラフトが駐機している屋上のほうへ向かいました。ヤチヨは一目見るなり、悠一くんがいかに自分たちを心配していたかがわかり、今はもう冷たくなった心臓が、再びあたたまるようなあの気持ちを味わいました。一方ハヤテはといえば、自分の手柄を褒めてほしいのでしょう、「あんな奴ら、チョチョイのチョイでござる!」と、拳でグーを作って空中の人物を幾度も殴っていました。
「ふたりとも、無事だったんだね。良かった……それで、あの黒っぽいマントを着ていたゾンビたちは?」
ユーイチくんはハヤテとヤチヨに怪我がないかどうか確かめるのに、ふたりのことを前からだけでなく、後ろのほうにも回ってしつこくチェックしていたものです。
「拙者とヤチヨが殺す前から死んでおるとはいえ、もう二度と甦ってくることはないでござるよ!ニンニン」
「そうだ、ユーイチ。こちらは一切無傷だから、心配はいらない。それより、例の実験のほうを早くはじめよう。今日はそのためにここまでやって来たんだから」
「う、うん……そりゃそうだけど。でも、よくあんな気味の悪い、強そうな奴らに勝てたね。彼らはみんな、銃を携帯していたんだろう?」
研究棟のバイオプリンティング関連施設のほうへ向かっていきながら、悠一くんはふたりに事の顛末を聞きました。
「まずは拙者が煙玉で煙幕を張り、その間にヤチヨが二体、拙者もまた二体のゾンビを片付けたのでござる。なに、奴らに腰の銃を抜かせる暇も与えなかったでござるよ。ニンニン」
「そうだ。北の国の雑兵には、自分たちには銃があると過信しているゾンビが多い。まるでそれが最強の武器だとでもいうようにな。ユーイチはゾンビ同士の戦いや戦争を知らないから無理もないが……一度戦争ということにでもなれば、実は数はそれほど問題ではない。どんなに不利な状況下でも、最後まで諦めなかった奴が勝つ。東の国の骸骨王がそのいい例だな。アーメンガード王は、体から肉がすべてこそげ落ちて骸骨だけの姿になっても――自分はこの世界で最強のゾンビだと信じておられる。だから、大抵のゾンビは東の王率いる骸骨軍団を目にしただけで、震え上がってしまうんだ。ユーイチ、このゾンビ世界ではな、そうした<信じる力>、<最後まで諦めない力>がもっともものを言うんだ。覚えておくといい」
「そういえば前に……傀儡師のおやっさんが言ってた気がする。東のアーメンガード王は、たったの三百騎で一万の兵を破ったことがあるとかって」
「その通りでござる」と、ハヤテがまるで自分の手柄でもあるように言いました。「そしてそれは誇張でもなんでもないのでござる。北の国の雑兵なぞ、仮に三万いたとしてもアーメンガード王には問題ではなかろう。何故といってみな、アーメンガード王が先頭に立っているのを見ただけで、戦意喪失状態になってしまうのでござるからして」
「なるほど……そっか。そういうことなんだ……」
悠一くんは前々から、奇妙な言い方になりますが、<ゾンビの生きる力>というのか、そうしたものはどこからやって来るのだろうと思っていました。この世に対するなんらかの未練から、肉体から魂が離れていかなかったのだろうかといったように想像したこともあります。けれども、ある種の命への執着、何がどうでも生き抜いてやるんだという力――それがゾンビの活動力の源なのではないかというように、何か腑に落ちるところがあったのです。
「なんにしてもユーイチもこれで、アビシャグさまが何故わたしとハヤテを護衛につけたのかがわかったろう?」
「うん!最初はさあ、正直あんまし期待してなかったんだよ。ヤチヨはともかく、ハヤテはいかにもオッチョコチョイっぽいから、その忍者の衣装もただのコスプレかな~なんて」
「ひどいでござるよ、ユーイチ。拙者はこう見えても一応、南の国の泣く子も黙る忍者十一人衆のはしくれなんであるからして……ニンニン」
「ごめん、ごめん!今のはただの冗談で、ほんとは期待してるよ!」
ユーイチくんがそう言ってハヤテの背中を叩くと、彼は単純なゾンビなので、褒められたと思いその後は実に嬉しそうにしていたものでした。
このあと、ユーイチくん一行は研究棟の三階まで辿り着くと、そこにあるバイオプリンターに人工細胞培養液とヤチヨの右の手首を3D撮影したデータをセットしました。とうとう人体の<印刷>を開始するのです!
透明なケースの中では、ウィーンウィーンという作動音とともに機械が絶え間なく動いて、まずはヤチヨの手の手首部分から<バイオ印刷>ははじめられたようです。最初、シェロムさんにもヤチヨにもハヤテにも、それが一体なんなのか、まるで想像もつきませんでした。
ハヤテなど、バイオ印刷開始五分後には、「言いにくいでござるが、ユーイチ。この実験のほうは失敗だったのではないかという気がしてきたでござるよ」などと言っていましたが――三十分も経たないうちに手の甲の三分の一が<印刷>されてきますと、一同は目を見張りました。バイオプリンターの印刷終了予定時刻のところには、残り「1:22」とあります。おそらく、あと三十分もしないうちに、五指のつけねのところまで印刷が進むのではないかと思われます。
「ユーイチ!君は一体どんな魔法を使ったんだい!?もしこんなふうにして、新しく臓器を造りだせるなら……ゾンビはもうゾンビじゃない。本当に生きた生き物になるんだ!」
「ええ~?でも、なんかちょっとうさんくさいでござるな。拙者、ユーイチの傍でずっと研究の様子を見てきたでござるが、なんとかいう液体の中に自分の皮膚をちびっと入れて、あとは七日待ったという以外、ユーイチは大したことはしてなかったような気がするでござるよ」
「いや、ユーイチのすごいところは何より、この機械をどう使えばいいのかを知っていたことさ」と、ヤチヨがケースの中に視線を釘付けにしたまま言いました。「きっと、この旧世界にはこうしたタイプの、我々ゾンビにはまったく使途不明の機械や兵器なんかがあるんだろう。北の国の王が生きた人間を重用するはずだ。このゾンビ世界を誰が支配するのか、出来るのかは、この世界でその人口が1%にも満たない生きた人間が勝敗を左右すると、ドルトムントにはわかっているんだ」
まだバイオ印刷終了までには一時間近くありましたが、四人はその場所から片時も離れませんでした。ハヤテもヤチヨもこんな奇妙なものは見たことがありませんでしたし、それはシェロムさんにしても同じでした。唯一悠一くんだけは、映画の中で見たことがありましたが――それは近未来を舞台にしたミステリー映画だったのですが、映画の中で見ていてさえ、いずれこんなことが本当に可能になるのだとは、到底思えなかったものです。
(でも、銃だって3Dプリンタで造れるし、そのうち家だって全部3Dプリンタで印刷するようになるっていう話だしな……)
そして悠一くんは実際、このあまりの科学技術の進歩の凄さに、ある種の畏敬の念に打たれていたかもしれません。何分、この臓器プリンタでは、心臓もバイオ印刷できてしまうのです!そして、悠一くんはこの病院内に人工血液なるものまで保存されているのをすでに発見していました。
(ゾンビに生きた心臓を移植する……そして、人工血液を注入すれば――彼らはおそらく、僕たち生きた人間とまったく同じように復活することが出来るだろう……)
けれども悠一くんはハヤテも言っていたとおり、このことに何か「うさんくさい」というのか、どこかに必ず落とし穴があるのではないかという気がして、非常に警戒していました。確かにバイオプリンティングに関する本や資料の読み込みは大変であるとはいえ……これまでのところ、特に何か大きな障害があるでもなく、悠一くんの研究はトントン拍子でうまくいっていたと言えます。
唯一、邪魔が入ったといえば、先ほどの北の国の手の者と思われるゾンビたちに後を尾けられていたということでしたが――もしこのままこのバイオプリンティングがうまくいき、ヤチヨの手がうまく動いたとしたら……ここレムリア病院だけでなく、他の西と南の国の領土にある病院という病院を捜して、人工細胞液や人工血液などの医療資源をかき集められるだけかき集めなくてはならないでしょう。そして、西や南の王と女王に頼んで、その拠点となる病院をゾンビの精鋭部隊たちに守ってもらう必要があるとも思っていました。
(ここのレムリア病院は、もしかしたら北の国のゾンビたちに場所を知られてしまったかもしれないから、拠点となる病院はどこか別の場所にする必要がある。もちろん、それ以前にこれからするヤチヨの右手への移植がうまくいけばの話だけど……)
そして、手の第三関節部分までが印刷される頃になると――四人は興奮して顔を見合わせていたものでした。さらに、第二関節、第一関節だけでなく、爪まで綺麗に印刷されてみると……もはやほとんど畏敬の念にも近い驚きが、一同を包んでいました。
「ほ、ほうう……なんという綺麗な手でござろうな。この実験がもし成功したら、拙者も同じようにしてもらえるのでござろうか?」
「うん。成功したらね」
悠一くんは半ば夢見心地で、また同時にこの上もない現実感をもって、実に丁重にその完成した白い肌の手首を――女性らしい丸みのあるフォルムのそれを――滅菌手袋をはめた手で大切そうに持ち上げました。
「もし、生きた人間にこの手を移植するのだとしたら……ほんと、無菌室みたいなところで手術したほうがいいんだろうけど、ヤチヨのほうの手はたぶん大丈夫っぽそうだから、そっちのステンレス台のほうでもいいかなと思って……」
「そうだな。まあ、適当にチャチャッとやってしまってくれ。べつに失敗したって、また元の手首をつけてもらえばいいだけの話だからな」
「…………………」
とはいえ、いざヤチヨのブロンズ色をした、細胞が壊死しているとしか思えない手でも――悠一くんはそれを切断するには、とても勇気がいると思いました。
「これ、一応滅菌済みの医療用のこぎりなんだけど……」
ヤチヨは忍者服の袖をまくると、右手をステンレス台の上に置きました。ゾンビは痛みを感じませんので、ヤチヨはそののこぎりでギコギコ自分の手首を切られても、笑ってさえいたかもしれません。けれども、悠一くんが不器用な手つきでオドオドしているのがわかりましたので、自分の背中に差した剣を抜くということにしたのです。
「ユーイチ、そんなものよりこっちのほうがおそらくもっと切れ味がいい。もしおまえにその勇気がないなら、わたし自ら自分の手首を斬ってもいいしな」
そう言ってヤチヨは、背中から抜いた剣を左手で右手の手首に当てていましたが――悠一くんはヤチヨの左手を取ると、彼女の剣を自分の手で持ちました。
「……いや、駄目だよ。たぶんこれは、僕が自分の手でやらなきゃいけないことだから……」
悠一くんはそう言ったものの、さらに意味のない質問をヤチヨにしていたかもしれません。
「その、麻酔とかいらない?確か、中央材料室に、そういう薬剤もあったはずだし……」
「いいから、さっさとやれ。わたしは痛みなど感じぬ」
ゴクリ、と喉を鳴らすと、悠一くんはヤチヨの重い剣を手にとり、それを彼女の華奢な右手首に当てました。そして、思った以上に手応えもなく、悠一くんはヤチヨの手首をザクリ、と斬り落としていました。
「こ、ここから、ここからが勝負だからね、ヤチヨ。ここからが……」
悠一くんが自分に言い聞かせるためにそう言っているとわかっていましたので、ヤチヨはもうなんとも答えませんでした。悠一くんは手術用の糸を通した針を持針器で持ち、ヤチヨの手首に通しました。それから、新しい手首にも通し、針を鑷子で引っ張ります。そうやって悠一くんは丁寧に一針一針ヤチヨの新しい手首を縫合していきました。そして、最後に結紮すると、クーパーで糸をちょん切るということになります。
「ど、どうかな。っていうか僕、もともとゾンビの手とか足って、こんなんでなんでくっつくんだろうって不思議で仕方ないんだけど……」
驚いたことには、ヤチヨはすぐに指を五本動かしていました。彼女自身、この手が自分の右手とは信じられない様子で見下ろしていたほどです。
「すごいぞ、ユーイチ!手が動く……これはもう、わたしの手だ!!」
縫合の様子はシェロムとハヤテも固唾を飲んで見守っていましたが、まさか本当にあんなに簡単な縫合手術で真新しい手首が動くようになるとは思ってもみなかったのです。
「確かに、すごいでござる……!!ヤチヨ、その手を握ってみてもいいでござるか?」
「嫌だね。この手はもうわたしのものだ。ハヤテなんかと握手したら、きっと汚くなって運気が落ちる」
「ひ、ひどいでござるよ!ほら、ほーんのちょっと、E.T.みたいに、指先だけでも……」
ヤチヨはさっと忍者服の袖に右手を隠すと、「イーティってなんだ。このばあか」と言っていました。
「これから、わたしの右手を握ってもいいのは、この手を造ってくれたユーイチと、唯ひとりアビシャグさまだけだ」
「ヤチヨ、本当に右手、なんともない?」
悠一くんはそのことが心配で、丸椅子から立ち上がったヤチヨにそう尋ねました。今はうまく動いていても、そのうち動かなくなったりしびれを感じるなど……あるいは時たま痛みを感じることがある、などということがあったとすれば、本末転倒というものでしたから。
「まあ、なんともないな。単に前の手のように醜くなく、美しいというそれだけだ」
実をいうとこの時、ヤチヨはひとりになりたいと思っていました。そして、自分の右の手を惚れぼれと眺めたいと思っていたのです。
「でも、もし何かあったらすぐ言って欲しいんだ。何か違和感があるとか、前の手の時よりも反応が一秒遅れる感じがするとか、そんなことでもなんでもさ」
「心配性だな、ユーイチは。だが、なんにせよこれで実験は成功した。最初はユーイチが何を言っているのかいまひとつよくわからなかったが、今はわかる……この方法で体に欠けのあるゾンビの手足を取り替えられるなら、みんな喜ぶだろう」
「さようでござる。いいな~、ヤチヨ。拙者も早くそんな綺麗で新しい手や足が欲しいでござるよ」
(やっぱりそうなんだ……)
悠一くんはここで、やはり自分のしようとしていることが正しいのかどうか、迷いが生まれました。何故かというと、ハヤテのヤチヨの右手を見るあの目つき……もちろん、彼は性格的に何も問題ないでしょうが、今までは<死>によって一律に平等であったゾンビ世界に、「羨ましい」とか「自分もあれが欲しい」といったような、これまでなかった新しい感情が生まれることになるかもしれないのですから。
「ハヤテ、申し訳ないんだけど、もう少し待ってもらえないかな。まずは、これから暫く経過観察して、ヤチヨの手が本当になんともないっていうのを確認しなくちゃいけないし、あと、アビシャグさまの許可も正式に取って、そのあと女王に頼まなきゃいけないこともあるっていうか」
「アビシャグさまにでござるか?」
頭の回転のほうが機敏なゾンビであれば、悠一くんが何故そう言ったのか、すぐわかるはずでした。けれども、ハヤテは頭の回りに疑問符をたくさん浮かべているといった状態です。
「うん。ほら、さっきハヤテとヤチヨが北の国のゾンビを退治してくれただろ?彼らが先回りしてレムリア病院へ来てたっていうことは……ここはもう危険だと思うんだ。だから、必要な医療資源なんかは全部別のところに移して、そこの守りを厳重にしたほうがいいと思うんだ」
「なるほど。それもそうでござるな。そういうことであれば、一度アビシャグさまの元へ戻ってご報告したほうがよさそうでござる。のう、ヤチヨ?」
「そうだな。わたしのこの右手を見た時のアビシャグさまの驚いた顔を見るのが楽しみだ」
「…………………」
悠一くんはここでも、胸に不吉な影のようなものが差すのを感じました。今、東西南北の四王国はバランスの取れた力関係で拮抗しています。けれども、もし西や南の国で、新しい手足を巡って内乱のようなことが起きたら――当然、そのことを足がかりに北の国のドルトムント王が攻め込んでくるでしょう。
(どうしよう。僕がこんな余計なことをしたせいで、西や南の国が滅びるというシナリオだってありうるんだ。これは、アビシャグさまにお会いしたら、よくよく相談しなくちゃな。アビシャグさまはああしたお方だから大丈夫と思うけど、北のドルトムント王のような人だったら、自分の配下からでも生きているのと同じ手足を斬りとって、自分のものにしそうだものな)
――こうして、たくさんの収穫とともに、悠一くんは一度南の国の城下町まで戻るというこにしました。アビシャグさまは悠一くんの帰還を実に喜び、盛大なパーティまで催してくれたほどです。と言いますのも、ハヤテもヤチヨも定期的にアビシャグさまに報告していたからなのです。スズメでもヒヨドリでも鳥ならなんでもいいのですが、忍術を使って鳥を呼び寄せ、伝えたい言葉を教えて放つ――というのが、ゾンビ忍法・鳥忍術です。ですから、三~四日に一度は報告鳥を放っていましたので、南の女王は悠一くんがどれほどのことを成し遂げたのかをすでに知っておられたのでした。
余談ですが、ヤチヨとハヤテが報告鳥を放った時にはそれぞれ違いありました。そして、アビシャグさまがどちらの報告をより高く評価したのかは、みなさんの御想像にお任せしたいと思います。
――ピーッチチチッ。女王さまにご報告申し上げます。
ユーイチは、レムリア病院にて、我々ゾンビの手足や臓器をコピーする方法を発見した模様。
本や資料をたくさん読んで、ユーイチは頑張って勉強しています。何故ユーイチがこんなにもゾンビのために熱心になれるのかはわかりませんが、アビシャグさまのおっしゃるとおり、彼には他の生きた人間とは違うところがあるように思われます。
では、また近々ご報告致します。
――ピヨピヨ、ヒヨヒヨッ。女王さまにご報告でござる。
ユーイチくんはきょう、あさごはんにはパンを、おひるごはんにはけーたいエネルギー食を、夕食にはじゃがいもりょーりなどを食べておったでござるよ、ニンニン。
そしてユーイチは毎日いっしょーけんめい、本を読んでいるのでござる。
拙者もヒマなので、ときどきヤチヨといっしょに海やおさかなのずかんを読んだりしているでござる、ニンニン。
ユーイチといっしょにいて本を読むことで、拙者も少しばかり賢くなったようでござる。
そんなカッコカシコイ拙者の姿を、次回会った時にはきっと女王さまにもお目にかけられると思うので、楽しみにしていて欲しいでござる。ニンニン♪
アビシャグさまが、「小学生の夏休みの日記じゃないんだぞ!」とお怒りになったかどうかはわかりませんが、それはさておき、ユーイチくんもシェロムもヤチヨもハヤテも、南の女王さまのお城で、この時実に歓待されたのでした。
アビシャグさまお抱えの、フラゾンビダンサーズが、しきりと腰をくねらせながら踊り、最後には悠一くんやシェロムさんにハワイのレイのような花飾りをかけてくれます。その後、男のゾンビたちが出てきて、両端に炎の燃える棒を持って迫力のある演舞を行いました。
悠一くんとシェロムさんとは、食事しながらゾンビたちのそんな踊りを楽しみ、惜しみなく拍手を送っていました。特に男のゾンビたちは、手や体の一部が炎で燃えていましたから、いくら痛みを感じないとはいえ、悠一くんは少しばかり胸が痛んだかもしれません。
一応、アビシャグさまから「我が国随一のファイアーダンサーズだ」と言われておりましたので、とにかく「本当に素晴らしいです」と言って褒めそやしていたのですが。
パーティが終わったあと、悠一くんはアビシャグさまの招きで、王宮のバルコニーに出ました。アビシャグさまは相も変わらず片時も煙管を手放されませんので、この時も悠一くんは煙管を吸うアビシャグさまの隣でお話していました。
「ハヤテやヤチヨからも報告は受けているが……どうやら彼らはふたりとも君のことが好きなようだ。彼らがいることで、何か役に立ったかね?」
「もちろんです。もうハヤテとヤチヨからお聞きになっていることと思いますが、北の国の間者と思しき者に後を尾けられていた節がありまして……ですから、レムリア病院内の必要なものはすべて持ってきて、他の――もう少しこちらの城下町に近いところの病院を基幹病院にしたほうがいいのかなって思うんです」
「ヤチヨの右手はわたしも見たが……」
アビシャグさまは、王宮のバルコニーから見える、砂漠の上の月や土星のような環を持つ星を眺めながら言いました。
「あの技術は、確かに脅威だな。あんなものを北の国が手に入れたらと思っただけでゾッとする。だが、ハヤテとヤチヨの話では……ユーイチ、君はこれがゾンビ社会にとっていいことかどうかわからないと話していたそうだね」
「はい……ヤチヨがもし、あの手を見せびらかすようにして街の大通りを歩いていたら、きっと多くのゾンビたちがじっと注目するんじゃないでしょうか。そして、誰もがみんな、同じ新しい手、新しい足、新しい体が欲しいとなったらどうしたらいいのか。アビシャグさま、西と南の領土にある病院をすべて当たったとしたら、たぶん、もっと人工細胞液や人工血液とか、そうしたものを集められるとは思うんです。でも、この人工細胞液や人工血液といったものを、どのような製造過程によって旧世界の人々が作ったのか……もっと色々勉強して、そこまで解明できないことには、この技術をまだ公にしないほうがいいと思うんです。何故といって、ある選ばれたゾンビにだけ新しい体が与えられて、他のゾンビには与えられないなんていうことが起きたとしたら、そのことをきっかけに、ゾンビ同士で争いにならないとも限らないでしょう?それに、右手だけ新しい手を持つ者より、両手も両足も新しいゾンビのほうがより偉大だとか、そんな変な階級意識がみんなの間に生まれてもいけないと思うんです。せっかく今はみんな、こんなに助けあって仲良く暮らすことが出来ているのに……」
(そこまでのことを我々のために考えてくれたのかね)
そう口で言おうとして、アビシャグさまは何故かそう言えませんでした。また、確かに悠一くんのこの意見はもっともだとも思いました。そこで、アビシャグさまは、自分が今どんなに感動しているかということについてはおくびにも出さず、ただ、いつもの平静でハスキーな声でこうおっしゃったのでした。
「この件については、ユーイチ、君にすべて一任しよう。また、困ったことがあったらなんでもわたしに相談するといい。ジンコーサイボーエキがどうだという難しい話はわたしにはわからんが、だが、君の判断がおそらく正しいのだろうということはわかる。ヤチヨも、毎日暇さえあれば自分の右手を見ているらしいからな。『ナルシストの気持ちが初めてわかった気がします』と、あのヤチヨが言っていたくらいだから、おそらくはそういうことなのだろう」
「その……アビシャグさまは、顔も体もすべて生きた人間と同じように出来ることについて、どうお思いになりますか?バイオプリンタでは、心臓も三時間くらいで印刷できるんです。そして、人工血液を注入したとしたら……ゾンビたちは外見上、生きた人間とまったく同じ存在になれるということなのですが」
「…………………」
アビシャグさまは一度、黙りこみました。女王自身はといえば、その新しい肉体を得て、さらに永遠にも近い時間生き続けたいとは思えませんでした。それよりも、女王としての任務と義務さえなければ、安らかな第二の死を迎えたいとすら思っているくらいだったのです。けれども、そんな女王の唯一欲しいものがありました。それは<睡眠>です。
「つかぬことを聞くようだが、ユーイチ。もしその、体のすべてのパーツを入れ替えて、君たち生きた人間と同じようになれたとしたら……眠れるようになったりもするのかね?」
「ええと……すみません。正直僕にもその点はわかりません。おそらくそのようになるのではないかと思ってはいますが。でもアビシャグさま、何故そのようなことを僕に聞くのか、お教えいただけますか?」
「わたしはな、ユーイチ。毎日、一国の女王であることの憂鬱をどうにか煙草で誤魔化しておるのだよ。だが、一日ほんの二時間か三時間でも眠れたら――わたしはもっと幸せな精神状態を手に入れられるだろうと、そう思ってね」
「そうだったんですか……」
悠一くんはここで、病院で見かけた睡眠装置のことを思いだしていました。あまりよく眠れない、不眠症の人などを強制的に眠りに落とすことの出来る装置です。そこで悠一くんは、そうしたスリーピング装置があるということを、アビシャグさまに伝えてみることにしました。
「そのスリーピング装置とやらを使えば、わたしたちゾンビでも、安らかに眠れるものかね」
「試してみないとわかりませんが、一度スリーピング装置の中でお休みになってみたらどうですか?もしかしたら、いい夢が見られるかもしれませんよ」
レムリア病院のほうは、すでに場所をドルトムント王に知られている可能性があるので――他の、城下町から近い場所にある大きな病院のものを悠一くんは勧めてみました。ただ、スリーピング装置のほうで眠っている間は、本当に信用できる者に装置の回りを守らせたほうがいいということも。
こうしてアビシャグさまは、一日に2~3時間程度ですが、ぐっすりと深い眠りを経験したことで……精神の鬱的症状が改善されていたかもしれません。その後、悠一くんは南の城下町から一番近い場所にあるコルディア病院のほうへ重要な医療資源などを移すということにしました。西や南の領土にある病院を順番に回り、コルディア病院に大体のところ移してみたところ、人工細胞液や人工血液のほうはかなりの数にのぼりましたが――もちろん、これだけでは幾千万にも上るゾンビたちには到底足りません。悠一くんはこののち、再び本の虫と化して、ひとり王宮の一室に篭もってバイオプリンティングに関する研究に没頭していたものです。
悠一くんはもともとあまりヒゲの濃いほうではありませんでしたが、ヒゲも剃らないだけでなく、時には四日もお風呂に入らず、<人工細胞液>がそもそもどのような原材料・過程で出来るものなのかについて、調べ続けました。それでも、悠一くんが寝る間も惜しんだ甲斐あって、<人工細胞液>の造り方については半月くらいで判明していました。都市部にある大きな医薬品工場にその製造ラインがあって、そちらにマニュアルの本があるのを発見したのです。そしてこのマニュアルによれば、この特殊なゲル液をこれからもほぼ無限に作りだすということは、十分可能であるということがわかり……悠一くんは心からほっとしたものです。
また、研究室内にあるものの中には、いくつか「これは一体何に使うのだろう?」という使途不明なものが幾つかあるのですが……やはり、そこから逆に考えて、あの研究室にあるものはすべてバイオプリンティングに関連していると思い、ひとつひとつ「それは実際何に使うものなのか」と考えていったほうがいいに違いない――そう考え、悠一くんは早速、コルディア病院のほうでそのあたりの調査を開始することにしました。
ちなみに、ゴッドリーヴス図書館のほうには、今はもう手練れのゾンビ兵たちの護衛がついていましたし、コルディア病院のほうも警護のほうがとても厳重な体制になっています。ホバークラフトのような乗り物で移動するのはやはり危険だということがはっきりしましたので、悠一くんは今は馬車に乗せてもらっています。
XELL製薬化学薬品工場でマニュアル本を発見した翌日……悠一くんは(いくらなんでも、これはひどいな……)と鏡で自分の顔を見て思い、まずは剃刀で綺麗にヒゲを剃ると、入浴することにしました。そしてこざっぱりしてのち、ハヤテとヤチヨと一緒に馬車に乗り込みました。ふたりは今もずっと、悠一くんの護衛として、二十四時間彼のそば近くにいます。
「病院のラボのほうへ行くっていうことは、本や資料を調べて何か新しいことがわかったっていうことなのかい?」
「うん……バイオプリンティングについて、資料も何もなく自分で一からはじめるとしたら、バイオプリンタだけあっても大変だっただろうけど、もう全部完成されてて、支障があるとしたら言葉の問題だけだからね。それだって自動翻訳機もあれば、すでにメルヴィル語をマスターしていて、教えてくれる先生までいるんだ。これで何も出来ないとしたら、僕はよほどの無能か馬鹿ということになる」
「そんなことはないさ。ユーイチはよくやってるよ。それも、そうしなかったら自分が死ぬってわけでもないのに……だけど、ユーイチはゾンビじゃなくて生きた人間なんだから、あまりそう根を詰めないほうがいいよ」
ここのところ、悠一くんは毎日、携帯エネルギー食ばかり食べていました。もちろん、これだけでも一日の栄養は十分なはずでしたが、悠一くんが最初に出会った頃より少し痩せたような気がして――ヤチヨはそのことが心配だったのです。
「大丈夫だよ。もう、これでバイオプリンタに関しては山を越えたといっていいと思うから……人工細胞液の造り方もわかったし、この人工細胞液については、もともと先に特許を取って専門に造ってる医療センターがあるんだ。その医療センターを訪ねれば……たぶん下請けのXELL化学薬品工場よりも、たくさんストックがあるんじゃないかと思う。だからそのうちそっちへも一度行って来なきゃ。まあ、変な話、嬉しい悲鳴といったところ」
ハヤテにもヤチヨにも、悠一くんの言うことはちんぷんかんでしたが、それでも彼が寝る間も惜しんでがんばっているのは、自分たちゾンビのためなのだということはよくわかっていました。しかも近頃の悠一くんときたら、夜中に突然「何か閃いた!」とでもいうようにガバッと起きては本を読みだしたり、ブツブツ何かつぶやいたり、「いや、そうじゃない」とか「やっぱりこれで合ってるんだ!」などと髪をかきむしって叫んでみたり……そんな様子の悠一くんをふたりはずっと見てきましたから、研究のほうが一段落ついたと聞いて、本当にほっとしたのです。
「そのう、ユーイチ。実は拙者にはひとつ深刻な悩みがござってな……」
「うん。どうしたの?」
悠一くんは、携帯エネルギー食をカバンから取りだすと、それをストローで吸いながら聞き返しました。今日はストロベリー味です。
「拙者、新しい手や足よりも、実は欲しいものがあるのでござる……」
「もしかして髪の毛とか?」
ハヤテはドキーッ!!としたように、今はもう動いていない、心臓のあたりを両手で押さえています。
「な、何故わかったのでござるか!?」
「だって、ハヤテって時々、鏡で自分の髪の分け目見てるでしょ?最初は頭皮から発生した蛆虫でも取ってるのかなって思ったけど、なんかそれにしては溜息ついてるから……そういうことなのかなーと思って」
悠一くんはハヤテやヤチヨに二十四時間そばで張りつかれていても、そんなに気にしていませんでした。でも、それは彼らがゾンビだからであって、生きた人間ではとてもそうは思えなかったろうとも悠一くんは思っています。
「もちろん、髪の毛だけなら馬の毛で作ったものとか、色々あるよね。でも、そうじゃなくてハヤテが欲しいのは清潔な頭皮から生えた髪の毛とか、そういうことなのかなって」
「そ、そうなのでござる……ま、ゾンビは痛みだけじゃなく痒みもまったく感じないため、そういう問題はないのでごさるがな。もちろん、一番いいのはスキンヘッドのまま放置しておくということではござろう。だが拙者は、髪の毛にだけはちと拘りがあって……」
「そっか。バイオプリンタには頭皮っていう項目のボタンはなかった気がするけど……でも、顔の全体は好きなようにカスタマイズしてバイオ印刷できるんだ。つまり、その中には頭皮も含まれるってことになるし……」
実をいうと、これはアビシャグさまにさえ申し上げていないことでしたが(もちろん、聞かれたら答えるつもりではいました)、顔については、眉や瞳や鼻や口など、細かく自分で色や形などを選択して――つまり、アバターの実写版のように、自分の好きなとおりの顔を造形することが出来るのです。
「頭皮だけ印刷かあ。それはちょっと僕もどうしていいかわからないけど……顔ごと印刷して、頭皮の部分を切り離すっていうのはなんかもったいない気がするし……」
「ハヤテ、ユーイチのことをそう困らせるものじゃない。それじゃなくてもユーイチは急がしいんだから」
ヤチヨがたしなめるようにそう言うと、ハヤテは「まったくそのとおりでござるな。ユーイチ、すまなかったでござる」とあやまっていました。彼がどことなくしょんぼりしているのを見ると、悠一くんとしても心苦しかったのですが、かといって今の段階ではどうしてあげようもありませんでした。ただ、悠一くんにも最終的には一度、72時間かけて人体のすべてをバイオプリントしてみたいという気持ちがあり……ハヤテに好みの顔を選んでもらって(もちろん安全性をもっと確かめてからということになりますが)、そのような生きた人間と変わりのない姿を彼にあげたいという気持ちはありました。
「べつに、あやまるほどのことじゃないよ。それに、もっと実験が進んで、手や足だけじゃなく、臓器の全部とか、そこまでいったら――頭皮というか、顔のほうにも着手できると思うんだ。だから、時間はかかるけど、いつかはハヤテに新しくて清潔な頭皮をあげられたらいいなって思う」
「さ、さようでござるか。何かすまぬでござるな。何やら拙者が申したワガママのために、ユーイチに面倒をかけたようで……」
「ううん、全然だよ!」
この日、悠一くんはコルディア病院に付属した研究施設のほうで、人工細胞液を一から造りだすための実験をし、その実験についても一応の成功を見たのですが、その答え合わせのためにも、開発元の医療センターを一度訪ねてみるつもりでいました。
(でも、この僕が作った人工細胞液でうまくいくかどうかの実験もしなきゃいけないんだよな。今の段階だと、ヤチヨはゾンビたちの前では右手を隠してなきゃならないし……相手は誰がいいか、アビシャグさまに相談してみようかな)
そして、人工細胞液の開発元である医療センターで、悠一くんは自分の製造した人工細胞液のレベルの高さをコンピューターでチェックし、その安全性は99.9%という表示によって裏づけを得ることが出来ました。その後、この医療センターからそのまま王宮へ向かい、夜半にアビシャグさまにこのことを報告しますと、「じゃあ、今度はわたしの体の一部で実験してみればいい」と、そう女王は言われたのでした。
「その、前にも一度、バイオプリンタの基本的な仕組みは御説明したのですが……今回は、旧文明の人たちがすでに作っていて、ヤチヨの右手で安全性の確認されているものではなくて、僕自身が自分で一から造ったものなので……」
自分のこの言い方では、雑兵ゾンビなら実験に失敗しても差し支えない――ということになってしまうと思い、悠一くんは一度黙り込みました。
「だからだよ。わたしも前に、わたしでもよくわかるようにそのバイオプリンタとやらがどういう仕組みなのかは説明してもらったからな。で、今西と南の病院中のものをかき集めても、ジンコーサイボーエキとやらは足りないわけだ。そこで、一からユーイチがそれを造りだすための実験にまで今こぎつけた……そういうことなわけだろう?」
「はい。そうなんですが……」
「なら、わたしの体の一部を使え。もっともわたしは、ヤチヨの右手を見てもそう羨ましいといったようには思わなかったが……それはわたしが少し特殊な精神構造をしているからで、他のゾンビたちは違うとわかっている。だから、市民ゾンビの誰かでも雑兵ゾンビでも、体の一部だけ新しいことがわかったら、『それは一体どうした!?』と大騒ぎになるだろう。それなら、秘密を守れる女王であるわたしの体のほうがいい。それに、失敗したら失敗したで、元の体に戻してもらえばいいだけの話でもあるしな」
「アビシャグさま自らそう言っていただけて光栄です。僕も一応自信のほうはあるのですが、でも万一ということがあると思いまして……」
こうした話運びにより、悠一くんはこの一週間後、コルディア病院のほうでアビシャグさまの右足の交換を行うということになりました。そして、この悠一くんがマニュアル通り造った人工細胞液でも何も問題ないとすれば……今度は人工血液の製造過程について調査しなくてはいけないと、悠一くんはそう考えていたのです。
「まあ、気にするな。それでもし、何かわたしの足がただれるといった事態が起きても、わたしはユーイチ、おまえのことを責めたりはしない。むしろ、我々ゾンビのためにここまでのことをしてくれるだなんて、もっと何か褒賞でも与えたいところだが、生きた人間にとって価値のあるものが、我々ゾンビの死の世界を捜してあるとも思えんからな……それなら、そんな協力くらい、安いものだ」
この頃、アビシャグさまは毎日2~3時間の睡眠をお取りになられるからでしょうか、悠一くんが最初に出会った頃よりも、女王さまは気難しいような様子をされてはおらず、むしろ機嫌がよいように見えることのほうが増えました。コルディア病院で右の御み足を3D撮影する時も、撮影の最中や前後でよくお笑いになっていたくらいです。「まったくこれは面白いものだな、ユーイチ」と、そう言って……。
3D撮影が終わると、早速悠一くんは自分の細胞片を混ぜて培養した人工細胞培養液をセットし、悠一くんはバイオプリンタの足(メルヴィル語ではロデス)のボタンを押しました。ヤチヨとハヤテはすでに一度、ヤチヨの右手が造られるのを見てはいましたが、今度はアビシャグさまの右足が印刷されつつあるのを見て――またもやはり、最初の時にも劣らぬほどの驚異の念に打たれていたかもしれません。
アビシャグさまに至っては、興奮のあまり透明な箱に顔をべったりくっつけそうになっていたほどでした。「一体どうなってる!?これは魔法の箱か何かなのか?」と、あらゆる角度からバイオプリンタを眺めまわしておられます。
右足の作製時間は、約五時間です。けれども、かかとから順にだんだんと人間の足らしきものが作製されていきますと……アビシャグさまもハヤテもヤチヨも、その場から離れようなどとはまったく思いませんでした。悠一くんに至っては、自分の造った人工細胞液が失敗したらどうしようとばかり思いつめていましたので、やっぱり固唾を飲むようにして、五時間の間、バイオプリンタのすぐ横に居続けたのです。
一応、見た目だけは完璧で美しい、女というよりは多少ゴツイ右足が完成しますと、その周りにいたひとりの人間と三人のゾンビは、喜々として互いに抱きあいました。そして、悠一くんはヤチヨの時にもそうだったように――滅菌手袋をして真新しい足首から下の右足と、大腿部のあたりを掴んで持ち上げました。
べつにヤチヨのことをないがしろにしたというわけではありませんでしたが、南の国の女王であられるアビシャグさまが相手ということで、悠一くんはオペ室にまでアビシャグ様のことを案内し、そこで女王さまの足の縫合手術をしたのでした。
女王さまの右足を刀で切断したのはヤチヨでしたが、そのあとの縫合はもちろんすべて悠一くんが自分の手で行い、持針器とピンセットでスッスッと手際よく縫合して行く様を、アビシャグさまは感心したように、また実に満足そうな御様子でじっと見守っておられたのでした。
「この縫合糸は、人体に無害なもので出来ていて、そのうち体のほうに吸収されて消えますから、抜糸の必要はないんですよ」
「そうか。じゃあ、ちょっと歩いてみるとするか」
それでも一応、ハヤテが女王さまの右手を、ヤチヨが左手を取ってサポートします。ですが、右足に力を入れてみた時の感触から――アビシャグさまにはわかっていました。間違いなくこの右足は、もうすでに自分のものになっているのだということが!
アビシャグさまがハヤテとヤチヨの手を離し、数歩ばかりも歩き、次にはスキップまでしてみせますと、ヤチヨもハヤテもしきりと拍手していたものです。もちろん、悠一くんも。
「すごいぞ、ユーイチ!!おまえの考えだしたこの技術は!そうだな。もしこの計画をこのまま進めるのであれば……たとえば、人肉の森であるとか、最初のうち、少し離れた場所に体のパーツを交換したゾンビ同士を住ませて様子を見る必要があるかもしれんな。何分、南の国のほとんどのゾンビたちは、わたしの言うことなら多少疑問に思ってもそのまま行なうからな。自分たちの家を造ったり塀を造ったりといったことも、命令されればなんでも喜んで行なう。だから、そうした小さな村のような場所を先に建設してみるというのはどうだろう?」
悠一くんは、場所として、<人肉の森>はなんとなく不吉で嫌な気もしましたが、城下町から少し離れた場所に新しく村を造る案には賛成でした。
こうして、実をいうとまずはヤチヨが体のパーツを順番に交換していくということになりました。何故といって、腕だけ、あるいは足だけという部分的なパーツだったから成功したのであって――いきなり上半身のすべて、下半身のすべてといった順に大幅に変えていった場合……悠一くんは何かが不安でした。突然ヤチヨが、「ああ、わたしの体の臓器が溶けてなくなっていく……助けて、ユーイチ!!」などと叫びはじめることになったらどうしようと、悠一くんは最後の最後まで疑っていたからです。
そこで、まずは左手を肩のつけ根まで、次に右手首から肩までを、次に足を片一方ずつ……といったように、悠一くんは慎重に事を進めていきました。また、ひとつ体のパーツを縫合するたびに、最低でも二週間は次の手術まで間を空けました。そして、なんの不具合もないといったことを確かめてから――顔や頭部、それに食道や胃や大腸といった臓器や……そして最後に心臓を、悠一くんはヤチヨに移植手術したのです。
けれども唯一、ヤチヨは首から上と心臓の移植の際には怖がりましたので……悠一くんはヤチヨに麻酔を施すということにしていました。こちらの世界の麻酔は悠一くんが元いた世界の笑気ガスとは違うもののようでしたが、使い方のほうはまったく同じであるようです(コルディア病院の麻酔科にて、悠一くんはそのように確認していました)。
そして悠一くんはこの時――正確には手術の前日の夜、必死に神さまに祈ってさえいたかもしれません。もちろん、こんなおかしな死の世界へ自分を放り飛ばした神のことなど、悠一くんは憎んであまりあるくらいだったのですが、けれどもこの時ばかりは、(もしこのことのゆえにあなたが僕をこの世界へ遣わしたというのなら、必ずヤチヨの手術を成功させてください……!!)と、必死な思いでそう願ったのです。
翌日、ヤチヨの冷たくなった心臓と、まったく新しい臓器である心臓とが交換されますと、悠一くんは彼女の体に人工血液を注入しました。やがて、ヤチヨの体はとくんとくんと脈打ちはじめ、ゾンビの頃にはなかった脈拍や心音、体温といったものが生まれはじめました。とりあえず、これで一旦成功とは言えましょうが、ヤチヨがこのまま麻酔から目覚めないのではまったく意味がありません。
けれどもこののち、何時間しても何十時間してもヤチヨは目覚めず、自分のこの行為を神さまが命に対する冒瀆であると見て、このような罰を下したのだろうかとかなりのところ思いつめました。
悠一くんは三日三晩ヤチヨのそばを離れず、その経過を事細かに記録して、どうにかして彼女が目覚める方法はないかと考え続けました。けれども結局のところ……ヤチヨは手術の行なわれた四日後に、ようやく目を覚ましていたのです。
今はもう、彼女は美しい黒い髪、それに黒い瞳、白い肌に赤い唇を持つ、二十台半ばくらいの生きた女性のようにしか見えません。ハヤテなどはヤチヨと会うたびに無駄にはにかむため、彼女から「姿は変わってもわたしはわたしだ!」と背中を思いきり叩かれていたほどでした。
「良かった、ヤチヨ……おまえがもし死んだら、僕はどうやってアビシャグさまに償ったらいいか、そのことばかり毎日考えていたんだ」
「…………………」
この時、ヤチヨには言葉もありませんでした。今までは、体のパーツを交換しても、「この体はわたしのものだ」とのある種の所有感がありました。「だから、どのように使うのも、この自分の自由なのだ」との……けれどもこの時、とくんとくんという心臓の鼓動の音とともに、ヤチヨは思わず泣きたいような、切ない感情に襲われていたのです。実際、ヤチヨは泣いていました。もちろん、悲しいわけではありません。彼女は心の中で密かに『ユーイチのように生きた人間になりたい』と願っていたのですから……けれど、その願いが叶った今、ヤチヨは嬉し涙とも悲しい涙ともつかない涙をとめどもなく流していました。
「わたしは……今、泣いているのだな。ゾンビだった頃は、あの暗い双眸からはなんの液体も流れてはこなかった。仮に、どんなに胸が潰れるような、悲しい思いをしたとしても……」
「そうだよ、ヤチヨ。目覚めてくれてありがとう。君は、僕がこの世界に生みだした、一番最初の命といっていい。そしてこのあと、他のゾンビたちも君に続くんだ」
「いや、お礼を言わなければならないのは、わたしのほう……」
ヤチヨはそう言いかけて、あとのことはもう言葉になりませんでした。悠一くんが喜びのあまり、彼女の体をぎゅっと抱きしめてくれたからです。そして、傍らにいたハヤテもまた泣いていました。ハヤテの場合は、暗いそのふたつの眼からはなんの液体も流れてきませんでしたが、でも彼もやっぱりこの時、泣いていたのです。
>>続く。