雨の物語
そろそろだ。
二階の格子窓に背を預けていたおたきは、だんだんと迫りくる胸の高鳴りに身を起こした。
ふぅっと大きく息をつき、今度は窓に向き直ると、外に見える向かいの軒先を見つめた。あいにくの雨で、狭い宿場の通りはまるで傘の花が踊っているようである。これじゃ、あの人が来るのを見逃してしまうじゃない。と苛立ちを握りこぶしにして、窓を叩いた。
旅籠の女中のおたきは、毎年この日のこの時刻、この場所で向かいの軒先を眺めるのが恒例になっていた。十四歳からこの旅籠に来て奉公勤めをしている。お給金のほとんどは、兄弟の多い家族の元への仕送りだ。もし自分がここをやめてしまったら、家族が路頭に迷う事になる。身売りをしたわけではなかったが、この体はいつも見えない紐で縛り付けられているような気がしていた。そんなおたきだが、毎年楽しみにしている事がある。それは・・・
「あ・・・」
ふっと傘の流れがまばらになった時、黒の大きな傘がふわりふわりと往来の中にやってきた。傘の下からちらりと覗く黒塗りの鞘、素足で雪駄履き、ゆるりとした大またの歩き方。間違いない、あの人だ。そう思った瞬間、おたきの胸が大きく跳ねた。本当は格子に顔をくっつけてしまいたかったが、自分が見ている事を悟られないように、出来る限り身を引きながら視線を下した。黒い傘はゆっくりと弧を描き、おたきが見つめる軒先へと吸い込まれて行く。今のは本当にあの人だったのかしら?よく考えてみたら見えたのは足の先だけだった事に気が付き、不安が襲ってきた。もし、違ったらその間にあの人は通り過ぎてしまっているかもしれないのだ。早くそれを確かめたいのだが、軒先を伝い落ちる雨がすだれの様に邪魔して、傘をたたむ所さえ見えない。
「お願いよ・・・」
あの人はこの店で花を一本買って行くのが恒例だった。同じ月、同じ日、同じ場所で花を買うなんて、誰か親しい人の墓参りなのだろう。きっと何か不幸があって死んでしまった恋人がいて、その人への思いを断ち切れず、こうやって花を手向けに来ているんだ。と勝手に想像している。その恋人は明るくてかわいらしい人?それともずいぶんと落ち着いた風情の色気のある人かしら。そんな事に思いを巡らせていても、あの人と思われる人影は一向に姿を現さない。気を揉みながら店を凝視していたら、いつの間にか格子窓に顔をつけて、身を乗り出していた。まだ花を買っているのかしら?このままでは、顔を見られずに終わってしまうかも・・・、とその時である。軒先からふっと人影が現れ、若い武士が姿を見せた。年の頃は二十五から二十八、細身ではあるが肩の厚みや袖から覗く腕は筋骨逞しい。きれいに剃った月代に小銀杏に結わえた髪、細い眉毛の下には、涼しげな目元。顔はほんのりと日焼けをしている。武士は軒下ぎりぎりまで出てくると、そのすっきりとした目を細め空を見上げた。おたきの胸がもう一度大きく波打つ。あの人を探して見下ろしていた自分には、その視線が自分の方に向けられている気がしたのだ。そんな事はない、と思いながらも、心のどこかで視線が合う事を期待してしまう。うまく息ができない胸を押さえ、おたきはその瞬間を待った。しかしその時は訪れなかった。武士の胸元に赤い菊の花が差し出されると、視線をおろし花を受け取った。そしてまた軒先の中へ引っ込む。その後黒い傘が現れ、往来の傘の花の中に溶け込んで行った。
見上げた時の端正な顔、真っ赤な花を見つめる完璧な横顔、傘の下に見える広い背中・・・姿が見えなくなった後も、まるで幻影の様にあの人の顔がぐるぐると目の前を巡り、おたきはいつまでも格子に張り付いて、ぽかんと口を開けていた。幻影の中のあの人は、見上げた時に確かに自分の顔を見つめている。目が離せないでいると、あの人は目じりを下げ、口角をあげまぶしいほどの笑顔になる。そしてその口がゆっくりと動いた。
(お、た、き)
「おたきー?」
女将さんの声だ。我に返ったそこは見慣れた殺風景な客間である。はぁっと一つ大きく息を吐き、おたきは置いておいたお盆を胸に抱えなおした。まるで夢を見ていて突然目覚めた時の感じだ。もうあの人の姿はどこにもないし、こうやってしてみるとあの人は夢の中の人物だったのではないかとさえ思う。それでもおたきの心は満たされ晴れやかだった。これで今年もやっていける。そして来年の楽しみがまた増えた。来年もまた、たとえ夢の中だけのひとであっても、あの人に会えますように。
「おたき?何してるんだい?」
「はーい、今行きます」
おたきは大きな声で返事をして、仕事へと戻って行ったのだった。
何もない山間の少し開けたそこに、ぽつんと墓がある。
昼間ではあるが黒い蓋のように覆いかぶさった厚い雲のせいで、まるで暮れ時のような雰囲気だ。音と言えば、連日の日差しを受け丈夫に育った木の葉が雨を跳ね返す音が静かに響き渡っているだけだ。その少しもやがかった木々の間の山道から、ふわりと黒い傘が姿をみせ、一本の菊の花を持つあの武士がやってきた。武士はぬかるんだ道も感じさせない足取りで、まっすぐ墓に向かってゆく。雨は少し大粒に変わり、傘を打つ音も重たかった。墓の前で足を止めた武士は、ゆっくりと墓石に視線を落とした。そして僅かではあるが少し顔を曇らせ、眉間に皺を寄せる。墓にはすでに花が添えられていた。武士はしばらくそれを見つめた後、少しうつむき小さくため息をついた。それから傘をたたみ、とてもゆっくりと、とてもていねいに腰を落とし、持って来た花を挿すと、手を合わせ、目を閉じ、熱心に弔った。
墓石と言ってもそのように見える石を立てた粗末なものだ。しかし表に記されている名前には苗字があった。
『藤村又右エ門』
本来ならば、このような山の中にひっそりと葬られるような御仁ではない。自分が命を受け、この場所で葬り去るような事をしなければ・・・・。
そうしてどのくらい経った頃か、突然頬に冷たい感触が走り、首筋がざわついた。ゆっくりと目を開き、横目で確かめると、そこには雨が滴りその清らかさと鋭さを増した刀の切っ先が見えたのである。薄く鋭い刃は、少しでも身動きすれば自分の首を飛ばすように据えられている。武士は小さく息を吐いただけで、動揺もしなければ身じろきもしなかった。
「正木・・・新三郎」
背後からこの雨音に似た重い声で自分の名を呼ばれた。武士、正木新三郎はその声に聞き覚えがあった。一度目を閉じ、少し口元を緩ませて息を吸った。
「隼人か・・・・」
藤村隼人・・・。目の前の墓石の主の忘れ形見で、かつて同じ藩で自分の友人だった男だ。彼の名以外すべて記憶の中から捨て去ったと思っていたが、自分を呼ぶその声と口調を聞いた瞬間、まるで紙芝居のように隼人の顔や立ち姿が脳裏を埋め尽くしてゆく。先ほどまで忘れかけていた事が嘘のように、今ではこの前飲んだ後笑顔で別れたぐらいの存在となっていた。
「やっと会えたな」
そうつぶやくと、新三郎はためらいもなく振り返る。首を狙っていた切っ先は、その動きに合わせるように紙一重の間隔で顔面を捕らえ続け、そしてぴたりと新三郎の眉間に合わせられた。二人の視線がようやく合った。
背が高く茶染の着古した刺し子に袴姿、総髪を無造作にまげただけの浪人だ。ただ、日に焼けた無精ひげのあるその顔の表情には生気があり、睨み据える目の強さは、人を圧倒するだけの威力がある。隼人は少し顔を傾け、いぶかしげに口を開いた。
「やっと会えただと?」
「ここでお主に会う事があれば、それは決着を付ける時と思うておった」
「俺を待っていたと申すか?お主が殺した男の息子と果し合いをする為にか?」
新三郎はわずかに視線を落とし、うなずいた。場違いだな、と思いつつなぜか口元にわずかに笑みが昇ってしまう。隼人の言葉遣いは、姿を見なければ今でも勤めのある立派な藩士であった。あの頃の隼人といえば黙っていると鋭い顔つきから怖い印象を与えたが、笑顔になった途端まるで少年のように人懐っこくなる。若い藩士仲間の中で場を和ませる存在だった。その笑顔を消し去り、自分に憎悪のまなざしを投げてくるようにしてしまったのは、この私だ。新三郎は湧き上がる後悔を必死に隠して、隼人の目をまっすぐに見た。
「この墓を立てたのはお前か・・・。なるほど、どうりて墓石の文字に見覚えがあるはずだ」
数年前、その頃新三郎には好きな女子がいた。郡代坂口左近の娘ちえである。ちえも新三郎に好意を寄せ、二人はほどなくして一緒になる事を夢に見ていた。しかし、新三郎の家柄は決して高くはなく、郡代の娘を嫁にもらうには分不相応だった。それでも新三郎は何度も坂口左近を訪ね、門前で追い返されても水を掛けられても、あきらめずにちえとの結婚を嘆願に行った。何度目の事だったであろう、その日も追い返される覚悟でいたのに、下男が愛そうよく新三郎を屋敷にあげたのだ。そして左近の前にすんなり通されたのである。
「正木、それほどまでに我が娘を妻にしたいか?」
「はい、わたくしは確かに身分は低こうございます。しかし、これから精進し、きっとちえ様を幸せにいたします」
しばらく長い沈黙が続きやっと左近がひそめるような声で口を開いた。
「一つだけ・・・・もしこれをお主が引き受け、見事果たすことができたのなら、ちえとの結婚を許そう」
「ほ、本当でございますか!はい、なんでもやります」
そこで与えられた命が当時藩若年寄の藤村又右エ門の暗殺だったのだ。
「お主、郡代の娘と結婚したそうじゃないか」
「そうだ」
「それが父の命の代償というわけか?」
「・・・・そうだ」
隼人の刀の柄を握る手元にわずかに力が入り、切っ先が新三郎の鼻先で揺れた。それでも新三郎はぴくりともせず、色の無いまなざしで自分を見据える。先ほど新三郎は決着を付けに来たと言っていたが、それだけではない気がしていた。ただ単に暗殺を後悔し、死に場所を求めていたのなら、もっと早くに自分を探し出せばよかったのだ。そうしようと思えばいくらでもできたはずである。
ある日突然、藩より藤村又右エ門が脱藩をしたという知らせが藤村家に届き、行方知らずのまま家は取り潰しとなり一家は離散した。父の藩への忠誠心が誰よりも強かった事を知っている隼人は、それから父を探しだそうと奔走し、とある噂を耳にしてこの場所にたどりついたのだった。そして気が付いた。ある特定の日、墓前に赤い菊の花が供えられている事に。まったく墓前にふさわしくない花だからこそ、隼人はこの墓を立てた人間、すなわち父をここで殺した人間が来ているのだと確信した。
「会うたなら、どういう事情があったのか聞いてやろうと思っていたが、そんな必要もないのだな」
隼人はすっと刀を手元に戻すと、剣先を立て八相に構え直し新三郎を鋭く睨み付けた。新三郎もゆっくりと立ち上がると、すうっと腰を落として柄に手を掛ける。
「勘違いをするな、私は討たれに来たのではない。決着をつけに来たのだ」
新三郎は今気が付いた。なぜ自分がこの日この場所に暗殺した者の墓に花を手向けにきていたのか。それはずっと後悔の念からもし隼人が気が付いて自分と会ったなら、その時には敵討ちを受けよう、と思っていたからだと。しかし、そうではなかった。今自分には役職と家督、そして最愛の妻と子がいる。隼人と決着をつける事で、自分はこの先も汚れた過去を背負い生きていく気力があるのか、それともここで相果て楽になりたいのか・・・・自分自身が知りたかったのだ。新三郎は刀を引き抜くと、正面に潔く構えた。その途端、隼人の気迫に押されていた空気が互角に張り詰め合う。それまでザーっと静かに流れていた雨音も一気に消えてなくなった。
「正木新三郎、覚悟はよいか」
「望む所」
隼人が足を踏み出す。刀から伝い落ちていた滴が、水しぶきに変わった。新三郎も臆する事なく重心を整えると、青眼の構えから胴を狙うように刀を真横に雨を断絶するかの勢いで振り切った。
「聞いたか?この先の山の中で果し合いがあったそうだ」
空も白みはじめ、続々と宿場にたどり着いく旅人の中からそんな声が聞こえ、旅籠の使用人達も興味を示した。足を洗う湯桶を持ってきたおたきも同じようにその声の方に顔を向けた。
「それはどこの山ですか?」
「さあ、それは知らないが、俺達がここへ向かう途中にお役人様がそう言って登って行くのをみたんだ」
「どうやらお侍が一人死んだようだよ」
「まあ」
「こんな片田舎でそんな物騒な事がねぇ・・・」
一緒に桶を並べていた仲間の女中が同意を求めるようにおたきの顔を見た。おたきも顔をしかめてコクコクとうなずいた。
「本当ね、そりゃいろんな事情の人たちが往来するところだから、仕方ないことでしょうけど・・・」
そんな話題で持ち切りの中、おたきはその輪から外れて、ちらりと何気なく店の暖簾の外に目をやった。雨は先ほどより小ぶりになっていたが、重くなった暖簾を揺らせるほどの勢いは残っている。そんな話よりも気になる事は、あわよくばあの人が戻ってくる所に遭遇して、今この時に暖簾の外に姿が見られれば、という事だ。もし本当にあれが夢ではないなら、ありえない事じゃない。
「おい、引き上げられて来たみたいだぜ」
小さな宿場町の道が騒がしくなった。役人が人を掻き分け、その後ろをがらがらと荷車が通ってゆく。その音を聞き、町の人間が花道を作るように両脇から見守っている。いったいどうしてこんな事に、物騒なこった、などとひそひそとあちらこちらで声がしていた。おたきは少し怖かったので、店の中から様子を見ようとしていたが、仲間の女中に促されて、しぶしぶ外に出た。
がらがらがたがた。ゆっくりと荷車が通りを通ってゆく。その上には人一人ぐらいのふくらみがあり、その上からムシロを被せ縄で縛った状態で運ばれていた。それがまるで布団にくるまっているように見え、余計にムシロの中を想像させる。ある人は興味深げに、ある人は恐ろしげにそれが通り過ぎるのを見守っていた。
相変わらずおたきは恐ろしさを感じていたが、とりあえず他の人と同じように、手を合わせて目を閉じた。あの人、もしかしたら、どこかでこの騒動に巻き込まれていたりしないかしら・・・。そんな思いがふっと頭をよぎった時、突然暗かった瞼の裏に荷車が映りその後ろ雨しぶきの中に黒い傘を持ったあの人の姿が見えた。顔は傘の陰になり見えなかったが、姿は昼間と同じだ。手に花は持っておらず、そこに静かに立っていた。
はっとして目を開けると、すでに荷車は自分から離れた場所に行ってしまっていた。急いで辺りを見回すが、それらしい姿はどこにもない。しばらく雨を見ながら考えていたおたきだが、ふっと表情を和ませると、大きく肩で息をした。
「きっと夢ね・・・」
静寂を取り戻した通りは、ただただ雨の音だけが響くばかりだった。
終わり