11 いじめは誰が?
しばらくは平和と言える日常が続いた。しかしそれは僕視点でのことであって、ティリアからしてみれば決して平穏な日々ではなかっただろう。
ティリアと一緒に行動することの多いアレクシスから、彼女がいつの間にか皇太子殿下とも顔見知りになっていたという嘆きの報告を受けた。
一つ年上の皇太子殿下にどうやってお近づきになろうかと、同学年の生徒たちは四苦八苦しているというのに、さすがはヒロイン。いともに簡単にハードルを越えていく。
移動教室等でアレクといる時はティリアが嫌がらせを受けている気配はないらしい。それはそうだ。アレクは可愛い顔して国内でも有数の権力を持つ侯爵家嫡男。いくらティリアが男爵家の令嬢で地位が低いとはいえ、アレクが隣にいては手を出せない。
僕は僕で、それ以外のところでこっそりとティリアの動向に気を配っていた。その甲斐あってかティリアの不自然な挙動に気づくことになる。授業中、他の生徒たちが教科書を開いている中、ティリアは開けようとしなかったのだ。
真面目なティリアが先生の指示に従わずにいる理由は何か?
僕は授業が終わった後ティリアの元へ向かった。
「ティリアさん」
「あ……エドウィン君。どうしたの?」
「教科書。何かあったのか?」
「え、どうして? 何もないよ」
慌てて隠そうとしたティリアの手から教科書を取り上げ開く。予想していたとはいえ僕は顔を曇らせた。
そこには様々な雑言が書かれていた。身の程知らずとか八方美人とか、皇太子殿下や聖騎士様、アレクシスに近づくなとか。
やだな……ポツリとティリアが呟く。
「恥ずかしいところを見られちゃった」
「先生に言うか?」
「ううん、できれば自分で解決したいと思ってるから」
「そうか……でも、エスカレートしてからでは遅いから気をつけて」
「そうだね、ありがとう」
ティリアが口の端をキュッと上げて無理に笑顔を作ったが、強がっているのは一目瞭然だ。
僕は思わず慰めるように両手でティリアの手を握った。
「僕はたとえティリアさんが八方美人だったとしても、それが悪いことだとは思わないよ。誰だって、人に好かれたいと思うのは当たり前だろう?」
「……ありがとう、エドウィン君」
零れそうな瞳を更に大きくしてティリアは驚いた顔をすると、次の瞬間には綺麗に笑って見せた。
あぁ僕……ティリアに惚れそう。光彩に満ち、強さを秘めた眼差しに心を奪われかけ、僕は我に返る。危うく未知の扉を開けるところだった。
僕はぎこちなく笑い返した。
エドウィーナは攻略キャラの一人に横恋慕し、ティリアに嫌がらせをする悪役である。
僕が何もしていないのにティリアが嫌がらせを受けているのは果たしてどういうことなのか。僕の役どころが違っても、ティリアがいじめを受ける運命は変えられないのだろうか? 彼女が傷つく姿は見たくない。
エドウィーナは子爵令嬢なので、いじめに加担させられる取り巻きになる人物は限られる。男爵家の令嬢はクラスに4人。僕がこの4人に当たりを付けて見張っていると、そのうちの2人の怪しげな場面に遭遇した。
ある日、人気のない廊下で水を張ったバケツを持つ彼女たちを見かけた。
まさかと思って窓下を見ると、ピンクゴールドの髪が視界に入る。僕が制止の声を上げる間もなく、彼女たちはバケツを持ち上げて水を放った。
「やめ……っ!」
「きゃあっ!」
腕をつかんでこちらに向けたことで代わりに僕が水を被ることになった。胸元から下がずぶ濡れになる。服がペタリと体に張りついて気持ち悪い。
「ウォルツ君……!」
「ご、ごめんなさい!」
「あ、おい……」
震えながら謝ると、彼女たちはばたばたと逃げて行った。僕はひとり、水浸しの廊下に呆然と取り残された。
「……どうしよう」
困った。いくらさらしを巻いているとはいえこれではバレかねない。着替えを手に入れないといけないが、動けば人に見られる可能性が高くなる。進退窮まって僕は立ち尽くした。
なだらかな曲線を描く胸が視界に入り、若干前かがみになってシャツを摘まんで引っ張る。ささやかとは言え、濡れればわかる程度にあることはあるのだ。……誰に言い訳しているんだろう。辛い。
謎にダメージを受けつつ次の動きを決めかねていると、僅かに黒髪を乱したロラン様が現れた。僕の姿に眉根を寄せ、転がった空のバケツと僕を見比べている。
「ティリアの頭上から水が降ってきたんだが……」
制止に成功したと思っていたら、どうやらティリアも少し被ってしまったようだ。ちょうど近くにいたらしいロラン様が犯人を捕まえるために走ってきたら、そこには怪しすぎる僕がいたという構図である。
つまりはこうなる。
「君がやったのか?」
「違います!」
「そう信じたいが……いや、今はそれどころではないな。これを羽織るといい」
ロラン様は自分の来ていたシャツを脱いで僕によこしてくれた。有難く受け取り、線の浮き出てしまっていた体を隠す。
ロラン様に促され、僕たちは階下に向かって歩きだした。
「何があったか説明をしてくれるか?」
「女子生徒が窓から水を捨てようとしているところを見かけて、止めようとしたら代わりに浴びることになってしまったんです」
「そうだったのか。疑ってすまない」
「いえ」
僕は短く答え首を振った。思っていたよりすんなり納得してもらえたし、問題はない。
「ティリアが怯えて震えるのを見て、冷静さを欠いてしまったようだ。言い訳だな」
「仕方のないことですよ」
「……君はショックを受けている様子はないな」
「そりゃあ僕は男ですから」
しゃあしゃあと僕は嘘をついた。
ティリアの反応は聖騎士様の庇護欲をさぞかし擽ったことだろうが、念を押しておく。
「ロラン様、ティリアを守ってあげてくださいね」
「ああ、俺の出来る範囲でな。……君は、ティリアのことをよく知っているように見えるな」
「え?」
僕に対して嫉妬しているのだろうか? いや、ひとまずそれは置いておいて、どこらへんからそう感じたのだろう。
僕は何かの対応を誤ったのか? 心中穏やかでないが、そんな素振りは見せず相手の言葉の続きを待つ。
「ティリアのことを話す時、君はどこか寂しそうな目をする」
ロラン様は立ち止まると、つられて止まった僕の顎をくいと持ち上げた。
黒曜石のような瞳と僕の碧眼がぶつかる。ロラン様は底の見えない微笑を浮かべ、探るようにゆるく首をかしげた。
「何がそうさせているんだろうな。君は何を考えている?」
「……」
大体何も考えていないと言えるような雰囲気ではなかった。
シリアスなムードに慣れていない僕はひたすら無言で見つめ返す。数秒の間その状態が続き、諦めたロラン様が溜め息をついて僕から手を離した時。
「エドウィ……ン! どうしたんだ!?」
リュシアン兄様の声が聞こえ、僕とロラン様は揃ってそちらを見た。濡れ鼠になっている僕を見て兄様が驚愕している。
「一体何があったんだ」
「ウォルツ、彼は悪くないんだ」
「そんなことはわかっている!」
兄様がロラン様に峻烈な視線を向けた。僕が羽織っている服を苦々しげに見やるが、剥ぎ取ることはできない。
「これは借りていくが、すぐに返す。行くぞ、エディ」
「うん。ロラン様、服どうもありがとうございました」
「ああ、悪かったな」
ロラン様とはその場で別れ、リュシアン兄様と部屋に戻る。
そして兄様に事の顛末を報告して、こっぴどく叱られるところまでは想定内だったのだが。
翌日、なぜか僕がティリアに水をかけようとしたという噂が広まっているのまでは想像していませんでした。
……悪役補正強すぎない?