第3章
この日(悠一くんがこの世界へやってきてから117日目のことでした)、悠一くんが巨大な門をくぐって街の外へ出ると、ゾンビたちは輪になってマイムマイムをしたり、盆踊りを踊っていたり、あるいは悠一くんが教えたダンスの練習をしたりしていました。
そして、そこへ悠一くんが姿を見せますと、彼が何か言葉を発する前からその場にいる全員が一斉に悠一くんを見ました。ゾンビたちのこうした感覚がどこからやって来るのかはわかりませんが、彼らにはこういった種類の超感覚のようなものがありました。
そこで、悠一くんは砂岩で出来た崖の上からゾンビたちにこう呼びかけたのです。
「みんな、聞いてくれ!今日から二日後に、ウフフアハハ市でお笑い大会があるんだ。そこで今まで練習してきたあのダンスを西の国の王であるゴロツキングさまの前で披露しようと思う。時間はあと二日あるから、通してリハーサルしてみようと思うんだ。いいかな?」
「おおーっ!!」
その場にいた千人以上ものゾンビたちは、拳を振り上げ悠一くんに歓呼の声を上げました。このあと、日が暮れるまで最初から通してダンスの練習が続き、それはこの翌日も同じでした。そして三日目、お笑い大会が終わる最後の演目として、ゾンビたちのゾンビダンスが披露されるということになったのですが――悠一くん自身はゴロツキングさまとウフフーミンさまのそば近くでお笑い大会を観覧しなくてはなりませんから、特にダンスが上手いゾンビたちをリーダーに任命し、あとのことは彼らに任せるということにしたのです。
ゾンビたちには名前がありませんでしたから、悠一くんは以前、彼らにとりあえず便宜上の名前をつける必要があると思い、名づけ親になっていました。そこで、誰よりも一等うまくムーンウォークできるゾンビにはマイケル・ジャクソンと名づけ、他にダンスのうまい四人のゾンビたちには、それぞれエルヴィス・プレスリー、エルトン・ジョン、トミー・リー・ジョーンズ、ヒュー・ジャックマンなどと名づけて、数百人のゾンビグループのリーダーになってもらうことにしました(ちなみに、名前のほうに深い意味はありません)。
生きている人間と違って、こうした口を聞くことのないゾンビたちは実に従順で気性のほうも大人しかったり恥かしがり屋だったりする場合がほとんどです。ですから、リーダーの言うことをただ素直に聞いてくれますので、おそらく問題は何もなかったに違いありません。
ただ、彼らは一つの目的が出来ますと、とにかく練習しすぎますので、その点だけは注意が必要でした。と申しますのも、ムーンウォークのうまいマイケルなどは、足の裏やかかとなどが地面とすれて最後には体が傾いたり、ひどい時には足首からもげてしまうこともありましたから――傀儡師のおやっさんに足ごと交換してもらったり、別のゾンビの足の裏から皮膚を移植したりしなくてはなりませんでした。
そこで悠一くんは、このゾンビたちに靴を用意することを思いつきました。悠一くんがいつも食糧を探しにいく都市の高層マンションなどには、そこに住んでいた人が使っていたらしい靴がありましたから、みんなの足にぴったりくるものをそれぞれ選んであげることにしたのです。こうなると、衣装のほうも欲しいということで、悠一くんは服のほうも着せてあげたのですが、ゾンビたちはこのこともとても喜んでいたようでした。
マイケルもエルヴィスもジョンもトミーもヒューも、自分たちでは言葉を発するということはないものの、悠一くんが名前を呼ぶと振り返ったり、名前を呼ばれたことを理解したというように頷いてくれます。彼らは何より、悠一くんか靴をはかせてくれたり、その他自分たちのことを色々と気遣ってくれるのが嬉しいようでした。そして、<楽しい>とか<嬉しい>といったことはゾンビたちのボディランゲージで十分理解されるものの――彼らが特に言葉など話さなくても、ただ一緒にいるだけで、相手ゾンビのその時の気分といったものがわかるようになってくる……というのは、悠一くんにとって少し不思議なことだったかもしれません。
そして、ゾンビたち同士でも、言葉はなくても互いをある程度理解しあっており、そのようなテレパシーにも近い何かのあることが、彼らがピタリと寸分の狂いなく動作を合わせることの出来る秘密でもあったのでしょう。
こうしてウフフアハハ市のお笑い大会がはじまった日、悠一くんはまず、ゴロツキングさまとウフフーミンさまの傍らにある特別席で、このお笑い大会を鑑賞することになりました。最初にまず、金色の馬鹿に大きな蝶ネクタイをつけた司会と思しきゾンビが「あ~、本日はお日柄もよく……」などと挨拶をはじめますと、暫くののち、大量の砂や石つぶてが投げられることになりました。つまらない挨拶が長すぎるということなのでしょう。けれども、悠一くんがあとから知ったところによると、これは毎回の<お約束事>だったようです。
「あだっ、いだっ、あだだだ……さて、みなさん。わたしの腐った肌に石がいくつかめりこんだところで、一人目のお笑い大会出場者に登場していただきましょう。お笑い大会への出場は今回が初めてのチャレンジャーです!演目のほうは一発ギャグ!!それでは、どうぞ!」
♪チャンチャ~ラ~チャッチャラ~……
軽快な音楽とともに、赤と白で出来た幕が上がりますと、そこには中肉中背の、派手なパンツを履いたハチマキ姿のゾンビが立っています。そして、彼の両方の手にはボクシンググローブがはめられていました。
「シュッ、シュッシュッシュッ!!ボクシングをしてるのはだーれだ?それはボクさー!!」
すぐに幕が下りるのと同時、観客席のほうはブーイングの嵐となりました。けれども司会のゾンビは、「ま、まま、まあまあまあ」と観衆たちを静めにかかります。
「今のギャクはほんの軽いジャブといったところ。さあ、次いきまっせー。ゾンビ夫婦として過ごして幾星霜。生まれ変わってもあなたとまた一緒にいたい……と言うのは実は旦那だけ。さあ、ご覧いただきましょう、ゾンビ夫婦による夫婦漫才でございます!!ハラショー!」
♪チャンチャ~ラ~チャッチャラ~……
「わてら、ゾンビになってもう軽く百年は一緒にいますねん。この人、こう見えても昔はええ男やったんですよ。体の表面が腐りはじめる前までは」
ここでドッと観客席から笑いが起きます。どうやら、ゾンビたちはこの夫婦漫才師がお気に入りのようです。
「そんなこと言うたら、おまえかて昔はべっぴんやったぞ。いや、違うか。今も昔もおまえは大して変わらんわな。ワッハッハッ」
「あ~な~た~。それ、一体どういう意味~!?」
「いやいや、おまえは生きておった頃も死んだ今も変わらずべっぴんやなという意味や」
夫ゾンビがたじたじする様子を見て、観客のゾンビたちはまたまた大笑いしています。
「そう?そんならええけどな。ほんでな、こう長くゾンビとして一緒におりますと、流石にお互いちょっと嫌気が差してきますわな。そんなこと、よくありません?相手のちょっとした癖がもう我慢ならんいうような時が……」
「ああ、あるな、あるな。わしも、おまえがもう死んでるからええとばかり、腐った皮膚にわいた蛆虫なんかをわしの前で正々堂々取るのを見る時……たまにぞわ~っとしてしまうわい」
「あら、あんたそんなこと思ってたんかいな。じゃ、これからはあんたの目のないところで……いや、そもそもあんた、眼球自体もうないやろ!?それにもう死んどるんやから、体にわいた蛆虫くらい自分で取ったかてええやないの!」
「いやいや、元女ならもう少し恥じらえいう話やがな。『♪蛆虫が一匹、蛆虫が二匹……あなた、見て。もう少しで一ダースよ』て、わしにどないせいっちゅうねん!一ダースも蛆虫見せられてからに……」
「ほんだらこっちも言わせてもらいますけどね、あんた、最近貧乏揺すりがひどいんよ。自分で気づいてはる?」
「貧乏ゆすり?知らんがな。わしは貧乏揺すりなんかせんさかいにな」
「みなさん、聞きました~?この人、自分で気づいてないんですよ。それで、ついきのうもな、自分ひとりで地震が来たとかいうて、騒いでますねん。うちが何回も『そりゃあんたの貧乏揺すりや』言うても、『いいや、地震や地震や』言いますのや。ほら、そのうちあんたの癖がでたら、みなさんにも見てもらいまひょ。そしたら地震でないことがこれでようやくはっきりしますわ」
すると、夫ゾンビがだんだんに体を激しく揺らしはじめました。そして、言います。
「あ、地震が来た。また地震や。今の震度一くらい……いや、震度二……うおおおっ、今度は震度三や。どないしよ。どっかに隠れにゃ……うおっ、震度四ーっ。今度は震度五や~っ。うおおおっ。死んでまう、死んでまうっ。このままやったらマジで死んでまうぞおおおっ」
夫ゾンビの貧乏ゆすり地震が激しくなるにつれ、観客席のゾンビたちは大爆笑です。
「助けてくれ、やす代っ(これが妻ゾンビの名前でした)。助けて、助けて~っ!!」
「アホッ!!だからあんたの貧乏ゆすりやて、何度も……」
ここで、夫ゾンビの手が妻ゾンビやす代の手に触れると、やす代もまた同じようにガクガクと体を震わせながら、夫とまったく同じ動きになります。
「離さんかい、このどあほうめがっ。あんたの貧乏揺すりが移ってしもうたやないのっ」
「まあまあ、そう言うない。そんなこと言うて、実は結構楽しいやろ?貧乏ゆすりに見せかけた地震ごっこ」
「あんた、もしかしたら前世は地震で死んだのかもしれんな。それでいて、死んだあとも地震ごっこて、もしかして心臓に毛が生えとるんちゃうの?」
「ハハッハッ。ばーれーた~?死んでから実は心臓にぎょうさん毛が生えてきてん。ほら、見る~?」
ここで、夫ゾンビが胸のあたりの皮膚をパカッと開くと、腐りかけた心臓の上には確かに毛が生えていました。
「うわー!!さすがにそこまではうちもついていけんわ。もう、離婚しよ、離婚。そんで、あたしのほうは生まれ変わったら、もうあんたみたいのとは関わりあいとうないから、どっかで見かけても構わんといてえな」
「そう言うなよ~。死んでもこうしてまた一緒にいたいって、昔はよう言うてたやんか~」
「そんなこと、死んだ今はもう記憶にございません!」
ここでまた夫ゾンビは貧乏ゆすりをはじめ、夫の貧乏ゆすりをやめさせようとした妻ゾンビもまた震度五の貧乏ゆすりに感染し……ふたりはそのまま「あ、あり、ありがと、ござ、ました~」と震え声で言いながら舞台袖にはけてゆきました。
かわって、舞台の端のほうから再び司会ゾンビがやって来ます。
「やす代、きよし師匠、いつも通りのおもろい夫婦漫才、ありがとうございました!さて、お次は真夏にぴったりの怪談ですよ。「死んでもこんなにあなたがうらめしい……」かわいそうなゾンビのお話です!それではどうぞ」
♪チャンチャ~ラ~チャッチャラ~……
「どうも、どうも、ゾンビのみなさんどうも。西の国のここらの季節は正直、年間真夏ね。ここや南の国あたりは四季いうもんがありませんからなあ。ところで、夏といえば怪談ね。わてらもう死んどるわけやから、ま、ユーレイと同類といえば同類ですわなあ。さっきキヨシ師匠が「♪蛆が一匹、蛆が二匹……」言うてましたやろ?「十二匹そろったら一ダース、ウハハハハ~」、「怖っ!もう離婚や離婚」て……え?話がちょっと違う?まあ、ええやないですかい、細かいことはどーでもよろし!それよりわてがこれからするのは、「カワイソウなゾンビ」の話!「♪お皿が一枚、お皿が二枚、お皿が三枚……あ゛あ゛~、どうしても一枚たりな~い!」これは番町皿屋敷!それはさておき、はぐれゾンビがある時、カワウソと出会いましたとさ!さあ、三味線弾いてちょうだいな!」
ピン芸人ゾンビのローランドさんが促すと、後ろのほうで耳をほじっていた芸妓ゾンビが、♪べべベンベンベン、と三味線で相の手を入れます。
「はぐれゾンビは言いました。「あら、カワウソさん。あなた何をしているの?」、「カワイソウなゾンビにカワイソウ言われる筋合いはないな」、カワウソはこう言いました!」
♪べべベンベンべン………!!
「あら、あたし、あなたのことカワイソウなんて言ったんじゃないわ。カワウソって言ったのよ」
「カワイソウなのはわしやのうて、ゾンビのおまえや。まったく気色悪いな。こっちは一応これでもまだ生きとるさかいにな、死人に同情される覚えはないで」
「だからあたし、あなたのことカワイソウじゃなくて、カワウソって言っただけなのよ……」
「ほんま、カワイソウにな。そんな、皮膚も腐ってボロボロになってからに。目玉もなければ頭髪も抜けてただのハゲやないかい。死んでも生き続けとるやなんて、ほんま気味悪いな。そんなんだら友だちもできんやろ?少なくともわしならごめんやな。なんか変な伝染病とか移されそうやもんな。だからさっさとあっちへ行きや!しっしっ、ついでに、かーっ、ぺっぺっ。唾も吐いたるわ」
「ひ、ひどい……あたし、今まで自分のことカワイソウとまで思ったことなかったけど、なんか自分がカワイソウになってきた……」
「だから言うとるやろ、カワイソウにな、このボロぞうきんみたいに痛々しいゾンビめが!おまえ、自分のこと鏡で見たことあるか?まったく見るに耐えんぞ。カワウソのわしがそう思うくらいやから、ライオンさんもうさぎさんもお馬さんも、みなそない思うとるはずや。とにかく、生きてる動物らに変な病気移すんやないで。この動物界の病原菌めが!!」
「ひどいわ。生きてる間はあんたたちより、あたしたち人間のほうが身分が上だった気がするのに!」
「死んだらもうそんなこと、関係あらへんがな!生きてるカワウソは死んでる人間に勝る……覚えておくんやな!!」
「そんなの、初めて聞いたわ」
「へっ、たった今わしが考えた格言や。そいじゃ、なんにしても二度とわしらカワウソに話しかけんといてな。ばっちいのが移って、それが他のカワウソにも移ってゾンビ病が蔓延でもしたらたまらんさかいにな」
「…………………っ!!」
「さーて、死んで自分がカワウソ以下の存在になったと知ったゾンビ、一体その後、どうしたのでありましょうか?」
♪べべべンベンベン……!!
「カワウソをカワイソウにしてやろうと思い、復讐心を燃やしたのであります!!他のゾンビたちにこの話をしましたところ、みんな大激怒したのでありますな。カワウソを見つけては生きたまま皮をはぎ、「カワイソウ~!!」と物笑いの種にしたのでありました。なんと残酷なことでありましょうや!!」
♪べべベンベンベン……!!
「すると、カワウソのほうでゾンビたちにあやまって来ました。「前に言ったことは全部ウソ。だから許してくださいな。わてらカワウソはみんな、ウソをつく種族なんです。だから、前に言ったことは全部ウソ。ウソなんですううっ!!」」
「ということは、どういうことになりますかな?前に言ったことは全部ウソ!!ゾンビはカワイソウじゃない!むしろその逆!!気色も悪くない!気味も悪くない!むしろ喜んで友だちになりたい!ゾンビは全員、可愛い、美人、男前!!あ~それなのにそれなのに、そんなことも知らずに我々は~、なんということをしてしまったのでありましょうや!!」
♪べべベンベンベン……!!
「以来、ゾンビのほうでもカワウソがもしブスだのブサイクだの言ってきても、もう捕まえて皮など剥いだりは致しません!カワウソの言うことは全部ウソ!「ブス」の意味はほんとは「美人」、ブサイクのほんとの意味は「男前」!!さあみなさん、わかりましたね?カワウソに「二度見できないほどヒドイ顔」と言われても腹を立ててはいけません。その本当の意味は「ずっと見ていたいほど素敵な顔」、彼らはそう言っているのであります……!!」
「こうして再びゾンビとカワウソは友好関係を取り戻しました。え?なんですって?カワウソは口を聞かないですって?そりゃそうですがな。わしの言ったこともまた全部ウソ!!どっとはらい~!!」
♪べべベンベンベン……!!
ピン芸人ローランドさんの名人芸に、ゴロツキング王もウフフーミンさまも大満足でした。悠一くんはこのふたりの少し後ろのほうで椅子に座り、お笑い大会を鑑賞していたのですが――その後、ふたりの様子を眺めているうちに、大王と女王が「小笑い」、「中笑い」、「大笑い」と、その演目をどのくらい楽しんだのかがわかるようになってきたかもしれません。
すなわち、ゴロツキングさまは「ドゥフッ」と短く笑ったとすれば「小笑い」、「ドゥフフ」とか「ドゥフッ、ドゥフッ」と笑ったとすれば「中笑い」、「ドゥフフフフッ」と繰り返し笑ったとすればそれが大笑いでした。そしてウフフーミンさまは、「ウフッ」とか「ウフフッ」と笑ったとすれば「小笑い」、「ウフフフッ」くらいのが「中笑い」で、「ウフ、ウフッ、ウフフフフフフッ」と笑ったとすれば、それが「大笑い」ということでした。
そして、ゴロツキング王は時折、後ろの悠一くんのことを振り返っては、「今の、ユーイチくんはどうだったかね?」とか、「腹がよじれそうじゃのう」などと、話しかけてくださいましたので――悠一くんはそのたびに「素晴らしいですね」とか「面白かったです」と答えていたものでした。もっとも、ゴロツキング王が望んでいたのは悠一くんのそんな返事ではありませんでした。何故なら、もっと悠一くんが大袈裟なくらい「ヒャハハッ!!」とか「グボハハハッ!!」とでも笑っていたとすれば……大王のほうでも「よしよし、ユーイチくんもお笑いを楽しんでおるようだの」と満足していたことでしょう。けれども、後ろからは物音ひとつ聞こえませんので、時折と心配して、ゴロツキングさまはそのように話しかけておられたのでした。
また逆に、ゴロツキングさまが「チッ。おもろないのう」と言った時には、「いえ、なかなか面白かったですよ」とか「まあまあではないでしょうか」と、舞台上のお笑い芸人を悠一くんはフォローしてあげたのですが――何分、ゾンビたちはすでに死んでいて「疲れる」ということがありませんから、ウフフアハハお笑い大会は、随分長く続きました。ゆえに、悠一くんは途中から疲れて眠気にさえ襲われてきたのでした(この段階になるともはや、そのお笑いが面白いか否かなど問題ではありません)。けれどもどうにか頑張って悠一くんがお笑い劇場に集中するうち……ようやく、悠一くんが待ちわびていた瞬間がやって来たのです。
本当はそれまで、悠一くんは自分に全責任のあるゾンビダンスショーについて心配ばかりしていたのですが、お笑い大会のほうがえんえん長く続きましたので、最後のほうはもう(なんでもいいから早く終わってくれ)というようにさえ感じはじめていたかもしれません。
「さあ、そろそろ今回のお笑い大会も終盤を迎えます……!!ゴロツキング大王のお客人、ユーイチさまのお導きで、中立地帯のゾンビたちがダンスチームを結成したとのこと。その踊りを今回は披露していただきたいと思います。では、中立地帯ゾンビーズのみなさん、どうぞ!レッツダンス……!!」
♪パパヤパ、パ~ヤ~パッパヤッ!!
悠一くんが都市の超高層マンションで見つけた、四つ打ちのEDM調の音楽がかかると、螺旋の階段状になった劇場の一番高いところには、(もちろん本物でない、ゾンビの)マイケル・ジャクソンの姿がありました。そこを頂点にして、千人近くものゾンビーズが劇場のまわりを取り囲み、踊りはじめます。
まずは右の拳を突き出し、次に左の拳を突き出して、仮面ライダーの変身のボーズ。そこから「ウィッシュ!!」からのキラキラマイ賛美、&足を高く上げてハイキック……あとはマイケル・ジャクソンやエグザイルの有名な振付をパクりまくって作ったダンスが続きます。そして、曲の中盤でレディオ・フィッシュの「パーフェクトヒューマン」の振付がそのまま演じられ、その他、ダ・パンプの「いいね!」ダンスからの欽ちゃん走りなど――悠一くんの振付はいい加減極まりないものではありました。
けれども、ある程度曲調には合っていましたし、ゾンビたちは悠一がゆっくり踊ったものを高速で揃えることが可能でしたので、その約十分弱のダンスの出し物は、ダンスの振付はともかく、ゾンビたちの同調能力の高さによって、素晴らしく完成度の高いものでした。
そして最後は、腰に手を当てて、180度方向に指差ししながら、中立地帯ゾンビーズのダンスは終わりました。悠一くんもさっきまであった眠気もどこへやら、頼んでもいないのにあちこちから花火やら火花が上がるわ、ゾンビたちもアドリブで飛んだり跳ねたり……最初に悠一くんが考えだしたものより、それは遥かに素晴らしい仕上がりだったといえるでしょう。
ゴロツキング王もウフフーミンさまも大喜びで、純粋なお笑いの要素はそれほどなかったはずですが、ゴロツキング王は「ドゥフドゥフ」と終始愉快そうに笑っておいででしたし、ウフフーミンさまもまた、「ウフフ、ウフフ」と本当に楽しそうであられました。
そして、ダンスの終了と同時に、すべての照明が消え、今回のお笑い大会が終わりを迎えますと――野外劇場に詰めていた二十万人ばかりのゾンビたちは、その全員が歓呼の咆哮を上げました。それほど興奮したということなのでしょう、ゾンビたちは拍手喝采するだけでなく、口笛を吹いたり、大きく手を振り回したり……それは大変な騒ぎようでした。サッカーの試合を見たあとのフーリガンもかくやというほどに。
このあと、悠一くんはゴロツキング大王やウフフーミンさまに大変お褒めいただいたわけですが、実をいうと今回のウフフアハハお笑い大会は、南の女王のアビシャグさまもゴロツキング王の招きで見にきていました。女王アビシャグは、お笑い大会の最後に、中立地帯でゾンビたちの王になりつつあるユーイチという生きた人間が何かのショーを催すというので、とても楽しみにしていたのですが――思った以上の出し物を見せてもらえたことに、とても感動したようでした。
「ユーイチ・ナカムラか。なかなか面白い生きた人間のようだ……」
そう呟き、アビシャグさまは、南の国から連れてきていた側近たちとともに、王宮のほうへ戻っていかれました。ちなみに、アビシャグさまの側近たちは、若い――この場合の若いというのは、死んであまり時間が経っていないという意味ですが――男のゾンビたちばかりでした。
「<彼>を南の宮殿にお呼びするのですか、クイーン?」
「まあな。一度、南のオアシスのシェロムに会わせてみたいと思っている」
アビシャグさまはそう言って、少し皮肉げにお笑いになられました。もっとも、まわりにいる側近ゾンビーズはみな若い青年ばかりでしたので、女王さまが何をおっしゃっておられるのか、まるでわかりません。
「シェロムというのはもしかして、南の人肉の森にいるとかいう……」
それでも、噂でシェロムのことを聞いたことのある青年ゾンビのひとりがそう聞きました。
「あんな恐ろしい奴に会わせて本当に大丈夫なんですか?彼、見た目は常識人っぽい感じですけど……ゾンビ工場のシステムを考えだしたのはそのシェロムっていう人だとかって……」
「フフフ」と、南の女王アビシャグさまは愉快そうに微笑まれました。「その通りだとも。あんなもの、我々ゾンビの頭では到底思いつかないシロモノだ。ここは基本的に<死>が支配する世界だがな、時折シェロムやユーイチ・ナカムラのように生きた人間が紛れこんでくる……それが何故なのかはおそらく、そんなところに理由があるのだろうな。恐ろしいものよ、まったく生きた人間というやつは……」
かつては自分もその<生きた人間>であったはずなのに、今では記憶がまったくないものですから、アビシャグさまはそんな言い方をなさいました。ついきのう、アビシャグさまは西の国の王であるゴロツキングさまと会談の場を持たれたのですが……その時、奇しくも<救世主>(メシア)の話が出ていたのです。
『もしかしたら、彼が<救世主>(メシア)なのかもしれないとわしは思うんだが……その場合、わしは例のモノを彼に引き渡そうと思うのだがな。どうも絶対100%そうだとの確信が持てず……そこで、アビシャグちゃんにも確かめてもらいたいんじゃが、どうかの?』
『メシアか。メシアというのは、こちらの世界では永遠のいのちを持つという。ということは、そのユーイチ・ナカムラという青年を死ぬほどの目に会わせても彼が死ななかったら、彼がメシアということで決まりなのでは?』
西の王と南の女王とは、もう古くから同盟を組んでいる仲で、お互いにお互いのことを「ゴロツキングくん」、「アビシャグちゃん」と呼び合う仲でした。
『もう、怖いのう、アビシャグちゃんは。わしもそう思わぬことはなかったんじゃがの、このユーイチくんという子がなんともいえん好青年なんじゃ。そんなわけで、もしあの子がメシアであった場合、わしはそう手荒なことはしたくないと思うとる。じゃが、もしユーイチくんがメシアであったとすれば……いずれ運命があの子を北の国や東の国へも連れていくということを意味するだろう。わしはな、出来ればユーイチくんがメシアではあって欲しくないと思うとる。つまり、このまま我が西の国の国内におって、保護できたらと思うとるんじゃ。じゃが、わしがもしそう思うておっても、ユーイチくんがメシアなら、いずれずっと止まったままのこのゾンビ世界の歴史も動きはじめるかもしれん。そこらへん、アビシャグちゃんはどう思う?』
『そうだな。とりあえず、そのユーイチ・ナカムラとやらが本当にメシアなのかどうかの見極めのために、我が南の国の国内を見せたいと思うのだが、どうだ?もし彼がメシアなのなら、ゴロツキングくんは例の宝物をユーイチに渡すつもりでいるのだろう?であれば、私も彼に自分の宝物を渡すことになるかもしれぬからな……まあ、命の保証は出来る限りするが、100%絶対とは言いかねる。その条件で、メシア候補の彼のことを少々預かってもいいだろうか?』
『ふむ。アビシャグちゃん、ユーイチくんが南の国も物見遊山したい言うたら、それでええんじゃなかろうか。あの子もきっと、自分と同じ生きた人間様に一度会ってみたかろうしなあ』
西の国の国内にも、生きた人間は何人かいます。けれど、彼らは今やすっかりお笑いの芸を磨くことしか頭になく……何かユーイチくんに人生アドバイスするとか、そんな気の利いたことは出来そうにありませんでした(ちなみに、今回あったお笑い大会の中で「チッ」とゴロツキング王が舌打ちした芸人は全員、ゾンビに扮した生きた人間様たちでした)。
『ゴロツキングくん、ゴロツキングくんはおそらく、人肉の森のシェロムのことを言っているのだろう?ユーイチとやらが我が国のゾンビ工場を見学して何を思うのかは……わたしにもわからない。もちろんわたしだってかつては生きた、彼らと同じ人間だったはずなのだがな。もはや死人として何百年も生きていると死人としての考え方しか出来なくなってしまうようだ……まあ、その過程で、もしユーイチ・ナカムラこそはメシアに違いないとわたしが確信したとすれば、わたしの宝物も彼に渡すということになるだろう』
――ふたりは悠一くんについて、そんなことを話していたのですが、ゾンビ四天王がそれぞれ一つずつ持つ宝物がひとつの場所に集められた時……その者こそがこのゾンビ世界を統治する帝王ということになるでしょう。また、そのためにこそゾンビ四天王はもう死んでいるにも関わらず死にもの狂いで領土を拡張し、一人でも多くのゾンビを兵員として集め、気の遠くなりそうなくらいの長い間争ってきたのです。
また、ゾンビ世界に伝わる伝承としては、雲の上にある城へその者はいき、復活を遂げることが出来ると言われています。こんな死の支配する世界で、ずっと永遠にも近いくらい生きたところで、何が面白いものかと考えるなら……それだけがこの世界から脱出できる唯一の希望の道であったとも言えたでしょう。
この翌日、悠一くんはゴロツキング王に呼ばれますと、初めて南の女王アビシャグさまとお会いしました。その日、ウフフーミンさまのお姿はなく、ゴロツキング王の隣の玉座のほうにアビシャグさまは座しておられたのでした。
(この方が、南の女王と言われるアビシャグさま……!!)
ゴロツキング王や女王のウフフーミンさまがそうであったように、悠一くんはアビシャグさまにも他のゾンビたちとはまったく別格のカリスマ性があるように感じていました。
右や左に側近のゾンビたちをはべらせて、彼らは一生懸命女王に向かい涼しい風を送るのでしたが――実のところ、それは全部生前のどこかに埋もれた記憶に基づくポーズのようなものでした。何故といって、もはやゾンビには体温もなく、涼しいとか暑いと感じるようなこともまったくないのですから。
南の女王のアビシャグさまは、プラチナブロンドの実に見事なカツラをつけておられ、皮膚は腐っているにも関わらず、その上から何か特殊な粉を幾重にもはたきつけているようでした。そのようなおしろいによって雪のように白かったですし、服のほうは驚いたことには、日本の着物と洋服を足して二で割ったような素敵な衣装をお召しであられました。
そして、指には細くて長い煙管を持っておられて、そこから何度もぷかーっと退屈そうに煙を吐いておられるのでした。
(そっか。自分の美を磨くことに余念がないっていうのは、そういう意味だったのかな)と、悠一くんは自分なりに判断したかもしれません。全身の臭みを消すために顔となく体となく全身におしろいをはたき、素敵な鼈甲のくしを頭にさしていたりですとか、また一見したところ、アビシャグさまは美意識が高く、着るものなどにも一家言ありそうなお方でしたから。
「それで、どうかね、悠一くん。もし君がこのまま我が西の国でお笑いを楽しんだり、ダンスに興じたりしていたいなら、いつまででもここへいてくれて構わないし……じゃが、もし君が南の国のほうもちらーっと見てみたいな~というのであれば、アビシャグさまがお守りくださるということだから、物見遊山がてらどかなーとわしはそう思ったんじゃがな」
「ありがたいお声がけ、誠に痛み入ります。是非、そうしてみたいと思います。と言いますのも、元いた世界から何故こちらへ飛ばされてきたのかも僕にはさっぱり訳がわかりませんし……きっと理由などないのだろうと思いつつも、もし僕がこちらの世界において何かの役に立つことで元の世界へ戻れるならと、そのことはずっと考えていたものですから」
ここで、アビシャグさまは、悠一くんのことを興味深そうにじっと見つめてこう言われました。
「君、ユーイチくんと言ったかね?君が元いた世界というのは、生きた人間ばかりのいる世界だという意味でよかったかな?」
「は、はい。僕の元いた世界では、死んだ人というのは動かなくなったらそのままなものですから……」
(映画やドラマの中以外では)と言いかけて、悠一くんは黙りこみました。もしかしたらそう言っても意味は通じたかもしれないのですが。
「人肉の森のシェロムもそう言っていた。何分、我々はもう死んで何百年にもなるし、君のような生きた人間というのはちらほらいるが、それだって一国につき、人口の一%もいるかどうかといったところだろう。だから、想像がつかんのだよ。それで君、ユーイチくんは、もう生きた人間とは元いた世界について話をしたりはしたのかね?」
「いえ。まだ僕みたいな生きた人とは誰とも……」
きのう、劇場で漫才をしていた五人ほどのお笑い芸人たちはその全員がゾンビの扮装をしてましたので、悠一くんは気づかなかったものと思われます。
「では、一度我が国のゾンビ工場システムを考えだしたシェロムに会ってみるといい。私が話していてもなかなか興味深い、面白い人間だからな。もっとも、そうとはっきり聞いたことがあるわけではないが、奴自身、こんな死者の世界にいるより、もし方法があるなら元いた世界へ戻りたかったことだろう。それが今もああして人肉の森にいるということは……彼でも生きた人間ばかりのいる世界へは帰ることが出来ないし、その方法も知らないということなのだろうな。では、我々は明日南の国のほうへ戻るが、ユーイチくんも一緒に来るかね?」
「は、はい……!!アビシャグさまさえよろしければ、是非よろしくお願いします」
――こうして、翌日早朝、悠一くんはアビシャグさまの一行と南の国へと旅立つことになりました。けれどもこの前日、悠一くんが翌日に備えて早めに就寝しましたところ、寝て三時間くらいしてからでしょうか。一度、悠一くんがハッとして闇の中で目が覚めた時……そこには一体のゾンビの姿があって、悠一くんは例によって一瞬ビクッとしました。
そして、おそらくはまたハゲロウさんだろうと思ったのですが、よく見てみるとそれはウフフーミンさまでした。悠一くんはあんまりびっくりして、即座に居住まいを正していたほどです。
「えっ!?あ、あのっ、ウフフーミンさま!?」
「あら、ごめんなさいね。起こしちゃ悪いと思って、ユーイチさんが起きるまで待ってようと思ったんだけど……」
ゾンビたちの特性のひとつとして、実をいうとこの<いつまでも待つ>、<待つのが苦痛でない>ということがあったかもしれません。もちろんゾンビも、次のお笑い大会が楽しみだ……楽しみなあまり待ちきれないといった感情のようなものはあるのですが。
「い、いえ、そんなこと全然ありません。それで、どうなさったんですか?僕に何かお話でも……」
ウフフーミンさまはレースのついた透け透けのネグリジェ姿でしたが、もちろん彼女は夜這いに来たわけではありません。あくまで、悠一くんにお話をしに来たのです。
「そのね……」ウフフーミンさまはベッド際に腰かけたまま、ブロンドの巻き毛を指に巻きつけ、溜息を着いておられました。「あたし、実は生きていた頃の記憶があるの。でも、ゴロツキングさまもアビシャグちゃんも、他のゾンビたちもみんな……生きていた頃の記憶なんてないって言うのね。でもあたし……本当に記憶があるのよ。そのこと、ユーイチくんみたいな生きてる人はどんなふうに思うのかなって、そのことを聞いてみたくって」
ユーイチくんは、ベッド脇のナイトスタンドの電気を点けると、これでスタンバイオッケーとばかり、ベッドの上に正座しました。
「記憶、ですか。生きていた頃の記憶……それは、どんな記憶なのか、僕に聞かせていただけますか?」
「ええ、もちろんよ。だって、そのためにここへ来たんですもの。もし明日ユーイチさんがアビシャグちゃんと南の国へ行くんじゃなかったら、こんなに急ぐこともなかったんだけれど……あのね、わたし、今みたいなゾンビになる前はとても太ってたの」
「えっと……」
(死んでからダイエットしたんですか?)と聞くのも変な気がして、悠一くんは言葉に詰まりました。
「つまりね、これからユーイチさんもゾンビ工場を見学すればわかると思うけど、ようするにわたし、死んでから痩せたの。今みたいなゾンビの最終形態になる前までは200キロくらい贅肉がついてたんだけど……どんどん肉が腐っていって、こそげ落ちていってそれで痩せたのよ。まあ、何故かおっぱいのところだけは肉が残ってくれて良かったんだけど」
そう言ってウフフーミンさまは、バストまわりの大きな肉をボインボインとかき集めるような仕種をなさいました。悠一くんはシャイな性格だったので、思わず目を逸らしていましたが、ウフフーミンさまはその意味を察して、驚いたものでした。
「ユーイチさん、あなたは本当に優しい、いい方なのね。わたしたちゾンビはあなたたち生きた人間から見たら、ひどく醜いってもちろんわかってるわ。それなのに、わたしだけじゃなく、他のゾンビたちみんなのことをとても気遣ってくれて……そうね。きっとわたしもだからこそ、ゴロツキングさま以外にしたことのない、こんな話をあなたにも聞いて欲しくなったんだわ」
――このあと聞いた、ウフフーミンさまの記憶の内容は、かなりのところ鮮明なものでした。ただし、自分の名前や住んでいた場所の名前、通っていた学校の名前など……そうした<名称>についての記憶は一切欠落していると言います。
「わたしが生まれた家は、すごくお金持ちだったの。で、何不自由なく育ったせいで、とても我が儘な子に育ったのね。今のこの姿からは想像できないでしょうけど、わたし、結構可愛かったの。それで、学校でも人気者だったものだから、自分の気に入らない子をいじめたりして……生前のわたしは、そんなサイテーな子だったのよ」
ウフフーミンさまは自分がしたいじめの内容について細かく語りませんでしたし、悠一くんのほうでも聞きませんでしたが、彼女は今もそのことを後悔しているようでした。
「でもある時、学校で下克上が起きたの。スクール下克上。わたしがいじめてた子が頭を使って色々根回しして、逆にわたしのことをスクールカーストの最下位に落とすことに成功したのよ。その時、それまでわたしが仲良くしてた子もみんな、裏切って去っていったわ。そのことがショックでわたし、家に篭もるようになったのね。それで、その頃から食べる以外に楽しみが何もなくなっちゃって……」
ここでウフフーミンさまは、肩を落として、とても悲しげな様子をされました。彼女の眼球のない目の奥からは、もう物理的な意味では涙など出てこないかもしれません。けれども悠一くんには、ウフフーミンさまが涙ぐんでいるような気がしたものでした。
「外で学校の誰かに会うのも怖かったし、対人恐怖症みたいにもなってて。ブクブクブクブクどんどん太っていくわたしを見て、両親も心配だったんでしょうね。わたし、高校二年で中退してたから、学歴のほうもそこで止まってて。かといって大学へ行く勇気もなかったし……その時、両親はわたしが結婚するのが一番手っとり早いと思ったみたいなの。引きこもりはじめて五年か六年くらいした時、お見合いをすることになって。ほら、ようするにうちがお金持ちだったから、金にものを言わせてっていうか、そんな感じでね……」
ここでウフフーミンさまは、再び溜息をついておられました。そして独り言でも呟くように、お話を続けられます。
「『うちの娘は今はデブやけど、前はごっつ可愛いかったし、持参金もたっぷり出すで、オラァ!!』っていうか、父や母がそんな感じでゴリゴリ押していったんだけど、わたし、その頃すでに百キロ越してたから……自分にもすっかり自信がなくってね、オドオドしたような態度でろくに全然しゃべれなくって。どう考えてもそんな子、どんな男の人だって嫌でしょ?それで結局、わたし何回お見合いしたんだったかしら……忘れちゃったけど、とにかく五回や六回じゃないわね。たまに、財産に目のくらんだ男の人とは何か月かつきあったりもしたんだけど……そういう人はね、わたしのほうでダメなの。『このブタと結婚すれば、金のほうは使い放題だぜ、イッヒッヒ!』みたいのがちょっとでも見えるとね、もうそれだけで嫌になっちゃって」
変に合いの手を入れたりすることも出来ず、悠一くんはただ黙って共感的な姿勢により、ウフフーミンさまのお話を聞いていました。ウフフーミンさまはウフフーミンさまのほうで、過去の記憶を思いだすのが大変なようで、じっと薄暗闇の壁を見つめながら話を続けておられます。
「でもね、とうとうある時……わたしにとっての理想の王子さまを見つけたの。その人はね、茶褐色の髪をしていて、とても深い青い瞳をしていたわ。その頃わたし、もう三十過ぎてて、お見合いももう二十回以上を越してたから、『どうせ次もダメに決まってる』って、もう投げやりになってきててね。でもその人、お見合いのあったその日のうちに、わたしとおつきあいしたいって言ってくれて……わたし、もう、その人が――実はわたし、自分の前世の名前は思いだせないのに、彼の名前だけは覚えてるの。クリストファー・デイルって言ってね、わたしはクリスって呼んでたわ。それで、わたし、クリスがわたしと結婚してくれるなら、彼がお金目的でもなんでも全然いいと思ってたの。むしろ、彼みたいにハンサムな人が結婚してくれるなら、財産とかそんなこともどうだっていいって本当にそう思ったわ。それで……このお話、ユーイチくんは最後、どうなると思う?」
「えっと……」
それまでずっと壁の一点を微動だにせず見つめていたのに、突然ぐりんと自分のほうを向かれ、悠一くんはまたビクッとしました。
「その、ウフフーミンさまはそのクリストファーさんっていう人と結婚して、お幸せになられたのでは……?」
「ううん。それが全然そうじゃないのよ」
ウフフーミンさまは、それがついきのう起きたことでもあるように、とても悲しそうに首を振っておられました。それからまた、先ほどと同じように壁の一点をじっと見つめて話を続けます。
「クリスはまあ、確かにお金目当てだったのね。それで、わたしも薄々そうと気づいていながらも、そのことに気づかないようにして、一生懸命ダイエットにも励んだわ。だけど彼、『太ったありのままの君のことが俺は好きなんだ』なんて言って……でもわたし、結婚式までに本当に頑張ったのよ。それで、体重のほうは最終的に百を切って八十キロ台までになったの。もちろんね、それでも一般的には全然デブって呼ばれる体重だってことはわかってたわ。だけどわたし、クリスの愛があるなら、結婚したあともダイエットは頑張れるだろうし、いずれ六十台か五十台に体重がなったとしたら、昔の可愛らしさも戻ってくると信じてた。ユーイチさん、わたしとクリスの結婚生活はとても短いものだったんだけど……どのくらいだったと思う?」
「その……五年とか六年とか……」
ウフフーミンさまの口振りから言って、もっと短かったであろうことは明白でしたが、悠一くんはあえて少し長めの年月を答えていました。すると、ウフフーミンさまは、とても悲しそうに俯き、こう答えました。
「たったの一日よ。わたしにとって、クリスとの結婚式の日は、人生最良の日であるのと同時に最悪の日だった。結婚式がとどこおりなく終わって、いざホテルで新婚初夜を迎えるっていうその日……まあ、シャワーを浴びてベッドに横になるわよね。でも彼、わたしの体の贅肉を見て、どん引きしちゃったの。交際中はね、そういう雰囲気になることはあっても、キス止まりだったから……そういうことは新婚初夜まで取っておこうって。わたし、クリスのこと、誠実なとてもいい人だと思ってたけど、結局は本当にお金目当てだったのよ。でも新婚初夜のその日、彼、すっかり萎えちゃってね。『お金のためならこんなデブでも抱けると思ったけど、やっぱり無理だっ!!』て言って、そのまま逃げちゃったの」
「…………………」
あんまり悲しいお話に、悠一くんは言葉もありませんでした。また、こういう時、どんな言葉をかけて女の人を慰めたらいいのかも、悠一くんにはわからなかったのです。
「でね、その後、そんなひどい形で結婚が破談になってしまったもんだから……わたし、またひとり引き篭もって、もぐもぐバクバク、もぐもぐバクバク、もぐもぐバクバク食べまくってたら、あっという間に元の体重どころか、それ以上にブクブク太っていっちゃってね。もうパパもママも何も言わなかったわ。今もね、両親を悲しませてしまったことだけは、とても後悔してるのよ……」
ウフフーミンさまは、何度目になるかわからない溜息を着いて、それからまた話をお続けになられました。
「その後わたし、太って太って太りまくって、自分ひとりじゃ立てないくらいになって、介護の人が付くまでになったの。でもある日、太りすぎたことで呼吸困難になってね、誰か助けを呼ぶことも出来ずにそのまま死んだの。そして、次に気づいた時には寂しい砂漠にいたわ。あの頃はまだ、アビシャグちゃんも南の女王になってなかったし、ゾンビ工場もまだなかったから……わたしはただ、自分の体が腐っていくのを黙って見てた。そしてそんな時、もう絶望のあまり、体を動かす気力もなかったわたしの元に、ゴロツキングさまが現われたの。ゴロツキングさまはね、もう相当腐敗が進んでらっしゃって、今のお姿とあまり変わりなかった気がするわ。あの方、わたしと出会った瞬間、『どないしたん?』って聞いてくださったのよ。わたし、かくかくしかじかって自分のことを話して……『もう死んでるけど、生きてく気力がない』って言ったの。そしたら、ゴロツキングさまはね、毎日わたしのところへやって来て色々慰めてくださったのよ。前世はきっとコメディアンか何かだったのね。毎日、色んな芸をわたしの前でしては笑わせてくださって……最後には、『わしはそんなウフフーミンちゃんのことが好きやでー』って言ってくださって。その後、ゴロツキングさまの元には彼のことを慕うゾンビが無数に増えていって――今の西の王国が築かれるということになったの」
「そうだったんですか。いいお話ですね」
ここで初めて、ウフフーミンさまが「ウフフフっ」と嬉しそうに笑っておられましたので、悠一くんもほっとしました。
「あのね、ユーイチさん……きっと生きてるあなたの目には、この死の支配する世界はとても不毛で意味のないものにしか見えないかもしれないわ。でも、もしいつか元の世界へ戻るようなことでもあったら、覚えていて欲しいの。死ってね、無駄で悲しくて意味のないものってだけじゃないっていうこと。どうしてかっていうとね、わたしは死んでからのほうが幸せになった女だから。もちろん、生きている間のことは今もたまに考えることがないでもないのよ。あの時ああしてれば自分の人生は変わってたんじゃないかとか、もっとこうしてればとかっていう、そういうことだけど……それに、自分は何かの罰を受けて今も死ねずにここにこうして存在してるんじゃないかとか、死んだばかりの頃はよく考えてた。でも、今はもうすべてが過ぎ去ったことで、死んだ今と死んだ前のこととはね、わたしはもう切り離して考えることが出来るのよ。それでね、ユーイチさん」
ここでウフフーミンさまは、再び悠一くんのほうを振り返りました。けれども今度は、彼女の中にはっきりした友愛の微笑みを、悠一くんも感じることが出来ました。
「わたしがどうしてこんな惨めな自分の過去の話をしたのかというとね、わたしの話したことがもしかしたらいつか、あなたにとって役に立つかもしれないと思ったからなの。もしかしたらいつか、生きた人ばかりの世界に戻った時……ユーイチさんは素敵な人だからそんなことないだろうけど、でも何かの事情があって好きな人ともしかしたら結ばれないかもしれない。だけど、わたしの人生ほどひどくはないと思って、元気を出して欲しいの。あるいは、自殺したくなるくらい悲しいことがこの先あったとしても――ウフフーミンさまの人生の悩みに比べたらそう大したことないなって思って、前向きに生きていってくれたらなって、そんなふうに思うのよ」
「ありがとうございます、ウフフーミンさま」
悠一くんはベッドを下りると、ウフフーミンさまの足許にひざまずき、その色の悪い、紫と灰色の手のひらを取って、そこに口接けました。
「あなたは、とても素晴らしい女性です。それは、生きた人間である僕の目から見てもそうです。僕はまだ十九歳で、人生で挫折したことといえば、一発で医大に受からなかったことくらいですけど……ウフフーミンさま、人は誰でも人生で失敗するものだと思います。僕は、いじめられたこともいじめに加担したこともなかったかもしれない。だけど、いじめられている人を助けたことは一度もなかったし、面倒に巻き込まれるのが嫌で、ただ傍観していました。それに、僕は受験で忙しくて、本当の恋愛ってまだしたことありませんけど……でも、僕は臆病な人間だから、自分のプライドが傷つくとか、そういう可能性が10%もあったとすれば、とても告白する勇気なんて持てないだろうなって思います。逆に、90%くらいの可能性で相手がイエスって言いそうだっていうくらいの確信がないととても……でも、ウフフーミンさまは凄いと思います。本当にちゃんと誰かに恋をして、心からその人のことを愛して……僕には、最初からわかってました。ゴロツキングさまもそうですけど、「あ、この人は何かが違うな」って、すぐわかるんです。そしてそれは、前の人生で色々な失敗とかそうしたことがあったから――それで今、ウフフーミンさまはこんなにお優しい人柄でいらっしゃり、そのことが他のゾンビたちもわかるから、西のゾンビ民たちはこんなにもあなたのことを愛するのでしょう」
この時、ウフフーミンさまはびっくりしていました。悠一くんがひざまずいて手の甲にキスしてくれたこともそうですが、何より……昔あった記憶とリンクする出来事が起きたことで、再び前世の記憶が鮮明に甦ってきたからです。
『△□%#、俺は君のことを一生愛することを誓うよ。ありのままの君がこんなにも好きだ。もし君も同じ気持ちなら、この指輪を受けとって欲しい』
今、ウフフーミンさまの右の手の薬指には、ゴロツキングさまからいただいた、大きなエメラルドの結婚指輪が嵌まっています。ウフフーミンさまは最初に彼が自分のことを慰め、元気づけてくれた頃から、王さまのことが好きでした。けれども最初、それは恋というのとはまったく違うものでした。でも、今ではゴロツキングさまのことを心から愛しています。そのかけがえのなさに、悠一くんが今、もう一度気づかせてくれたのでした。
「ユーイチさん、南の国へ行ってもお元気でね。そして、いつでもまた好きな時にこの西の国へ戻って来てください。わたしもゴロツキングさまも、いつでもユーイチさんのことは大歓迎ですからね。この間のお笑い大会の、あの出し物……ゴロツキングさまったら、お笑い大会が終わってからも随分長く興奮してそのお話ばかりされていましたもの。これまでに自分が見たものの中で、一番の素晴らしいダンスだったって、そうおっしゃってらしたくらい。そしてそれはわたしも同じだったから、本当にその通りねってお答えしていたのよ」
「そうでしたか。まあ、実をいうと僕はそんなに大したことはしてないんですよ。軽くダンスの振付をしたら、あとはゾンビダンサーズがそれをさらに素晴らしい芸にまで高めていってくれたというか……」
悠一くんは照れくさいあまり、思わず頭をかいていました。かといって、『マイケル・ジャクソンの「スリラー」その他、日本の有名なアーティストの振付なんかをパクリまくったんですよ』……と説明するのも変な気がして、悠一くんとしてはただ恐縮するばかりだったといえます。
このあと、ウフフーミンさまは生きている人間である悠一くんの睡眠を大変気遣われ、最後に「何か困ったことがあったら、遠慮なくいつでも言ってね」と言い残し、悠一くんの寝室から去っていかれました。
結構長く話しこんでしまったもので、悠一くんは翌日、またしてもアビシャグさまの従者たちがじっと自分を見下ろす中……「うわあああッ!!」と、ベッドから跳ね起きていました。
「あ、す、すみません。ついぐっすり寝ちゃって……もう出発するんですか?」
悠一くんは目頭をごしごしこすって、五人ばかりもいた従者ゾンビたちをじっと見つめ返しました。彼らはひとりひとり、アフリカの裸族の人たちが身に着けているような衣装をまとい、体には白い模様がいくつも描かれていました。ちなみに、ゴロツキングさまの配下である西の国のゾンビたちも体に刺青を入れています。こうしたある種の識別が何故必要なのか……戦争の際の敵・味方の区別のためだと悠一くんが知るのは、もっとあとのこととなります。
「アビシャグさま、お待ち」
「でも、何も問題ないよね~」
「だって、もう死んでるボクらは」
「急ぐ必要なんてないから~」
「だよね~」
悠一くんを迎えに来たゾンビたちは、そんなふうにのんびりした口調で言い、まるで「ついて来い」というように背中を向けて歩きだしました。それで悠一くんも、急いで身支度を整え、彼らのあとについて行くことにしたのです。
この時、悠一くんは西の国へ入ってきた時にくぐった、西門ではなく、南門から出るということになったのですが――南の女王がお帰りになるというので、ゾンビたちは街の通り沿いに列をなしてつめかけ、一生懸命花びらをまいていました。
また、西の国のゾンビ民たちは、トルコの世界遺産であるカッパドキアのような岩の中にたくさんある住居に住んでいましたから……みんな、そこから顔を出したり姿を現したりして、アビシャグさまの一行を見送っていたのでした。
そしてこの時、悠一くんが何より驚いたのが――アビシャグさまがお乗りになっていた、空を飛ぶことの出来るホバークラフトでした。従者ゾンビたちは南の女王の前後左右を馬車で守って走行していましたが、その真ん中にこのホバークラフトがあって、悠一くんはその中で、女王アビシャグとふたりきりでいたのです(操縦室のほうにもふたり、従者ゾンビーズがいましたが、これらの部屋はそれぞれ独立しています)。
「君は、煙草はやらんのかね?」
アビシャグさまは、ゆっくり煙管を吸っては口や鼻から白い煙を出していました。いつもは刻み煙草を詰めるのは従者ゾンビのする仕事なのですが、今日はアビシャグさま手ずから刻み煙草を詰めて煙管を吸っておられました。
「いえ、僕は煙草って吸ったことなくて……」
「じゃ、一度吸ってみたまえ。我々エンバーミングの済んでいるゾンビから、君たち生きた人間に何かの菌が移って病気になる可能性は低いんだがね、ま、君も心配だろうから、新品の煙管のほうに煙草を詰めてやろう。だから、安心して吸ってみたまえ」
「は、はあ……」
女王さまからこうとまで言われては、悠一くんも断れません。アビシャグさまは棚のひとつから銀色のキセルを取り出しますと、その雁首のところに煙草を詰め、それからそこにマッチで火をつけ、悠一くんに渡してくれました。
悠一くんはアビシャグさまの好意を無にしてはいけないと思い、つい思いきり吸ってしまったのが良くなかったのでしょう。すぐに「ゴホッ」と咳き込んでいました。
「大丈夫かね?無理をする必要はないが……この煙草にはいくつか種類があってな、感覚――いや、ゾンビにはもうすでにそんなものはないが、それでもゾンビも時々病気のようなものになることがあるのだ。「生きているのが嫌になった」というより、「死んでる自分がつくづく嫌になった」というような、そんな時がな。そういう時、ちょっと気分のよくなる煙草というやつがある。ユーイチくん、君ももしこれからそんな時があったら、いつでも遠慮なく言いたまえ。その煙草を惜しみなく分けてあげるから」
「あ、ありがとうございます。でもこれ、結構美味しいですね。最初はつい噎せちゃったんですけど、なんとも言えない味わいがある言いますか……」
「だろう?」と、アビシャグさまは頬の筋肉を緩めておっしゃいました。「もうゾンビには味覚などというものもないはずなんだがな。私は唯一、煙管を吸ってる時だけ、自分が『何かを味わっている』気持ちになれる。もしかしたら前世ではヘビースモーカーだったのかもしれんな。だが、そうなのだ。確かにこの煙草は間違いなく『不思議な味わい』がする」
そう言って、アビシャグさまは「フーッ」と白い煙を大きく吐きだされました。悠一くんのほうはまだそんなふうにうまく煙を吸うことも吐くことも出来ませんでしたが、ちびちび煙草を吸うだけでもなんだか楽しく、面白い感じがしたものです。
「そのう、アビシャグさま。このホバークラフト……ホバークラフトでいいんですよね?これは一体どういった原理で地面から浮いているのでしょうか?」
「フフフ」と、アビシャグさまは再び愉快そうに微笑まれます。「私にもよくはわからんのだ。ただ、シェロムの奴がな、旧世界の遺跡群から色々なものを発掘しては復活させていったのだよ。ゆえに、私にもこの乗り物が何故宙に浮くことが出来るのか、それはわからん。だが、シェロムの説明では、この旧世界のニンゲンたちは、二酸化炭素と水さえあれば無限にエネルギーを発生させることの出来る装置を開発したのだそうだ。それが動力源になっているという話だったが……もっと詳しく知りたければ、シェロムに直接聞くがよかろう」
「その、ライダースーツゾンビや傀儡師のおやっさんにも、彼のことはちらっと聞いたことがあったのですが、そのシェロムさんという方はどんな方なのですか?」
「そうだな……」と、アビシャグさまはホバークラフトの窓から外を眺め、少しの間考えてから仰せられました。「まあ、私の印象としては、油断の出来ない切れ者といったところかな。私にとっても不思議なことだがな、ユーイチくん。君は多少なりとも我々ゾンビたちに共感というのか……何かこう、可哀想にという哀れみや優しさ、何かそのようなものを感じているように見受けられる。だがな、私の知る限りそんな人間はほとんどいなかった。ゾンビなど、生きている人間にとってはただ気味が悪いだけさ。シェロムもおそらくそうだろう。奴は賢いから、一応表面上はそんな気ぶりは見せんがな。だが、あいつも君も、まったく同じ世界からやって来たのかどうかはわからんが、あいつは今はもう元の世界へなど大して帰りたくはないらしい。それより、ここの旧世界の遺跡群とやらに強い興味があって、そちらの調査に没頭しているようだな。まあ、あいつは油断ならん奴ではあるが、話していて面白いニンゲンでもある……そういう意味で、君にとってもなかなか興味深い話相手となってくれるだろうよ」
「そ、そうですか……」
悠一くんは、シェロムという人物に対して、俄然興味が湧いてきました。ただひとつ、元の世界へ戻りたくないというのは理解できませんでしたが、それでも、生きていた年代は違えど、おそらく『元いた世界』は同じ場所の地球でしょう。そうしたことも当然聞きたかったですし、他に、旧世界の遺跡群についてなど、他にどんなものがあるのか――悠一くんもとても強い興味がありました。
アビシャグさまにハスキーな声で話しかけられる最初のうち、悠一くんは緊張し通しでしたが、そのうち旅が進むにつれ、そのことにも慣れてきました。何より、アビシャグさまが「我々は腹がすかないのでともかく、君はそろそろ腹が減ってきたんじゃないかね?」とか、「眠くなったらそこのソファを倒せばベッドになるから、横になるといい」といったように気遣ってくださいましたので、それで悠一くんはだんだん安心したのかもしれません。悠一くんにもそれが何故なのかはよくわかりませんでしたが、アビシャグさまが自分のことを気に入ってくださったらしいということだけは、なんとなくわかりましたから。
その後、西の国の南門から南の女王であるアビシャグさま一行は出、すぐに馬車とホバークラフトの速度が上がりました。このゾンビ世界には<時間>という観念がほとんど存在しないも同然なので、それが時間としてどのくらいだったのかは、悠一くんにもわかりません。けれども、馬車のほうはかなり速い速度で走り続け――もちろん、何度かは馬を休ませるのに休憩したのですが――それでも陽が暮れる前には南の国のほうへ到着していました。
窓から見える外の景色のほうは、砂漠の砂岩地帯がえんえんと続く……といった感じなのですが、途中、遠くに旧世界の超高層ビル群が見えたりするあたりは、なんだかともてシュールな光景のようでもありました。悠一くんは途中、アビシャグさまと話すこともなくなり、なんとなく気詰まりな感じがすると、「少し横にならせていただいてもよろしいでしょうか?」と聞いて、少しの間横になりました。
べつに眠っても眠らなくても、悠一くん的にはどちらでも良かったのですが、会話もなくアビシャグさまの隣にずっといるというのは、流石に気疲れのすることでしたので、なんとなく「疲れている」ということにしたのです。
悠一くんも体を横たえるだけで、本当に眠るつもりまではなかったのですが――いつしか眠りについてしまい、次に目が覚めた時には日も暮れかかっており、実はもう南の王国の国内のほうへ入っていたのでした。
(あ、あれ?なんかあれ、見たことあるような……)
寝ぼけていたせいもあり、悠一くんは一瞬今どこにいるのかがわからなくなりました。ホバークラフトのほうは、水平飛行をしている限りにおいてはなんの振動も感じられませんし、そのせいもあってか、窓の外に大きなスフィンクスやピラミッドが見えてきた時……悠一くんは自分がまだ夢を見ているか、あるいは本当にエジプトにいるのだろうかと錯覚してしまいそうになるくらいでした。
「あ、あの……アビシャグさま……」
相も変わらずぷかぷか煙草を吸い続けているアビシャグさまに向かい、悠一くんは恐る恐る声をかけてみました。
「目が覚めたのかね、ユーイチくん。今、ちょっと前に我が国内へと入ったところだ」
「そうなんですか。なんていうか、建物がちょっとエジプトチックというか……さっきのあれ、スフィンクスですよね?」
「確かにそうだな。あれはスフィンクスと呼ばれるものだ。もしかして、君が元いた世界でも、スフィンクスという生き物がいたりしたのかね?」
「えーと……」
(スフィンクスっていうのは、架空の世界の生き物で……)というのも奇妙な気がして、悠一くんは一旦黙りこみました。
「あれはな、そっちのほうに鉱石山という大きな山があって」と、アビシャグさまはスフィンクスがあったのとは、逆側の窓を煙管で指し示しました。「そこから切り出した石で、ピラミッドのほうは造られているのだ」
悠一くんが視線を窓の外に向けてみますと、そこには大きな山があって、石が切り出されているのでしょう、山の壁面がみな平らになっています。悠一くんはそんなに山の壁面が切り出されて真っ平らになっているところを見たことがなかったので……思わずまじまじとそちらを見つめてしまいましたが、その山のほうに太陽がちょうど沈みゆくところで――その光景はなんともいえず、悠一くんの心を寂寥感で締めつけるところがあったかもしれません。
「すごく、綺麗なところですね。西の国も、同じように砂漠が多くはあったんですけど……太陽の光のせいでしょうか。何が違うのかな……砂漠の色が少し違うような……」
「そうだな。西の国と我が南の国とでは、砂漠の色が少し違うな。南の国のほうが少し薔薇色がかっているのだ。だから、太陽が沈む時、我が国の砂岩で出来た建物は、この世界で一番と感じるくらい、とても美しい。もしかしたら、君はちょうどいい時にきたのかもしれんな。見てごらん、あそこが南の国の王都だ」
悠一くんが再び窓の外へ目を移すと、そこには、薔薇色の砂岩で出来た南の王国の美しい街並みがありました。悠一くんのイメージとしては、テレビや本の写真集などで見たことのある、モロッコの街並みに少し似ていたかもしれません。街の通りの左右には、椰子の樹木が植わっており、それが王城の目の前まで続いていました。
城門をくぐると、悠一くんとアビシャグさまは一度、ホバークラフトを下りるということになりました。その後、アビシャグさまは従者を引き連れて、城内へお入りになったのですが、薔薇色の砂岩で出来た城はとても美しく、中の調度品類もアビシャグさまの美意識の高さを感じさせるとても素敵な佇まいでした。
「ユーイチくん、この従者ゾンビたちのうちから、好きなゾンビを選んでくれたまえ。君の身の回りの世話や、メッセンジャー業務なんかを行なう者だ。また、もし気に入らなくなったら、別のゾンビをまた選び直せばいい。私はちょっと自室に篭もろうと思うが、何か話がある時や用事のある時などには、そのゾンビを連絡係として寄越してくれたまえ。何分、城内は広いものでね、その方法がお互い会うのに一番早いということになるのだ」
「はい。アビシャグさま、本当にありがとうございました。旅の道中も何かと気遣っていただき……いずれ、何かの形でこのご恩に報いることが出来ればと思います」
「いや、べつに私は何もしてなどいないさ。それより、これからシェロムの元に使いをやらせる。おそらく、私が呼べば三日以内には彼も王城へやって来るだろう。その時に、シェロムとは色々話せばいいさ」
「その、シェロムさんは今、どこにお住まいなんですか?」
「そのことは、従者ゾンビにでも説明してもらえ。それではな」
別れ際があまりにあっさりしていましたが、悠一くんはアビシャグさまも長旅でお疲れなのだろうとしか思っていませんでした。けれども、西の国へ出かけていって、アビシャグさまの憂鬱は一時的に解消されていたものの――こうして自国へ戻ってくると、やはりまた自身の肩に女王としての責任が重くのしかかってくるのを感じ、実はアビシャグさまは憂鬱になりはじめていたのでした。
そうとも知らない悠一くんは、彼の従者になりたいゾンビたちに「はいはいはい!!」とばかり手を挙げられ、苦慮していたかもしれません。正直、そこにいた五人のゾンビたちの違いについてなど、悠一くんにはまるでわかりませんでしたから、結局、ジャンケンしてもらって勝ったゾンビに自分の従者になってもらうことにしました。
「えっと、君、名前は?」
「ゾンビエイです」
(ゾンビ・エイって、もしかしてゾンビAってことなのかな……)
「その、さ。あの時まわりにいたゾンビ従者の名前、教えてもらってもいいかな」
「ゾンビ、エイ・ビイ・シイ、アルファベット・ラブです」
「まさか、それは少年隊?」
ゾンビ・エイはショーネンタイが何かわからなかったらしく、しきりと首をひねっています。
「そっか、わかった。ゾンビA、ゾンビB、ゾンビC、ゾンビアルファベット、ゾンビラブの五人ってことだね」
「ハイ、そうです」
ゾンビAはどこかロボットのような、機械的な話し方で言いました。
「えっと、それで、僕はどこの部屋へ行けばいいんだっけ?」
「こちらでございます」
ゾンビAはまるでホテルマンのような恭しさで、悠一くんの先に立って案内をはじめました。悠一くんは(大丈夫かな……)と思いつつ、ゾンビAのあとについてゆきます。
廊下で衛兵ゾンビたちとすれ違うたびに、彼らは悠一くんに敬礼していました。おそらく、見慣れない客人にはそのように挨拶するよう教育されているのでしょう。
「ユーイチさま、こちらでございます」
かなり長い距離を引き回された挙句の部屋の案内でしたので、悠一くんは(本当にここでいいのかな)と不安になりましたが、西の国の王宮でもそうだったように、ここも生きた人間向けの客室だったものと思われます。何故といって、綺麗に整えられたベッドがありましたから。
「どうもありがとう。それじゃ、何か用があったら呼ぶから、あとは好きにしていいよ」
「好きに、ですか……」
悠一くんの言った言葉が理解できなかったのかどうか、ゾンビAは部屋の中をうろうろしています。そこで、悠一くんが言いました。
「べつに、ここにいてくれてもいいけど、さっきの少年隊……じゃないや、ゾンビたちと遊んでてもいいし。僕が言った好きっていうのは、そういう意味だよ」
「でも、せっかく従者に選んでもらったんですし……」
(ああ、そっか。なるほど)
だんだんゾンビとのつきあいが長くなるにつれ、悠一くんにもわかってきたことがありました。それは、ゾンビには色々なタイプがあるということです。まず第一に、ゾンビたちは命令されたりするのが結構好きらしく、何分、基本的には死んでる以外、何もすることのない彼らです。「あれをしてくれ」とか「これをして欲しい」と言われたりすること、なんでもいいから「何かすることの出来る」のがどうやらとても嬉しいらしく……このゾンビAはその典型的な性格をしていたと言えるでしょう。
「じゃあ、僕と少しの間お話でもしよう。他のあの……えっと、ゾンビB、ゾンビC、ゾンビアルファベットやゾンビラブとは仲いいの?」
「そうですね。お城の中を掃除したりとか色々……仲がいいかはともかく、喧嘩したことはないですね」
「そっか。そういえばさっき、アビシャグさまがシェロムさんがどこに住んでるのかは君たちにでも聞けとかって……」
「そのことでございますか」
ゾンビAは気を利かせて、戸棚にあった生きた人間用の携帯エネルギー食を出してくれました。「ありがとう」と言って、悠一くんはそれを受け取ります。
「シェロムさまは、ここからさらに南へ下った、人肉の森というところに住んでおられます。そして、その人肉の森の近くにゾンビ工場がありまして、さらに南に下ると我々ゾンビたちの生まれいずるゾンヴィア砂漠がございます」
「なるほど……」
悠一くんはなんとなく頭の中に地理的な位置関係を思い描きつつ、少しの間考えこみました。先ほど、ホバークラフトの中でエネルギー食を半分ほど食べておりましたので、ゾンビAのくれた携帯食はあとで食べようと思っていました。この携帯エネルギー食は、そんなに大きくないのですが(大体バターひとつ分くらいの大きさです)、半分も食べれば半日くらいは腹持ちがします。他に缶詰など、食糧は旧文明世界へ行けばありますが、それも無限ではないと悠一くんは思っていましたから、ゆえになるべく節制を心がけるようにしていたのです。
「それで、そのゾンビ工場とか人肉の森というのは、どんなところなんだい?」
「…………………」
ここで、ゾンビAは少しの間黙りこみました。アビシャグさまに聞いた時には、「まあ、行ってみればわかるさ」としか教えていただけませんでしたし、ゾンビ工場については<ゾンビの働く工場>といったように漠然と想像がつきましたが、人肉の森という名称がなんとなく気にかかっていたのです。
「ゾンビ工場というのは、ゾンヴィア砂漠からやって来たゾンビたちをエンバーミングするところです、ユーイチさま」
「エンバーミング?」
その単語を、今日、アビシャグさまから聞いた記憶がありましたが、悠一くんはいつなんの話をしていた時にその単語を耳にしたのか……ちょっと思いだせなかったのです。
「南のゾンヴィア砂漠に湧いてでるゾンビたちは、まだ皮膚が腐敗をはじめておりません。けれどもすでに心臓は止まり、死んでいますから、やがて除々に腐りはじめます。そしてそうしたゾンビがまず真っ先にやって来るのがここ、南の王国です。けれども、人間の体というのは腐敗をはじめると有害な細菌や毒素などを出すようで……ようするに、見た目も醜いですし、衛生上もどうかということで、エンバーミングをするのです。これはシェロムさまが旧世界の病院などから発見されたものらしいのですが、特殊な薬品によって無駄な表面の肉を落として消毒し、静脈からは血液を排出させ、動脈からは防腐剤を注入するといった衛生的なゾンビを誕生させるための工場が、通称ゾンビ工場というわけです」
「衛生的なゾンビ?」
奇妙な単語を聞いた気がして、悠一くんはそう聞き返していました。
「はい。わたしも以前は何もわからず南のゾンヴィア砂漠をさまよっていたところを捕獲され、ゾンビ工場送りとなったのです。また、その昔一時期、工場のほうで機械の操作をするアルバイトをしていたこともございます」
「そっか。なるほど……そういうことか。それで、人肉の森というのは?」
「…………………」
ゾンビAはまた黙りこみました。なんとなく雰囲気としてですが、悠一くんは彼が人肉の森についてはあまり答えたくないように感じたものです。
「私もよく存じあげはしないのですが……何かそのう……ある実験がそこでは行なわれているのではないかという噂があります。私どもはゾンビでございまして、死んだ今となってはユーイチさまのような生きた人間さまのお考えになることがもはやわかりません。ですが、そこではユーイチさまのような生きた人間さまが何人か集められ……良い人間かどうかのテストが行なわれているとか」
「良い人間かどうかのテスト?」
悠一くんはよくわからなくて、そう聞き返しました。
「これはあくまで私が思うに、ということでございますが、一度死んでしまうと生前自分が何者であったのかという記憶が私どもにはすでにありません。そのようなわけで、かつては私どもだって生きた人間であったはずなのに、死んだ今となっては生きている人間さまがどのような思考回路によってものを考えるのかがわからなくなっているところがあります。つまり、ゾンビ同士であれば、『彼は信頼できる』とか『好感が持てる』とか、そういった判断もある程度できるとはいえ……その人物がどんな人間なのか、信頼できるかどうかというのを試すのに、アビシャグさまとシェロムさまのどちらが考えたのかはわかりませんが、とにかく、何かそのようなテストをするのだという話です」
「…………………」
ゾンビAの今の説明だけでは、悠一くんにもよくわかりませんでした。そして、自分がもしシェロムさんを訪ねて人肉の森へ行ったとすれば、その「いい人間かどうかの試験」を受けさせられることになるのかどうか……悠一くんにはすべてが謎に包まれていました。
このあと、よく気のつく執事のようなゾンビAは、自分がいると悠一くんが気を遣って疲れるだろうとの理由から、部屋の外で待機することにしたようです。ゾンビAは今話をした感じから、すっかり悠一くんのことが好きになりました。昔生きていた頃の記憶がそうさせるのかどうか、ゾンビたちは生きている人間がただ生きているというだけの理由で好きになる傾向があります。たとえば、ゴロツキング王やアビシャグさま、あるいはライダースーツゾンビやハゲロウさん、傀儡師のおやっさんのように、高い知性を持つゾンビであれば、生きている人間の心理の裏の裏まで読むことも出来ます。けれども、言葉をしゃべれないゾンビたち、あるいは喋ることは出来ても知性の低いゾンビなどは、悪い人間に利用されて捨てられるといったことがあるのです。そして、場合によってはその時に受けた裏切りのショックと悲しみから、突然第二の死迎えてしまうゾンビも存在するのでした。
ゾンビAはそのようなことがありうるということを、一応ゾンビ学校で習って知ってはいましたが、悠一くんに対しては(この人はきっと絶対大丈夫だ)と信じることが出来ました。ですから、あらためてジャンケンに勝って良かったと思いましたし、悠一くんの邪魔にならない範囲内でそば近くにおり、またお話でも出来るといいな……と、そんなふうに思っていたのでした。
そして、この日からちょうど三日後、使いのゾンビから南の女王アビシャグさまがお呼びだとの知らせを受けて、シェロムさんが南の都にやってきました。彼が王城に到着すると、アビシャグさまの命を受けたゾンビラブが、ゾンビAに「シェロム様が到着したぞう!」と知らせに来ます。
「女王さまの謁見の間にお連れするようにとの命令だぞう!ぼくはちゃんと仕事したぞう!それじゃあな、ゾンビA、だぞう!」
ゾンビラブがスキップしながらどこかへいなくなると、ゾンビAは早速そのことを悠一くんに知らせました。
「そっか。どうもありがとう。じゃあ、女王の謁見の間まで案内してもらえるかな?」
この三日ほどの間、悠一くんは城の中をゾンビAとともに散策していましたが、いまだにどこに何があるか覚えきれず、迷子になりそうなくらいでした。けれども、ゾンビAは城内については詳しく、悠一くんが一度迷った時も、必ず目的の場所まで彼のことを連れていってくれたものです。
こうして、女王の謁見の間へ悠一くんが出向いてみますと、そこには宝石が無数に散りばめられた玉座に座るアビシャグさまと、その前に跪く黒いスーツ姿の男の姿とがありました。
(この人がシェロムさん……!)
シェロムという男性は、大体三十代後半くらいで、背がすらりと高いハンサムな男の人でした。黒い髪に黒い瞳をしていますが、その顔立ちは白人のそれであり、髪のほうはオールバックにしているものの、日本のヤンキー系の人たちのそれではありません。悠一くんの見たところ、シェロムという男性からはイギリス紳士のような優雅で高貴な風格が感じられたといって良かったでしょう。
悠一くんがここへやって来る前に、<メシア候補の青年>といったようにシェロムさんは聞かされていたため、思わず彼のほうをじっと見つめていたものでした。
「ユーイチくん、これが君と同じ生きた人間のシェロムだ。まあ、ゾンビの女王であるわたしがここにいたのでは、おそらく話しにくいだろうから、城内の空いている部屋のどこかでも使うといい。それで、もしユーイチくんがゾンビ工場を見学したいというのであれば、案内のほうはこのシェロムに頼むがいいよ」
「ありがとうございます、アビシャグさま」
シェロムさんはいかにも優雅に、典礼にのっとった仕種で女王に礼をし、悠一くんと向きあいました。悠一くんは貴族と出会った平民のように少しばかりドギマギし、「それじゃ行こうか」と言うシェロムさんのあとに続きました。
悠一くんは元いた世界で外国の人と話したという経験がほとんどありません。ですから、日本人が外国の人と話す時妙にドキドキする……というのと同じ緊張感を、実はこの時感じていたのでした。
(でも変だな。僕は間違いなく日本語を話してるはずなのに、シェロムさんに対して僕は何故か『日本語、お上手なんですね』といったようには感じない。大体、ここにいるゾンビたちだって色んな国の死んだ人たちなんだろうから、なんで言葉が共通的に通じるのかっていうのは、不思議といえば不思議なんだよな……)
「こちらの世界へやって来て、まだ間もないんだってね」
シェロムさんは悠一くんを連れて、城下町の美しい街並みを眺められる城の小高い一角まで階段を上っていきました。なんでもそこはシェロムさんにとって、この城の中で一番のお気に入りの場所なのだそうです。
「そうですね。一応、ここへやって来てから今日でたぶん120日とか、そんな感じです。日時の経過を知ることの出来るのが、唯一日の出と日暮れだけなので、そこだけ忘れないようにって心がけてるんですけど……でも、ここの世界はほんとに変な感じがします。もちろん、ゾンビたちに時間の観念がないのはわかりますよ。だけど、まるで時間か止まってるみたいに、つい僕のほうでもそうしたことを忘れそうになるんです」
「そりゃそうだろうね。私もここへ来てかなりの時間が経つが、いつしか日の数を数えるということ自体しなくなってしまったよ。たぶん……ユーイチくんといったかな?君にもそのうちわかると思う。ここへ来て十年経とうが二十年経とうが、「歳」というものを取るということがこの世界ではないらしいということをね」
「っていうことは、つまり……」
悠一くんは、シェロムさんのことをまじまじと見つめ返しました。ライダースーツゾンビや傀儡師のおやっさんの話、それにアビシャグさまの語ってくださったことも考えあわせますと、確かにシェロムさんはここでの滞在期間が相当長いのではないかと思われましたから。
「私がこちらへやって来たのは、もしユーイチくんと私の元いた世界が同じなら――第二次世界大戦中のことだ。私はドイツ軍の空軍のパイロットでね、イギリスの上空を飛んでいたはずなんだが、敵の兵に飛行機を撃墜されてしまったんだ。だから、次に南の砂漠で目を覚ました時、自分が大して怪我もしてないのを見て、死んだのだろうと思った。しかもそのあと、南の砂漠にゾンビたちがあふれているのを見て……自分は地獄にでも落ちたのかと思った。ところが、死んだという割に喉は渇くし腹もすく。その後、砂漠のオアシスで水と僅かばかりの木の実なんかを見つけて――いや、こう言うと簡単そうだけどね、そのオアシスが見つかったのも、もう自分は死んであのゾンビたちと同じようになるんじゃないかというスレスレの時だったんだ。ゾンビたちは腐ってただれてひどく醜い姿をしてるけど、とりあえずこっちを襲ってくることはないらしいっていうのは割合早くわかってた。でも、こんな砂漠の、ゾンビしかいないような土地でどうやって生き延びていったらいいのか……あの時は本当に絶望したよ」
この時、シェロムさんはあえて端折りましたが、彼には他に、誰にも話したくないことがありました。実は彼はこの時、耐えがたい空腹に襲われ……何人かのゾンビを殺す、というのか倒すと、彼らから肉を剥ぎとって焼いて食べていたのです。
「ただ、奇妙なことにね……その後、そこのオアシスでは、別のイギリス兵士やフランス兵士、味方のドイツ兵なんかと出会った。お互い軍服を着ていたから、相手がどこの誰かというのはすぐにわかったんだが、こんな状況でお互い銃口を向けあっても虚しいだけだろう?そこで、一時的に休戦協定を結ぶことにして、この世界は一体どういうところなのかとか、そんなことを話しあった。イギリス兵の名前はスミス、もうひとりのドイツ兵はトマス、フランス兵の名前はレオンと言った。他にアメリカ兵のバリーとイタリア人の医師がいた。お互い、時間的には若干の遅い・速いの差はあるものの、大体同時期に戦争で生きるか死ぬかのところを戦っている最中にこちらへやって来たということがわかったんだが……君もわかるだろう?もうこうなってしまった以上は、このゾンビ世界にそれなりに適応して生きていくしかないんだって。もちろんみんな、また元の世界へ戻れる期待を捨ててはいなかったし、次に戻った時には戦争が終わってるといいな、なんていう話をしてたもんだ」
遠い昔の記憶を呼び戻すためか、それともそんな遥か昔の記憶のことが懐かしかったのかどうか――シェロムさんは街の大通りのバザールを眺めつつ、暫く黙ったままでいました。悠一くんとしても、元いた世界とこちらの時間軸とに関連性があるとは思いませんでしたが、それでも第二次世界大戦の起きたのが1939年~1945年の間というのは覚えていましたから……ということは、可能性のひとつとして、もしかしたらシェロムさんはこちらの世界でもう、七十年以上も過ごしているのかもしれません。
「でね、最初のうち、みんな仲のほうは良かったんだ。だって、戦争なんていってもそれはあくまで国家間のことであって、お互い個人的な恨みつらみがあったというわけじゃないからね。それに、ゾンビがあんなにたくさんいるのに対して、私たち生きている人間は少数だったから、最初のうちは特にあいつらのことを徹底的にけなして、いわば<生きてる人間同盟>を組んだような感じで結託していたんだよ。その後、いつ果てるとも知れない砂漠を北上して……まあ、今は人肉の森なんていう奇妙な名前で呼ばれてる森を我々は発見した。樹木がふんだんにあったから、まずはそれで家を建てようということになり、その前までは敵対関係にあった兵同士とは思えないくらい、なんでも協力しあって事を進めたもんだったよ」
ここでもシェロムさんは一度言葉を途切らせました。実をいうとこの頃になると彼らは、ゾンビがみな大人しい傾向にあるとわかっていましたので、積極的にゾンビ・ハントを行なってはその肉を食らっていたのですが――そんな自分の人間性を疑われそうなことは、当然話す必要はないと彼は判断していたのです。
「まあ、その森の中には綺麗な川や泉もあったし、鹿とかね、生き物も少しはいたから、そんなものを獲ってはみんなで平等に分けてたんだ。で、その森を散策してるうちに、我々と同じように向こうの世界からこちら側へやって来たらしい生きた人間の親子と出会った。父親のほうは白髪頭で年をとっていたが、娘のほうはまだ若くて美しかった。そういえば、君……ユーイチくんは今いくつなのかな?」
「十九歳です」
悠一くんはいつもと同じく、どこか律儀で真面目な態度でそう答えました。
「そうか。まだ十四歳くらいかと思ったよ。まあ、東洋人は我々白人よりも若く見えるものな。でも、今十九歳なら……きっとわかってもらえると思う。こんな死の世界へ突然飛ばされてきて、他にはなんの楽しみもないんだ。我々の頭の中はその美しい娘――名前をミシェルといったんだが、とにかく彼女のことでいっぱいになった。だが、とにかく親父のほうが頑固でね。樹木を切るための斧とか、狩に必要な道具とか、そんなものは貸してくれたし、彼がこの世界で知識として知っていることはなんでも教えてくれた。だが、彼は唯一『娘にだけは近づかないでくれ』と言った。我々は彼から色々教えてもらう必要があったし、丸太小屋を建てるための知恵とか、そんなことも必要だった。だから、とりあえず一旦は『わかりました』みたいなことを言ったんだがね……」
この時、シェロムさんは一度、深い溜息を着いていました。それは(どうしてあんなことになったのか)という、過去を後悔する人のそれのようでした。
「その親子の丸太小屋を出たあとは、とにかくミシェルのことで話は持ちきりだった。こんなゾンビの掃き溜めみたいな場所で一粒の真珠でも見つけたみたいな気持ちだったからね。お互い、『抜け駆けはしない』という約束をした上で、ミシェルのことをどうするかについて話しあいがなされ、『親父はああ言ってるが、向こうだって俺たちに興味があるだろう。そしてそうこうするうちに仲良くなれたとしたら、彼女が相手を選べばいい。ただし、その場合は恨みっこなしだぜ』ということに話は落ち着いた。私たちのうち、スミスとトマスと私は独身だったが、レオンとバリーとイタリア人医師のダ二エレは妻帯者で子供もいた。だがもう、元の世界へ戻れるかどうかもわからないとなったら――まあ、独身男にだけチャンスを与えるのは平等じゃないよな。結局のところ、ミシェルはダニエレを選んだ。というのも、ミシェルは薬草なんかに詳しかったし、花が大好きだったんだ。で、ダニエレは医師だろ?つまり、そんなことを話してるうちにお互い愛情を感じるようになったというわけだな。だが、ダニエレは賢かったよ。もしそんなことがわかったら、他の男たちからどんな目に会わされるかわからないというのは、肌で感じていたろう。たぶん、ミシェルにもそんなふうに話して、お互いの関係のことは隠したんだ。最初は頑固だった親父のほうも、だんだん我々に心を開いてくれていたし、彼もおそらくは相手がダニエレならまあいいかというくらいの気持ちはあったと思う。それで……このあとのことは私もあまり語りたくないんだが、悠一くんはこのあと、どんなことになったと思う?」
ミシェルは医師のダニエレと結婚してめでたしめでたし……とはならなかったのだろうことは、悠一くんにもなんとなく予想はつきました。何より、シェロムさんが「このあとのことはあまり語りたくないんだが」と前置きしたことによって。
「ええと、そうですね……『こんにゃろう、おまえ抜け駆けしないって約束だったのに抜け駆けしやがってーっ!!』みたいなことになったっていうことですよね、たぶん」
「そうなんだ」と、シェロムさんは悠一くんの言い方が面白かったので、少し微笑みました。「スミスもトマスも怒り狂ってたし、バリーもそうだった。でも、ダニエレは医師だったからね。私たちのうち誰かにもしものことがあったら、なんらかの医療的な手立てを打てるのは彼しかいない。だから、私とレオンは一応そう言って止めた。だけど、私たちは軍隊生活が長くて、正直女性に飢えてた。で、性格的なことでいうとしたら、私やレオンは性格が温厚なほうだったんだが、スミスもトマスもバリーもやんちゃというのか、とにかく血気盛んな性格をしていたからね。その……ダニエレとの関係に気づくなり、三人は結託してひとつの行動に出た。森の中で、ミシェルのことをレイプしたんだ。それで、彼女のことを秘密の場所へ隠して監禁した。もちろんこうなると、『何かおかしい』と親父さんとダニエレのほうでも察知して……ふたりは殺された。レオンと私は彼らの悪事に手を貸さなかったとはいえ、三人のことが怖くて積極的に止めるということはなかった。結果、ミシェルもまた首を吊って自殺したんだ」
「…………………」
悠一くんは言葉もありませんでした。と、同時に、もしかしたら自分はラッキーだったのかもしれないと初めて思ったかもしれません。映画のゾンビのイメージがあまりに強烈で、最初は襲われて死ぬと思ったのですが、意外にもこの世界のゾンビたちは親切で思いやりがあり、色々なことを教えてくれたからです。
「その後、スミスとトマスとバリーは親父さんから聞いていた旧世界の都市群を目指して、さらに北上していった。あの三人についていったほうが生き残れる生存率のほうは上がったかもしれないが、私とレオンはそんな気にもなれず、そのまま森のほうに残った。何分、こんな死の支配するゾンビ世界だからね。もしかしたら親父さんやミシェルやダ二エレたちがゾンビとして生き返ってくるんじゃないかと私とレオンは思ったんだが……彼らは死んだまま決して甦ってはこなかった。その後、レオンは病気で死に、私もこのまま森にいても先がないのではないかと思いはじめ、旧世界の遺跡群があるという北を目指した。そしてそこで色々なことを学んだんだ。君、腹持ちのいいエネルギー食のことは知ってる?」
「はい。僕の場合は、偶然最初に出会ったゾンビがとても親切で、色々なことを教えてくれたんです。それで、彼らの案内で旧遺跡群の中を食糧を探して歩いて……なんかそれが食糧っぽいと思って食べてみたら、半分も食べたら半日は持つように感じました。つまり、一本摂取したら一日はあれで大丈夫かな、みたいな……」
「まあ、フルーツっぽい感じの味がするとはいえ、ちょっと味気ないよね。でもその点さえ我慢すれば、あれは確かに栄養満点なんだよ。私も、とりあえず食糧をある程度確保できると、次はこの世界についてもっと学ぼうと考えた。ここは、この世界は一体どういう場所なんだろうと思ったし、かなり高度な文明を誇っていたらしいのに、人類が滅んだのは何故なんだろうとか、知りたいことはいくらでもあったからね。そこで、まずはこちらの世界の文字を勉強して、本を読めるようになりたいと思った。本当に、骨の折れる作業だったけどね、でも、ある一線を越えると物凄く面白くなってきた。文字さえ読めれば、この世界に残っている色々な装置も使いこなせるし、そういう意味では宝の山があの旧世界の中にはいくらでも眠っているんだ」
シェロムさんは、少年のように瞳を輝かせてそう言いました。また、悠一くんのほうでも、シェロムさんがこの旧世界の文字を読めるということは、とてもわくわくすることでした。今まで、食糧などを探す過程で、意味のわからない文字を見かけては、なんて書いてあるのだろうと気になっていたからです。
「あの、でも、僕思うんですけど……僕とゾンビ、あるいは僕とシェロムさんの間でも、こうして話してる分には言葉に不自由ってないじゃないですか。これって、なんでなのかなって思ったり……」
「さあね」と、シェロムさんは笑って言いました。「私も、こちらの世界に残されてる文字のほうはある程度読めるようにはなったが……かといってゾンビたちがあの言葉でしゃべってるようには思わないな。私の母国語はドイツ語で、他の言葉は一切話せない。ユーイチくん、君は?」
「僕も、日本語以外は話せません。でも、僕とシェロムさんの間で言葉は通じているし……ゾンビたちだって、元は色んな国で死んだ人たちなんじゃないかと思うんですよね。でもコミュニケーション上困ることはまったくないというか……」
「まあ、こういうことは考えても仕方のないことじゃないかな。私はとりあえず不便のないことよりも、これがわかったら便利になるということのほうに興味がある。ただ、それをゾンビたちにどこまで情報公開すべきかという問題があるんだけどね」
ここでシェロムさんは、周囲を気にするように急にあたりをきょろきょろしだしました。この時、シェロムさんと悠一くんは城の外郭塔のところにいたのですが、そこからもゾンビの衛兵たちが規律正しく歩く姿が見受けられます。
「アビシャグさまは、もし君がゾンビ工場を見学したり、人肉の森へ来たりしたいなら……従者ゾンビを何人かボディガードとして連れていけっていうことだった。だから、ゾンビのいるところではこういう話は出来ないと思って、今したほうがいいと思うんだ。あいつらは寝ないし、こちらに合わせて休んでいるような時も耳はちゃんとそばだてているような奴らだからね。ユーイチくん、実際のところ君、ゾンビたちについてどう思うの?」
「えっと……正直いって、みんな生きてる人間よりも善良な気がするっていうか……」
この時何故か、シェロムさんはこの悠一くんの答えに失望したようでした。けれど、気を取り直したように、彼は話を続けました。
「まあ、確かに見方によってはそうなのかな。いや、むしろゾンビたちが善良であればこそ――彼らは生きている人間に支配されたほうが幸せになれるんじゃないかと思うことはないかい?」
「そう、ですね……」
悠一くんは考えてみたこともなかったので、言葉に詰まってしまいました。けれど、少しの間考えてから、こう答えました。
「でも、ゾンビたちの世界のことはゾンビたちに任せておいたほうがいいんじゃないかなって僕は思うんですけど……仮に生きた人間がゾンビたちを支配したとしても、うまくいかないんじゃないでしょうか。やっぱり、数としてはゾンビたちのほうが圧倒的に多いわけですし、クーデターが起きたりした場合、数の少ない生きた人間のほうは絶対的に不利と言いますか……」
「なるほど、そういうことか。君は思った以上に頭がいいね。だけど、方法のほうはなくもないんだよ。ただ、私もあまり気乗りはしない。何故といって、こんなゾンビ世界の支配者なんかになっても、楽しくも面白くもなんともないからね。でも、ここの旧世界の遺跡をうまく利用するなら――ゾンビにはなんというか、安楽死でもしてもらって、人口調節することも出来るだろうし、ゾンビたちを生きた人間には逆らえないようにしておいて、奴隷として使役することも可能だろう。それで、生きた人間同士で結婚して少しずつ子孫を増やしていければ……究極、ゾンビのいない生きた人間だけの世界を造り上げることも不可能ではない……一応、理論上はね」
「あくまでこれは、僕が直感的にそう思うっていうことなんですけど、なんかそれは違う気がします。ここはもうゾンビたちの世界なんですから、生きた人間が彼らから主権を奪って何かしようとしてもうまくいかない気がするっていうか……なんとなくそう思うんですよね。むしろ、生きた人間のほうでゾンビたちが生きるように――えっと、彼らはもう死んでるんですけど、ゾンビたちが出来るだけ輝くような生活を送れるように……僕たちのほうで助けたほうが、たぶんきっとこの世界はうまく回っていくんじゃないかなっていう気がします」
「なるほど……君は確かに面白い人間だね。アビシャグさまが救世主候補として認めるだけのことはあるというかね」
――このあとも、悠一くんとシェロムさんの話は長く続きました。悠一くんは旧世界についてシェロムさんが知っていることについて知りたかったですし、また逆にシェロムさんのほうでは、第二次世界大戦後、世界がどう変わっていったのかを興味深く悠一くんから聞かせてもらっていたのでした。
「そうか。戦争が終わったあと、ヨーロッパはEUとして一つの国に……私が生きていた頃には想像も出来ないことだけど、ドイツは戦後、見事に復興を成し遂げて、今そのEUのリーダーのような存在と聞いて、とても嬉しいよ。そのことを聞けただけでも、私としてはとてもほっとした。親兄弟が私が戦死したと聞いてとても悲しんだろうなと思うと、そのことだけは今もつらく感じるけれど」
悠一くんが第二次世界大戦の終わった、七十年後の世界からやって来たと聞いて、シェロムさんは驚いていました。けれども、外見上は年を取っていないにせよ、あれから相当の長い時が流れたという自覚はありましたから、不思議でありつつも「確かにそうかもしれない」と納得はしていたのです。
そして、シェロムさんが話してくれた旧世界の遺跡の中に発見したものに関しては、悠一くんとしては驚きの連続だったといえます。空飛ぶ車やエアバイクが各家庭には一台以上あるのが当たり前であり、シェロムさんが病院という病院を調べたところ……ここの人たちはすでに不老不死の技術を手に入れていたということでしたから。
「不老不死……そんなことが本当に可能なんでしょうか?」
そのことと、この世界に住むゾンビとの間にどんな関係があるのかということも、悠一くんには気になるところだったと言えます。
「私も、もしあれから自分がだんだんに老いて、身体機能のほうも衰えていたら、副作用か何かで死んでもいいからその方法を試そうとしたかもしれない。私も文字の解読と同時に専門知識を学ぶのに相当時間がかかったのだが――ようするに、それは遺伝子治療ということなのだ。こちらの世界ではガンやパーキンソン病など、かつては治らないとされていた病気もすべて治るし、病気はもちろんのこと、体の臓器が衰えてきたら、どこでも新しいパーツと交換が可能なんだ。ようするに、体の臓器についてはそのような形で交換が可能だし、髪の色や目の色なども、ファッション感覚で交換が可能なんだな。そして、老化を司る遺伝子というのがあって、その遺伝子をリセットすることによって、老化を止めるだけでなく、さらには若返ることまでもを可能にしたということらしい」
「臓器については、iPS細胞とか、そうした技術の究極版っていうことかもしれないけど……でも、不老不死だなんてそんなこと……どんどん人口が増えていって困るとか、そういうことはなかったんでしょうか」
「私が調べた役所の記録によると……ここの人たちというのは、死にたくなったら死ねたらしい。つまり、自ら命を絶つということではなく、そうした特殊なスリーピング装置があるということなんだ。本人が五年後に目覚めたいとセットすれば、確かに家族や友人、あるいは役所の人間が起こしに来てくれる。それで、少しの間起きていて、また死にたい……いや、この場合は眠りたいかな。そう思ったらまた何年か後にかにでも起きればいい。また、中にはもちろん、もう二度と起きたくないという選択をする人も結構いたようだ」
「じゃあ、ここのゾンビたちいうのは、まさか……」
(その中の、死に損なった人の成れの果て)と悠一くんはそう思いましたが、シェロムさんは首を振っていました。
「私もその記録を見た時にはそう思った。だが、結局のところここのゾンビたちがどこからやって来るのかというのは、私にもいまだに謎だ。何分、新しいゾンビというのは、南の砂漠に突然ボウフラか何かのように湧いてくるものだから……また、南の砂漠をいくら進んでいっても、海へ出たり北の王国へ繋がっているということもない。だから、ゾンビ発生の原因については私にもわからないし、そうした種類のわからないことというのは他にいくつもある。たとえば、私は大統領官邸の地下で核爆弾の発射ボタンを発見したが、果たしてあれを押したらどうなるのか、とかね。ただ、ああした最新の科学をすべて結集したら、私たち生きた人間がこのゾンビ世界の支配者になる方法はあると思うんだ。ただ、そんな面倒なことをして何になるのかというのが、一番の難題というかね……」
「でも、それじゃあここの世界は一体どうして滅んでしまったんでしょう?」
「これはあくまで、ひとつの可能性ということなんだが……もしかしたら、他の惑星に移住したとか、そういった可能性もあるかもしれない。実際、宇宙ロケットの発射台というのもあちこちにたくさんあるんだ。だけど、発射台はあっても発射ロケットはもう一台も残っていない。でも、残された資料を色々調べてみても、他の惑星への移住計画についての資料は出てくるんだが、実際に誰がいつそのロケットに乗って移住したかといったような資料は見つからなかった。もちろん、俺だって役所という役所の書類をすべて調べたというわけじゃないが、それもまた、この世界についてわからない謎のひとつということになるな」
「…………………」
(一体どういうことだろう)
悠一くんは、少しの間考えこむと、この時ハッと、あることを思いだしました。いつだったか、傀儡師のおやっさんが話してくれた、雲の上にある城の話です。そこへ行くためには、北の王、南の王、東の王、南の女王の持つ宝物を揃える必要があるという話……それを、いつかこの世界に現われる救世主が成すであろうということ……。
「シェロムさん、この世界のゾンビたちの間にある、救世主伝説って知ってますか?」
「もちろん知ってるとも。しかも、実をいうとそれは本当じゃないかとも思っている。何故といえばだ、その救世主の存在というのは、すべてのゾンビが知っていることだからだよ。特に学校で教えられたとか、他のゾンビから噂で聞いたというのではなく、ゾンビたちの全員が、まるで最初からそうとプログラムされているかの如く、みんながみんな、最初から知っていることなんだ。それで……ユーイチくん、君は自分がそのメシアだと思ったりはしないかね?」
「僕が?まさか……」
そう言って悠一くんは笑いました。悠一くんはこのゾンビ世界になんらの運命も使命も感じることが出来ませんでしたから。ゾンビたちが嫌いというのではありません。けれどもやはり、彼らの眼球のない暗い瞳にじっと見つめられるとなんだか落ち着きませんでしたし、悠一くんの願いは今もただひとつ、どうにかして元の世界へ帰りたいという、他には何もありませんでした。
「いや、アビシャグさまから聞いた話によると、少なくとも西の王のゴロツキングは君がもしかしたらメシアかもしれないと思っているらしいよ」
「ゴロツキングさまが……?」
悠一くんはそれでもやはり、自分がこの世界の救世主であるとか、そんなふうにはまるで思えませんでした。傀儡師のおやっさんから救世主についての話を聞かされた時――あの雲の上の城まで竜に乗って行ければ、もしかしたら元の世界へ帰れるのではないかという、悠一くんが思ったのはただそれだけのことでしたから。
「でも、もし僕がメシアなら、この世界のゾンビたちを救う方法を最初から知ってなきゃおかしいんじゃないでしょうか。ゾンビたちが最初からいつか自分たちを救うメシアが必ず現われると知っているみたいに……ということは、僕はその救世主なんかではないということなんですよ」
「ふむ。だがまあ、私にもはっきりしたことは言えないが……悠一くん、もし君がメシアだとしたら、私は喜んで君に手を貸したいと思う。もしかしたら私が今の今まで旧世界の遺跡のことを調べ、多くのことを学ぶべく努力してきたのは――そのためだったのかもしれないと、今ふと思ったからね」
このあと、お話のほうはゾンビ世界の四天王の膠着状態のことへと移ってゆきました。すなわち、北の王ドルトムント、東の王アーメンガード、西の王ゴロツキング、南の女王アビシャグさまとの間の力はほぼ拮抗しており、これからもこの膠着状態はよほどのことでもない限り変わらないであろうということ……。
「シェロムさんがこの世界へやって来た時からすでに、今のような状態だったということなんですか?」
「まあ、そうだな。ちょっとした小競り合い程度のことならあっただろうが、かといってそれで国境が変わったというような話も聞かないし、お互い、どう考えてもこの状況が変わるとは思えないと思っているだろう。おそらく、北の王のドルトムント以外はな」
「その……他のゾンビたちから聞いた話なんですけど、ドルトムント王は野心家で、ゾンビの中のゾンビとして、このゾンビ世界を支配したいと思ってるとかって……」
この時、悠一くんはライダースーツゾンビの話してくれたことを思いだしていました。北の王であるドルトムントは冷酷な王で、ゾンビ兵たちを厳しく鍛え、北の国の絶対君主として君臨している……といったような話を。
「私は北の国の王であるドルトムントに会ったことはないが、まあ、噂通りの人物……というかゾンビか。噂通りのゾンビといっていい人のようだな。あの王はゾンビのことを感情や何がしかの思いのある存在とは見なしていないそうだ。いや、見なしていたとしても、ほんの一部の自分の役に立つ忠実で有能な部下だけだろう。東の王にも私は会ったことはないが、それでもまだ、東の王のアーメンガードはドルトムント王よりは高潔で常識的であるように感じる。というか、東の王は高い壁で囲った自分の国の領地からまず滅多に出てこないからな。壁の外のことには諜報以外では大して興味がないそうだ。それで、北と東の王が犬猿の仲であるのに対して、西と南の王と女王は仲がいい。だが、この二つの国が同盟を組んで北と東の王を倒せるかといえば……性格と兵力の面で難しいわけだ」
「性格と兵力?」
悠一くんは首を傾げました。もっとも、悠一くんはライダースーツゾンビや傀儡師のおやっさんの話でしか北の王と東の王のことを知りませんでしたから、それも無理はありません。
「つまり、ゾンビというのは何故か南の砂漠からしか生まれない。だから、北の王と東の王とは、兵力の補充と訓練ということではかなり神経質なんだ。中立地帯あたりにいるゾンビをさらってきては、強制的に屈強な兵士に仕立てあげるわけだが、兵士の扱いとしては、北よりも東のほうが段違いにいいらしい。北の国の王はゾンビをまるで物のように扱うのに対して、東の王は徳が高く人道的に扱ってくれるという話だからな。そんなわけで、東の王の兵士たちは王であるアーメンガードに対して非常に忠誠心が高い。そして、西と南の王と女王は……まあ、北と東の王に比べるとそんなにきっちりしてなくて、兵の訓練なんかもちょっといい加減というかな。が、まあ数の上では北と東の軍よりも遥かに勝っている。今のように領地がきっちりと別れて、はっきりとした中立地帯のラインが築かれる前までは……ゾンビ同士の戦争というのは割とよく起きていたらしい。何分、お互いもう死んでるわけだし、ゾンビというのは痛みも感じなければ疲れることも知らないわけだから――一度戦争が起きるごとに、それはもう凄惨なことになる。で、死屍累々と頭のないゾンビの残骸が積み上げられていき、文字通り足の踏み場もないといった状況になったところで、そろそろ休戦するかといった形になるわけだ。私も、こちらへ来た最初の頃に、一度しか見たことはないんだがな」
『ゾンビ同士の戦いというのは、基本的に消耗戦なんだ』とライダースーツゾンビが言っていたのを、この時悠一くんは思いだしていました。そして、それはほんの少し想像してみただけでも……悠一くんにとって非常に胸の痛む光景でした。
「でも、確かにそうですよね。ゴロツキング王もアビシャグ女王も……おそらく、出来ることなら二度と戦争のようなことはしたくない、戦争なんか起きて欲しくないと思ってるんじゃないでしょうか。そして、話として聞いた印象としては、東の国のアーメンガード王は、北の脅威に備えて兵士を強化しているのでしょうし、そう考えた場合、この東の国の王を西と南の連合軍に取り込めれば……」
と、悠一くんはそこまで考えて、一度黙りこみました。
(でも結局、東の国の王は生きた人間嫌いだから……僕が何か頼みにいくっていうことも出来ないんだよな)
「君が今考えてること、当ててみせようか。東の王のアーメンガードを西と南の連合軍の味方に出来ればって、そう思ったんじゃないかい?」
「え、ええ、まあ……」
この分だとおそらく、東の王が何故生きた人間嫌いになったのかも、シェロムさんは知っているに違いない――悠一くんはそう思いました。
「ところがだね……東の王は南の女王とだけは絶対に手を組むことはないんだ。それに、西のゴロツキングと東のアーメンガード王も、どうも性格的に合いそうにない。これはアビシャグさまから直接聞いた話なんだが、東の王は前に一度、アビシャグさまにこう聞いたことがあったらしい。『君は女なのかね?それとも男なのかね?』って。で、アビシャグさまはムッとしたんだが、一応相手は厚遇しなきゃならない王だということで、『私は女だが、何か文句あるか』と答えたと。で、『ふう~ん。なんか怪しいな』、『死んだらもう男も女もニューハーフも関係あるまい』っていう話の流れになって……アーメンガード王は、『なにっ、ニューハーフだと!?』って豹変しちゃったんだな。『わしはニューハーフなんかと絶対に同盟なんか組まんぞ』って東の王は激怒して席を立っちゃったっていう話。そんなわけでね、西・東・南の同盟軍の実現というのは難しいんだ」
「えっと、ニューハーフって……」
悠一くんは意味がわからなくて、暫く考えこみました。
「ああ、もしかして気づかなかったのかい?まあ、確かに死んでゾンビになったら男も女もニューハーフもないよな。ゾンビたちは新しく生命を生む力もなければ、そのために男と女で交尾することもないし。第一、腐敗の過程で肉がこそげ落ちていくから、ゾンビの最終形態っていうのは、雌雄のない中性体みたいな感じだものな。でも、そこでなんで東の王が男か女かどうかっていうことに拘ったかといえば、今はもう思い出せない生前の記憶と関係があるんだろうね。あるいは、物凄く厳格なクリスチャン家庭で育てられたとか……」
「えっと、そういえば旧世界のほうの宗教っていうのはどうなってるんですか?」
「宗教か。そのあたりのことは私もあまり詳しく調べたことはない。というより、あまり興味なかったからね。でも、各家庭の個人の日記なんかには、<神>という言葉が出てきたことがあったと思うし……こちらの世界にはこちらの世界で、何がしかのそうした<神>と呼ばれる存在はあるんじゃないかと思う。ただ、私や悠一くんがまったく別の世界からこちらへやって来たように、ゾンビの中にもそうした者が存在するんじゃないだろうか。たとえば、これはただの偶然かもしれないけど、北の王なんてドルトムントなんていう名前だよ。私なんか、もしかして彼はドイツのドルトムント出身なんだろうかって思ったくらいだからね。で、噂によると東のアーメンガード王っていうのは、とても信心深くて、いつも神殿でアーメンアーメンって言ってるそうじゃないか。ということは、やはり東の王も、王になるずっと前にはただの一ゾンビだった頃があって、私がハッと気づいたら南の砂漠にいたみたいに、アーメンガード王も向こうからなんらかの理由で流されてきたっていうことなんじゃないだろうか」
「なるほど……」
悠一くんは以前、物理学か何かの本で、我々が今存在している世界の他にも、次元の異なる世界がいくつも存在しているかもしれない――といったような説を読んだことがありました。もしそうなら、お互いの世界の次元と次元の間にある種の<よじれ>のようなものが生じる、というのは、いかにもありえそうな話であるような気がしたのです。
――シェロムさんと悠一くんの間で、話は尽きませんでしたが、ある程度のところで一度切り上げると、今度はお互いの部屋のほうで話の続きをしようということになりました。もっとも、彼らは知りませんでした。とても疑り深い南の女王アビシャグさまは、城内に超小型高性能盗聴器をあちこちに仕掛けており……シェロムさんと悠一くんとの間の会話は、実はすべてアビシャグさまに筒抜けだったということを。
疑り深い、とはいっても、アビシャグさまは自分の配下のゾンビたちや、あるいは西の国のゾンビたちのことは信頼していたといっていいでしょう。けれども、生きた人間のことは信用できないと思っていました。今まで、シェロムさんからは彼が旧世界で調べたことなどの興味深い情報を提供してもらっていましたが、たった今、女王アビシャグはシェロムさんが実は情報の出し惜しみをしていたということも知ったのです。
(なるほどな……そういうことだったのか)
王城地下にある、秘密の諜報室にて、アビシャグさまは二人の会話をヘッドフォン越しに聞き、ひとり考えごとをなさっていました。
アビシャグさまはシェロムさんの口からも、一応<別にある他の世界からやって来た>といったようには聞いていました。けれども、今ひとつ信じきれないように感じていたのですが、これで確かに「そのような場所は間違いなくあるらしい」と確信することが出来たのです。
また、彼ら<生きた人間>が自分たちゾンビを支配できる可能性もある――というのは、アビシャグさまにとって非常に重要な情報でした。そして、シェロムがそうした<裏切りの可能性>を匂わせたのに対し、悠一くんがゾンビに対して忠実な心を垣間見せたことは、注目に値しました。自分がその場にいておべっかを使ったというでもなく……アビシャグさまは悠一くんに対して、七割くらいの信頼を寄せていましたが、残り三割は油断してはならないと思っていました。もしかしたら生前、ニューハーフであった頃、誰かに裏切られた記憶がそうさせたのかもしれませんが、実際、シェロムさんのことを信頼せずにおいたのは正解だったとアビシャグさまは思っていましたから。でも今、悠一くんのことは90%に近いくらい、信じてみてもいいかもしれないと、彼女はそのように思っていました。
他に、彼らの話していた言葉で、アビシャグさまには理解できない事柄があったのを思いだし、アビシャグさまは暫くの間考えこまれました。たとえば、臓器の交換ですとか、特殊なスリーピング装置がどうこうといったような話です。それに、この世界の外の別の惑星に旧世界の人たちが移住した……などという話も、アビシャグさまには(そんな馬鹿な……ありえん)としか思われませんでした。
アビシャグさまは決して頭の悪い方ではあられませんし、むしろ賢い方であられましたから、今盗聴した会話の中で何がもっとも重要なことであるのかも、すでに分析済みだったといえます。つまり、生きた人間が少人数でも結託して、旧世界に残されているなんらかの兵器を使えば、この世界のゾンビなどあっという間に蹴散らして覇権を握ることが出来るらしい、ということです。
(まあ、べつに私はそれでも構わんのだがな……)
誰もいない諜報室で、アビシャグさまは再び、煙管を吸いはじめられました。そして、「フーッ」と疲れたような溜息を着き、今後のゾンビ世界のことについて、あれこれ思いを馳せたのでした。
(もしあのユーイチ・ナカムラが我々のこのゾンビ世界を救う救世主だというなら、私ももう南の女王をやらなくていいかもしれないからな。それは願ったりではあるが、彼がメシアとして「どういう形でゾンビたちを救うのか」……それが問題ということか)
正直なところをいって、アビシャグさまは自分の<南の女王>という地位にすでにすっかり飽きておられました。ですから、悠一くんがもし本当に優しい、いい君主としてこのゾンビ世界を治めていってくれるのなら、もう<南の女王>という地位は廃業にしてしまってもいいと思っていたのです。
(だが、ユーイチくんがシェロムあたりにそそのかされて、今のゾンビに対する純粋な気持ちを失ってしまう可能性というのは大いにありうる。私はそのあたりのことを今後も注意深く見ていく必要があるということだな)
けれどもアビシャグさまはこの時、不思議と明るい心持ちでした。何故といって、このゾンビ世界は四天王といわれる王と女王が四つの王国に分割して統治するようになって以来――ほとんど大きな動きらしい動きと呼べるものがありません。けれど、悠一くんが救世主かどうかはまだ未知数であるにしても、彼がこちらの世界へやって来たことで……これからもしかしたら何かが変わっていくかもしれない。そこにアビシャグさまは賭けたかったのです。
(ユーイチ・ナカムラ……こうなると、彼に死んでもらっては困るということになるな。もちろん、もし彼が本当にメシアなら、どんな死ぬような目に遭おうとも、必ず生き残るはずではあるんだが。従者として、ゾンビABC、アルファベット・ラブの五人では心許ない。かくなる上は……)
ここでアビシャグさまは、「ハンゾー、ハヤテ、ヤチヨ!!」と呼んで、手を二回打ち鳴らしました。すると、どこからともなく忍者の姿をしたゾンビが三体、その場に現われました。実はこの三人はアビシャグさまの身を守るために、いつでもそば近くにいるのです。
「おまえたち、私とシェロムの話は聞いていたな。ユーイチはもしかしたら本当に我々ゾンビ世界を救うメシアなのかもしれない。となれば、彼に死なれるなり、あるいはもっと悪いのは北の国の王ドルトムントに誘拐されるということだが……そんな最悪の事態を避けるために、ユーイチの護衛についてはもらえまいか」
「ははっ!!我々忍者衆は、いつでもアビシャグさまの御心とともに!しかしながら、なんとなれど、どうしたものでございましょう、アビシャグさま。我々が三人ともにユーイチさまの護衛についた場合、アビシャグさまの身辺警護が手薄になりまする。我ら忍者十一人衆のうち、ダンゾーとコジローは北の国の諜報へ、ゴエモンとサイゾーは東の国へと潜入しておりまする。果たして残った誰と誰とをユーイチさまの護衛に当たらせましょうか」
ハンゾーは三人のうち、一番の年長者のようでした。逆にハヤテとヤチヨは若く、おそらく腕のほうは悪くないのでしょうが、ハヤテは見るからに野暮ったそうな忍者ゾンビでしたし、ヤチヨのほうはヤンキー忍者っぽい雰囲気でした。しかも、風船ガムまでクチャクチャ噛んでいます。
「そうだな、私の警護はハンゾー、おまえと他の忍者十一人衆であるヤジロベエやモモチらに頼むとしよう。ユーイチの護衛には、ハヤテとヤチヨ、おまえたちがつけ」
「ははっ!かしこまりましてございます!!」
ハヤテとヤチヨは声を揃えてそう言い、次の瞬間には姿が見えなくなりました。ゾンビ忍法、瞬間移動の術です。かくして、その場にはアビシャグさまと忍者ゾンビ、ハンゾーの姿だけが残りました。
「北のドルトムントは、また軍備のほうを拡張したようです。奴の手足のように言うなりになるプレデター軍団の数を増やし、いずれは戦争をはじめるつもりかと……」
「そうだな。奴と東の王のアーメンガードとで互いに潰しあい、軍事力が削がれたところを我々南の国の軍勢、それに西の国のゴロツキングくんの連合軍で叩くというのが理想だが、まあそううまくもいくまい」
アビシャグさまは煙管から「フーッ」とまるで溜息のような灰色の煙を吐かれました。無理もありません。お互い、数百万を越えるゾンビ軍団を抱え、いつ戦争になってもいいように備えているとはいえ――一度<戦争>ということになると、おびただしい数のゾンビたちが第二の死を迎えて動かなくなるということになります。また、戦争の後片付けというのがとても大変で、死屍累々と重なったゾンビたちを処分するのは、とても骨の折れる作業でもあります。
何より、仲間のゾンビたちが頭部を集中的に潰されたり、首と頭を切り離された状況で山のように死んでいく光景というのは、アビシャグさまやゴロツキングさまにとっては胸の痛む悲しい光景でした。北の王のドルトムントが<強い>のは、部下のゾンビたちになんらの感情も動かされることがないからなのでしょうが……次にもし北の王が西の王の領土へ攻め入った場合、当然同盟国である南の国も参戦しなくてはなりません。また、西の防衛線が突破されたとなれば、南の国も相当危ういことになるのです。以前、何十度目かの戦争で一度だけそうした事態が起きた時には――東の国のアーメンガードが重い腰を上げて参戦し事なきを得たのですが、アビシャグさまとしては「これは貸しにしておくぞ、このニューハーフめ!!」などとは、もう二度とあの骸骨王に言われたくありませんでした。
「もし、ユーイチが真にメシアであるなら、おそらくは彼がこれからこのゾンビ世界を変える鍵になるだろう。シェロムとユーイチがこれから向かうのはここからさらに南の砂漠地帯だ。あそこまでは北の国や東の国の間諜も流石にやっては来るまい。これから、シェロムと一緒にいて、彼が旧世界のことなどを学ぶうちに、ゾンビたちに対する考え方を変えるかどうかはわからない。だが、ハンゾーよ。私は久しぶりにわくわくしてきたぞ。ユーイチの性格からいって、北の王ドルトムントに味方したり、彼の思想に共感したりすることはまずもってあるまい。そしてユーイチがもしメシアであるなら、まずは彼が西の国を訪れ、そしてこの南の国へやって来たことにはきっと意味があるのだ。私は北の王ドルトムントとは違い、このゾンビ世界の統一といったことにはまるで興味がないからな。また、もしそんなことが起きた場合でも、ゴロツキングくんに王になってもらって、私は影の参謀にでも徹したいと思っているし……だが、おまえたち忍者十一人衆は、それでは不服か?」
「いえ、とんでもございません!!我ら忍者十一人衆は、いつでもアビシャグさまの御心とともにありますゆえ……何よりみな、ゴロツキングさまのことを好いておりまする。この間あったお笑い大会もまったく素晴らしいものでしたな。また、あの方は誰より戦争を嫌い、平和を愛しておられる、心の優しい御仁でございます。そうですな……まあ、東の骸骨王は壁の中に篭もって出てきたくないという変わり者ですから、アーメンガード王のことはさして問題視しなくても構いますまい。とにかく、北の王ドルトムントの首さえとるか、奴の脳をひねり潰すことさえ出来れば……」
北の王ドルトムントの暗殺については、昔より何度となく企てがなされてきましたが、なかなかうまくいきませんでした。忍者十一人衆のリーダーであるハンゾーは、これまで北の国に一体何人忍びの者を送りこみ、また一体何人の忍者ゾンビが帰らぬゾンビとなったことでしょう。そのことを思うとハンゾーにとって北の王ドルトムントの暗殺というのは、悲願といってよかったと言えます。
「いずれ、長く膠着状態にあったこのゾンビ世界にも、変化が起きるかもしれない。そしてその風向きのほうは……現段階では我々のほうに有利であるように思える。大切なのは、つまりはそういうことさ」
この時、ハンゾーは本当に久しぶりに自分が長くお仕えする南の女王が微笑まれる姿を拝見しました。何分、南の王国の幾千万のゾンビの運命が彼女ひとりの肩にかかっているのですから、無理もありません。しかも、普通の人間が何十年か一国の王でいるというのとは違い、アビシャグさまはもう何百年もずっとそのような職責を担われてきたのですから。
アビシャグさまはこのあと、悠一くんだけを自分のプライヴェートな私室のほうへ呼ぶことにしました。そこで、シェロムさんとしていた会話についてはすでに知っていたものの、彼とどんなことを話したのかと探りを入れることにしました。けれども、悠一くんの態度には目立った変化のようなものは見られませんでしたし、彼が嘘をつくこともなかったと知り、女王としては満足でした。
「その、人肉の森では、生きた人間をテストすることがあると聞いたのですが、僕もそのテストを受けたほうがいいのでしょうか?」
アビシャグさまのプライヴェートルームのひとつはとても豪華でした。どことなく東洋を感じさせる家具が並び、螺鈿細工の施されたテーブルや籐椅子などが並んでいます。奥のほうには天井からヴェールのかかった棺のようなベッドが置いてありましたが、女王は時々そこで体を横たえて休まれるのでしょう。
「ユーイチにはその必要はないさ。私は、君のことはすでにもう信頼しておるからな。ゾンビだけでなく、生きた人間もまた、南の砂漠からやって来ることが多い……そこでな、もうシェロムから聞いたかもしれんが、あそこで彼にはその生きた人間がどのような者であるのか、その本性を探るように頼んでいる。もっとも、生きた人間がこちらへやって来るのは極稀だから、他では彼は、自分の研究に勤しんでいる――と、シェロムはそう言ってなかったか?」
「はい。今も時々、旧遺跡群を探っては、自分にとって不思議と思うことを調べているのだと……僕は明日にもシェロムさんと一緒に出発して、まずはゾンビ工場のほうを見学させてもらおうと思っています。なんでも、そちらにはゾンビ工場で働くゾンビたちのためにバスが出ているとか……」
悠一くんは、シェロムさんから聞いたことで、話さないほうがいいだろうと思ったことはもちろん口にしませんでしたが、かといってアビシャグさまに何か隠すこともありませんでしたから、態度のほうは実に自然で、落ち着いたものでした。
「ああ、そうだ。南の砂漠に発生したゾンビを捕獲して、彼らは腐った部位をそぎ落とされると、動脈から血抜きされ、静脈には保存液を注入されることになる。そして綺麗に消毒されて、入念な防腐処理が施されるんだ。シェロムが旧遺跡郡から色々なことを調べたり発掘してくれたお陰で、あの工場は建設された。まったく、画期的なシステムだよ。その前までは、若いゾンビたちが国の南門あたりに漂着後は、体がある程度腐りきるまで牢屋へ入れておき、その後消毒するといったような方式で、あまり衛生的でなかったからな」
「そのう……僕もまだはっきりしたことは言えませんし、わからないのですが、アビシャグさまはもう一度生きた人間のようになる、といったようなことには興味がおありですか?」
もしかしたらこれはシェロムさんがまだ隠しておきたい情報かもしれない――そのことは悠一くんもわかっていましたが、自分でもあまりに突拍子もないことのように思われましたので、一応聞くだけ聞いてみようと思ったのです。
「まあ、興味はなくもないかもしれんな。何分私は時々……自分は第二の死を迎えて死ねるほうが幸せではあるまいかと思うことがあるからな。もう一度生きた人間となってきちんと死に、ゾンビになぞならずに墓で眠りたいといったような気持ちはある」
「そうだったんですか……」
悠一くんは、アビシャグさまがそのようなお考えをお持ちとは露とも思いませんでしたので、その答えは意外なものでした。そして、そのような思想の深さのようなものを他のゾンビたちも持っているのだろうと思うと、やはり話してしまうことにしたのです。
「たぶん、旧世界の遺跡のどこかに、人工皮膚を造りだしたり、腐った臓器と新品の臓器を取り替える医療技術といったものがあるはずなんです。つまり、ゾンビたちの体をそうした形で入れ替えれば……脳だけは唯一取り替えの利かないパーツとは思いますが、僕たち生きた人間とあまり変わりなくなれるんじゃないかと、シェロムさんの話を聞いていてそう思ったものですから」
「…………………」
アビシャグさまは、悠一くんの様子をよく観察するような視線を彼に向けられました。といっても、シェロムの持つ思想に感化されて、こちらをなんらかの奸計に陥れようとしている……といった気配は、悠一くんからまったく感じられません。むしろ彼はそれをある種の善意でもって提案していると、そのように感じたのです。
「なんでも、旧世界の人たちは不老不死の技術をすでに手に入れていたそうですし、また、死にたくなったら特殊なスリーピング装置というのがあって、そこに身を横たえて好きな年月眠りに就くのだそうです。もっとも僕は、これがゾンビたちにとっていいことなのかどうかというのはわかりません。でも、試してみる価値はあるのかなって思ったりもして……」
その後も、アビシャグさまが返事をしかねていますと、悠一くんは慌てたように言い足しました。
「すみません。こんなこと……僕も、旧世界にある大きな病院とかでよく調べてから言うべきでした。僕、これからシェロムさんに旧世界の文字の読み方なんかを教わろうと思うんです。それで、僕も旧世界のビル群を探索していて、病院らしき建物は何度も見ていましたから、そういうところにある本や資料なんかを調べて、そうしたことが可能なのかどうかを探ってみたいと思うんです」
この時、実をいうとアビシャグさまは腐敗した臓器を入れ替えて若返るといったことにはそれほど興味がありませんでした。けれども、もしかしたらそうすることで「眠れるようになるかもしれない」ということには、強い興味を惹かれました。いえ、興奮をかきたてられたとさえ言っていいかもしれません。
(眠り、眠り……もう何百年も経験していない、快い眠り……もしそれが手に入るなら、どんなものとでも交換したって構わない。私が第二の死を望まずに、今もこうして活動しているのは、一重に南や西の国の国民のためだ。だが、もし一日にほんの少しでも眠れるなら――それはどれほど幸福なことだろう)
「……ユーイチくん。何故かね?シェロムはそうしたことを今という今まで、私に話したりしたことはない。無論、私はそのことで彼を責めようとは思わんのだ。シェロムはシェロムで、彼なりにこの世界の均衡といったことを考えたのかもしれないし、何より今は南の女王である私と関係が良好だからいいが、もしかしたらお互いに不信感を持つようになった場合……そうした彼にしか持ちえない知識が、彼のことを救うかもしれない。そうした切り札として取っておいたのだとすれば、私もシェロムのことは責められない。何故なら、私が彼の立場でもまったく同じようにしたろうと思うからだ。だが、ユーイチくん、君は……そうすることで何かそれほど君に得になることがあるとも思えないのに、何故そこまでのことをしようと思うのかね」
「さあ……」と、悠一くんはぼんやり答えました。「僕の一番の望みは、元の世界へ帰れることに変わりありません。でも、どうやって帰ったらいいのかがわからない以上、この世界の役に立ちたいという気持ちはあります。この世界というか、この世界のゾンビたちということですけど……その、気になるんですよね。ゾンビたちはひとつのことに夢中になると、そのことしか頭になくて、一生懸命そのことにばかり取り組みますよね。でも、疲れることを知らなくて、痛覚もないせいか、足がもげてしまうまでダンスを踊ったり、手がもげてしまうまで大工仕事を続けたり……僕も傀儡師のおやっさんに習って、随分縫合術なんかは上手くなったんですが、それでも、新品の臓器ほど持ちは良くないんじゃないかと思っていて……」
(まあ、他のゾンビたちのもげた手足なんかでも、免疫不全がどーのということもなく、くっついてくれるのはありがたいんだけど、それでも、やっぱりな……)
悠一くんは、細胞の培養か何かによって新しい臓器を作り出す技術はこちらの世界で完成しているものと見ていました。何より、ゾンビたちはすでに死んでいますから、副作用がどうのといったこともないと考えていいでしょう。けれども、本当に<なんの代償もない>と言い切れるのかどうか、悠一くんはそのことを考え続けていたのです。
(今、僕の目には多くのゾンビというのはとても純粋であるように見える。僕が元いた世界の住人たちなんかより、遥かにずっと……でも、それはこの世界には<性>というものが本当の意味では存在しないからなのかもしれない。それに、ゾンビたちには食欲というものが死んでるから当然ないし、物欲や金銭欲といったものともほとんど無縁だ。けれど、まったく真新しい新品の臓器が手に入るとしたら、どうなるんだろう。みんな一律に同じ顔でないと、あいつは綺麗だけど、こいつは不細工だとか、そんなことが喧嘩の種になったりしないだろうか。それに、一度にゾンビの体の交換をすることは出来ないから……体の一部を順に換えていくにしても、順番待ちの過程で喧嘩したりとか、今までなかったことが起きたら――せっかくの、今のゾンビたちの純粋な性格が変わってしまうなら、そんな余計なことはしないほうがいいんじゃないだろうか)
「ユーイチくん、君は……前に、元の世界にあのままいたとしたら、医者になるはずだったと話していたことがあったね?」
「ああ、はい。まあ、医者になるための学校があって、そこに一度挑戦して落ちたので、また来年受けるつもりだったというか」
ホバークラフトに乗っていた時、会話のネタが尽きて、そんな話をしたことがあったのを、悠一くんは思い出していました。
「それは、元の世界にいたら医者として生きた人間たちを治療していたはずだという使命感から来ることなのかね?」
「いえ、そこはちょっと違うと思います。医者になる予定だったと言っても、そのための学校に入る以前に一度落ちたわけですから……それに、僕の父親が医者とかいうのもまるで関係なくて、僕がもしイタリア料理店のシェフを目指してるとかいうのでも、昆虫学者になりたいとかいうのでも、そこは全然関係なくて。たぶん、他の誰でもみんなそうですよ。手や足なんかがしょっちゅうもげやすいとか、そういうのを横で見てたら、これ、どうにか出来ないかなって思うものなんじゃないでしょうか」
「…………………」
アビシャグさまは少しの間考えこまれました。というのも、もし自分が生きた人間であったとしたら、自分たちゾンビとはさして関わりあいになりたくないというのが普通でしょう。けれども、悠一くんは本当に違うような気がしました。それを流石に<愛>というのは表現として大袈裟でしたが、というよりもたぶん――ゾンビ=生前は生きていた人=だから化け物として扱うのではなく、そのように人として接するべきなのだという思考回路が、悠一くんの場合、よく考えなくても自然と出来上がっているようでした。
「ただ、シェロムさんは何か悪意があって、このことをあえて隠そうとしたんじゃなくて……僕と同じように、それがゾンビたちにとって本当にいいことなのかどうか、確信が持てなかったんだと思うんです。ほら、たとえば、ゾンビたちは人口的にとても多いですから、ある少数のゾンビたちだけ新しい手や足を持っていたら……今はみんな仲良くやってるのに、そんなことで初めて喧嘩になるかもしれないですし」
「そうだな。まあ、確かに、手や足の指がなかったり、手首のところ、あるいは肘や肩のところから腕がなかったり――というゾンビは結構いるんだ。体の一部が欠けた時にすぐ、欠けた箇所を持って傀儡師に見てもらえればいいが……数として傀儡師もそう多くはないからな。その部分を真新しい臓器と交換できるのは、確かに魅力的というか、ありがたいことではあるな」
「じゃあ僕、時間はかかると思いますけど、シェロムさんから旧文明の文字を学んだら、大きな病院のほうを調べてみたいと思います。それは実際、僕が一番やりたいとでもあるので……」
一番やりたいこと、と聞いて、アビシャグさまはなおのこと困惑されました。そして、ここのゾンビ世界は時間が止まっているも同然なため、時間であれば腐るほどあるわけです。そう考えた場合、悠一くんはきっとそのことを成し遂げてくれるでしょう。アビシャグさまはこの時――暗い心にさらに明るい陽射しを感じはじめました。
(彼は、本当に何者なんだろう。もはや、彼が本当に救世主なのかどうかということすら問題ではない。ユーイチはおそらく、間違いなくいつの日にかこのゾンビ世界を変える。そんな予感がする……)
アビシャグさまは非常に疑い深い性格をされておいででしたが、この時、90%を越えて、悠一くんのことを信頼しました。そこで、悠一くんが女王の私室を去っていかれますと、ベッドの下に隠してある長持を開け、そこにしまわれてある南の女王の宝物を取り出されました。
そこには翡翠の杯が桐の化粧箱にしまいこまれてあったのですが、実をいうとアビシャグさまはこれを天使から頂いたのです。いつか、この世界に救世主がやって来たら、必ず渡すようにと――あれからもう数百年が過ぎましたから、アビシャグさまは昔出会った天使の神々しささえ忘れてしまいそうなくらいでしたが、その天使は<終末の天使、ヨハネ>と、確かにそう名乗っていたのです。
そして、とても天気の良い日に……それは年に数度あるかどうかという頻度でしたが、雲の上にまるで蜃気楼のように城が見えることがあります。アビシャグさまはそのように直接天使から言葉で説明を受けたわけではありませんでしたが、それでもそのヨハネという天使が今もその城にいるということだけはわかっていました。何故わかるのでしょう。でも何故か心にそうと直接書き記されてでもいるようにわかるのです。
アビシャグさまは、もしいつか救世主が自分の目の前に現われたら――その時と同じ感覚を胸に覚え、「彼(彼女)こそが間違いなくメシアである」と理解するのだろうと想像していましたが、なんにせよ、理屈に合わない話ではあります。何故といって、「いつか救世主が現われるから、それまでがんばれ」と言われるよりも、「たった今、この惨めなゾンビ世界を神でも天使でも、いるのならただ黙って見ていないで救え」と、アビシャグさまは時々そのように思わずにはおれなかったからです。
>>続く。