第1章
仲村悠一くんは、高校三年生の時に医大の受験に失敗して、浪人するということになりました。
一緒に同じ家で暮らしている家族は、大学病院で外科医をしているお父さん、専業主婦のお母さん、それにクラブでDJをしているお兄さんの三人です。
悠一くんはとても真面目な性格で、その地方の高校としては一番と言われる進学校を卒業していましたし、校内で特に目立つこともなかったかわり、成績だけはいつも上位の常連という、そんな生徒でした。友達もそれなりにいますが、彼のように浪人するでもなくみな無事大学へ進学し、いわゆる花のキャンパスライフというのでしょうか。そんな生活を送っているらしい友達との間には、最近距離を感じはじめています。
「悠一、これお弁当ね。もし、お弁当がいらなくて、予備校のお友達と何か食べるっていう時には言ってね。お金あげるから」
悠一くんは、お母さんのことがとても好きです。ふたつ離れたお兄さんの京一くんのことも、弟である彼に対しても、分け隔てなく愛情をかけて育ててくれたという人です。正直なところを言って、お兄さんの京一くんは小さな頃から成績のほうがまったく振るわず、兄弟のうちどちらかをお医者さんにしたかったお父さんは、がっかりと失望したようです。けれども、不出来な兄の代わりに悠一くんの成績がいつでも良かったため、お父さんの期待は弟の悠一くんに集中する、ということになったわけです(まあ、よくある話ですよね)。
けれどもこの京一くん、唯一お父さんとは仲が悪いですが、彼もまたお母さんのことは大好きで、弟のこともとても可愛がっていました。時々、「べつに親父の希望通り医者になんかならなくたっていいんじゃね?」とか「おまえも好きなことして人生生きりゃいいんだよ」と言ってくれたりするという、そんなお兄さんでしたから。
実際、悠一くんはお兄さんの京一くんのことをとても尊敬しています。成績のほうはともかくとして、いつでも友達がたくさんいて、特に高校以降は彼女のいない時期が一度もないという、兄の京一さんというのはそんな人でしたから。たまに冗談で、「おまえがクラブに遊びにきたら、女紹介してやんぞー?」と言ったりしてくれますが、悠一くんは真面目な性格なので「大学に合格したらそういうことは考えるよ」といつも答えています。
また、悠一くんには他のことでもお兄さんのことを尊敬していることがあります。それはなんと言っても<音楽>でした。兄自身バンドを組んでいるのですが、部屋の中はもう数千枚はあると思われるCDで埋もれています。そして家にいる時は(寝ている時でも)、京一くんはいつでも音楽をかけていますから、隣のお兄さんの部屋から聞こえてくる音楽で気に入ったのがあると、悠一くんもまた「今の曲、誰の?」と聞いて、そのCDを借りたりします。
お母さんは時々、「悠ちゃんの勉強の邪魔になるからボリュームは小さくしなさい」なんて言ったりしますが、悠一くんは全然気になりません。むしろ、ちょうどいい気分転換にもなるので実はちょうど良かったりするのです。
そんなわけで、邦楽・洋楽・ジャズといったようにジャンル問わず、色々な音楽の最先端のことに詳しいお兄さんのことを悠一くんは尊敬していましたし、家族仲のほうはお母さん・お兄さん・悠一くんの間では、とても良かったといえるでしょう。
ただ唯一、京一くんと同様、悠一くんもお父さんことはあまり好きではありませんでした。医者になるよう、常にプレッシャーをかけられている気がするから……もしかしたらそれもあったかもしれません。けれども、根本的な意味ではそういうことではないと悠一くんはわかっています。人間として何故か好きになれない――悠一くんがお父さんに抱いている気持ちというのはそうしたものでした。
自分が衣食住のことで何不自由なく暮らせるのも、予備校へ通えるのもお父さんのお陰なんだから、感謝しなくちゃ……一応、理性としてはそのように思いますし、暇さえあればゴルフ、あるいはゴルフの打ちっぱなしに行くというお父さんではありますが、何分、大学病院で外科医として年間百件以上も手術をこなすという生活なのです。当然、ストレスも溜まるでしょうし、休みの時くらい自分の好きなことをする権利がお父さんにはある――悠一くんはそんなふうにも思っていました。
その上、悠一くんはお父さんに家にいて欲しいとか、家族サービスをしてもっと息子とスキンシップをはかって欲しいとか、何かそんなことを望んでいるわけでもないのでした。むしろ、たまに家にいられると正直、本音としては『やれやれ。なんで父さん今日は家にいるんだろ。ゴルフにでも行けばいいのに』と思うという、そんな感じです。
また、ある偶然から――悠一くんはお父さんがこれまでに最低でも二度、浮気をしていたことがあるらしいと知っていました。それはお母さんが電話で友達か誰かに相談していたのを聞いて知ったことでした。
『休みの日はゴルフゴルフでしょ。あと、宿直だなんだの言ってるけど、あれは愛人に会いにいってるのよ。まず間違いないわ』
悠一くんにしても、そんな話を聞くつもりはなかったのですが、お母さんは自分の話に夢中で悠一くんが学校から帰ってきたことに気づかなかったのでしょう。なんにしても、話は次のように続きました。
『そうよ。わたしの知る限り、これで二度目。最初は同じ病院の看護師でしょ。で、今の愛人は飲み屋とかそういうところの女よ。その女に手取り腰取りゴルフを教えて一緒にコースを回ったりとかしてるみたい。離婚するのかですって?しないわよ。少なくとも、悠一が医大に合格して立派なお医者さんになるまではね……とにかく、最後は耐え忍んだ正妻が勝つの。だってあの人、離婚する勇気なんてまるっきりない人だもの。家にいる間も愛人とセックスすることしか頭にないって態度だけど、まあ一時的なものよ。もしその愛人のほうで『先生はきっと最後にはわたしと一緒になってくれる』なんて夢見てるとしたら……ほんと、お気の毒さまっていう感じ』
家族の間で性の話などはそれまで一度も出たことがなかっただけに、自分の母が<セックス>などという単語を口にしたことに、悠一くんは驚きました。その時彼は中学二年生だったのですが、とにかく足音を忍ばせてそのままこっそり二階の自分の部屋のほうへ上がっていきました。
その後も、「自分にもそんな悩みがある」などとはお母さんはおくびにも出すことはありませんでしたし、態度のほうもいつも通りでした。けれども、悠一くんの胸中は複雑だったかもしれません。もちろん、『お父さん、お母さんのためにそんな愛人なんかとは別れて、こんなに家族のために尽くしてくれるお母さんのことだけ大切にしてよ』とは思っていました。けれども、その一方で――『なんだ、父さん浮気してるのか。じゃあ僕もこんな人、べつに無理して尊敬しなくていいし、無理して好きになろうと努力しなくていいんだ』と思うと、実はほっとしたのです。
『お父さんが実は浮気している』――その事実を悠一くんが知ってからも、家庭内では特に何も変わりませんでした。ただ唯一、兄の京一くんにそのことを悠一くんが打ち明けると、『なんだおまえ。そんなこと、今ごろ気づいたのかよ』と、笑われてしまいました。
『あいつ、最低だぜ。母さんが買い物いっていなくってさ、俺は風呂に入ってたのな。で、俺が風呂から上がって冷蔵庫からジュースとって飲んでたら……なんか、携帯で愛人と話してるのな。指輪だかなんだか買ってやるみたいな話でさ、俺が横通っても愛人と話すのに夢中って感じなんだ。「おいおい、せめても家庭内ではもう少し気を使えよ」って思ったけど、俺にとっちゃそれすらもどうでも良かったりするからな。悠一、おまえ知ってっか?母さん、父さんが風呂入ったりなんだりしてる間に、必ずあいつの携帯チェックしてんだよ。なんでも、愛人の名前はゆりりんって言うらしいぜ。今二十七くらいらしいな。で、母さんのほうでは父さんの帰宅時間とか、愛人とのメールでの内容とか、全部記録に取ってんだ。万が一の時のためにな』
『えっ!?それってもしかして……』
『そうさ。母さんには父さんと別れる気なんかこれっぽっちもない。だけど、万一ってことがあるだろ?その場合には出来るだけ慰謝料もらって離婚するって頭があるらしくてな、俺も一度言われたよ。ついうっかりまだ開いてないメール見ちゃったけど、もう一度未開封状態にするにはどうすればいい!?みたいにな。ま、母さんはそういう大人の汚らわしい話はおまえにだけは聞かせたくなかったのさ。だから、そう思って適当に悠一も合わせておいてやれよ。一種の親孝行……いや、母さん孝行としてさ』
――正直、悠一くんは今、たまにこんなふうに思うことがあります。たとえば、お父さんが予備校での模擬試験の結果なんかを見て不機嫌そうにケチをつけてきた場合……こんなふうに言うことも出来るわけです。『父さん。ゆりりんって誰?』といったように。
その時、お父さんがどんな顔をするのかと思うと悠一くんは愉快でした。けれど、彼はわざと悪意をもってそうしたことをするのは嫌でしたし、第一、自分の成績のことと父の浮気のこととは別問題ですから、そんなことを言ったりするのは間違ったことだとも思っていました。
なんにしても、週五日予備校へ通い、また家でも勉強するというのは、悠一くんにとってかなりのところ負担の大きいことでした。時々、(僕は本当にこんなにまでして医者になんかなりたいんだろうか)と思うこともありましたし、他のストレートで大学に受かった友達とは、徐々に話が合わないようになってもいました。
なんとかというサークルに入ったとか、同じ学部に超可愛い子がいて一目惚れしたとか……その一方、悠一くんには予備校のほうに友達なんてひとりもいませんでした。マンツーマンで個別に教えてくれるという予備校なため、隣に座っている生徒とは仕切り板があって椅子を後ろに下げないと相手の顔すら見えないという環境でしたから。
それなのに何故、お母さんが予備校に友達がいると思い込んでいるのか、悠一くんにもよくわかりません。でも悠一くんは特にそのことが苦痛とは思いませんでした。仕切り板があるので特に隣の人物に気を遣うでもなくお弁当を食べられましたし、残った休憩時間などはイヤホンをしてiPodで音楽を聞くか、携帯でゲームでもすればいいという、それだけでしたから。
他に、悠一くんはお母さんが心配するので、休日にはたまに「友達と会う」ということにして、車でどこかへ出かけていくことがあります。この車のほうは、浪人が決定してから教習所に通って免許を取り、母親が乗っているものを時々使わせてもらっているというものでした。
だから、その日も悠一くんは白のトヨタ・プリウスに乗って海辺沿いの道をかなりのスピードを出して飛ばしました。実をいうとこれが今の悠一くんにとっての一番のストレス解消法でした。覆面パトカーに捕まろうと、事故って怪我をしようとどうでもいいと思っていました。あるいはそのまま死ぬことだって……その際に誰か人を巻き込んで怪我をさせたり、相手を死なせたりすることさえなければ、自分ひとりが死ぬ分にはそれもいいと悠一くんは思っていたのです。
悠一くんは自分で『自殺願望がある』とまでは思いませんでしたが、その日も海沿いの曲がりくねった道をカーブのところでは若干スピードを落としつつも、大体平均八十キロくらいで駆け抜けていきました。そのあたりの海岸線沿いの道路は、車通りもそんなに多いほうではなく、暫く車を走らせていくと人家のほうもまばらになっていくという、そんな場所でしたから。
そしてたまにパーキングエリアなどで休んでは、コンビニで買ってきた何がしかを食べたりして、あとは誰もいない海の見える場所で、自分の好きな本を読んで過ごしました。その日、悠一くんはいつもやって来る広い海を見晴るかせる台地で、船が遠く、まるで沈みゆく夕陽でも目指しているように進んでいくのを見て――自分も(このままどこかへ行きたいなあ)と思いました。
もしかしたら、そのことには悠一くんがその時読んでいた小説も多少関係があったかもしれません。それは海外のファンタジー小説で、異世界に飛ばされた平凡な高校生の男の子が、そこで悪の帝王を倒し、最後は一国の王になるといったようなあらましのお話でした。もちろん、その途中には艱難辛苦が横たわってもいるのですが、その過程で本当の友達が出来たり、信頼できる部下に恵まれたり、あるいは恋したり恋されたり……悠一くんは自分も異世界に飛ばされたいなあ、とまでは思いませんでしたが、そうしたある種の逃避願望があるということだけは、自分でもおおいに認めるところでした。
そしてこの日――陽も暮れてきたし、悠一くんがそろそろ家に帰ろうと思った帰り道でのことでした。かなり遠出してきていましたので、今時刻は七時でしたが、家へ帰り着く頃にはおそらく九時を軽く過ぎているでしょう。悠一くんは紅く染まった美しい夕陽が輝く海に没しきるのを見守ったのち、車をバックさせて今来た道を今度は帰っていこうとしました。
あたりがやがて真っ暗になると、車のライトをつけ……大体八十キロくらいの速度で走っていた時のことです。まわりには十メートルおきくらいにしか電燈などもなく、両脇の片側は海へと至る崖で暗く、もう一方もまた見通せぬ暗い草原へと続いている――といった道でその事件は起きました。
誰か、男が突然道の真ん中に飛び出してきて、悠一くんは慌ててハンドルを切りました。キキィッとタイヤが急停止する音がすると同時、悠一くんはすぐに車の運転席から出ました。
(轢いてはいないはずだ……)
心臓がバクバクしながらも、そう冷静に考え、悠一くんはあたりの様子を見回しました。けれども、人っ子ひとり見当たりません。
この時悠一くんは、(もしかして、幽霊!?)などということが思い浮かび、外の気温の高さにも関わらずゾッとして、急いで車の中へ戻ろうとしました。ですが、突然バタン!と音がしたかと思うと、自分の車の運転席に誰かが乗っていることがわかったのです。
(こんな真っ暗闇にひとり取り残されたんじゃ困る!!)
そう思って焦った悠一くんは、開いていた窓から強引に手を入れて、男――びっくりしたことには、顔のほうが血まみれでした!!――に抗議の声を上げました。
「せめて、携帯を取らせてくれ!!あと、カバンの中に財布も入ってるからそれと……」
冷静に考える間もなく、悠一くんはそんなふうに口走っていました。けれども、窓から男の顔がはっきり見えると、悠一くんはなんとも言えないその不気味さに驚きました。顔も肩から下も血でびっしょり汚れており、さらには窓の隙間からさえわかるほどの、ひどい異臭が漂ってきます。
けれど、それでいて悠一くんが窓とドアから手を離そうとしないでいると、男は今度は車の外へ出てきました。大体三十代半ばくらいのがっしりした体格の男性でしたので、悠一くんは腕っぷしでは絶対適わないだろうとわかっていました。そして彼は口ではなんとも言わず、ただ突然悠一くんの顔を容赦なく何発も殴りつけ……さらには腹にも蹴りを入れたあと、道路の真ん中に悠一くんが蹲って動けなくなってから――ゆうゆうと車へ戻っていき、無情にもそのまま走り去っていったのです。
何分、こんな視野の悪い道路の真ん中で寝転がったりしていたら、そのうちどちらかの方向から車がやって来て、轢かれてしまうことでしょう。けれどもなんと!!悠一くんはそのままその場所で失神してしまったのです。それから次に目を覚ました時……前と同じ真っ暗闇の道路で、悠一くんは横たわったままでいました。
(そ、そうか。あの時僕は誰だかよくわかんないくさい男に突然ぶん殴られて……よ、よかった。車にはまだ足もどこも轢かれてないぞ。とりあえず、路肩のほうにずっていこう。あとのことはとにかく、そのあと考えよう)
しかしながら、悠一くんはこの時、あたりの様子がかなりおかしいことに初めて気づきました。大体十メートルくらいの感覚で電燈が並んでいるはずなのに(彼の知る限り、この光景があと数キロは続くはずでした)、今やもうどこにも明かりと呼べるものはなく、あたりは本当に真実の真っ暗闇に包まれていたのです。
(まさかとは思うけど、停電とか!?いや、そんなはずない。でもせめて月明かりでもあれば……そうだ。今日はちょうど満月に近いくらい月が大きいはずなんだから……)
まわり中、まったく視野がきかないながらも――おそらく、この状況で論理的に考えた場合、悠一くんが例のくさい男に殴られ、何か視界に問題が起きたのだ、と考えるのがもしかしたら合理的だったかもしれませんが、彼は決してそうとだけは思いませんでしたし、そんなことは思いつきもしませんでした――悠一くんはコンクリートの地面と草むらの境目のところで足を踏み外しそうになり、一度体勢を戻すと、深呼吸しました。
(よし、いいぞ。このコンクリートと草むらの両方を確かめて進んでいけば、いずれにしろいつかは明るい場所に出られる……いや、それ以前にそのうち向こうから車がやってくるはずだから、そしたら助けを求めてみよう。九十八パーセントに近い確率で、おそらく無視されるだろうけど……)
そしてこの時悠一くんは、くさい男に蹴りを入れられて痛む胃のあたりを押えながら、少しずつ道を進んでいきました。一度気を喪ってしまったことで、進行方向がわからなくなってしまい、もしかしたら自分が帰るべき方向と逆に進んでいるのではないかと思うこともありましたが、やがてそれが懸念であることがわかりました。
何故といって、黒猫が群がってでもいるように暗かったあたりの視界が開け、厚い雲に覆われていた三日月がその時姿を現していたからです。
(ああ、ありがたい。三日月さん、本当にありがとう……!!)
悠一くんは自分の左側の土手が海へと続く崖であり、右側が果てしもなく続くように見える暗い草原であることに気づいて、ほっとしました。月の矛盾については、自分の勘違いだったのだろうと思いこむことにしたのです。ところが、(よかった。進行方向は間違ってない)と悠一くんが思ったのも束の間、あたりの様子がおかしいことに悠一くんはだんだん気づきはじめました。
明らかに、悠一くんが知っている地形と、あたりの様子が違うのです。まるで、道路に横になっていた悠一くんのことを誰かが拾い上げて車に乗せ、まったく別の道路にもう一度転がしておいた――なんていうことはもちろん、あるわけないのですが、このことには悠一くんも流石に混乱しました。
(おかしい……!!こんな場所、僕は知らない。そりゃまあ、家に帰り着くまで、最低十キロ以上あるっていうのは間違いない。だけど、あの地点から三~五キロいったところくらいにまずパーキングエリアがあって、いつもそこには長距離トラックのドライバーなんかが車を停めてるんだ。あと、夜にそこで野生のキツネに会ったことがあるけど……まあ今、このことは関係ないか)
自分の勘違いということもありうるし、勘違いであって欲しいという願望が強いあまり、悠一くんはもう少し歩いていってみることにしました。けれども、その後おそらく三キロほど歩いてみて、悠一くんは絶望しました。パーキングエリアなどはどこにもなく、ますますあたりは自分の見知らぬ様相を深めていったからです。
(絶対変だ。というより、ここは本当に一体どこなんだ!?)
左手の海は次第に遠ざかり、道路はより内陸のほうへと入りこんでいるようでした。右側は相も変わらず草原が広がっており――しかも、本来ならどんどんそれがまばらになってゆくはずなのに、ほとんど森といって差し支えないほどそこには鬱蒼と樹木が生い茂っているではありませんか。
(どうしよう。せめてどこかに電話でもあれば……)
悠一くんの望み、それはパーキングエリアを過ぎ、さらにもう少しいったところにあるコンビニでした。悠一くんはいつもそこでパンやおにぎり、あるいはお菓子類やジュースなどを買ってドライブを続けます。そして、彼の記憶によればそのコンビニの横のほうに電話ボックスがあったはずなのです。ジーンズのポケットのほうに小銭(370円程度)なら入っていましたから、それで家のほうに電話しようと思っていました。
悠一くんが絶望的な悲しい思いで、(どうしよう、どうしよう……!!)と思いながら、だんだんに疲れてきた足をそれでもなお前へ進めていた時でした。突然鬱蒼とした不気味な樹木の群れが途切れたかと思うと、よくわからない文字の書かれた看板の下に、黄色い出入り口のゲートが見えてきたのです。
といっても、黄色いゲートのところは鎖が巻きつけられた上、南京錠がかけてあったのですが、下からもゲートの横のほうからも抜けて中へ入れる隙間がありましたから、悠一くんはそこに入っていってみることにしました。まずもって人などいなさそうな雰囲気ではありましたが、どこか身を落ち着けられそうな建物に入りこめたとしたら――明日、明るくなるまでここで休むということが出来るかもしれないと思ったのです。
ところが、です。そこは広いモトクロス・サーキットのような場所で、そこが突然、まるで悠一くんが来るのを待ってでもいたかのように眩しい光で照らされ――かと思うと間もなく、どこかからバイクのエンジン音がしてきました。
――ウオオン、ウォンウォン……ッ!!!!!!!
バイクは一台だけではありませんでした。悠一くんが見た限り、五、六台が追いつ抜かれつして、疾走してゆきます。そして、一台のバイクが仕掛けた罠に引っかかった隣のバイクが横転して道から外れ、吹っ飛ばされました。そしてさらに見ていると、先ほど仕掛けたブルーシルバーの車体のバイクが、坂道から襲いかかるような形で、別の一台のことも吹っ飛ばしてしまい――悠一くんはそのそばへ寄っていくことにしました。
先ほどコースから外れたバイクに乗った人物は、自力で起き上がっていたのですが、今度の横転した赤いバイクの人物は、そのバイクの下敷きになっていたからです。
(どうしよう。きっと大怪我してるよ。救急車呼ばなきゃ……!!)
携帯のないことに歯噛みしながら、悠一くんが走って赤いバイクの下敷きになった人物のところまで辿り着いた時――彼はそこで呆然と立ち尽くしてしまいました――何故なら、その人物は人間ではなかったからです。いえ、一応人のような姿はしています。けれど、形容するのにもっとも近いのは、それは映画で見たことのあるゾンビでした。
いえ、実際のところそれも正しくありません。べつにそのゾンビは特段顔も体も腐っている途中だというわけでもなく……そのような腐敗の最終形態とでも言ったらいいのでしょうか。肉は大体のところ腐り果て、もとの彼(彼女でしょうか?)の顔がどんなだったのかもまったくわからず、顔も体も灰色とブロンズのような皮膚で覆われていました。髪は残っており、彼は真っ赤な髪をして瞳のほうはがらんどうでした。そして、苦しげに呻くでもなく、とにかくバイクをどかそうとしてもぞもぞ動いているのです。
悠一くんにはもう、わけがわかりませんでした。自分は悪い夢でも見ているのだろうとしか思えません。でもやっぱりこれは現実なのです。いえ、仮に現実ではなかったにせよ、自分はこの世界で<中村悠一>という体に意識の閉じ込められた存在で、その肉体がここにある以上、とにかくこれは現実に違いないと、悠一くんはこの時そんなふうに認識していました。
なんにしても、バイクをどかすのを手伝ってしまうと、このゾンビは自分に襲いかかってくるかもしれません。まだはっきりゾンビと確定することまでは出来ませんが、悠一くんがゾンビ映画などから得た知識によると、彼は生きた人間に噛みつき、その肉を喰らい、そしてゾンビに咬まれた側の人間は――彼らの仲間になってしまうという、そのような不幸な無限連鎖について描かれた映画がほとんどであったように記憶しています。
何はともあれ、ゾンビのほうで声を発して悠一くんに助けを求めたというわけでもありませんし、悠一くんはドキドキする胸を抱えつつ、このバイクレースの結果がどうなったかを知ろうとしました。それで、あっちの建物の影、あるいは樹木の茂みに隠れるなどして少しずつ移動していき……最後、ブルーシルバーのバイクに跨った男が、ヘルメットを取るところをこっそり物陰から見ました。
一度、小高い場所から見たところによると、他のバイクに乗っていたゾンビたち(あるいはその中にもしかして人もいるのでしょうか)はそれぞれバイクとともに動かなくなっており、あるいはよたよたと足を引きずっている者もいましたが(それもやはりゾンビの後ろ姿でした)、とにかく勝利したのはこのブルーシルバーのバイクに乗ったゾンビだったようです。
ヘルメットを取った<彼>が、自分と同じ人間でさえあってくれたら……と願っていた悠一くんの願いは虚しく砕かれました。それで恐ろしくなって即座にその場から逃げ出そうとした時のことです。
「ヘイ、ユー。見ない顔だな。ちょっとこっちへ来いよ」
この時、悠一くんはあまりのことに腰を抜かし、四つん這いになってその場から逃げだそうとするところでした。しかも、そのブルーシルバーのバイクからは距離的にかなり離れたところにいたはずなのです。それなのに何故向こうがこちらに気づいたのかも、悠一くんにはわかりませんでした。けれどとにかく、一も二もなく悠一くんはその場から逃亡することを選択していました。
そして逃げる途中、ちらと後ろを振り返ってみると、そのゾンビが背後から追ってくるではありませんか!!
>>ゾンビたちが現われた!!
コマンド→逃げる。
しかし、回りこまれてしまった!!
こんなことを連想している余裕はもちろん悠一くんにはありません。とにかく彼にわかっていたのは、ここがとても危険な場所であること、またゾンビに捕まったが最後、生きたまま食べられてしまい、自分も理性を失ってさまようことになるだろう……ということに対する恐怖でした。
けれども、一体どこに隠れていたというのか、いつの間にか右からも左からもゾンビたちが次から次へと現われ――悠一くんはものの五分もしないうちに、三十体はいそうなゾンビたちに取り囲まれてしまったのです!!
「あ、あわわ……」
こんな言葉を発するのは漫画の登場人物だけ……そう思っていた悠一くんでしたが、悲鳴ですら喉の奥から出てきませんでした。とにかく、なんの言葉も発さないゾンビたちに捕えられ体を持ち上げられると、先ほどのブルーシルバーのバイクのゾンビのところまで、彼は運ばれることになりました。
「ユーは一体、どこから来たんだい?」
意外にも、悠一くんは体を胴上げでもするように持ち上げられたあとは、丁寧に地面の上へ下ろされました。そして、ブルーシルバーのバイクの主は、跪くと、悠一くんと目と目を合わせるようにしてそう聞いてきたのです。
といっても、先ほど赤いバイクの下敷きになったゾンビと同じく、彼の目の中もがらんどうのように真っ暗でした。けれども、にも関わらずわかるのです。彼がじっと自分のことを<見ている>という、そのことが……。
「えっと僕、S市のひのき町っていうところに住んでて……」
「エスシノヒノキチョウねえ」
どうやらこのゾンビがボスらしく、他のゾンビたちはまるで、彼の真似でもするように、同じように首をひねっていました。
「おまえら、聞いたことあるか?」
すると、全員が全員、今度はまったく同じ動きを見せて、首を左右に振っています。
「あの、むしろこここそ、一体<どこ>なんでしょう?」
自分が住んでいる場所の近隣に住む人間ならば、ひのき町を知らぬはずがない――そう思って、悠一くんはそう聞き返しました。ゾンビたちからは腐臭が漂ってきてはいるのですが、それは鼻がへん曲がりそうだというほどひどいものではなく、とにかく風下に位置を取ることさえ出来ればなんとか我慢できるといった類の臭いでした。
「おい、おまえら。ここは一体<どこ>なんだ?」
すると、今度は他のゾンビたちは全員が全員、「知らない」ということを示すために、片手で顔の前を振っていました。
「みんなも知らねえとよ。おっと、こいつは俺っちとしたことが、ちょいと質問の仕方を間違えちまったかな。お宅、どこの手のもんだいって聞いたほうが良かったのかな」
今度は、他のゾンビたちは全員、「それが正しい質問の仕方だ」というように、全員が全員一斉に「うんうん」と腕組みして頷いています。
「どこの手のものっていうと……」
「ふふん。しらばっくれちゃいけねえや。この世界にいてゾンビ四天王さまを知らねえ奴なんかいるわきゃねえ。南の女王アビシャグ、北の王ドルトムント、東の王アーメンガード、西の王ゴロツキング――そのうちの、どこの配下の者かってこっちゃ聞いてんだ」
「えっと……」
悠一くんはドルトムントという、元いた世界のドイツの都市名くらいしか思いあたることがありませんでしたが、むしろこの場合、逆に聞いてみるということにしました。
「その、むしろあなた様はどちらの手の者なので……」
「ふふん。俺っちかい?その昔は俺もドルトムント様に仕えていたこともあったっけが、なんと言っても戦争が嫌でねえ。そんなわけで、逃げて今は他のはぐれゾンビどもとこんなふうにバイクであちこち旅してるのさ」
「…………………」
悠一くんにはもう、何がなんだかわかりませんでした。とにかく、ゾンビたちは映画で見たことがあるほど凶暴でもなく、彼の生肉に非常なる興味を示してよだれを垂らさんばかり……というわけでないことだけが、唯一の救いだったかもしれません。
「その、僕はどの配下の者でもないんです。というか、その四天王さまのお名前もはじめて聞いたような次第で……」
「へええ。そんな奴もいるんだねえ。なんにしても、さっきのバイクレースで何人か負傷しちまったようだから、俺たちはこれからくぐっちゃんのところへ行かなけりゃあ」
(くぐっちゃん??)
悠一くんは「くぐっちゃん」が何者なのかさっぱりわかりませんでしたが、とにかく、他のゾンビたちが何かの連帯意識を示して、自分の仲間を助け、その肩を貸しているといった様子を眺めました。映画で見たゾンビとは違って、彼らにはどうやら助け合いの精神があるように見受けられます。
「あ、あのう……僕も一緒についていったりしちゃ駄目でしょうか?」
ゾンビたちがめいめいバイクに跨ると(負傷したゾンビは後部席に乗ってふたり乗りでした)、ブルーシルバーのバイクに跨ったボスゾンビは、サイドカー付きのオートバイのほうを示し、「それに乗りな」と言ってくれました。
「あ、ありがとう……」
リーゼントの頭をしたゾンビは何も言いませんでしたが、まるで「いいってことよ」と言っているように感じられたのが、悠一くんには不思議だったかもしれません。サイドカーのほうは革張りで、実に乗り心地が良かったのですが、リーゼントゾンビがそんなにスピードを出すのでなかったら、もっと良かったかもしれません。
こちらでは<時間>というものがどのように認識されているのかわかりませんでしたが、ゾンビの一団(およそ八十名ほど)が夜通し高速を走らせ、やがて夜が明け初めようかという頃――ボスゾンビが「くぐっちゃん」と呼んだ男(女性の可能性も)のいる場所へ悠一くんは辿り着いたのでした。
悠一くんの見た限り、ゾンビたちはみな疲れ知らずでパワフルでした。また「恐怖」といった感情もないらしく、スピードの出しすぎでたまに高架下へ落ちるゾンビというのがいましたが、この場合は気づかないのかなんなのか、とにかくそのゾンビは放っておかれるがままということになっていました。
悠一くんは、朝陽に照らされた緑十字の刻まれたクリーム色の建物を見て、「くぐっちゃん」というのが何者か、少しわかる気がしました。ようするに、「くぐっちゃん」というのはゾンビの医者のことではないかと、そんなふうに推測したのです。
ところが、です。ボスゾンビが「くぐっちゃん」と呼んだ人物は、当人自体ゾンビで、清潔な白衣なども着ておらず、背が低くずんぐりしていて、その上とても太っていました。また、頭のほうは汚らしくネトネトしていて、いつでも彼の頭の上を蝿が旋回しているといったような具合なのです。
「傀儡師のおやっさんヨォ。仲間がバイクの下敷きになったりなんだりして、足やら腕やら潰れちまった。なんとか治してやってくんねえかい?」
「チッ。またかよ。当然、アレはあるんだろうな?」
傀儡師と呼ばれた親父は、いかにも物欲しそうに右手を差し出しました。その手が何故か時々ピクピク痙攣しています。
「おい、おまえら、アレを持ってこい!!」
ボスゾンビが命じると、仲間のゾンビの何人かが、心得まして候とばかり、焼酎の入った瓶を一ダースほどえっさほいさと抱えてやって来ました。
「ヒ、ヒヒヒ。へへヘ……こりゃたまんねえじゃねえかよぉ、おい。そんで、患者はどこでえ?とっとと治しちまって、うまい酒をたんまりいただこうじゃないかい。ひっくっ!」
傀儡師の親父はすでに酔ってでもいるように、千鳥足で診療室らしき場所へ入っていきました。目指しているのはもちろん彼とは違う種類の医者なのですが、悠一くんは何か興味を引かれて彼についていくことにしました。
「おっと、おめさんなんでえ。生きた人間様じゃねえか。なんでこんな奴らと一緒にいるんでえ?」
「その……僕が生きてるって、わかるんですか?」
傀儡師の診療室は、悠一くんがいつも見て知っているような病院内の様子とはまったく違っていました。まずは、ぎょっとすることには水槽につかったゾンビの足やゾンビの手や胴体があり、また、ステンレスのカートには彫刻家が使うような色々なノミの類がたくさん並んでいます。
「ふふん。そりゃわかるさ。そういう筋の知りあいが何人かいたりもするしな」
ひとり目の患者ゾンビAがストレッチャーに乗せられてやって来ると、傀儡子の親父は彼の潰れた足を見事に整復してみせました。曲がった骨を直し真っ直ぐにしてやると、それでゾンビAはすぐに歩けるようになったのです。
悠一くんにはとても不思議でした。組織は死に、もう<生きて>などいないのですから、一度折れたりした関節が元通り治るはずなどないのです。けれども、大体似たような調子でゾンビBやCなどの腕や肩などを傀儡師の親父は整復し、体の治ったゾンビたちはボディビルダーのようにポーズを取って、それぞれ自分がいかに健康かということをアピールしていました。
また、いよいよ体の一部が破損していてどうしようもないという場合は、何かの特殊な薬品に浸されている(ホルマリンとはまた別の溶液のようでした)水槽の中から腕や足などを取りだして、傀儡師の親父はそれを透明な糸でしっかりくくりつけました。そして複雑な神経を繋ぎ合わせるといった作業もなしに、こう宣言するのでした。
「これでよし、と。あとは一種間くらい、腕がしっかりくっつくまで、そこは動かしたらあかんでえ」
六名ほどのゾンビをすっかり治療すると、傀儡子の親父は診療室の椅子にどっかと座って、焼酎の瓶を煽るようにして飲みはじめています。実をいうと、悠一くんがゾンビ映画を見ていて不思議だったことがあります――それは、彼らが食べた生肉がどこへ行くのか、ということでした。何故といって、喉や胃といった器官はもう本来の働きをなしていないのですし、彼らの齧った肉などが消化もされずにどこへ行くのか、とても不思議だったのです。
そして、傀儡師の親父がいかにも美味しそうにお酒を飲む姿を見て……もし彼が数時間して排尿するのだとしたら、彼は死んでいるのではなく、少なくとも体の一部の器官は生きているのではないかと思いました。
(そうだ。お酒を「美味しい」と思うのだとしたら、舌の味覚がその情報を脳に伝えてるってことなんだから……)
ですが、その一方、傀儡師が整形外科医としてはかなり雑な方法で次々ゾンビたちの怪我を治していくのを見てもいるので、そんなに細かく拘ること自体間違っているのだろうかとも、悠一くんは思うのでした。
なんにしてもこの時、悠一くんには傀儡師のおっちゃんに聞きたいことがありました。先ほど、「生きた人間に知り合いがいる」と、彼がそう言っていたのを覚えていたのです。
「あのう……僕みたいな<生きた人間>に会うにはどうしたらいいですか?というか、その人は今、どこにいるんでしょう」
「ふうむ。ここからかなり南下していった砂漠と接した土地にな、シェロムって男がいるんだ。もうかれこれ奴とは何十年のつきあいになるのかね。わしゃあいつの作るぶどう酒に目がなくてな、そのかわりゾンビ肉を供給してやってるのさ」
「ぞ、ゾンビ肉、ですか……」
(これ以上その先の話は聞きたくない)――と悠一くんが思っているのも構わず、傀儡師の親父は白い瀬戸物の酌に焼酎を注ぐと、ぐいっとそれを飲んで話を続けました。
「おうよ。ここに運ばれて来たゾンビの中には、頭のあたりがぶっ潰れちまってて、もうにっちもさっちもどうにもならねえ奴が運ばれてくることがある。そういうゾンビのことをシェロムに渡して、俺っちはぶどう酒をもらうっていう寸法よ」
「ゾ、ゾンビ肉って、食べられるんですか?」
「さあなあ。なんでも奴の話じゃ、九割方は捨てることになるんだと。だがな、ほんの一部、まだ上等な部分が残ってるってことらしい。それは美食家の奴にとっちゃ、最高にうまい肉だって話だ」
(カニバリズム……)
そのことを思うと、悠一くんはゾッとしました。その自分と同じくまだ生きているという人に、色々聞いてみたい気がしたのですが――むしろそのシェロムという人に自分のほうこそが取って食われやしないかと、そんなことが心配になってきました。
「えっと、他には僕みたいな生きた人間っていうのは、このへんにいないものなんでしょうか?」
「いねえってこともねえだろうよ。俺の聞いた話じゃ、時々高速道路とか、あるいは森ん中とか、ポツポツいることがあるらしいってことだ。けどまあ、そのあとどうしたのかってことになると、とんと噂話が聞こえてこねえつーか」
「そ、そうなんですか……」
『自分の元いた、生きた人間だけの世界へ戻るにはどうしたらいいんでしょう?』――今悠一くんがもっとも知りたいのはそのことでしたが、どうこの話を切り出したらいいのかわからず、悠一くんは診察台に座ったまま、暫く俯いていました。
「おめさん、生きてるんだったら腹が減るんだろ?えっとな、確かこのへんに……」
傀儡師の親父は、そばの戸棚をがさごそ漁ると、そこから缶詰をひとつふたつ取りだしました。ひとつは鹿肉の缶詰で、もうひとつは豆の缶詰でした。何分、コンビニで買ったサンドイッチを食べたのが最後の食事でしたので、確かにお腹はすいていました。けれども、泥がついて汚いそれを受け取ると、無意識のうちにもまず、悠一くんは賞味期限を確認しました。
(えっ!?10111年5月31日……)
「その、つかぬことを伺いますが……今は西暦何年の何月何日なんでしょう?」
缶詰のほうに書かれている文字は、悠一くんにはまるで読めませんでした。けれどそのかわり、豆の写真が貼ってあったり、鹿の絵が描かれていたりして、それで缶詰の中身が何かわかったのです。
「セーレキ?おめさん、何言っとるだね」
「だから、その……暦のことですよ。西暦とかじゃなくてもいいんです。えっと、今はなんとか暦の何月何日とか、そういうのがあるでしょう?」
「ふうむ。やはりわしら死んどるもんには、生きとるもんの言っとることはわからんようじゃ。おめさん、わしらは死んでるだよ。つまりだな、もはやコヨミが何年だの、そんなこと、一体なんの意味があるだね?」
「…………………」
何か哲学的なことを言われた気がして、悠一くんは黙りこみました。それと同時に、傀儡師の親父がどうやら排尿したりすることはないらしいことがなんとなくわかりました。何故といって、喉やら肺のあたりやら、体に小さな穴のあいた箇所から焼酎のほうがしみだしてきていましたから。
「その、美味しいんですか、その焼酎?」
「うん?まあ、そうだなあ。わしはこれがないと生きていけんなあ。もしこの世から酒がなくなったら、わしは死ぬしかなくなるわい!!」
そう言って傀儡師の親父は「わっはっはっ!!」と笑っていました。何か自分がとても気の利いたジョークを言ったように思っているようです。
「……味はするんですか?」
脳にまだ生きた領域があるのかどうかを知りたくて、悠一くんはそんなふうに聞きました。
「そりゃもちろんさ。かーっと来てきゅーってなもんじゃ。もし味がせなんだら、飲んでも意味なぞなかろうに」
そう言って傀儡師の親父が自分の体から沁みだした液体を指で差し示したため、悠一くんはまた黙りこみました。実は彼はこんなふうに推察していたのです。
(つまり、このゾンビたちにはおそらく、はっきり個別性があるんだ。この傀儡師のおやっさんが生前、とんでもない飲んべえだったのかどうか、それはわからないけど、生前の習慣なんかを受け継いでいることだけは間違いないんじゃないだろうか。あのリーゼントのゾンビも、たぶん生前館ひろしが好きだったとか、何かそういう理由があるのかもしれない。それと、あのブルーシルバーのバイクのゾンビはライダースーツを着ていて、このおやっさんは何か中国の胴着みたいのを着ていて……でも、他の口を聞かずにジェスチャーだけをするゾンビたちはみんな、何故か裸なんだよな……)
「そのう、僕、ここへやって来るまでにさっきのライダースーツを着たボスの人しか話すところを見たことがなくて……他のゾンビたちは喉が悪いか何かして、口を聞けないんですか?」
「さあなあ。喉が悪いといえば、わしだって喉が悪いさ」
そう言って、傀儡師の親父は、喉のあたりを親指と人差し指でつまみ、飲んだばかりの酒がぴゅーっと飛びでるようにしました。
(よく考えたら本当にそうだ……第一、体の機能がすべて停止したら、口を聞けること自体おかしいんだ。それに言葉……この缶詰の文字はまったく読めないものなのに、彼と僕との間で日本語が通じるって、おかしくないか?)
悠一くんはこの時、こういう可能性があるのではないかと思いました。つまり、あの時自分は実は車をスリップさせるか何かして、崖から海へ落ちるか何かして死んだのだ。その後、病院へ運ばれるも、意識不明の重態になった……今この世界は自分の宇宙にも等しい無意識の世界が創り上げた何かではないのかと、そんな気がしてゾッとしたのです。
(いや、そんなはずない。だって僕は今、お腹がすいたと感じているし、少し眠って休みたいとも思ってるんだ。きっとこのノミで体を傷つけたらとても痛いだろうし、なんにしてもこれが今僕の生きている<現実>であることは疑いようがない……もちろん確かに、信じがたいことではあるけど……)
「おめさん、向こうから飛ばされてきたんじゃろ?」
「は、はい……」
そんなことまで知っているのかと思い、頭の上で蝿を旋回させている傀儡師のおやっさんに対し、悠一くんはある種の畏敬に近い気持ちさえ覚えました。
「さっき言ったシェロムの奴な、あいつも高架下あたりでゾンビどもが拾ってきた男なんじゃ。あいつも、わしにはよくわからんことを言うとったっけなあ。やれ、戦争はどうなっただの、ドイツは連合軍に勝ったかどうかだの……」
「そ、そうなんですか。じゃあ随分昔の話になりますね。僕のいた世界ではつい最近、戦後七十四年を迎えたところだから……」
傀儡師の親父は、整復用ののみのひとつを器用に使って缶詰を開けてくれました。そしてここでまた疑問に思ったことをひとつ、悠一くんは彼に聞いてみました。
「そういえば、あなたは食べないんですか?」
「いや、わしは焼酎さえあれば十分さ。それより、おめさんもシェロムが言ってたみてえに、出来れば元の世界へ帰りたいんじゃろ?」
「は、はい。もちろん……」
「そんじゃあまあ、ちょいとついて来なされ」
瓶ごと焼酎をラッパ飲みして、傀儡師の親父は診察室を出ると、階段を上がって屋上へ向かいました(ちなみに、病院のほうは五階建てです)。途中で見た院内はどこも、廊下も病室も、散らかり放題でした。そしてゾンビたちはお互いにストレッチャーに乗ったりそれを押して遊んだり、あとはこれもまた不思議な光景でしたが、ゾンビのうちの何人かは煙草を吸っていました。そして煙のほうは口からだけでなく、肺や喉などに小さな穴があった場合、そこからも洩れている様子でした。
階段を五階まで上っていくと、悠一くんはすっかり疲れきりましたが、傀儡師の親父のほうではそうでもないようでした。これは悠一くんがあとから知ったことですが、ゾンビはもはや生きている人間のように「眠る」ということがありませんし、いくら運動を続けても疲れを感じるということもまったくないようでした。
そして、眩しい太陽の降り注ぐ屋上に辿り着いた時――そこでは、女性ではないかと思われるゾンビ数人がバレーボールをしていました。彼女たちも口を聞かず、ジェスチャーだけで意思疎通をはかり、裸でした。といっても、男性のゾンビの場合は足の間にあるものが腐敗の過程で大抵もげてしまいますし、女性のほうでも、どんな大きな胸を持つ女性も、腐敗の過程で大抵の場合、どんどん小さくなってしまうのです。ゆえに、ゾンビの雌雄を見分けるというのは、外見だけでは難しいものがありました。けれども、悠一くんの観察する限り――なんとなく女性っぽいなと感じるゾンビはやっぱり元は女性で、男性っぽいなと感じるゾンビはやはり元は男性である場合が多かったようです。
「ほら、あれじゃよ」
病院の屋上から空を見上げた時、悠一くんは驚きました。何故といってそこには、白銀の雲の上に浮かぶ、大きな城があったからです。城、といってもそれが実際に近くまでいったらどのくらいの大きさなのか、悠一くんには見当がつきかねました。ただ、あんなに見事な建物は見たことがなかったため、とにかくその場に呆然と立ち尽くしてしまったものです。
「わしもあの城の正体についてはよくわからんのだがな、もしあの城にまで辿り着けたとすれば……なんでも生きた人間として甦ることが出来るっちゅう話じゃ。つまりな、わしが思うに、生きた人間になれるっちゅうことは、おめさんらのいる生きた人間ばかしだっちゅう世界へ行けるってことなんじゃないかと思うのじゃよ」
「えっと、でも……どうやってあそこまで行けばいいんですか?」
悠一くんはふとここで思いました。ここまでやって来る途中……日本でいったら東京か、あるいはアメリカならニューヨークのマンハッタンかといったような、巨大なビル群を悠一くんは見ていました。つまり、ここまで文明が(おそらくかつては)発達していたのなら、飛行機やそういった類の乗り物が必ずあるはずだと思ったのです。
「さてなあ。かつてあの冷酷な北の王、ドルトムントの奴が、ゾンビどもに命じて、あの城にまで届くよう巨大な塔を築こうとしたことがあったっけが、あの雲の上のほうから雷のような恐ろしい攻撃をしてきてな、塔を建設中のゾンビごと、塔をぶっ壊しちまったんじゃよ。そんなことがあって以来、二度と同じことをするゾンビは現われんかったし、飛行機とかな、そういう類のものも全部駄目じゃ。あの雲の上の城あたりまで行こうとすると、大抵が墜落の憂き目にあってしまう。ただわしらはとにかく毎日、あの雲の上の城はなんなんじゃろうなあ、あすこに一度でいいから行ってみてえなあと思いながら過ごすしかないんじゃよ」
「…………………」
この時、悠一くんの脳裏にあったのは、実はゲームのRPGのことでした。ドラゴンクエストでもファイナル・ファンタジーでも、最初は「画面に何か町が見えるけれども、入れない」ということがよくあるものです。けれども、順にミッションをクリアーさえしていけば、その町に入るための鍵であるとか、その他必要な乗り物が手に入るだとか、そうしたことがあるように……「あそこに雲の上にのった城がある以上、あれが人の目の錯覚か幻影でもない限り、あの場所へ行く方法は必ずあるはずだ」と、悠一くんはそう考えました。
(でも、ミッションったって……僕は実際のところ、これから具体的に何をどうしたらいいんだろう)
女性ゾンビのひとりがバレーのボールをレシーブしそこね、それが悠一くんの元にまで転がってきました。そこで悠一くんがそのボールを軽く打ち返すと、ゾンビたちのほうではしきりと嬉しそうに「ありがとう」というジェスチャーを繰り返していたものです。
このあと、悠一くんは缶詰の豆と鹿肉という食事を終えると、病室のベッドのひとつで少し休むことにしました。そして次に目が覚めてみると、夕方でした。病室内に時計はありましたが、止まっていましたので、ほとんど用はなしません。そのかわり、この時悠一くんは少しばかり感動しました。散らかっていたはずの病室が片付き、しかも床頭台のところには花が数輪活けてあったからです。
(この黄色い花、なんて言ったっけ……こっちはたぶん異世界か何かなんだろうに、花は向こうと同じ種類のものが咲くだなんて、なんだか不思議だな)
悠一くんが思い出せないその花の名前は、デイジーでしたが、悠一くんはひどく孤独な中にもこの時、随分心を慰められるものを感じました。よく考えてみると、ここにやって来るまでの間……最初に車を奪ったあの男はべつとして、悠一くんはゾンビたちには特に危害を加えられたり、嫌な思いをさせられたことはなかった気がします。
ただ、自分のほうでこれからどうなるんだろうとの不安とともに、彼らのほうで突然何かの拍子に凶暴になるのではないかとの脅えがあったために、何かそうしたフィルターを通してこのゾンビたちのことを見ていたというそれだけだったのです。
これは悠一くんのただの直感でしたが、たぶん部屋を片付けたり花を飾ったりしたのは、屋上でバレーをしていた少女ゾンビたちではないかという気がしました。そして、ここでも悠一くんは少し不思議になります。このゾンビたちが今のような姿になる前――彼らや彼女たちは一体どんな姿をしていたのだろうと思ったのです。
(でも、確かに僕にはやるべきことがある……何故といってゾンビたちは明かりがなくても目が見え、食事など何もしなくてもいいだろうけど、僕にはまず生き延びるために水と食べ物がいる。それに、今はなんか向こうと同じく夏っぽい気候だけど、これからもし冬がやって来るのだとしたら……暖房とか色々、自分でなんとかしなくちゃいけないものな……)
眠るために目を閉じた時、悠一くんはこう思っていました。これが何かの悪い夢であって、次に目を覚ました時にはそこが自分の家のベッドでありますように、と。けれども、鼻をつく微かな腐臭とともに、悠一くんはやはり今の自分にとってこのゾンビ世界が現実なのだと思い知り、愕然としたのでした。
何故、あの少女ゾンビたちが他の赤や青といった色の花でなく、黄色い花を選んでくれたのか……それは悠一くんにもわかりません。けれど、悠一くんはその花の色を見た瞬間、とても嬉しくなりました。こんな世界の終わりのようなひどい場所でも、<希望>ということをその花の色の中に見るような気がして……。
>>続く。