『赤城教頭の過失<第3話>』作:ことね
「待って!待ってくださいよっ!早まっちゃいけませんよっ!」
橋の外側と内側と向かいあって欄干に手を掛けていた親子は、突然現れた赤城教頭を呆然として見つめていた。
「あなたの事情は全て知ってますからっ!助けてくれる人もいるからっ!お願いですから早まったことをしないで!お嬢ちゃんと一緒にどこかで温かいものでも食べながらさ、話しを聞くから、ね?」言葉の終わりに子供の方に笑顔を向けた。
しかし、極限の精神状態であった若い母親は
物凄い形相で悪態をついた。
「あんた、誰よっ!?役所の人っ?いいんだよー!ほっといてよ!私、鬼だから。ダメ人間だからいいのよ。こんな母親で、この子は病弱でさ、生きてても仕方ないのよ!疲れた!疲れた!疲れた!疲れた!疲れたんだよぉっ!」
まるで人間の表情ではなかった。
追い詰められた獣の顔だ。勿論それが彼女の本質ではない。だが、今まさに我が子に手をかけようとしているところを目撃され、錯乱して精神蒙昧状態なのかもしれない。
赤城教頭は、なるべく穏やかに一節づつ区切るように説得を試みた。
「あなただげが悪いんじゃありませんよっ。だってあなた、お嬢ちゃんが生まれた時、たいそう喜んだそうじゃないですかっ?旦那さんが働かなくても、独りで面倒みていたんじゃないっ?」
「うるさい!うるさい!うるせぇっ!わたしは薄情なんだよぉ!男ができたの!男さへいればいいんだよっ!ハハハハハハ」母親の錯乱はとどまらず何かに取り憑かれたような目つきだった。
だが、赤城教頭は諦めなかった。
「自分の心に耳を澄ましてごらんよぉ。その子、千秋ちゃんって言うんだよね?、あなたに似てて可愛いじゃない!?あなたは薄情者なんかじゃないのよっ。自分の愛情の深さが苦しかったのよ!あなたが生まれつき薄情ならとっくにその子はいなかったでしょ!」
まさに魂と魂のぶつかりあいだった。
いつの間にか、車中から事の成り行きを見ていたタクシーの運転手もクルマを降りてきて3人を見守っていた。
赤城教頭の言葉が心の何処かに響いたのか、若い母親は意味不明な言葉を吐き捨てた後、絶叫して泣きじゃくり、その場にしゃがみこんでしまった。ようやく事は落ち着いたかに見えたその時だ。
女児は「ママを泣かすな!」と赤城教頭を睨みつけた後、「ママ、バイバイ」と笑顔を見せたまま橋の欄干から手を離し、後ろ向きに落ちて行った。
現実には一、二秒の転落が、赤城教頭の目には、まるでスローモーションのように見えた。
川面から水の音がしたと同時に、まるで条件反射のように赤城教頭は欄干を乗り越えると、真冬の川に飛び込んだ。
高落差四メートル、雫川の水温は激痛に襲われるほどの冷たさだ。着膨れした衣服は水を含んで、五十代でしかも女である赤城教頭の体力を奪っていった。
ところが、女児の頭は流れの一番早いところをとてつもない速度で流されていく。追いつくはずもない。心臓は早鐘を打ち、意識が薄らいでいった………。
それから二十分後、赤城教頭が目を覚ましたのはタクシーの後部座席だった。
カラダには毛布がかけられていた。
「先生よぉ?目覚めたかい?」
「運転手さん?」
まるで亜熱帯地方のようにエアコンディショナーが暑い。しかし、クルマの外からはクリスマスソングが聴こえている。どうやら来た時の商店街を走っているようだ。
「まったく、無茶するよなぁ。子供が落ちた後、すぐに110番通報しておいたよ。俺も川岸から走って追いかけたけれど、申し訳ないっ。………間に合わなかったよ。ところで、先生よぉ?まさか俺をお忘れじゃないでしょうねぇ?」
運転手がサングラスを外してルームミラーから教頭を見た。
助手席のダッシュボードの上に貼り付けられたカードに、運転手の顔写真と虎田ジョンという名前が見えた。
「あー、あなた!虎田くんね!?平成六年卒業の!?」
赤城教頭が理想に燃える新任教師だった頃、初めての中等部の担任を任されたクラスの生徒が虎田であった。
虎田はその頃十五歳、手のつけられない不良ではあったが、何故か学生たちからは「トラさん」と呼ばれ人気者だった。
思春期の真ん中にいた虎田は反抗の態度を取りながらも、心中密かに若かりし日の赤城に恋していた。
「あなたは後に警察学校に行って、本庁に行かれたと噂に聞いていたけれど……。」
「懲戒免職になっちまったよ。学校なら退学ってところだな。」
少年時代と同じギラつく笑顔を見せた。
虎田は、本庁にいた頃、巨大な人身売買組織を一網打尽にするべく、捜査チームの陣頭指揮をとっていた。しかし、影の黒幕は巧妙に法の網の目を掻い潜り、どうしても逮捕には至らなかった。摘発できたのは所謂トカゲの尻尾に当たる連中だけだった。
東南アジアから甘言に騙されて連れてこられた女達がどれだけ過酷な労働を強いられ、最後は臓器売買され、何人が殺されたことだろう、
とうとう虎田は、業を煮やして、表向きは実業家気取りの黒幕の会社に単身乗り込み、組織の黒幕を射殺してしまった。
虎田はすぐさま殺人を犯したと自首をしたが誤射だったと報道されていた。
虎田本人の意思は黙殺され、身内の不祥事は隠蔽されてしまったのだ。
しかし、虎田はなにも赤城教頭にそのことは言い訳せず、ただ「でも、先生よぉ、俺はなんにも後悔してないぜ。ホントだぜ」とだけ添えた。
赤城教頭は「先生はいつだってあなたを信じてますとも」と目を細めた。
虎田は少し面映ゆいような気持ちになった。
そういう時の彼は、必ずわざとぶっきらぼうを装うのだ。
「先生よぉ、駅の手洗いでそれに着替えてくれよ。」
脇を見ると座席にWNIQLOの大きな紙袋があった。
「ウニクロって知ってたかい?、浪打ウニが社長なんだってさ。憶えてるかい若ハゲのウニ?」
虎田に言われて赤城教頭は涙をぬぐい「あのウニ君が?みんな立派になったのねぇ」しみじみとした表情で溜息をついた。
「ところでさ、先生はタイムワープして来たんだろ?気を失ってる間に海辺之(学園)に電話したらあんたが出たぜ。同じ時間に先生がN県と黄昏市にいるってことは、あんたはタイムワープしてるってことだよな。」
虎田は敢えてルームミラーを見ないまま真っ直ぐ前を向いて話していた。そして、虎田の勘のとおり赤城教頭は声を出さずに泣いていた。
「先生よぉ、何があったのかわからねぇけどさ、あんた、つくづくほんとに変わらねぇな。相変わらず熱いよなぁ。俺はさ、先生と出会えたのは俺の財産だとずっと思っていたよ。」
虎田の言葉を聞きながらも赤城教頭の涙は止まらなかった。
やがてタクシーはT駅に着いた。
後部座席のドアを開けると虎田は「また会おうぜ、先生」と言った。
しかし、これが永遠のお別れになるだろう。
二人は互いの拳をこつりとぶつけた後、長い時間強く握手をして別れた。
所は変わり、見返り橋はおびただしい数の機動隊員と警察官が女児の行方を追っていた。
灰色の覆面パトカーの後部座席で容疑者の鈴木茜は身体を震わせて泣くばかりで言葉も要領を得ない。
鈴木茜の両脇に二人、運転席に一人刑事が沈痛な面持ちで女児発見の知らせを待っていたが、「所轄各PCPSへ。16時41分女児発見なるも心肺停止。」無線機の無情な声が車内に響くと、鈴木茜は号泣した。
そして、急に我に還ると、泣きながら運転席のシートを掴んで「どうしよう?ねぇ!もう一人いるんですっ!知らないおばさんが川に飛び込んだんです!」と叫んだ。
「なにっ?」
同時に三人の刑事が眼を剥いた。
しかし、謎の中年女性の行方は不明のまま日々は過ぎ、やがて捜索は打ち切りとなった。
女児が自ら川に飛び込んだとしても、女児の遺体には無数の虐待に依る傷や痣が見られた。容疑者鈴木茜は素直に全て過去をあらいざらい話し、容疑を認め、死刑にすることを自ら望んだ。それ故に、供述調書を仕上げるのにさほど時間を要さなかった。その殆どは、見返り橋に落ちていた論文らしき原稿のおかげと言ってもよいだろう。
捜査員たちは皆首をひねった。
何故なら、その論文の中には今回の事件のあらましが全て事細かに書いてあったからだ。
この既知の事実を書いたかのような論文を書き上げたと見られる日付は2016年11月20日であった。
まるで、2016年の人間が、2014年を振り返って書いた文章だ。
論文めいた二つの原稿を執筆したのは、沼すみれと御手洗一二三という人物だ。捜査員たちは、その二人のうちのいずれかが、雫川で女児を救いに川に飛び込んだ中年女性ではないかと推理したものの、何故、原稿を書き上げたのが未来の日付なのか?謎はいっこうに解けず、いつしかその論文は、触れてはいけないファイル、そう、Xファイルと呼ばれるようになって闇に葬られてしまった。
幸か不幸か、そのファイルに目を止めたのがN県警の匿名係の二人であった。
その二人の刑事は、どんな些細な事件もオカルトや宇宙人の仕業に仕立てあげようとするので、N県警の恥、実名を出せない警察官故に匿名係と名付けられ、二人定年まで窓際部署という憂いき目に遭っていた。
三平米に満たない小さな部屋でニューヨーカースタイルのダークスーツに身を固めた二人がそのファイルを見つめていた。
「モルダー?この論文を書いたのは、もしかしたら未来から来た宇宙人じゃないかしら?」クールビューティーな北陸美人スカリーこと須賀川理恵がコーヒーカップを手にしたまま眉根に皺を寄せて呟くと、通称モルダーこと盛田篤は、デスクの上に脚を乗せたまま「スカリー?ボクはブードゥー教の呪文で蘇ったゾンビの仕業だと思うんだよ」と荒唐無稽な妄想を真面目に語り始めた。
二人の妄想は止めどなく溢れたが当然ながら全て推論にしかならならず、やがて話し疲れて沈黙した。
ブラインド越しに窓の外を眺めていたスカリーが何か閃いたらしく振り返って口を開いた。
「モルダー?あのファイルをネット上に流したらどうかしら?」
盛田の顔色がパッと明るくなった。
「スカリー、それは名案だよ!」
かくして二人は、縦社会の組織のルールを一切無視して、『この論文の執筆者を探しています』と闇に埋もれる筈だった論文を警視庁のホームページ上に発表してしまった。
すぐさまメディアは『未だ増え続ける現代の奴隷たち』と『世界から見た日本の教育と女性の社会的地位』という二つの論文を取り上げた。すると、その論文は言語を変へ、あらゆる国のニュースとなった。
その時点では、後にその原稿が世界の歴史を変えてしまうとは誰も思いもよらなかった。




