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第三章 街の底闇に蠢くもの

   1 踊る大捜査線


 遠城家の居間で目覚める事三日目。

 しかし本日の俺は女ではなかった。鏡の中に居るのは随分と懐かしい冴えない男子高校生だったし、男の朝の生理現象もバッチリだった。

 当たり前の筈なのに凄く嬉しい。ささやかな幸せってのはこう言う感じの事を言うのかもしれん。

 何と言うか、喜びが身体中の回路を駆け巡り暴走する。

「………男のまま、か。家で一泊休むだけじゃ魔力の回復が追い付かないって事かしら。うん、ありえない話じゃないか。………ところで、コレは何?」

 遠城はテーブルの上を指差した。

 そこには俺の幸福が暴走した結果が乗っている。

「飯と味噌汁だが?」

 ホカホカの白飯と味噌汁の椀が並んでいる。自信作だ。

「作れ、とは言ってないけど」

「俺が食いたかった。起きた時に無性に腹が減ってな。日本人の朝はコレだな。焼き海苔と納豆が無いのは残念だけど」

「米は何処から出てきたのよ」

「俺の荷物の中」

 買った味噌と一緒に非常食代わりに何合か持って来ていたのだ。

 彼女は呆れたような溜息をふうと一息で吐くと、テーブルに着いた。

「………朝から勝手した事はいいわ。それに、男のままなら都合も良いかもしれない。今日は男子から情報を集めてちょうだい。キーワードは『黒い服の女』。それから、今街中で起きている奇妙な事とか有ったら、それも聞いておきなさい」

「ん? 奇妙な事件って、例えば?」

「……そうね。行方不明とか、怪しい人物がうろついているとか。つまらない事でも一応聞いておいて。今は情報が欲しいから」

「情報って言ったって、簡単に手に入るものかね」

「そのものズバリなんて期待してないわよ。必要なのは違和感。私たちみたいなのが人の世界で生きている限り行動の痕跡は必ず残る。直接的な情報は消したり変えたり出来るわ。でも情報は常に別の何かと接続されている。それら全てを把握するのは不可能で、必ず食い違いや違和感が出る。欲しいのはそれよ。一つ一つじゃ役に立たなくても、揃える事で絵が見えてくる」

 遠城は綺麗に箸を構えながら白飯を口に運んでいる。

「『敵』がこの街に来ているとしたら、ウロウロするより待ち構えた方がいいんじゃないか?」

「………来ている奴は分かるわ。証拠は無いけど。相手がそいつなら悠長にしてられない」

「いや………俺にはさっぱりなんだが」

「時間が経ち過ぎているのよ。この街の結界の一部を壊してからあたしの所に刺客が来るまで十日くらい。それだけ間を空ける理由が分からなかった。組織的に動いていればもっと早い筈だし単発って事は無いでしょ。そうなると相手は個人。でも個人で結界の一部を割り出して壊すって言うのは花祭程度の規模でもそう簡単な話じゃない。こっちの手札を知らない限りはね」

「つまり、相手はこの街の裏情報に詳しい奴、って事か」

 この街に居た事がある相手。遠城はそう言いたいのだろう。

「……父さんの弟子だったのよ。あいつは。それが、ある日牙を剥いた。あいつは自分以外の他者を排除する事に一切躊躇しない、外道の中でも最悪のタイプ。十年前にこの街で起きた凶悪事件は、全部あいつがやった事なのよ。父さんはそれを止めようとして返り討ちにされた」

「いや、師匠を返り討ちって、もしかしてメチャクチャ凄いんじゃ?」

「………もしかしなくてもね。あいつは天才だった。父さんも歴代最高の当主だけど、あいつはそれを上回っていた。その結果よ」

 父親を天才と呼ぶ遠城が認める以上、相手の能力は本物なのだろう。

 そんな相手と戦わなければならなくなった事は極めて遺憾だ。芋蔓式に泥沼に沈んでいく感じがする。


   *


 久し振りに制服に袖を通す。以前はダサいにも程があると思っていた学生服だが、意外に良い物だと認識する。染み付いた男の汗の臭いも懐かしい。

 「昼休み屋上で情報交換よ」と言った遠城は先に行き、俺は後ろから歩く。一昨日と同じだが、今日は俺も堂々と歩ける。

 とは言われたものの、情報収集と言う物はどうやってすればいいのやら。RPGみたいに行き当たりばったりに話し掛ければいいと言うものでもない。

「おや、二日ぶりだね。風邪はもういいのかい?」

 二日ぶりの教室に入った俺に、八橋が声をかけてきた。相変わらず学校でもデジカメをホールドしている。と言うか、彼女は授業中以外では必ずと言っていい程デジカメを持ち歩いている。もはや生活の一部である。

 持ち歩かないのはトイレに行く時くらいだ。それも以前トイレに持ち込もうとしてトラブルに巻き込まれた事があったから遺憾ながら持ち込まないらしい。

「ああ、随分大変だったが、取り敢えず御覧の通りだ」

 実は一昨日も顔を合わせているが、それはカウント無しだ。

「元気そうで何よりだよ。何しろ担任の言葉では本人の声とは思えないほど酷い声で、見舞いもシャットアウト。電話も通らないときた。実は違う事件に巻き込まれているのではないかと心配していなかったと言えば嘘になる」

 はっはっは。八割正解。女の勘かカメラマンの勘か。

 かなり鋭い。改めて恐ろしい奴だと思う。

「電話にも出られなかったのさ」

「ふむ。この時期にそこまで酷くなるとは。………そう言えば、遠城麗緒嬢も昨日突然休んだそうだ。原因は君と同じく風邪らしい。季節の変わり目とは言え、あの麗緒嬢が風邪で休むとは珍しいと思っていた」

 実際はピンピンしていたけどな。

 しかし、違うクラスの事なのによく耳に入ってくるな。

 遠城が有名だって事もあるんだろうけど、八橋の情報力や行動力には侮れない物がある。

 ………ふと考える。

 こいつなら、何か情報を持っているのではないだろうか?

 写真に関する個人的な能力に加え、校内最強の組織的な情報収集能力も保有している。

「なあ、八橋。最近変わった事は無かったか? 気になる話とか、見かけない女を見たとか」

 何気なさを装った俺の問いに、八橋は顔を驚きで固めた。………俺、何かマズイ事言ったか?

「………驚いた。二日間休んでいたのに、その話を何処から仕入れたんだい?」

「あ、いや、何かあるのか?」

 八橋は眼鏡の蔓の位置をくいっと直した。

「あるよ。ボクが周辺地域の美少女を被写体にするべく情報を集めている事は知ってるだろう? その情報網にも無かった美女に出会った。それも、並の美女じゃない。女神か魂を抜き取る傾国の美女級だ。これはボクの勘だけど、彼女は遠城麗緒嬢に何か関わっているらしい」

(うおッ、もしかして、いきなりヒットか?)

 もしかすると最近の悪い巡り合わせの反動で運勢が好転したのかもしれない。

 好転したと言うよりも、更にそっち側に大きく転がったと言う方が正しいかもしれないが。

「それだ。詳しく教えてくれ」

「おや、遠城麗緒嬢一筋の君が珍しいね。まあいいけど。本来なら情報料を頂くところだけれどまだハッキリしてないし、真也とボクの仲だ。君の手作り唐揚げ大一個で手を打とう」

「………いや、まあそれは構わんが。情報次第で一週間以内に必ず。しかし、なんでそうドッシリした物を要求するんだ? おまえも一応女子高生だろうに」

「一応、と言う単語が引っ掛かるね。君の北海道式唐揚げが好きなんだよ。あれを食べるとフライドチキンに手が伸びなくなる」

 北海道ではそれをザンギと呼ぶ。ややこしいが、唐揚げとザンギは異なる料理として認識されている。

「で、肝心の情報なんだけど」

 八橋が声を落とし、俺を手招きする。八橋の声が届く所まで顔を寄せると、彼女は小声で続きを話し出した。

「会ったのは一昨日の朝。学校の近くの路地だ。顔もスタイルも超一級なのに、身体に合わないTシャツにジーパンと言うラフ過ぎるスタイルだった。あれは凄い。女のボクが見てもクラクラしそうだった。でも、路地を歩く身のこなしからして只者ではない………どうしたんだい?」

 俺の頭は机の上に沈んでいた。

「………違う。そいつじゃねえ」

「違う? 変な言い方をするね」

「いや、まあ。………それはそうと他には無いか? こう、奇妙な出来事とか」

「奇妙な出来事ね。そっちはボクの守備範囲じゃないなあ。……ああ、少し前に陸上部の一年生が貧血で道端に倒れて、まだ学校に来てない。猛練習とかその辺だと思うけどね。陸上部は活動自粛中だってさ」

「………貧血、ねえ」

「デジカメ部の他の連中ならもしかして何か知っているかもしれない。丁度、今日は木曜で放課後に情報交換会があるんだ。そこで訊いてみようか」

 デジカメ部の情報交換会。

 聞いた事がある。

 パパラッチの集まる酒場みたいなもので、超一級のホットな話題が集まる場所でもある。噂じゃ扱う情報が情報なので教員からもマークされているらしい。

「………八橋。それ、俺も参加出来ないか?」


   *


「………それで、どうなったの?」

 昼休みに屋上で情報交換となったが、俺の手持ちはほとんど無かった。幾分不機嫌なのはそのせいだろう。

「秘密厳守に不干渉。あと、報酬のザンギ一個がザンギ弁当に昇格した。女子の要求とは思えねえ」

「そこは関係無いでしょ」

「そうか? で、放課後参加する」

 何しろパパラッチ並の情報が流れる場所でもある。喩え犯罪に繋がりそうな情報でも黙殺するのが暗黙の了解と言われた。

 ……何やってんだろうな、八橋たちは。

「スキャンダルな情報が出ても関与しない。協力は大歓迎だけど噂を流すのも駄目」

「………まあ、あたしに関係なきゃそれはそれでいいんだけどね。こっちもそう多く掴めなかったわね。よく考えてみれば学校に長時間拘束される高校生から情報を集めるのが無理なのかもしれないわ。聞けたのは陸上部の子の話だけ」

「貧血で倒れたって子の話か?」

 八橋が確かそんな事を言っていた。

「なんだ。あんたも聞いてたの。月曜の夜に路地で倒れて、発見されて入院。それから陸上部の知り合いが言ってたわ。一昨日と昨日の放課後にお見舞いに行ったけど面会謝絶だって」

「………貧血で面会謝絶? もしかして、意識が戻ってない?」

「さあ。でも問題なのは、その子は貧血になるような事なんてやってなかったって事。陸上部に入ったのも記録じゃなくてミーハー根性みたいだし、話を聞いても身体に無理をするタイプじゃないみたい。だから、何が起きたのか、分からないのよ」

「ひょっとして外的要因、例えば純粋に血が足りないとか?」

 貧血ではなく失血となれば話は別だ。

 そして、ここ数日で俺はそう言う物が現実のすぐ真後ろに存在する事も知っている。

 ………血は吸いませんが、生ける屍らしい俺も似たようなものなのかもしれん。

「………有り得ない話じゃない、ってレベルだけれどね。ただ、手を下したとすればそれはアンドレアルじゃない」

 そう。

 確か、あいつは街の人間には手を出してないとか言っていた。あの状況で嘘を吐くとは思えないし、正直あいつの頭がそこまで上等だとも思えん。

「………実は、十年前に発生した事件にも失血死がいるのよ。だから意識があれば話を聞いておきたいと思ったんだけど。そっちの方は駄目っぽいわね。こうなると、デジカメ部の情報交換会に期待したいわね。少しでも良いから、何かが欲しい」

 相手はパパラッチ。どこまで有効な情報が出てくるかは分からないが、元々あやふやで良いと言われていたので幾分気は楽だ。

「ああ、ちゃんと話を聞いてくる」

「あら、あたしも行くわよ。こう言うのは人任せじゃ駄目だから」

 何気なく遠城はとんでもない事を言い放つ。

 人任せに出来ないと言う点では俺と同じ考えだが、そこには大きな問題がある。

「ちょ、ちょっと待った! さすがにそれは無理だ!」

 前述の通り、デジカメ部の情報交換には多少犯罪風味(覗きとか出歯亀とか盗撮)に関わる情報も取引されるらしい。

 そして、遠城はどっちかと言えば写される側、狙われる側だ。その場に遠城が顔を出せば一体どうなるのか。

 それは男同士のAV観賞会に女が乱入するようなものだ。

 下手をすれば出る情報も出ないかもしれない。そんな状態で情報収集なんか出来るのか?

「あら、大丈夫よ。デジカメ部とあたしはツーカーだもの」

(………そう言えば八橋がそんな事を言っていましたな)

 前言撤回。確かに、最重要被写体の要求なら取引に応じるかもしれん。

「とにかく、今は情報が欲しい。ひょっとしたら、あたしたちの知らないうちに被害が出ているかもしれない。アンダーグラウンドの情報、上等よ」


    *


 問題は、どうやって遠城を紹介するかだった。

 まさか俺が紹介する訳にもいかないしな。それは情報を漏らした事がバレてしまう上、俺と遠城の関係が疑われる。

 一歩間違えれば地獄行きの切符同然。はっきり言ってこれ以上厄介事が増えるのは勘弁願いたい。

 何しろ俺は既に命懸けの世界に足を突っ込んでしまっているのだ。これ以上のゴタゴタはノーサンキュー。

「別にあんたが心配する必要は無いわよ。あたしが言い出した事だからあたしが何とかするわ」

 何とも心強いお言葉。こう言う所は好感度大。フラグはとっくに折れてるけどな。

 案ずるより産むが安しとはよく言ったもので、以下遠城が情報交換会に顔を出すまでの経緯を簡単に説明しよう。

 まず遠城は放課後すぐ八橋を狙い、世間話を仕掛けた。

 この時の態度の自然さたるや悪徳商法の売人やキャッチセールスも真っ青だ。とても腹に一物を抱えた人間の行動とは思えない。

 そこから必要な情報をさりげなく全部引き出したのも驚くべき話術だ。八橋も話術に関しては相当なものだと思うが、遠城のスキルはそれを上回ったと言う事だ。

 それからはあれよあれよと言う間に情報交換会に参加する事を決定させてしまった。

 そして放課後。デジカメ部の借りた部屋では、遠城一人にだけ紅茶とスイーツが付いていた。なんと言う好待遇。俺はザンギ弁当一つと言う犠牲を払ってここに居るんだけどな。

 何時の世も美人は得だ。それが愛想良くて社交的ならほぼ無敵だって事だな。

 参加しているデジカメ部員は八橋を含め六人。男四人に女二人。意外に少ないが、八橋曰くここに居るのは全員凄腕の部員なんだそうだ。

 そして全員がここで使う必要性は余り感じないデジカメを持って来ている。全員レンズ交換可能機種なのが更に凄い。

「さて、今日の定例情報交換会ですが、ボクの判断で日頃お世話になっている遠城麗緒嬢とお得意様である海上真也君に参加して貰いました。二人は皆さんに尋ねたい事があるそうですから、是非協力して下さい」

 司会進行役の八橋の台詞に「意義ありませーん」と部員は声を揃える。そのテンションから察するに、極秘の情報交換よりも遠城の役に立つ方が楽しいようだ。遠城のカリスマ恐るべし。

「じゃあ真也から」

 部員たちのガッカリな視線が痛い。

 そりゃ目の前に遠城と言うご馳走が居るのになんで俺の相手をしなきゃならないのかと思うだろう。サンドイッチの脇のパセリよりも無用の長物。数日前の俺だってたぶん同じ事を考える。

 ちなみに今現在は目の前に遠城が居たらどうやって間合いを離すかを考えるな。彼女の側に居ると嫌でも世界の裏側にどっぷりと浸かる事になる。

 せめて平安の日常空間ではそう言う事を忘れたい。

(………同じ事を訊いたらやっぱマズイよな。って言うか俺よりも遠城の方が情報引き出せるだろうし)

(じゃあ、何か適当な事を訊きなさい。後はあたしが訊くから)

 とは言え、俺の手札はすでに八橋も知る所。それを訊かないのは不審に思われるだろう。

「ええと、じゃあちょっと訊きたいんだが、最近この街で奇妙な事件が起きてるって話を聞いた事はないかな?」

「奇妙って、例えばどんな感じなの?」(女子部員)

 露骨に回答拒否はされなかった。それだけでも安心だ。

「………そうだな。陸上部の一年で、街中で貧血やって倒れた奴がいるって話を聞いたんだが、それと似たような話は聞いてないか?」

「ああ。その話、結構広まってるんだ。でもデジカメ部の範囲じゃないよな」(男子部員A)

「って言うか、なんでそんな情報を探してんだ?」(男子部員B)

「別に他人の動機なんて関係無いだろ。でも、似たような話は聞かないなあ」(男子部員C)

「………あの、そう言うのならデジカメ部よりもオカルト研の方が詳しいと思いますよ? うちの学校のオカ研はフィールドワークを重視してますし。ああ、昨日オカルト研の人がそんな話をしてましたし」(男子部員D)

(………なに?)

 思わずその言葉に反応する。俺だけじゃなく、遠城も。

 そしてデジカメ部の他の連中も。

「待て。ちょっと待て。デジカメ部はオカ研と交流は無い筈だぞ!」(男子部員A)

「いや、なんでだ?」

 何だか一瞬で場が沸騰したので、思わず八橋に訊ねる。

「オカルト研は心霊写真を撮る為から今もフィルム式。デジカメではパソコンと画像処理ソフトがあれば好きなだけ特撮写真が撮れるからね。過去に部の間で罵りあった事があるんだよ」

 あー、何と言うかツール的な対立な。ワールドレベルでよくある話だ。

「さては噂のオカ研の女子新入生にアタックをかけたな? あれは最高会議で不干渉が決まっただろう。それを先走りやがって! そうかおまえは同じクラスだったな」(男子部員B)

「ち、違いますようっ。ただ本当に聞いただけなんです」(男子部員D)

 なんだか別の方向にも問題があったらしい。

 あと男子部員Dは顔色からバレバレである。清い交際をしてほしい。ロミオとジュリエットなんざ舞台の上だけで充分だ。

「話を戻すけど、それでどんな話だったの?」

 混迷としてきた争いは、遠城の言葉で簡単にストップした。これもカリスマなんだろうか。

「実は、私が皆さんに聞きたいのも海上君の話題と近いの。今この街で『黒い服を来た怪しい女性』と言う話を聞いた事はないかしら?」

 教室がシンと静まった。遠城がストップをかけた時よりも更に静寂に包まれる。

 だがその中で、女子部員と男子部員Dが明らかに顔色を変えている。

 ………もしかしてヒットしたか?

「え………ええと。『黒い服の女性』って、『絵光さん』の事ですよね? 僕が聞いた話は、正にそれの事なんです。最近、絵光さんが目撃されてるって話を聞いたんです。オカ研は出現ポイントを模索してるって」(男子部員D)

 それは、余りにも突飛で、しかし恐ろしい破壊力を秘めた発言だった。

 ………マジか? 絵光さんが目撃されてる?

 そんな馬鹿な事があるのか?

「あ、あたしも聞いた。最近夜の街で黒尽くめの美女が闇の中に消えるって噂。………それって、絵光さんの事だって」(女子部員)

「………マジかよ。絵光さんって、アレだろ? 昔ラブホで不倫相手の男に殺されたOLの亡霊ってヤツ」(男子部員A)

「バカ、違うって。絵光さんは生きてるんだよ。病院を脱走して自分を裏切った男に復讐する為に街を彷徨っていて、黒い服は自分の血で染まったんだってよ」(男子部員B)

「いや、違うらしいぞ。絵光さんは確か死を越えて男も女も見境なく襲う怪人になったんだ。女は自分と同じ目にする為に切り刻み、男は問答無用で切り刻むらしい。服が黒いのはその返り血が乾いたからだそうだ」(男子部員C)

「確か絵光さんって絵光ビルの廊下に出るんだろ? 廊下で血をベチャベチャ滴らせて歩くらしい。で、カップルが入った部屋のドアをノックするんだ。開けると出刃包丁でグサリなんだってさ」(男子部員A)

「違うって。絵光さんはラブホの丸ベッドの下から出て来るんだよ。それで、ヤリ始めた男女を身の丈もある大鉈を振り回してバラバラにするんだ」(男子部員C)

「え? 俺が聞いた話じゃ長い黒髪に病院からかっぱらった血で汚れた白衣を着て路地に居るって。で、実は相手の男はもう絵光さんに殺されて、死体は絵光さんが箱に入れて隠し持っているらしい」(男子部員B)

「違うわよ。絵光さんは黒い喪服のドレスで夜のホテル周辺に現れるのよ。それで、確か白いと赤と黒。三つのドレスのうちどれがいいかって質問するの。どれを選んでもパターンが違うだけで殺されるんだけど。赤が首切りで白が」(女子部員)

 出てくる出てくる。しかも噛み合ってない。

 九十年代の都市怪談やスプラッタホラーのネタもあれば、京極堂辺りが元ネタっぽい話も混ざっている節操の無さ。

 それもその筈。『絵光ビルの絵光さん』はこの花祭市に伝わる都市伝説。

 この街の住人なら遅くとも中学でこの話の洗礼を受ける筈だ。その際に更に学校ごとにローカル・カスタマイズされるからますます話が噛み合わなくなる。カードゲームのUNOや大富豪と同じだ。

「………ごめんなさい。『絵光さん』って、何かしら? 怪談らしいけど」

 驚くべき事に、ここに知らない方がいました。

 でも、有り得ない話じゃないかもしれん。遠城は怪談どころか正真正銘そっち側の住人だから。しかも遠城の廃病院は同列のご当地心霊スポットなのである。

「『絵光ビルの絵光さん』。花祭の三大心霊スポットの一つ、『絵光ビル』に伝わる話ですよ。都市伝説らしく色々混ざって、聞いての通り混沌とした話ですけどね。その起源は意外に最近で、十年前の事件にあります」

 そんな遠城に八橋が説明を入れた。

 だが、その中に聞き捨てならない文が含まれていたのを、俺も遠城も聞き逃さなかった。


 十年前の事件。

 それは俺たちが追う相手の引き起こした事件だと言う。

 一点から見た情報ではただの与太話だが、俺たちから見ればそれは与太では終わらない。今このタイミングで双方に繋がりが無いとは考えにくい。

「意外ですね。結構有名な話なのに」(男子部員A)

「いや、遠城さんなら有り得る。清らかなお耳には届かないのだ」(男子部員B)

 何か信仰っぽい発言が聴こえたが流しておこう。

「なあ八橋。事件って、殺人か?」

「そうだよ。今の皆の話はどこかで聞いたような物が混ざってるだろ?

 例えば、『ベッドの下の殺人鬼』なんて隙間系のメジャーな話だけど、実はオリジナルはアメリカ産都市伝説の『車の下の強盗犯』なんだ。まあ男女がヤッているところを襲うのは『十三日の金曜日』も混ざってるっぽいね。最近のアメリカには『フックマン』と言う、どう考えてもホラー映画が元ネタみたいな都市伝説があったりするしね。

 他にも色々有名な都市伝説がくっついている。

 でも、『絵光さん』には芯になった事件があるんだよ。以前、ボクも興味があってネットなんかで調べた事があるんだ」

 人とは違う女、宮古八橋。妙な事を調べる女である。こいつの発想はよく分からん。

「花祭の歴史上類を見ない十年前の連続殺人事件の始まりがそれなんだよ。

 今は元ラブホテルだけど、元々事件の起きた時は賃貸の雑居ビルだった。そこの四階の倉庫に使われていた部屋で、別の会社で営業だった女性が殺された。

 死亡推定時刻は深夜。しかも死体発見時、彼女は全裸だった。死因は全身を鋭利な刃物で突き刺された失血死。現場の状況から彼女は密会の最中で殺されたのは間違い無く、また彼女がその事務所の男性社員と不倫関係を持っていた事も調査で明らかになった。

 で、その男性は事件当日から行方不明。当然、警察はその情事の相手を指名手配して探していたけれど、今に到るまで見付からず事件は迷宮入り同然。

 ついでに言うとこれだけの殺人事件でありながら凶器を含めて証拠品はなかなか見付からなかったらしい。

 怪しい人物がいたから捕まえれば解決と考えたんだろうね。日本警察は自白至上主義だから。それが初動捜査の失敗に繋がったと言う批判も多いよ。

 そう。これは始まりに過ぎなかった。

 この事件を皮切りに花祭市では立て続けに何人も殺害されると言う事件が発生した。その数、一ヶ月の間に判明しているだけで七件。

 いずれも死因が似通っていたから同一犯と思われた。犯人は未だ捕まっていないから、ひょっとすると犠牲者はもっと多いかもしれない。

 小さな地方小都市で起きた前代未聞の大事件は、県警の捜査本部立ち上げどころか本庁からの応援出向まで迎えるが結局未解決に終わった。

 いや、まだ時効は成立してないから継続中か。

 一方、殺された女性の名前が絵光某だったので、いつしか殺害されたそのビルは絵光ビルと呼ばれるようになった。

 その後、ビルは人手に渡りラブホテルに改装されるもすぐに潰れ、それを繰り返した事から『絵光さんの呪い』の噂が始まったんだ。

 始めは呪いの噂だけだったのに、次第に色々肉付けが行なわれ、結果『絵光さん』と言う御当地ヒーローならぬ恐怖のローカル怪人が生まれる事になった」

 ………失血死。

 ひょっとして、十年前の裏側の犠牲者と言う事か? そうすると、逃げた男と言うのも本当は………。

「………じゃあ、『絵光ビル』と言うのは通称なのね?」

「そうです。何しろ十年で四回も持ち主が替わり名前も替わりましたから。

 今の名前は『ファッションホテル花園麗』。十年前の事件の時は『おおぞらビル』と言う名前です」

「………そう言えば、僕が聞いたオカ研の話でも最近多発する目撃ポイントは絵光ビルの側だって言ってました」(男子部員D)

 それはある意味トドメの一撃だった。

 本当に微かな変化だが、ここ数日彼女と行動していたので顔色からある程度感情が読み取れる。調べる場所は決まったと言う決意が、瞳から溢れている。

 当然、俺も付いて行くんだろうけどさ。

 しかし………ここ数日で花祭三大心霊スポット総嘗めってどう言う展開だよ。


   2 秘密の花園


 そう言えばカレーを喰ってる時、春田さんも絵光ビルについて話していた。

 営業再開の噂が流れている絵光ビル。

 周辺で目撃される黒い服の女。

 十年前の殺人事件の舞台。

 細かった糸が縦横に編み合わさりペルシャ絨毯よろしく一枚の絵になり始めている。

「………十年前の事件。あいつが最初に手をかけたのが不倫真っ最中の男女だった。その場所が宙ビル。それはよく覚えてる。まさかラブホテルに改装されてるとは思わなかったけど」

「男女、って事は両方なのか?」

「そう。男の方は死体が発見されてないだけ。とっくに死んでるわ」

 男の方が実は犯人説は早々に否定された。まあそれは別にいい。

 俺たちは並んで目的の建物の側に来ていた。俺もここまで近付くのは初めてだった。

 絵光ビルこと、現在は『ファッションホテル花園麗』。

 四階建ての小さなアパートを思わせるサイズだ。実際一つの階に二部屋取れるかどうかと言う間取り。

 元が貸し事務所ビルならそれも当然だろう。正直風営法か消防法あたりに引っかかっている気もする。

 外装はレンガ風だが、これは後付で外壁を壁紙で飾っただけだ。目隠しの外壁の方はちゃんとしたレンガ造りだが、風雨に晒された影響で古城のような風格を醸し出している。

 逆に言うと、かなり怪奇な雰囲気と言えるかもしれない。まー、肝試しにはちょうど良さそうだ。

 掻き入れ時の深夜十一時過ぎだと言うのにラブなホテル特有のネオンサインも看板も死んだまま。営業再開したと言うのはやはりデマのようだ。

「………えーと。入るのか?」

「当たり前でしょ。ここで何かが起きてるのは間違い無いもの」

 遠城麗緒とラブホテルに入る。

 それはかつて若い俺も夢想したシチュエーションだが、幾らなんでもこれは想定外だ。

 場所が絵光ビルじゃ死刑台に上がるみたいなもんだし、何しろ今の俺たちは良くて不法侵入の肝試し。悪けりゃとんでもない怪物相手に殴り込みに入るのだから。

「………見なさい、ここ。営業していないのに道が使われている痕跡があるわ」

 言う通り、革靴やピンヒールの女物の靴跡が残っている。雑草にも無数の踏まれた跡がある。

「こう言う建物って、潰れても侵入するのは大変なのよ。下手にホームレスとかが住み始めたら追い出すのが大変だから、鍵とか戸締りの管理は最重要問題なの」

 屋根ベッド完備のラブホだ。易々侵入出来たら確かにその手の方々には大助かりだろう。

「それに、この敷地から術式の感じがするわ。ちょっと識別し難いんだけど、人避けの類みたい。ここが当たりって事は間違い無いわね」

 ちなみに俺たちも人目避けをしている。さすがに二人揃ってラブホに入るのを目撃される訳にはいかない。しかも例によって俺たちは制服のままである。

 他のラブホテルは入口が自動だったりするんだろうが、元々小さな事務所ビルだった絵光ビルは入口が手動の木製ドアだった。まあ雰囲気としては有りだと思う。

「………鍵が、開いてる」

 ノブを握った遠城が呟く。

 ………どうやら当たりで間違い無いらしい。

 遠城に続いて中に入ると、案の定薄暗い。電気は当然点いてない。

 もしかしたら警備会社が点検なり見回りなりで来ている可能性もあるかと思ったが、この雰囲気は違う。

 入ってすぐにあるのは小さなロビーで、脇に元は管理人室だったらしい目隠し付き受付。勿論人の気配無し。本来ならたぶんここで鍵を受け取って部屋に向かうんだろう。

 そして、そこで俺はようやく自分の身に起きている異変に気が付いた。

「………あ」

「ちょ、いきなり何よ! あ……」

 俺の呟きに過敏な反応をした遠城が振り向いて、結果俺の異変を確認した。

「女になった………」

 なんと言う事か。短い平穏だった。

 俺の身体は、今や非日常の象徴であるスーパーグラビアモデル体型に変化している。漏れた声も艶っぽい声優ボイス。

「影響を与えるほどここには魔力が溜まってる。やっぱり、そうなんだ」

「………学ランで女とは何十年前のネタだろう………ちょっと待て。ベルト締める」

 男の時には丁度良い制服も女だとあっちこっちが緩い。約一箇所のみ恐ろしくキツイので、学ランの前を開ける事にした。

 遠城がキビシイ目付きでこっちを睨んでいるが、俺のせいではありません。強いて言うなら貴女のお父上のせいですね。

「でもこれで良いのかもな。これから何が起こるか分からないし」

「地下は無いみたいだし、そうなると上ね。………十年前の事件も四階だったし。階段は?」

「元々小さなビルだ。エレベーターじゃないのか? ………あ」

 階段を作るよりも省スペースだから、バブル期乱造の小さな貸しビルでは結構そう言う造りがある。避難設備は最低限。

 だが、電気が来てないなら動く筈が無い。

「………非常階段は無いのかしら?」

「有るようには見えなかった。たぶん避難梯子があるんだろ」

 たぶん紫だったんだと思われる色あせた内装の中を進むと、予想通り奥には小さなエレベーターが一台あった。途中には当然部屋のドアもあったが、開ける気にはなれなかった。

「一番上は四階。特別ルーム? 四階丸々全部が部屋って事か?」

「ますますそこが怪しいわね。そうなると上がる方法だけど………」

「………いや、待て。このエレベーター生きてるぞ?」

 ランプは切れているが、確かに動いている。試しにボタンを押すと、ドアはすぐに開いた。

「電気が来てる、って事?」

「そうなんだろうな。四階、行くぞ」

 乗り込んだエレベーターが上がる。

 と言うか、ホラー映画だとこう言う密室はヤバいんだが、他に手は無い。仮にロープが切れて落っこちても今の俺なら遠城を守れるだろう。

 四人乗ればギュウギュウ詰めの密室がグンと言う感覚と共に上昇して、すぐに停止。

 四階到着。短い廊下のすぐ先に、一階の物とは明らかに異なる豪華な両開きの扉がある。


「………居る」

「………ああ、居る、な」

 アンドレアルが発していた物とは全く異なる異質な気配が四階を満たしている。

 仮に、俺たちのすぐ横に肉食恐竜が居ても、ここまで濃密で色濃い排他の気配を出す事など無いだろう。

 まるで怪獣の胃袋の中みたいな感じ。黙っていると溶かされそうな気がするほどベタ付く。

 それは、嫌になるほど兇暴で、匂いさえ感じれそうなほど濃厚な闇色の悪意だった。

 俺は無言で、前を歩く遠城よりも前に出る。

「………何のつもり?」

「いざとなったら逃げろ。弾除けくらいは出来る。エレベーターは駄目だ。壁を破って飛び降りろ。それくらい出来るよな?」

「まあね。でも、余計なお世話よ。どの道あんたしか手札がないんだから、逃げる時は一緒に逃げるわよ」

 正直驚いた。

 「逃げる」なんて言葉は嫌いそうな感じなのに、迷う事なく逃げると言った。つまり彼女もこの気配を放つ相手のヤバさを感じ取っているのだろう。

「行くわよ!」

「これで鍵が開いてなかったらギャグだな」

 その心配はなかった。

 なぜなら、俺たちが扉の前に立つと、劇場の出入口のような装飾の両開き扉は、自動ドアの如く指一本触れる事なく開いたからだ。


「いらっしゃいませ。ようこそお出で下さいました」


 真ん前に一際大きな天蓋付きのベッドが目に入る。

 ダブルサイズなどと言う生半可な物じゃない。キングとかクイーンとかのサイズなんだろう。

 何の冗談か、シーツはレースフリル付きの黒だった。黒のレースカーテンとかシーツってあるもんなんだ、などと奇妙な事に意識が向かう。

 壁紙も他の調度品も黒一色だ。明るさこそ違うがみんな黒。壁にある巨大な高級液晶テレビも黒がはっきり映って綺麗なんだろう。

 ………いや、分かってるんだ。

 意識をそっちに向けたくないって事が。

 中に居た黒いドレスの少女が、俺たちに向かってスカートの端をつまんで深々と礼をしていた。

 想像していた以上に若い。上か下か。どっちにせよ、俺たちとそう変わらない年頃だろう。

 噂は正しくて正しくない。

 彼女のドレスは、まるで卸したてのように新しく妖しい光沢を放っている。つば広の帽子も黒。ゴスロリ風のドレスも喪服のように黒。微かに覗く足元も黒。

 体型を隠す服だからはっきりとは分からないが、強調されている胸や細い腰のラインから判別するに結構スタイルが良いようだ。

 顔立ちも間違い無く綺麗系の美少女と言って通じる。

 だが、中味は違う。発する気配だけからでも充分に理解出来る。

 この美少女の中味は間違い無く『化け物』だ。


「………十年ぶりね。お互い随分変わってしまったけど。ねえ、幽螺ゆら

 怒りか憎しみか、……それとも恐れか。

 震えを押し殺して遠城がその名を呟く。

 つまり、こいつが。こいつが、やはりそうなのか。

 若過ぎる。十年前と言えば、俺や遠城はまだ七歳だ。

 その時、この目の前の存在は片手に余る数の人間を人ならぬ方法で殺した。常識が壊れる感覚がフラッシュして目眩を起こしそうだ。

 怖いほどの上品な美貌が微笑んだ。まるで、名前を呼ばれて喜ぶ飼い犬のように。

 いや、実際にそうなのだ。悦んでいる。遠城に名前を呼ばれて悦んでいる。

 それが恐ろしい。なんでコイツはこんな顔で微笑をこぼせるのか。それが堪らなく恐ろしい。

 間違い無くコイツは悦んでいるのだ。心の底から。その欲望のベクトルがおぞましい闇側に向いているとしても。

「ええ、本当に。でも姉さんは本当に素敵になられましたね。ずっとずっと待っていた甲斐がありました」

 魂を引っこ抜かれるような微笑の中で、そいつはとんでもない事を言い放った。

 ………今………何て言った?

 空耳か、幻聴か、単なる聞き間違いか?

 姉さん? 姉?

「……間違いじゃないわ。こいつの名前は遠城幽螺。あたしの実妹で、十年前に父さんを始め多くの人間を殺した外道の魔女よ。ついでに母さんも間接的に死んだけど」

 姉妹。

 ………全然似てない。美少女と言う事だけは共通するが、向こうが人間離れしている雰囲気のせいか似ているようには全然見えん。

「………その時幾つ?」

 試しに訊いてみた。

「六つでしたわね」

 返事が来ないかも、とは思ったが、簡単に返って来た。

 それは、まるで幼い頃の楽しい思い出を喋るような声。

「………六つ?」

 一つ年下ってわけか。いや、そんな問題じゃない。

「言ったでしょ。こいつは天才だって。父さんも歴代最高クラスだったけど、こいつはたった六歳でその域に到達したの。あたしが日本語もままならない時、こいつは家にある古文書や術式を理解していた。そして、父さんを欺くくらい高い知能も持っていた」

 お隣の韓国には九歳で大学の数学科に入った天才児もいらっしゃるそうだが、目の前のコイツはどう考えても天才のベクトルが異なる。

「………さあ、始めましょうか。因縁はここで終わらせるわ」

 遠城が一歩前に進む。

 その一歩を踏み出す事すら勇気がいる筈だ。餓えたライオンに近寄る事すら、こいつに近寄る事に比べればずっと難易度が低い。

「雌雄を決すると言うのは同感ですが。場所を改めて貰えませんか? ここにはお客さんがいらっしゃるので」

「………客ですって?」

「気付かなかったのですか? 今満室なのですよ、この建物は」

 満室って。それはつまり下の各部屋に誰か居るって事か?

 何の為に?

 いや、この建物の目的を考えればナニの為なんだろうが。絶賛稼動中って事か? でもここは廃ビルで営業してない筈だろ?

「………そう言う事か。営業はしてなくても使う奴らはいる。それに確かにピンヒールの跡が」

 幽螺が履いているのは踵の高いブーツだ。ピンヒールではない。

「………あんた、まさか贄に」

「殺してはいませんよ。それに、ここは繁華街の真ん中。私は構いませんが、戦う場所としては些か不適当でしょう? 今日はお互い顔見せと言うところで如何でしょう、姉さん?」

 もし、幽螺が遠城の言う通り被害を気にしないタイプの相手なら、ここで戦うのは非常にマズイ。

 今はこの周囲が最も賑わう時間帯なのだ。

 どうなるのか、どれほどの被害を出すのか、正直全く想像が付かない。

「………いいわ。その代わり、場所はこっちが決める。街の南東の工場跡地。アンドレアルとやりあった場所だからあんたも知ってるわね」

「ええ。遠目ですが観戦させて頂きましたから。では、時は明日の深夜零時に。お見送りはいたしませんから」

「ええ、それでいい。あんたの顔を見続けると頭が煮え腐りそうになる」

 吐き捨ててさっさと遠城はくるりと振り返る。

 俺はその展開に一歩遅れる事になった。

 ………おかげで、俺はそれを見てしまった。


「姉さん」


 背を向けた姉に届くかどうか分からないほど微かな声だった。

 しかし、遠城にも聴こえたらしく、僅かに足を止めた。後ろは向かない。

「………何よ」

「私は今でも貴女の事が大好きです」

「………あたしたちの世界には、そんな言葉無いのよ」

 振り返らず答える遠城。いや、振り返らず正解だ。

 あんな顔見たら、どうなるかマジで分からねえ。

 正気を失うならまだいい。

 殺人鬼に愛の告白をされるって、きっとあんな感じだと思う。


    *


 予想は全部当たっていた。

 十年間、あたしが追い続けたものがそこに居た。

 予想以上の怪物に変わり果てていた、あたしの妹。

 面影なんて一欠片も残っていないのに、あたしは一目でそれが幽螺だと分かった。

 覚悟はしていたのに、膝が震えそうだった。分からなければ良かったのにと思う。分からなければただの敵だったのに。

 あの場所で退いたのは逃げたいからと言う気持ちが半分以上あったが、得体の知れなさを含み、戦うには余りにも不確定要素が強かった。

 だから提案は渡りに船だったけれど、こっちの手札を見透かされたような気分の悪さもある。

「一つ訊いていいか?」

 帰り道はお互い無言だった。

 家まで辿り着いた時、思わず安堵の息が漏れた。

 ここだって安全地帯なわけないのに。

 彼は最近自分専用になったベッド兼ソファに腰を下ろして天井を眺めている。学生服と巨乳がアンバランスなのに、妙にはまっている。

 あたしも一人がけソファの一つに腰を下ろしていた。

 柔らかい感触が嬉しい。普段はそんな事考えもしないのに、ただアレと対峙しただけで精神的に疲労が溜まったのだろう。

「………何?」

「ありゃ何て言うバケモンだ? 魔術師とは根本的に違う雰囲気を持っていた。肉体的に普通の人間があんな領域に辿り着けるとは思えねえ」

 良い所に気が付く。

 アンドレアルとの戦いで開眼でもしたのか、それとも素人同然の彼にも分かるほどアレが禍々しいのか。

 少なくとも後者は確実だ。普通の人間なら危険回避の本能が働くだろう。アレは好奇心旺盛な人間ですら思わず退かせる悪鬼。

 でも、肝心な所に気が付いてないので六十点。

「何言ってるの。あんたと同じよ」

「なぬ?」

「あの娘は躯体なの。あんたと違って、たぶん自分で調整したんだと思うけど。

 考えてもみなさいよ。幾ら天才でも六つの子供が大人を殺す方法なんて限られてるでしょ。しかも手に入る情報も、物に出来る技術にも範囲があるもの。うちの技術で最高の物を自分に施したのよ」

「いや、ちょっと待て。あの秘術って自分自身に施せるものなのか?」

「目指す領域の一つよ。もっとも未完成だし、喩えあの娘でも完成させてはいないでしょうね。

 躯体は魔力のバックアップ無しでは活動が出来ない。あんたもそうでしょ? あたしみたいな魔女なら自律的に魔力を練り蓄積出来るけど、体組織が全く違うあんたたちは魔力を自力で溜める事ができない。この家みたいな回復エリアに居ないと蓄積は不可能。あんたの場合はあたしのバックアップがあるから、あたしが生きている限り最低限の生命維持は出来る。

 でも、あの娘の場合、魔力の消耗をカバーする人間がいない。魔力の枯渇は死を意味する。安定していれば日常生活を送る分には困らないと思うけど、戦闘となればそうはいかないでしょうね」

「そりゃこっちも同じだな。俺が戦えるのは女の姿の時だけだし、全力で戦えばいつガス欠になるか俺にも分からねえもん。逃げ回れるだけマシかもしれないけどな」

「………魔力を大量消費するのは大技だから、タイミングさえ間違わなければたぶん大丈夫」

 問題は、経験不足だ。性能的にはおそらくこっちの方が上。

 でも、十年対数日と言う経験値の差が大きな問題になる。こっちは肝心の中味が未だに分からない。

 対して、向こうは十年の間に自分の中味を知り尽くしているだろう。それは効率的に動けると言う事でもある。

 六発のマグナム弾と一五弾倉の九ミリパラベラム弾。破壊力ならマグナムでも使い勝手の良いのはパラベラム。

 互いに殺せる破壊力がある以上、勝負に重要なのは威力よりも戦略。

「あいつの降ろした英雄とやらはなんなんだ?」

「分からない。術式核を作ったのはあの娘だし。女性なのは間違い無いと思うけど。英雄と言うよりは魔女とかそっち方面でしょうね。

 術式核を組み込めば肉体年齢は固定になるから、六歳で術を行なったあいつは、本来の肉体は六歳児のままの筈なんだけど、見た通りあたしたちと同じくらいでしょ。アレは再現した存在に引っ張られたからね。

 それに、たぶんエナジードレインが可能な存在なんじゃないかと思うわ」

「エナジードレイン………吸血鬼か?」

 十年前の失血死と言う情報から考えてもその可能性は十分有る。

「そうね。でも、血だけとは限らないわ。精気とか、根源的に魂喰いとか。あのホテルに客が居るって言ってたでしょ。あいつ、あの建物自体に吸精の魔術式を組み込んでいるのかもね」

 彼が女に変身した以上、あそこには大量の魔力が充満していた訳だし。

 ひょっとすると結界に綻びを作ったのも、あの建物、すなわち自分の領域を作る為だったのかもしれない。

 アンドレアルをけしかけたのは時間稼ぎか、それともこっちの手札を見る為か。結果的にそのどちらもほぼ達成されたと言ってもいい。

 後手に回っている。

 後攻なんだから仕方が無いけど焦る。相手が幽螺なら尚更だ。

「せめて、あんたの中味がなんであるか分かれば幾らか手が打てるんだけど」

「電撃が出せるのと身体能力が高い、くらいだもんな。あの電撃はかなり強力だと思うんだが。心当たりはねえの?」

 ………実は、有る。

 有るけれど、それは繋がらない。有り得ない話だ。

 アンドレアルの説明を受けなくとも大体理解した。

 あのアイアンゴーレムは、ゴーレムの術式核にどっから持って来たのか神像レベルの鉄板を装甲代わりに被せた物だ。それ故に『emeth』の文字は装甲の下で直接触れる事は出来ず、外装は破格の防御力を持っていて、ゴーレム並のパワーと運動性を確保した恐ろしい技術の塊だった。

 「伝説の武器を全部装備したら強い」的な発想だけど、普通はバランスの問題や何やらがあって実現するのはとても無理。認めるのも癪だけど自称天才と言うだけはある。

 だけど、ゴーレムにはもう一つ欠点がある。

 欠点と言うよりも制御上の問題。それは言葉に支配される物である事だ。ユダヤ教は言語以外何も財産を持てなかったユダヤ人が編み上げた宗教。

 それ故に世界も唯一の財産、言葉で創られる。ユダヤ系の技術に当たるゴーレムもそれ故に言葉に支配された。前述の『emeth』と、もう一つは神の名前、神の言葉ゴッドボイスだ。ゴーレムはこの声の前に存在を終え崩れ去ると言われている。

 そして、古来より世界各地で「神の声」と呼ばれた現象が存在する。

 そう、『神鳴り』。

 世界中の神話で、雷は最高神の纏う力とされる。

 北欧のオーディンとトールはそれぞれ別の氏族が崇めていた雷神だ。

 ギリシャのゼウスは唯一雷を使い前の支配者である神々を滅ぼす者。ゼウスの流れを組むローマのユピテルも同じく雷帝。

 カナンの最高神嵐の神バアル。ヒンドゥーでは複合神格の破壊神シヴァとその原型暴風神ルドラ。

 唯一なる神は太陽神だけど、同時に天空に轟かせる声を持ちバベルの塔を砕く鉄槌を持つ。それはすなわち『神鳴ゴッドボイス』だ。

 つまり神の言葉で停止するゴーレムを止めるのに、これほど相応しい物は無い。

 ……そう。あの一撃は『雷撃』だったのだ。落雷と感じたあたしの原始的な感覚は間違ってない。

 そして、日本神話にも当然雷を纏う神がいる。

 それは武御雷之男神タケミカヅチノミコト。国津神を悉く打ち倒し平定する国譲りの剣神。

 そのエピソードで最も有名なのが、国津神の武神である武御名方神タケミナカタノミコトと一騎打ちで出雲から信州諏訪湖まで戦い、遂に両腕を千切り取り湖に沈め勝利したとされる。

 あたしが気になっているのはそこだ。

 あの戦いの時、彼はゴーレムの両腕を千切り取り雷でトドメを刺した。

 本来なら、神像装甲のゴーレム相手に腕をもぎ取るなんて現象が起きる筈が無い。

 しかし、あれが彼の宿した能力。剣神の『両腕落とし』と言う神業なら納得出来るのだ。

 日本神話は比較的新しい物だし、タケミカヅチと言う英雄が現実に存在した可能性はある。

 ここまでは符合する。

 ところが、問題は一つ。なんで彼が女になるか、だ。

 タケミカヅチは字の通り男神。わざわざ女に変化する必要は無い。本当は女だった、なんてオチも考えられるけど、それよりは全く別の物だと考えた方が良いのかもしれない。

 もしかすると再現されているのは神降ろしの力を持った巫女とかシャーマン、そんな人間かもしれない。

 卑弥呼もそれの一種だし、記紀神話でも神功皇后とか神を降ろす巫女は登場する。もっとも神を降ろして肉弾戦で戦うと言う展開は聞かないけど、現実にそう言う秘術も存在するからあながち間違いではないかもしれない。

 この業界、血は未来に進むほど薄くなり衰退を余儀なくされる。秘術を維持する事すら難しい。それよりも過去に存在した強力な存在を具現化させる方が簡単なのかもしれない。ただ過去を再現すると言う技術に意味があるかどうかは別の話だけど。

「………今はまだ何とも言えないわ。それよりあんたの方は? 本人なんだし、そっちの方が確実に真実に近いと思うけど」

「いや、それがな。あそこで戦ってた時は何かこう、コツみたいな物を掴んだような気もしたんだけど、今はモヤみたいな物がかかってさっぱりだ。ぶっつけ本番でも出来そうだけど」

 その言動ではさすがに不安になる。

 施術の手順に問題は無かった筈。

 そうなると、発動に対しよっぽど強力なリミッターでも掛けられているのかもしれない。

 もっとも、戦闘中に一部は外れたんだから全てが明らかになるのも時間の問題だろうとは思う。決定的に足りないのはやはり時間なのだ。

「………なあ、あいつって、なんでこの街に戻って来たんだ?」

 呟くように尋ねてくる。

 馬鹿馬鹿しい。そんなの決まっているじゃない。

「そんなのこの霊地を奪う為に決まってるでしょ。あのホテルを見ればそれは間違い無いわ」

 妙な事だけど、自分でそう言った事で、覚悟が決まった。やるべき事は一つなのだ。そこに全身全霊を賭けるのが王道と言う物だろう。

(悩んでも仕方ない、か。明日、全てが決まる)

 出来る限りの手は打つ。不確定な物に賭ける訳にはいかない。

 ただ、アンドレアルの時と違って、一つだけ確実な事がある。


 遠城幽螺は、海上真也と同じ世界に存在するバケモノなのだ。


    3 花祭闇姉妹喧嘩序幕


 一体、この一週間で俺の身に何度死が降りかかったか。

 それでも目覚めは普通に訪れる。昨夜また女に変わってしまった我が身体はそのままで。むしろ極めて健康で快調。

「………と言うか、段々調子が上がってる気もするなあ」

 一端ガス欠になったからか、魔力が自分の中に蓄積していると言う事が何となく分かるようになっていた。

 今なら東京スカイツリーでも駆け上がれそうな気がする。無論外周をだ。

 遠城は朝一度起きてきたけど「準備するから」と言って部屋に戻って行った。

 あの遠城の表情から余裕が欠片も見えない。それだけ今夜の戦いの見通しが厳しいんだろう。

 どうせ俺もこの格好じゃ学校には行けないから丁度良かった。

「で、また学校休む理由をどうするかだが」

 風邪がぶり返した、とでも言うしかないのだが、取り敢えず考えてみる。

 そもそも学校と言う場所は休まず登校するのが前提の場所なのだから、休む言い訳などすぐに尽きる。下手に休みが長引くと、いじめだなんだと別方向に飛び火しかねない。

「………身体が女になったので登校拒否って、そうはいないよな」

 インターセックスと呼ばれる人たちは存在するが、俺の場合根本的に違う。

 どっちかと言うと宇宙人にアブダクションされた挙句女にされてしまったと言うアニメな事例に近い。

 はー。

 溜息は重いが、随分と慣れた。人間、視野は狭い割に大概の事には慣れてしまうらしい。

 それにしても。目を閉じると脳裏に焼き付いているあの笑顔が再生される。

 ………何だろうな、アレは。

 殺意と言うか嫉妬と言うか憎悪と言うか恋慕と言うか。

 そもそも状況が異常過ぎる。六歳で父親を殺して出奔って、幾ら魔女で天才でも波乱万丈に過ぎる。

 実際、姉である遠城は結果的に地元に落ち着いて研究する基本スタイルを貫いている。

 遠城は、幽螺が戻って来たのはこの土地を奪う為と考えているようだが、実を言うと俺は少し違う気がしていた。

 あの笑顔は、そんな単純で即物的な物じゃない。

 アンドレアルと言う前振りがあったからこそ分かるんだが、あの二人は方向性が正反対だ。

 魔術師でありながら地位名誉財産名声と言った物に固執する俗物タイプのアンドレアルと、それとは全く別の遠い物を見ている幽螺。

 あくまでも自身の魔術の研究だけを見ている遠城とも異なるスタンス。

 その部分を勘違いすると、とんでもない事になりそうな気がするのだ。

 アンドレアルの時とは違う。

 今度は遠城を含んだ殺し合いになる。僅かな勘違いがミスに繋がる可能性はある。

「………とは言ってもな。知識の無い俺が幾ら想像しても限界はあるし。本人に訊くしかないんだろうな」

 ………そうか。

 簡単な話だ。本人に訊けば良いんだよな。


   *


「………面白い方ですね」

「そうか?」

 予想通りと言うか、幽螺は昨夜と同じく『花園麗』の四階に居た。

 今は昼間だし、ここが本拠ならそう簡単に動きはしないだろうと思っていたのだ。

 ………昼間に女の姿でラブホに単独侵入するのは勇気が必要だったけどな。中でカップルと出会ったらどうしようかと思ったよ。

 遠城がここにいないせいか、幽螺の威圧感もさほど感じない。と言うより俺と言う存在に興味を持っていないようでもある。

 しかし、それでも訪ねてきた俺に茶と茶菓子を出す幽螺も見た目と中味以上に変わり者だと思う。

 黒い部屋と言うのは少し落ち着かないんだが、建物のおかげか俺にも魔力が順調に溜まっている。そこまで考えてはいなかったが結果的に一石二鳥だったな。

「昔からコナンの事件が次週に続くと気になって眠れない性質でね。疑問があると全力で戦えないかもしれん」

「あら、それはそれで私の方がお得ですのに。とは言え、隠すほどの事でもありませんしね。そもそも真理を探求する者に虚言は不利益しかもたらしませんし」

「そう言うものなのか? 魔女って物は嘘つきだと思うんだが」

「ふふ。本当の魔女は嘘をつかないんですよ。御伽噺の悪い魔女は侵略者が土着の信仰を貶めた物ですからね。魔女は真実を言わないだけです」

「………それはそれで性悪だな」

「魔女の話だけではありませんよ。虚言は善し悪しに関わらず人生を歪ませます。………ええ、こんな事を訊きに来たのではないのでしょう?」

「まあそうなんだが。………この部屋、随分と金がかかってんな」

 見る限り彼女の趣味に完全リフォームされているんだろうし、調度品もベッドを除けばさすがに元からここに有った物ではないだろう。

 ラブホテルのような場所に置いてある機器は基本的にリースだから廃業した時点で引き払われている筈。

 ここにある物は全て持ち込まれた物だろう。

「この部屋だけではありませんよ。このビルのオーナーは、先月付けで私になりました」

 想像外の言葉が出た。

「なぬ?」

「まあ格安でしたし、幸いお金には困っていませんから」

「そうなのか?」

 幾ら地方都市だって、ビル一軒となれば何千万と言う単位ではないのか。それに遠城は金銭に結構拘っている。必要な物には投資するようだが。

「時給幾らで稼ごうと思うからお金は入らないのですよ。ある所から頂けばいいんですから。例えば」

「………いや、説明しなくてもいい」

 間違い無く犯罪行為だろうから。倫理観が欠如している辺り、さすが魔女、さすが姉妹。

「別に大した事じゃありませんよ。例えば闇金業者を御飯にしたり材料にしたりしますとそこにお金が余ってしまうでしょう? 勿体無いから有効活用するのです。纏まった資金が必要な時はもう少し財産を持つ者を狙います。真理の探究に資金を出すのが財産を持つ者の義務ですし、そう言う人たちは自分の命を買うのに躊躇しません。一億だろうと十億だろうと出しますよ」

 至極簡単に言う目の前の倫理破綻怪物。こんなモノに襲われた方は悪夢だ。

 しかも、相手を生かしておけば二度三度と利用出来る訳だ。生かさず殺さずと言うやつか。

「………御飯って、やっぱ人間は餌って事かい」

「とんでもない。私は日々の糧に感謝して頂いていますよ。そう、私は人間を愛しています。自分の命を繋ぐ物にこそ感謝と愛を奉げるべきです」

「ちなみに好みは?」

「やっぱりハイティーンの処女ですね。折ったり畳んだり捻ったりすると可愛い声を上げるので食欲も増進します」

 ………話題を変えよう。

「しかし、お前もテレビなんて観るのか?」

 かなりの大型だ。リースならともかく、自腹で買うのなら数十万はする。

 部屋の調度品を見れば、幽羅が拘りを持っている事が伺える。そうなると、テレビも自分で選んだのではないだろうか。

「これですか? テレビ番組も観る事もできますが、専ら監視カメラ用です」

「監視カメラ?」

「ええ。御覧になりますか?」

 リモコンでテレビを点けると、なぜかベッドの上で絡み合う男女の姿が映し出された。もちろん裸。

「AV……じゃあないよな?」

「下の階の生中継です」

「………いや、こりゃ犯罪だろ。うわすご」

「いいえ。あの人たちは不法侵入者ですから。勝手に人の家に入りベッドを使って盛りシャワーまで浴びるとんでもない人たちです。防犯カメラで何を撮られようと向こうの責任ですね」

 リモコンのスイッチを押すと、また別のカップルが映る。

 どう見ても四十代のメタボ親父とどう見ても十代の制服少女がやはり絡み合っている。

 次に映ったのはその逆で、色気ムンムンの熟女とどう見ても中学生くらいのカップルだった。

 その他も諸々で満室らしい。

 ………何でも有りかここは。と言うか淫欲地獄か。頭を抱えたくなる。

「営業してないのに、何で客が入ってるんだ?」

「ここを利用している人たちは私が張った魔術式に引っかかっているのです。ある条件付けで該当するカップルだけがここを利用できるのです。具体的に言うと身体だけを目的としたカップルですね。

 そして、カップルたちの行為から発するエネルギーを魔力に変換して私たちが利用する訳です。東方聖堂騎士団やインドのカーマスートラとか日本の真言立川流や大聖歓喜天秘呪法とかの応用ですね。相思相愛よりも肉欲に溺れていた方が吸収する効率が良いのです」

 昆虫の共生関係っぽい。ここは人を寄せ付けない『家』ではなく餌を誘う『巣』なのだ。

 ………この建物に充満する魔力は、つまりそれを源にしているのか。

 アレだな。飲料水が排泄物から濾過された物を使用とか、そんな事を知ってしまった気分。

「だからここの利用料なんて貰っていませんよ。ギブアンドテイクですね」

 追剥のような行為だが、不必要な殺人をする訳ではないらしい。

 そう言えばお姉さんの方も似たような事をしていました。いや、本当によく似てるわ、この姉妹。

 微妙に彼女の実像が揺らぐ。

 なぜ十年前は多くの殺人を重ねたのか。十年前と今が違うのは当然かもしれないが、どうにも視点が違うようにブレていて一致しない。

 俺はリモコンを半ば奪うようにして電源を切った。

「無駄に人を殺す必要は無いって事か」

「そうですね。そう言う事をすると街に住みにくくなりますからねえ」

「十年前は、なんで事件を起こしたんだ?」

「お腹が空いていたからです。変質した後だったので余計に。ここがホテルになる前の小さな会社で最初の食事をしたのですが、懐かしいですね」

 ………シンプル過ぎる答えだった。と言うか、お腹が空いてって、何?

「仕組みは聞いていると思いますが、私は吸血鬼と呼ばれた女性を再現しているのです。魔力のバックアップを得られない事は分かっていましたから、少しでもエネルギーを補給し易いようにと思ったのですが。………今でこそ安定していますけど、最初は随分と頂きましたね」

 吸血鬼。エナジードレインの典型的な存在だ。

 同時に凶悪な戦闘力を持っている存在でもある。エネルギー補給と戦闘力を両立させる選択。予想はしていたが現実にそう言われると対処に困る。

 担当は主に俺だから。

「………話を本題に戻すぞ。訊きたい事は二つある。一つ目。最近この近くで貧血になった高校生が居た筈だ。それはあんたの仕業か?」

「ええ。そうですね。ちょっと私の術式の組みが甘かったのですよ。彼女は数人の男に連れ込まれたのです。不愉快な想いをさせてもつまらないので記憶を消して代金を頂きました。

 まだ目覚めない? ああ、大丈夫です。ただの魔力中あたりでしょうから、一週間もすればすっきり生活に戻れますよ。なにぶん私は余り性質の良くない存在なので、耐性が無い人はそうなるのです」

 代金って言うのは血液って事か。

「ちなみに、その時の男たちは?」

「身包み剥いで少し遠い場所に置いて来ました。この時期ですし、生きてはいると思います」

 うん、その辺は死んでなきゃ問題無い。

「………OK。それじゃあ二つ目だ。あんたがこの大掛かりな仕掛けで遠城の前に現れたのはなんでだ?」

 俺の問いに、幽螺の雰囲気が僅かだが変化した。

 圧力も若干高まる。

「………それは………姉さんに『訊いて来い』と言われましたか?」

「いいや、単に俺の疑問だ。どうも会話が擦れ違ってる気がしたんでな。

 遠城はおまえがこの街の霊地を奪いに来たと思ってる。魔術師の発想ならそうなんだろうが、俺はどうも違う気がしていた。

 そもそも、目的がこの街ならお前は十年も待たずにもっと早く来る事も出来たんじゃないか? 言っちゃなんだが目茶苦茶強そうだし。

 それを、お前は『待っていた』と言った。目的は、別にあるんじゃないか?」

 俺の推理を聞いた美貌の表情に、遠城に向けた物に近い微笑が浮かんだ。

 ……あれ? もしかして俺、地雷、踏んだ?

「もちろん霊地が欲しいと言うのもありますわ。私は魔女であって魔女の身体を捨てた者。命を繋ぐにはこのビルのように魔力を蓄積できる場所か、吸血のようにストレートな魔力補給を必要とします。魔力補給と言う一点なら霊地があれば尚理想的です。もっとも、小規模とは言え霊地に私のような存在を許すほど人間社会は甘くはありませんけれど」

「じゃあやっぱり霊地は目的には入らないって事か」

「ええ、それは二の次。最悪手に入らなくても困りはしません。十年も世界の最底辺を流浪すれば生き方も分かってきますからね。アンドレアルのようなお坊ちゃんとは違います。

 私が本当に欲しい物。それは姉さんなのです」

「それは………一緒に暮らしたいとか、そう言うオチじゃないよな?」

 訊かなきゃ良かったか、と一瞬思ったがそれでも訊いておかなければならない。

「ええ。言い換えましょうか? 私は姉さんを材料にしたお人形が欲しいのですよ。私が思うままに動かせて、手元に置いておける。そんな姉さんの人形が欲しいのです。

 だから、私は十年待ったのです。姉さんが成長するのを、ずっと。その甲斐あって想像以上に姉さんは素敵になった」

 おぞましい異形の影が姿を現す。それは恐ろしく危険なモノだ。なまじ綺麗な人の顔をしているから余計に性質が悪い。

 それは純粋な好意から来る殺意と言う名の愛欲。

 殺す事が目的ではない。形容し難いその発想は更に先の領域。本人そのものではなく屍体を偏愛するネクロファリアに近い。

「『なぜ?』と言う顔ですね。ここからはたぶん姉さんも知らない事です。

 薄々貴女は気付いているかもしれませんが、私たちは元々、つがいなのです。躯体として姉さんの側に在る事が本来の私に与えられた役割なのです。そうでなければ遠城の血族で都合よく私が躯体としての才質を持っていた筈がありません。躯体と言う才能はレアですから。

 あるいは拾われたか買われたかしたのかもしれないと思い調べてみましたが、そう言う痕跡もありませんでした。それに、遠城の技術には在る程度の躯体要素を持つように変質させる技術もありますから。場合によっては妊婦に術式をかけて造り出すらしいです」

 出産前に人の技術が入る、と言う点では最新の遺伝子技術みたいなものなのかもしれない。倫理的に割り切れるかどうかはさて置き。

 問題は………それを施した人物。

 それは誰なのか。幸い答えはとても簡単だ。………そんなの、門外漢の俺でも想像付く。

「私が才覚を持っているのも産まれる前から行なわれてきた躯体への調整の副作用。

 しかし、その副作用が、お父様の計画を歪める事になりました。私は自力で術式核を作り、それを自分に施したのです。自分の為の生を得る為に、人の生を捨てたのです。

 人形として生きるか。人外として生きるか。私はこれからも自分で生きる道を選べる方を選んだ訳です。もっとも結果として、お父様は私の存在を許さず命の奪い合いになったのですが。

 もし姉さんが父の仇と私を呼ぶのなら、それは筋違いと言う物でしょう」

 父殺しの後悔など微塵も思わない口調だった。

 だが、だからこそ目的の内容が解せない。それなら縁が切れているも同然だ。遠城が仇討ちに燃えるならともかく、彼女がこの街に戻って来る理由は無い。

 その疑問が通じたのか、幽螺はにこりと微笑んで話を続けた。

「ええ。ところが、一つだけ、思いも寄らない事があったのですよ。

 さっきも言った通り、私は姉さんの側に在る事を生まれる前から設定付けられていたのです。それは、絶対的な好意と妹としての服従と言う情報です。呪い並のホームシックとでも言えばいいんでしょうか。

 なまじ躯体として自分を作り変えた事もあって、私は自分の行動に大幅な制限を受ける事になりました。何度か書き換えようと試みましたが、一番深い場所に刻まれたそれは遂に外せなかったのです。人ではなくなったのに人の繋がりを尊いと思う。厄介なものです」

 そんな言い方の割には言葉の端々には憎しみも憤りも無い。むしろ喜びすら感じさせる。

「それでも良いと思うのです。私は姉さんが大好きだから姉さんが欲しい。自分が自分である為に姉さんが欲しい」

 紅茶の強い香りが頭をクラクラさせる。

 要は、どんな形にせよ、遠城を彼女の側に置いておけば彼女は自由に動ける。そう言う理屈だ。

「………話し合いの余地なんて始めから無いのな」

 話し合いと言う物が互いの立場を尊重する事を前提とするなら、成り立つ筈が無い。

 これから彼女たちが行なうのは互いの存在を否定し合う事なのだから。

「そうですね。でも、それが魔術師の世界では正しいのでしょう。勝った方が全てを手に入れる。負けた方は何もかも奪われる。ただそれだけですから」

 単純明快。悩む事も無くさっさと覚悟が決まる筈だ。

「………まあ喧嘩の相手をするのは俺なんだけどな」

「少し楽しみです。貴女に施された術式核は本来私が受ける筈だった物ですから」

 あー、そうなるのか。奇縁と言えば奇縁だよな。

「もしかして、俺の中味は分かるのか?」

「アンドレアルとの戦いは見ていましたから、強力な存在である事は間違い無いと思います。と言うか、姉さんは知らないのですか?」

「これは内緒の話だが、実はそうなんだ。俺が巻き込まれたのもほとんど行き当たりばったりだったからな。

 本当は水入らずの姉妹喧嘩に参加するのはとても心苦しい」

「そんな事を私に言っていいのですか? 姉さん怒るでしょう?」

「一応情報交換と言う事で。別にバレても不利にはならんしな」

 弱点があるならまだしも、プラスマイナスも分からんのだから。

「ま、あれでも一応マスターなんで全力で頑張るけどな」

「楽しみにしております」

 来た時とは打って変わってにこやかに、俺は見送られた。

 変な話だが、俺はそれで「こいつと戦うんだなあ」と認識していた。


   4 処刑遊戯


「………重武装なこと」

 零時まで三十分。

 廃墟の片隅に陣取って周囲の様子を伺っていた彼が、呆れが混じった声で呟いた。

「対吸血鬼用のアイテムまで持って来たんだから仕方が無いでしょ?」

 幽螺が吸血鬼だと言う情報を持ち帰ったのは他ならないこいつだ。

 戦闘用のコートに使えそうなマジックアイテムを山盛り入れてきたけど、その他に護身程度にしか使えない、白木の杭まで持ち込む羽目になった。

「………まあ、それが使う機会は多分無いだろうけどな」

「なんでよ」

「向こうは遠城を綺麗なまま捕まえたいと思ってるからさ。事実上俺との戦いだもの。近寄りすらしないかもな。俺が負けたらそんなもん使っている暇無くジ・エンドだぞ」

「あんたが勝った時はぶち込んでやるわよ」

「………鬼だな」

「うるさい。あんたも刺されたい?」

「勘弁して下さい」

 動き易さを重視したのか、今夜も前と同じ格好だ。前回少しダメージを負ったデニムはそのせいでちょっとだけファッション性とセクシー度が上がっている。いっそショートパンツにしたらどうだろう。

 アンドレアルとの激しい戦いで、この場所の何割かは状態が『廃墟』から『瓦礫』になっている。移動するのも大変だ。

 前に使えた道が鉄人のせいで破壊され、とても使えなかったりしている。ついでに鉄人の残骸はまだ放置されている。………あの阿呆。

 ………相変わらずここの空気は良くない。

 有毒成分が入っていると言う訳じゃなく、濁った気が充満している。……前より更に濃くなったかもしれない。これが終わったらいい加減祓ってしまうべきか。

「今更ながら、吸血鬼相手に夜は厳しいわね。仕方無いけど」

 かと言って昼間に戦闘するわけにもいかない。

「夜の吸血鬼とガチ戦闘をしなければならない俺の立場も考えてくれ」

「ただ、この濁った感じが向こうにどう作用するかまでは分からないわ」

「………ふうん。でも、気のせいか? 俺は結構調子良いぞ? 一度死体になっているなら向こうも同じ筈だけどなあ」

(……おかしいわね、それは)

 あたしは内心で首を捻った。

 何の設備も無いこんな所でも魔力を蓄積してるんだろうか。この間はガス欠になっていたから違うと思うけど。

 しかし、確かに彼は「元気爆発」と言うオーラを発していた。

「ただ、どうも妙な感じなんだよな。こう、得体の知れない奴が後ろにいるような。鏡の向こうに誰かが居るような」

 ナニそれ? カランコロンか後ろに立つ少女か。

「なんつーかね、俺の目の前にドアがあってさ。閉まってるんだけど向こうに人の気配がするような、そんな感じなんだが」

 形容しがたい感覚なのか、それとも彼のボキャブラリ不足か。

「何よそれ。とにかく、ここまで来たら迷う事は無し。とにかく、こっちは打てる手が少ないんだから、雷撃を外しちゃ駄目よ。接近して確実にヒットさせる。それ以外無いんだから」

「だな。了解」

 むっとした風が廃墟に流れる。

 季節的には夜に熱を持った風が吹く事はまだない。まして無人の廃墟に熱がある筈が無い。

 コレはひょっとして、嫌な予感が。

「………来た………いや、来てるぞ!」

 あたしの考えに彼の声が重なった。

 更にほぼ同時に、後ろの方で声が聞こえた。

「少し早いですが、始めますか?」

 夜の闇の中に浮かび上がるように現れた黒いドレス。蛇の皮のようにヌメついた白い肌が宙を泳ぐ。

 そう見えた瞬間、毒蛇の鎌首を思わせる手首があたしの居た空間を荒々しく削っていった。殺気は感じない緩やかな動きなのに凶悪な暴力性を見せる。

 脅しなのは目に見えているとは言え、喰らう訳にはいかない威力と分かる。

 捕まれば、手足の一本はもぎ取られる一撃。間違いなくあたしでは一瞬でボロボロにされる!

「ちいっ!」

 夜に紛れる吸血鬼の性能を甘く見ていたとは言え、あたしと彼が気を配っている中、尚後ろから現れるなんて普通じゃない。

 ポケットから二種液薬混合型マジックボムを取り出して投げつけた。


    BTOOOOOM!


 この程度で何とかなるような相手じゃないのは百も承知。煙幕代わりにでもなれば充分。足留め出来れば尚良し。

 半径五メートルほどの爆炎が幽螺を包み込む。更にそこに右手で引き抜いた拳銃でフルバーストを叩き込む。

「なんじゃあそりゃあッ!」

「グロック19よ。知らないの?」

 撃ち切ったマガジンを交換しながら叫ぶ。

「知ってるよ俺が言いたいのは違うよ何でそんなもん持ってるんだよ!」

「あたしはネクロマンサーだから攻撃系魔術をほとんど持ってないの。それをカバーする武器が必要でしょっ?」

 プラフレームで短く軽い為、女でも扱い易いのだ。その分性能も並で一丁十五万もしない。場合によるとトカレフよりも安く手に入る。

 ただし、弾丸はその倍以上の金がかかる特注品だ。

「おいっ、地面に九ミリとは思えない弾痕が着いてるぞッ! 何使ってやがる!」

「バチカン印の対リビングデッド鎮圧用聖印加工聖別済ダムダム弾よ」

「ダムダム弾は違法品だろうがよ!」

「戦争で対人に使うのはね」

 実弾としても破壊力抜群のダムダム弾に聖印加工が施された弾丸だ。しかも聖別まで済ませた逸品。たとえ九ミリ弾でも当たればリビングデッドどころか闇の眷属を砕く威力を持っている。

 ……筈だったのに。

「………あらあらふふふ。惜しいですね」

 ………当たりもしなかった。

 それどころか爆風に服が焦げてすらいない。空中を舞うように飛び跳ねた幽螺はあたしたちから少し離れた所に着地した。

 何て出鱈目な運動性。

 ……ううん、彼だってこれくらいは動く。ただ、幽螺は優雅なまでに動作が大きいようでいて、付け入る隙が無い。戦い慣れしているのだ。

「遠城、下がってろっ!」

 言われなくとも、あたしには早々と出来る事が無くなった。用意してきた物はそのほとんどがブタ手札に変化してしまった。

 触れないスピードには如何なるパワーも無力、とはアメフトの言葉だけれど、それは戦いにも適用される。攻撃が当たらなければ勝つ事は出来ないのだ。ネクロマンサーのあたしには広範囲攻撃魔術なんてとても使えない。

 彼はマンツーマン・マーク並に近い状態にまで距離を詰める。接近戦しか出来ない以上当然の判断だろう。

「では、ダンスのお相手をして頂けますか?」

「そっちが逃げないならな」

「逃げるなんてとんでもない」

 掴みかかる腕がとんでもないスピードで横薙ぎに飛ぶ。

「なんとお?」

 受け止めようとした彼は、咄嗟に転がって攻撃を避けた。

「ちょ、何やってんのよ!」

「違うっ! 今の、削り取るつもりの一撃だ!」

「げ」

「あら、見抜かれてしまいましたか」

 打撃ではなく削撃。幽螺の手にはそれほどの力が篭められているらしい。

 吸血鬼の腕力は人を簡単に肉の塊に変えると言う。正直半信半疑だったけど。それに寸前で気付いた彼も驚きだけど。

「………やっべえ」

 掴まれてもまずいと言う事。防御用の術が無い彼は避ける以外では手酷いダメージを負う可能性が高い。

「ダンスなら手を繋がないといけませんよ」

「自慢じゃないが社交ダンスは全く知らん!」

 驚いた事に躊躇無しで尚も接近する。思い切りがいいのか。どの道それしかないか。

「そう来ないと面白くありませんね」

 彼は再び伸ばされた幽螺の手を逆に掴む。ほとんど見切りの域だけど、その手があったか。前回、鉄人の爆撃のような攻撃を避け続けたのは伊達じゃない。さすがと言っておこう。

「あらあら、情熱的ですね」

 踝まであるドレスの癖に凄い速さで膝が飛んだ。岩を叩き割ったような物凄い音がして彼の首がぐらりと揺れる。

 なまじ掴んでしまっているから逃げられない。と言うか、ヤバイ揺れ方に見える。東南アジアに居た事からして、ムエタイでもやっていたのか。

 幽螺は更に腕を取り返し、そのまま彼の身体を無造作に地面に叩き付ける。

「おごっ!」

 周囲に瓦礫が撒き跳んだ。ハンマーを叩き降ろしたみたいに地面を割りやがった。幾らここがボロくなっているとは言え、なんて力。

「これくらいは耐久力、ありますよね」

 攻撃は終わらず、更に拳の打ち下ろしダウン攻撃。格闘ゲームみたいな連続攻撃。瓦礫が更に周囲に跳ぶ。

「って、………瓦礫?」

 肉を捉えたのなら地面は砕けない。


   ドゴッ!


 飛び起きていた彼の拳が幽螺の腹を捉えた。

 身体が浮き上がるほどの突き刺さるボディアッパー。あれだけやられていて動けるだけでも凄いのに、躊躇の無い反撃の一撃が入る。………と言うか、普通の人間なら内臓が潰れている。

 ………しかし。

「………さすがですね」

 ダメージが無いのか、あるいはわざと痛覚を切っているのか。幽螺は彼を突き飛ばした後、跳び退いて再び相対する。背骨ごと突き破るかと思うアッパーを喰らっていて、痕を抑えもしないで直立している。

 ………幾ら吸血鬼とは言え、あそこまで強靭なのだろうか?

 ………しかし、ダメージを感じさせないのは彼も同じだ。あれだけの攻撃を受けたのに、また幽螺に接近戦を挑む。

 と言うか、その姿は獣が獲物に襲い掛かっているようにも見える。

 そう見えるのは、全てが全力の怯みの無い蹴りと拳だからだ。フェイントなど一切無い。人間なら一発でも入れば昇天する威力の物だ。

 回転しているようにも見えるそれらは、生身の人間なら腱を傷めるような無理な動きの連続。でも彼ならば繋がる。

 それは、経験の差を肉体のリミッターを外す事でカバーする乱暴なり方。

 所詮、格闘技と言うのは人間の肉体をベースにしたものだから、人間を越えた動きに対応する概念など無い。

 それは幽螺だって同じだろう。人外を相手に肉弾戦をやった経験はそう多くは無い筈だ。対応に遅れが出ている。思考の隙が出たのだ。

「くッ。これはまさか」

 拳と蹴りの嵐が幽螺を押し始めている。荒れ狂う暴力が技術を捻じ伏せる。幽螺も反撃をするが互いに怯まない。まるでスーパーアーマー同士の殴り合いだ。

 彼の右手が幽螺の側頭部を掴んだ。

「ッ!」

(取ったッ!)

 あたしは次の事を考えずに後ろに跳んで地面に転がった。

 次の瞬間、あの時と同じ轟音が周囲の空気を引き裂いた。


   ドグワァシャアァァアァァンッ!


 周囲を吹き飛ばす途轍もない威力。落雷の衝撃が空気を激震させる。

 なんかこの間よりも凄いような気もする。威力をコントロールしていないからなのか。

 衝撃波が通り過ぎた事を確認して、頭を向ける。

「………ちょっと、嘘でしょう?」

 あたしは自分の目を疑った。

 破壊の中心には掴んだ時と同じポーズで二人が居た。そして、肝心の幽螺には焦げ痕一つもダメージの跡が無い。

 それどころか、逆に動きの止まった彼を幽螺はあたしの方に突き飛ばした。

「まさか、対雷防御魔術? 今のを無傷で防げるほどの?」

「と言うか、避雷針です」

 涼しそうな微笑で幽螺は答えた。

 そんな馬鹿な。今のはただの雷じゃない。彼の力が引き起こした魔術現象だ。抗魔術で防ぐ事すら難しいのに、ただの雷避けでは防げる筈が無い。

「ええ。ですから、こちらも同じ物です。お忘れですか、姉さん。私もそちらの方と同じ躯体だと言う事を。簡単に言えば私にはデフォルトで魔術的な避雷の能力が有ります。

 ………ええ、こちらもお見せいたしましょう。私の全てを」

 そう言うと、幽螺はその手を左右に静かに開いた。


   お城に集められた、六人の村娘。

   豪奢なドレスを着せられて、綺麗に髪を梳かされて。

   お化粧。宝石。素敵な靴にキラキラの髪飾り。

   豪華な料理を目の前に、女城主様が言いました。

   さあ、宴を始めましょう。

   六本の葡萄酒が開けられて、テーブルは真っ赤になりました。


「歌? ………違う、これは呪文詠唱!」

 あたしの考えを肯定するように、両手を横に開いた幽螺を中心に〝世界〟が揺らぎ始める。

「これは………まさか、結界? 違う、これは」

 世界が、塗り変えられる。

 ううん。そうじゃない。

 今、私たちがいるこの場所だけが、異なる〝世界〟に変質した。


   *


「………ン、うんん。………くそッ。頭が………」

「………目が覚めた?」

「………手ぇ掴んだ所から記憶がねえ。何がどうなってやがる?」

 ちょっと待った。

 まさか………あの膝蹴りを喰らった後、意識が飛んでいたって事? それであんな闘争本能剥き出しの戦いをした訳だ。

 ………あれ? でも、それでよく雷を使えたものだ。

「状況は最悪よ。こっちの手札は全部パー。で、向こうはいよいよ切り札を切ったわ」

「切り札? って、ありゃなんだああ? 城? 城なのか?」

 彼が驚くのも無理は無い。さっきまで廃墟の工場跡が、今はすっかり別の景色に変わっていた。景色が変わったと言うよりも〝世界〟が変わってしまったのだ。

 何と言えばいいのだろうか。

 幽螺の後ろと言うか周囲と言うか、あるいはこの〝世界〟そのものと言うべきか。遠近感もメチャクチャで断言出来ないけど、複数の尖塔を備える中世欧州風の壮麗な城が見て取れる。

 もっとも、湖の横にでも建っていれば観光名所間違い無しの美しいその外観も、まるで内側から溢れ出ているような赤い液体で、壁も窓もどこもかしこもドロドロ。

 悪趣味な色合いの空間はメルヘンには程遠い。

「………見ての通り城よ。これは結界。それも《幻巣世界アルカディア》と呼ばれる最悪の類よ」

「アルカディア? なんだよ、それは」

「普通の結界は外から内を隔離し護る物。あるいは内にある物を外に出さない物。でも、これは違う。結界と呼ぶけれど、世間一般の結界じゃない。これは自己中心の偽世界イミテーションを創る物。

 分かり易く言えば箱庭。文字通りここはあいつの巣よ。しかも、結界等級は【城】。出るのも入るのも守るも攻めるも黒鉄の鉄壁ランク。ったく、あいつの身体が強靭な筈よ。この結界がダメージを肩代わりしてるんだから」

「自分の世界を創る………って、そんな事が出来るのか?」

「天地創造のレベルには遠く及ばないけれどね。所詮幻に過ぎないけど、この世界の中では真実で現実。時には物理現象すら歪ませる。

 本来なら《幻巣世界》って魔術はトップクラスの魔術師が百年くらい時間をかけなきゃ作れない、人生を費やす秘術中の秘術よ。

 でも、この場合は違う。これは幽螺の世界じゃない。あの娘が宿した術式核に引っ張られたナニモノかの〝世界〟なのよ」

 それ故に危険度は飛躍的に跳ね上がる。たぶんこの城は幽螺が宿した『英雄』の力の象徴。

 昨日あたしたちを出迎えた時と同じポーズで、幽螺が微笑んでいる。その髪の色は、黒髪からプラチナブロンドに変わっていた。恐らくは、力をフルドライブさせた事で、通常より強く『存在』に引っ張られ肉体が変化したのだ。

 つまり、これが幽螺の真の戦闘形態。

「歓迎致します、姉さん。私の《血宴魔城ブラッディ・チェイテ》にようこそ」

 《チェイテ城》

 その単語が全ての答えを出す。

 ………そうか。そう言う事。彼から幽螺の正体を女吸血鬼と聞いた時から、その可能性が一番高いだろうとは思っていたけれど。これではっきりした。

「………チェイテ城。つまり、あんたが降ろしたのは、『バトリー・エルジェベト』『ナダジー伯爵夫人』って事ね」

「その通りです。姉さん」

 微笑む瞳に狂気が宿る。

(………それって、有名なのか?)

(………かなりね。それも悪い方の意味で)

 『バトリー・エルジェベト』

 いや、ドイツ語表記のエリザベート・バートリーと言う方が有名だろうか。

 彼女こそ中世暗黒史にその名を燦然と輝かせる忌まわしき流血の伯爵夫人。ヒトラー、スターリン、毛沢東、ポル・ポト、フセイン、トルーマン、ブッシュ・ジュニア、エトセトラ。

 人類史上虐殺を行なった人間は数えきれないし近代以降はその数は四桁五桁当たり前になった。

 けれど、犠牲者の血を絞り取る事を目的として何百人も殺した人物は、表の歴史に名を残す限りでは後にも先にも彼女一人だろう。

 伝説の通りなら、その生涯で六百人を越える少女を自身の美貌を保つ為に嬲り殺し血を絞り取り啜り裸身に浴びたと言う。黒魔術に傾倒し生贄を取り行なった倒錯者たちの中でも、堕ちたフランス元帥ジル・ド・レェと並んで犠牲者の桁が一つ違う。

 その背徳で悪魔じみた所業は時を越え、後の文学作品にまで影響を与える。

 十九世紀末に生まれた女吸精鬼レズビアン・ソウルイーターの代名詞、『死妖姫』カーミラ・カルンスタインの原型こそ彼女である。

 『吸血鬼ドラキュラ』をはじめ、吸血鬼文学のほとんどにはこうした原型があるけれど、現実にもっとも吸血鬼と呼ぶに相応しい所業を行なったのはエルジェベトのみと言って良い。


 けれど。

 真に恐るべきは、現実では人間であるエルジェベトを吸血鬼の能力を兼ね備えた条件で顕現させた事。

 確かに凄腕の剣士が神の落とし種の英雄になったり、神そのものになったりする。日本の記紀神話なんかそれが顕著で、有りとあらゆる者が神となっている。

 しかしエルジェベトはそうじゃない。根本的に異なるのだ。

 本来伝説でも人間である存在を吸血鬼、それも桁外れの能力を持った存在として再現し、殺戮者としての暴力の象徴を《幻巣世界》として具現化させるなんて天才の枠すら超えている。

(ひょっとすると吸血鬼の弱点も無いかもしれない)

(日光とか聖水とか?)

(心臓を白木の杭で刺せば倒せると思うけど)

(そりゃ人間でも死ぬしな)

 白木の杭には吸血鬼の魔的な防御を貫く力もある。

 が、今の幽螺の身体に通るとは思い難い。

「ある意味、私の身体はお父様との合作な訳ですからね」

 ………躯体としての才能は父さんから与えられた。

 彼から聞いたその話が蘇る。つまり、幽螺はあたしが一生かけても届くかどうか分からない天才二人の合作。

「………腹を括らなきゃ駄目っぽいわね」

 目の前にあるのは紛れも無く人の姿をしていながら人の器を超越した存在。怪物なのだ。

(………頭がガンガンする)

(は? ダメージが残ってるの?)

 死んでもおかしくない接近戦だったけど、見た感じではダメージがあるようには見えない。

(いや、そうじゃないんだが………雑音? ノイズ? 声がダブって聴こえるような感じなんだが。………とにかくあいつの近くに寄らなきゃ戦えん。ちょっと行ってくる)

 こんな時に不調? ううん、躯体にそう簡単に不調が出る筈が無い。

(って、あ………さっきの雷)

 魔力を大量消費する大技を使ったんだった。

 前は男に戻ったけれど、今はまだ女の姿のままだからまだ魔力は残っている。

 ………でも、それはもうギリギリなのかもしれない。この敵性世界で力が削り取られていると言う可能性もある。

 走るスピードに衰えは見えない。間合いはすぐに詰まる………筈だった。

「なッ!」

 彼の身体が途中で止まる。パントマイムで壁を演じる時のような仕草で正面を押さえている。

「この状況で何やってんのよ!」

「バカっ、違う! ここに壁? 壁がある? しかも厚いぞ、ここ!」

「それはもう。ここは私のお城ですから」

「くッ、城壁って事!」

 世界に作り出す自分を守る為の【城】。

 史実でもエルジェベトの凶行は長くチェイテ城と言う権力の象徴によって守られた。

 でも、防御だけな筈は無い。ここが殺戮の城と言う流れで作られている以上、行なわれる攻撃は予想できる。

「気を付けなさいッ! 攻撃が来るわよ!」

「攻撃?」

「そうですね。例えばこんな感じです」

 彼の頭上。空中に巨大な物体がはっきりと質量を示して浮かび上がる。鉄骨が組み合わされた分厚い鉄板に剣がズラリと並んでいる。………針天井? って言うか剣天井?

「ご、拷問器具にしてはデカ過ぎない?」

 ペルシャの王子を即死させるような一見殺しの凶悪ジェノサイド・トラップ。

 拷問と殺戮を好んだエルジェベトなら当然攻撃に拷問器具を召喚する事は予想が付いた。

 が、予想とは若干サイズが違う。破壊力も違う。人どころか象でも殺すのか。

「攻撃力重視と言う事で」

 コロコロと笑うけど、アレを見てはこっちは笑えない。しかも、他の拷問具も次々と空中に出現する。

 ギロチンと見紛う大鉈。

 誰がどうやって使うのか世界樹でも切り倒せそうな鋸。

 巨人が使いそうな処刑斧。

 柱みたいな棘付き棍棒。

 鯨の腹も切り裂けそうな大鋏。

 城のビジョンと相まって自分が小人になったみたいな錯角を覚える。

「冗談じゃないぞ!」

 あんな物が落とされれば今の彼でもどうなるか分からない。ただの凶器じゃないのだ。

 あれらは純粋に【殺傷】の具現化。普通の防具では防ぐ事も出来ないだろうし受け止める事もたぶん無理。

 それどころか、【拷問】と言う属性が付加されていれば、痛みを素通ししたり傷の出血が止まらなかったりする呪いがかかる怖れもある。そうなれば戦いには致命的だ。

 つまり、避けて逃げるしかない。

 あたしが叫ぶよりも早く、彼は転がるように戻って来た。凶器の群れは彼の居た場所に重力加速度を無視した凄いスピードで落下して、そのまま消滅する。

「ただいま」

「オカエリナサイ」

 一息吐く間も無く声が響く。

「《鳥籠とりかご》と言う物をご存知ですか?」

「逃げるわよッ!」

 言葉よりも速く、あたしたちの周囲にやはり鉄筋で編まれた籠、と言うか鉄格子の組み合わせで作られた人型が出現する。

 内側には太い無数の剣先。プレッサーでホットサンドを作るみたいにあたしたちを閉じ込め、しかもガラガラと滑車の音を立てて空中に持ち上げる。あたしが上で背中合わせに彼が下になった。

「なんじゃこりゃあ!」

「………バトリー・エルジェベトが考案したとされる拷問処刑器具《鳥籠》よ。本来は一人用でしかも狭い。裸にひん剥いた女の子を中に入れて吊るし上げる。身動きも出来ない、ふんばる事も出来ない空間で無数の剣に身体を刺し貫かれる。即死しないよう心臓と首付近は避けたらしいけど。血は下に落ちて、女の悲鳴を聴けて、苦しむ姿を見れると言う一粒で三回美味しい拷問器具。ちなみに真下にバスタブを置いて血を浴びたって言うけど、どうかしらね?」

 絶対に失禁とか脱糞が混ざる筈だからどうだろう?

 いや、エルジェベトなら案外それも喜んだかもしれないし、あるいは事前に少女に何か処置したのかもしれない。

 今の籠の中は二人分とは言え位置を替えれるほどの余裕は無い。銃を構える隙間も無い。

「遠城には手出ししないんじゃなかったのかっ?」

「………そうだと思うわよ。だってこっちには剣無いもの」

「………こっちは山程あるぞ! 首と目と心臓に向いてるッ。と言うか体重をかけるなッ!」

「黙れっ! こうなったら仕方無いでしょッ!」

 この態勢じゃあたしのアイテムも使えない。使えたところで何も出来ないけど。

(………やべえ、どうするんだ? って言うか、俺大丈夫なのかっ?)

(多少のダメージなら気にしなくていいから大人しく肉布団になりなさい)

(何だその命令! 多少っ? 脳と眼と咽喉と心臓が多少ですか?)

(眼と咽喉は後で修理できる。あんたの心臓はもう動いてない。脳は………)

(脳は? 脳について何か? 何で言葉が止まる)

(うっさい。でも、これを力でこじ開けるのは………無理かも。【処刑】の概念が具現化している以上、壊すには別の物が必要だわ)

(例えば?)

(これって一種の呪いだから、強力な解呪のアイテムがあれば)

(あるのか?)

(………無いわよ)

(弾丸! さっき使ったやつはどうだ?)

(………あれ、リビングデッド用だから)

(んじゃ解呪の呪文は? 出来ないのか?)

(………あたし技術系のネクロマンサーよ? あたしの力じゃ無理。第一ほぼ正反対の系統だもの)

 呪いは一つの魔術系統の中だけでも何種類もある。そして基本的に呪いと解呪は対。故に解呪は処方箋みたいに、かかってから種類に応じて行なう物。強力な力で押し流すと言う手もあるけれど、強力故に難度は高くアイテムは値段が高い。あたしが準備出来る筈が無い。


(其処ニつるぎガ有ル)

(駄目じゃねーかっ! ………ちょっと待て。今何て言った?)

(え? あたしは何も言って………ちょっと、何? あんた何言ってんの?)

(我ガ産ミ、荒ブル神ノ呪イヲ平ラゲ鎮メシ剣)

 確かに聴こえた。あたしたち二人の間に通っている念話の回路に、誰かの言葉が混ざっている。

 でも、そんなバカな話はない。これはあたしたちだけに通る回路だ。無線やラジオみたいに混線したり他者が介入したり出来る部分なんか無い。

 ………あるとすれば、それは始めからあたしたちの内側にあるもの。

 つまり、これは………。

(………剣? 剣って、何が)

(………見える。出せるぞ!)

 出せる?

 訊き返すよりも早く、あたしたちの身体が落ちた。あれほど頑丈だった鳥籠から抜けたのだ。

 背中合わせだったのであたしには何が起きたか分からない。ただ落下の最中に彼に腰を抱かれて着地した。

「大丈夫か?」

「ちょ、ちょっと。一体何が………あっ」

 地面に降ろされたあたしの目がそれに釘付けになる。

 すでに幽螺に対して構えを取っている彼の右手に握られている物。

 それは、一瞬槍かと見紛うほど細長い片刃の直刀だった。

 鍔から切先まで実に三メートル近い。柄だけで五十センチはある。

 上杉謙信が愛用したと言う姫鶴一文字は一説では九十センチ。

 長尺刀伝説の剣豪・佐々木小次郎が使ったと言う物干し竿ですら一メートル程度。

 織田信長が若い頃考案した車輪付き鞘の大野太刀は腰に差して馬上から引き摺るほどと言われたから一メートル半程。

 どれも常識外れの物と言われるが、これはそれらを超える常識外れの長さだ。

 細長いと言ったけど、これは余りにも刀身が長いからそう見えるのであって、彼の手と比較する限り普通の日本刀よりも幅があるようだ。つまり、重量も見た目以上と言う事になる。

 刀身は神々しく輝きを反射し、この禍々しい異界の中で別の世界を宿しているかのようだ。

 こんな物、常識的には存在しない。並の人間では扱えないし、反りが無いから刀身が打撃の衝撃に耐えられない。持ち運びも難しく実用性は皆無。

 けれど、あたしたちはほぼ同時にその存在を認めた。

「………そんな。それはまさか………」

「………そうか、それは………」

「「布都御魂剣フツノミタマノツルギ!」」

 幽螺とあたしの声は、意図せず揃っていた。


 《布都御魂剣》あるいは《布流剣フルノツルギ》と呼ばれ、剣祖神《天羽々アメノハバキリ》、皇宝剣《天叢雲剣アメノムラクモノツルギ》に並ぶ日本の三霊剣の一つであり、その実態は《佐士布都神サジフツシン》あるいは《経津主神フツヌシノカミ》と呼ばれる刀剣神だ。

 ただし前の二本と異なり道具としての神剣ではなく、それ自体が神格を宿す剣状の神であり、同時に武神タケミカヅチの帯剣でもある。彼はその剣を振るい地上を征服したとされる。

 また、後に神武天皇の手に渡り、国津神残党の荒神の呪いを打ち払った剣でもある。

 元々剣を振る音には魔除けの効果があると言われていて「フツ」と言うのはその音だと言う。


 ところで、なぜあたしたちはこの異形の剣を見てそう断じたか。これまでとの辻褄が合うから、だけじゃない。この異形の超剣は伝承のみならず『実在』するのだ。それも、二本。

 一本は石上神宮にあり主祭神で未公開。もう一本は茨城鹿島神宮にあり、こちらでも主祭神だが同時に国宝で公開されている。

 それが、今彼が持つ直刀とほぼ同じ形をしている。もっとも国宝の物は四本の刃を継いで作られた物であり実用性は更に低い。おそらく神剣のレプリカか寄り代なのだろう。日本では古くから神を合わせたり分けたりする発想を持っていたから。


 でも、今彼が握っているのは違う。

 オーパーツに近い、神でしか振るえぬ異形にして別格の力を秘める超剣を、彼はその手に具現化させた。

 もう疑う余地は無い。なぜ女性の身体なのかは依然謎だけど、とにかく彼の得た力は日本神話の武神英雄・タケミカヅチだ。両腕をもぎ取り、雷を落とし、今己の剣を呼び寄せた。それこそ間違いの無い証。

 正直想像以上のレベルだけど、相手を圧倒出来るならそれに越した事は無い。

 幽螺は再び大量の殺戮器具を具現化させるが、彼が音をたてて剣を振るうと、それらは役目を果たす前に空中でさらさらと崩れていく。退魔破邪の剣でもあるフツノミタマノツルギは、振るうだけで呪いを祓うのだ。さっき呪いの塊である鳥籠を消滅させたのも、この剣の力なんだろう。

「《鉄の処女アイアンメイデン》っ!」

 幽螺の叫びと同時に地面から飛び出した触手のようなベルトが彼の手足に絡み付き、枷に姿を変える。間髪を入れず続いて地面が針山に変わり三つに折れる。

 いや、彼の周囲全てをもっとも有名な拷問処刑器具に変化させたのだ。

 鳥籠よりも有名で、伝説ではエルジェベトが考案したとされる、中世拷問処刑器具の代名詞。

 元々は鳥籠と同じく個人用の物だけど、鳥籠と違うのは生贄の姿を隠す事とトドメ用のギミックが搭載されている事。血を搾り取る事よりも苦しめて殺す事を目的としたアイテムで、あまりにも残虐過ぎて、実際には使用されなかったのでは、と言う説まである。ちなみに近年、亡国の拷問具から血痕反応が検出されたらしい。

 もっとも今具現化したのは巨大過ぎてその辺は関係無い。一発アウトトラップ同然だ。

 が、串刺しにされるよりも早く縛めを無効化した彼は、剣を高々と上段に構えて、そのまま世界を一刀両断する。

 ………そう。文字通り〝世界〟は真っ二つになった。

 具現化させた鉄の処女どころか、あたしたちを閉じ込めていた幽螺の《幻巣世界》をも纏めて叩き切ってしまったのだ。

 神剣の力は半端じゃない。

 割れた〝世界〟はその姿を維持できず、ボロボロと崩れていく。

 あたしたちの視界は闇の中、月光に照らされる廃墟に戻っていた。


   *


「………ここまでとは、思いもしませんでした」

 髪の色が元に戻った幽螺が、感情無く呟く。

 もっとも、それはあたしだって同じだ。何もかも偶然、ううん、彼の可能性に助けられた。

「ここまでじゃないの?」

 そんな事は顔には出さず、見得を切る。

 だが、切り札を潰された筈の幽螺は薄く微笑んで彼を指差した。

「さて。それはどうでしょうか?」

 指の先に居る彼の手には、呪いの世界を切り伏せた剣はすでに無かった。

 ………いや、そもそも姿が全く別の者に変わっていた。

 ………男の、姿。

 片膝を地面に落とし、肩で息をしている。

「魔力切れ………」

 失念していた事が、最悪のタイミングで発生してしまった。


   5 死線にて


 考えてみれば当たり前。

 前回は能力を二つ使ってガス欠になった。今回もすでに前に落雷を使用していたのだから、こうなるのは当然と言えば当然だった。

「………そっちにだってもう手札は無いでしょ? これ以上やり合えば止まるんじゃない? 引き際だと思うけど?」

「ご冗談を。確かに、私も持てる手札は無くなりました。有るのはこの身体のみ。ですが、それで充分。元よりここで退く位なら始めからこの地に戻りなどしません。

 ………やり合いましょう。仮初めの命が潰えるまで」

 僅かだけど幽螺の瞳に高揚の色が浮かんでいる。狂気に歯止めが掛からないのか。

「………マズイ」

「そんな事は分かってるわよ」

 幽螺の方も力を落としている事は間違い無い。

 けれど、こっちの戦力低下はそれ以上だ。データを採った結果、男の時の身体能力は女の時よりも大幅に下回る。それでも並の人間よりは動けるけれど、残念ながら相手は並の人間じゃない。ガチでやったのでは勝ち目なんて欠片も無いだろう。

 けれど、小声で苦しそうに零す声はあたしの懸念とは違う事を呟いた。

「………そうじゃない。そうじゃないぞ。………俺の後ろからヤバイ物が出て来る。あそこから出てくる。岩戸が………巌戸が開く。マズイぞ………」

 支離滅裂なうわ言。辛うじて耳に残った言葉をあたしは反芻した。

「は? 後ろ? 巌戸って、天岩戸アメノイワト?」

「遠城っ! 回路を切れっ!」

 彼は叫ぶと同時に隣に居たあたしを、思いっ切り幽螺の居る方に突き飛ばした。

「ちょ、ちょっと、何を! ………あっ」

 ………嘘だ。

 抗議は言葉にならなかった。

 思わず幽螺の顔を見ると、なんとあの娘も高揚色を失っていた。一瞬で狂気が冷めたのだ。

「………そんな。魔力切れを起こした筈では」

 あたしの見間違いじゃない。彼の身体は、再び女の姿に戻っていたのだ。

(魔力が供給されている?)

 ………ううん。同じじゃない。

 なぜなら、さっきまでとは全く異なる姿。

 艶のあった長い黒髪は寒々しい白髪に変わっていた。

 背を曲げて肩を落とした格好は、まるで老婆か墓から蘇った亡者。

 あたしの位置からじゃ表情は髪に隠れて見えないけれど、雰囲気がさっきまでとは全然違う。

 一言で言うと、危険極まりない感じだ。漂わせるその悪性は、正直言うと幽螺の比じゃない。

「がッ!」

(岩戸ヲ開ケヨ。我ガ子等ヨ。我ヲ阻ム岩戸ヲ開ケヨ)

 彼との回路を通して、それは闇よりも暗く濃い黒に満ちた洞の奥から響いてきた。

「ああああああああっ!」

 考えるよりも早く回路を一時切断する。

 恐怖による嫌な冷や汗があたしの体からこれでもかと言うほど絶え間なく溢れ出し、立ち上がる事はおろか指一本も動かせない錯覚に囚われた。

 寒いのか、暗いのか、それとも一瞬で死んだのか。目の前に暗闇のカーテンが落ちた。

「………ああ……、遠城の技術が到達する理想の場所に、彼はいち早く辿り着いたのですね」

「遠城が辿り着く理想ですって?」

 あたしの精神的な麻痺を救ったのは、他でもない幽螺だった。

 幽螺の顔からも言葉からも余裕が消えている。直感に訴えかける危険から離れようとして、でも離れられないと言う圧迫感に囚われているみたいだった。

 今の幽螺ほどの存在ですら怯ませるモノが闇の向こうから這い出てこようとしている。

「単純な話ですよ。遠城の目的は、半永久的な肉体の存続を可能にする魔力供給。それをもっとも容易く実現するには、異なる世界の強大な供給源を得られれば良い。

 例えば、魔界と呼ばれる世界。例えば、冥府と呼ばれる世界。あとは、それと繋ぐ事が出来る能力を持つ英雄を降ろせば良い」

「繋ぐ?」

「お父様の発想なのか、それとも累代の積み重ねなのか。遠城は天岩戸を開ける能力を求めたのですね」

 『天岩戸』あるいは『天岩屋戸アマノイワヤド』。

 それは、日本神話に登場する有名な場所。古事記では皇祖神・天照大御神アマテラスオオミカミが弟神・建速須佐之男命タケハヤノスサノオノミコトの暴虐で閉じ篭もったと言われる場所だ。

「日本書紀の方では、アマテラスが死んで葬られた場所です」

「………死? ………そっか、天岩戸は死の国の扉としての役目を持つ物って訳か。遠城が狙うなら冥府ってのも、うちのご先祖様の伝説から考えれば理屈よね。でも、それを開く力を持つのは天手力男命タヂカラオノミコトじゃない?」

 彼が宿したのは雷神タケミカヅチ。違う存在の筈だ。

「岩戸開きには神話通り複数の神格が必要なのです。言い換えれば複数の古代術法による並列術儀式です。本来ならば遠城の技術を持ってしても複数の器を用意しなくてはなりません。ソロモン王の魔神と同じ理屈ですね。

 ………けれど、ただ一柱のみ、全てを満たせる存在が居ます。遠城の理想とはつまり、それを再現する事に他ならない」

「待ちなさいよ。冗談でしょ? そんなもの、居る筈が」

 日本神話は八百万の神々。一柱で全てを満たす存在など居ない。いや、世界中探したって、ただ一神で全てを賄える神などいない。

 善と悪。

 光と闇。

 生と死。

 破壊と創造。

 どんな宗教だって神話だって、これらを等しく兼ね備えた神など存在しない。

 だが、幽螺はそれを否定する。

「いいえ。盲点かもしれませんが『全てを賄える可能性を持ったもの』なら存在します。

 そして、天岩戸と言う存在はアマテラスの岩戸篭りよりも過去に登場しています。根源の一柱たる伊邪那岐大神イザナギノオオミカミが黄泉比良坂を隔てる為に据えた大岩こそ、天岩戸なのですから」

 その言葉で、ようやくあたしの頭に答えが出た。

「………そうか。だから、【女】なんだ」

 呟きが漏れる。

 なんで思い付かなかったんだろう?

 彼が女の身体に変わりながら男神の神業を引き出した時にもっと深く考えれば答えに思い至ったかもしれない。

 『全ての神の可能性を秘めるもの』。

 それは産む力を持つ大地母神に他ならない。全ての者は大地母神から産み出されたのだから。

 そしてこの場合当て嵌まる存在は、一柱。

「………伊邪那美大神イザナミノオオミカミ

 夫神イザナギと共に国と神を産んだ根源の大地母神。

 寄りにも寄って、根源の一柱を引き出すなんて、想像も出来ない、規格外もいいところだ。

 記紀神話は聖書同様に編纂神話の典型。無数のルーツを持つフィクション性の高い伝説。

 物語がある以上再現するのは理論上では不可能じゃないけど、彼はもっとも困難な類のモノを引き出した事になる。

 頭を抱えてうめいていた『彼』の動きが止まった。曲がっていた背はすらりと伸び、全身を包むかと思うほど伸びた白い髪が闇夜に漂う。

 無臭の筈の風が重苦しいほど濃密に感じる。

 見開かれた瞳は人では持ちえない闇色に輝き、肌は血の気が通らない、闇に浮かび上がるような白。

 女神と呼ぶに相応しい整った顔立ちには凍ったように表情が無い。

 ただ、目の前に在る物に絶対の断罪があるのみ。

 夜が歪む。

「………諸説ありますがイザナミは死んで死国の王・《黄泉津大神ヨモツオオカミ》となったとも言われますね」

「ある意味、死すらも産み出した女神だもの。最初の死神でもあるわね。でも、順番がアベコベなんじゃない? 冥府の扉を開く為に冥府の神を再現するなんて滅茶苦茶よ」

「イザナミは特殊な存在ですからね」

 どんなに強気な言葉を吐いても、あたしの膝が笑っている。

 思い返せば彼が時折放っていた奇妙な威圧感。それはたぶん『死』だったのだろう。

 本来無敵である筈の夜の僵尸を無力化させたのも【死】の属性故だったのだ。どんなに強力だろうと、生ける屍ごとき、原初の死神の前では無力に等しい。

 【死】

 それは存在する者に等しく与えられる物。

 神も英雄も御使いも聖者も悪魔も死人も魔人も人も動物も神獣も魑魅魍魎も吸血鬼も等しく殺す、ある意味最高にして最悪の属性。生きているモノが敵う道理の無いものだ。

 本っ当に奇跡としか言いようがない。遠城が積み上げた技術と彼の才能が未だ到達し得ない未知の領域に辿り着いてしまった。木の葉舟で世界を一周しちゃった、くらい有り得ない。

 ………でもそれは奇跡と言うよりも災害と言うべき事かもしれない。

 ダムに予想した水量以上が集まったらどうなる? 流したって被害を産むに決まっている。

 あるいは、原子力発電所が設計した時の推定よりも高い効率を生み出したらどうなるか? 行きつく先はメルトダウンだ。

 ううん、こいつは死の灰よりも質が悪い。なぜなら、『死』そのものを振り撒くのだから。

「………放っておくわけにもいかないわよね」

「同感ですね。完全に再現されてしまえば手は打てないと思いますけれど、今ならまだ間に合う筈です」

「間に合うって根拠は?」

「イザナミは『一日に千人殺す』と言う祝福のろいを持っているのですよ。完全に再現されていれば、私たちはとっくに死んでいます」

「目覚めれば無差別虐殺。目覚めなくても無差別虐殺か。………って事は、あいつはまだ中で意識を残しているって事?」

「それ以外に説明は付きませんわね」

 そうだとすれば解決は単純な話。

 制御不能状態に陥っている彼の意識をハッキリさせ、コントロールを取り戻す。

 才能で扉を開けた以上、閉める事も理論上は可能な筈だ。

 正直に言えば、これほどの存在を制御出来るかどうかはかなり分の悪い賭け。為るも為らぬも彼の才能次第ってところだけど。

(………最初から分の悪い賭けだったんだから最後まで信じるわよ)

「おそらく通常の契約回路からでは機能しないでしょう。その上、姉さんにどれほどの負荷が逆流するか分かりません。直に接触してコマンドを送るのがベストだと思います。私が押さえますから、姉さんはどんな手を使ってでも何とか彼を起こして下さい」

 言うが早いか、幽螺が真正面に向かって跳ぶように疾走はしる。

 相手の間合いギリギリでステップを切り替えて背後を取ろうと死角に入る。人間の限界速はとっくに超えた動き。魔術のサポートが無ければ目で追う事も出来ない筈だった。

 しかし彼の左手が、無造作に伸ばされて空を掴む。

(………嘘っ!)

 その手は、正確に、そして完全に幽螺の首を捕えていた。しかも、それはまるで毟り取るような指の形だ。

「マズイっ!」

 あれは締める手じゃない。咽喉を抉り潰す手だ。

 喰らった幽螺だって当然それを理解した筈なのに、何と首はそのままで逆に腕を取り関節を極めて動きを封じようとした。その勢いで咽喉の手を外す。

 それは彼がさっき見せたのと同じ、人外の戦術だ。自分の肉体の損壊を気にせず相手の無力化を狙う。

 発想自体が無い人間相手なら意識の死角を突く事が出来るだろう。

 でも、今の彼は意識で戦っているようには見えない。言ってみれば戦闘本能と超反応だ。

 つまり、相手がどんな攻撃を仕掛けようとそれを力で弾き返す。

 腕を取られたまま身体ごと幽螺を地面に叩き付ける。なんと人間の半身分は地面に減り込んだ。アンドレアルの鉄人並の腕力。

 更に周囲を破壊しながら続く怪物たちの攻防。

 が、同時にそこで態勢は大きく崩れた。更に、喰らったダメージを物ともせず幽螺はその腕力で押さえ込みにかかる。

 しかし、それすらも一瞬。すぐに幽螺ごと持ち上げられそうになる。

「駄目だ、剥がされるっ!」

 あたしの悲鳴とほぼ同時に、幽螺が叫んだ。

「《神聖棘釘ジーザス・ピンズ》っ!」

 空中に錆びて折れ曲がった巨大な『釘』が四本出現する。それは幽螺と彼の手足を纏めて串刺しにして地面に貼り付けた。

 打ち釘は十字架に架けられたキリストの手足に打ち込まれた聖釘にちなんだ最も単純な拷問器具の一つで、魔女裁判にも使われたと言う。

 まだそんなものを使えたとは驚きだ。結界内ではなくても使えると言う事にも驚いた。

 魔具によって動きの封じられた彼の動きが止まった。いや、止まったのではなくて。

(まさか、魔力が上がってる?)

 拘束を解く為か、目で見えるほど桁違いの魔力が収束している。人間ならとっくに臨界して吹き飛ぶくらいの霊圧だ。

(ね、姉さん、何をやっているのですか。このままでは《神域》が発生するかもしれません)

 《神域》

 それは人の手による偽りの世界に非ず。神が神たる世界を顕現させる、永遠に人の手は届かない最高位結界。

 そして、彼が呼び出したのが原初の死神《黄泉津大神》であるならば、顕現する世界は死の国『黄泉』に決まっている。

 そうなれば少なくとも日本列島はおしまい。

 対処不能の死の津波が世界中を覆うのもほぼ間違いないだろう。

 この一瞬を逃す訳にはいかない。

 動きは止まった。

 あたしは有りっ丈の防御補助アイテムを使い二人の元に走る。

 チャンスはこれだけだ。これをしくじれば、次は無い。

 だから、出来る最大の一手を打つ。

 直接接触による命令の強制入力。躯体をあたしだけの物にする為のシンプルで基本的な術式を、もう一度繰り返す。言わば再起動だ。

 近付くだけで弾かれそうな圧力の中をまるで泳ぐように進む。

 真正面から打ち付ける暴風のような霊圧。

 視界が、世界が、コマ送りみたいに遅くなる。

 遠い、百メートルも無い筈の距離が遠い。

(負けないっ、負けないっ、あたしは、負けないっ! 誰にも、絶対に)

 懸命に伸ばした指が一本、微かに届いた。永遠と思われた距離と時間が終わる。

 地面に繋がれた彼の頭を掴む。この状態でも表情は人形みたいに変化していない。あたしを見てさえいない。

 ………プツっときた。

 構わない。もう一度、あたしが何なのか、分からせるだけだ。

(言った筈よ。あんたはあたしの使い魔だって!)

 頭を押さえ付けるようにして、彼の唇に、自分の唇を重ね合わせた。

 間髪を入れず、注げるだけの意志を念に込めて中にぶち込む。

(起きろォォォォおおおおおーっ!)


    *


 あれ? ここは?

 ここは? じゃねえよ。なんでここに居るの? 遂に俺の内面まで侵略されてる?

 じゃあここってあんたの中?

 ですよ?

 ………なんでここに来たのかしら?

 いや、待て。自分の意志で来たんじゃないのか?

 違うわよ。でもまあ都合が良いと言えば良いのかも。

「その女子おなごは我が呼んだのだ」

 この声………誰だ? いや、前から聴こえていたような。

 ………闇から聴こえてくる。違う。もしかしてこの闇が……。

「然り」

 非礼を承知で御身の名を御呼び致します。御身は黄泉津大神様であらせられますね?

「如何にも我は黄泉津大神である。伊邪那美大神でもあるがな」

 神? ええと、イザナミって確か日本の………。

 ちょっと黙ってて。御身の御姿は何処に?

「汝らでは我が姿を見る事は出来ぬ。我は『死』であるが故、汝らは死を捉える事が出来ぬ。まあ我が逸話を知るならば特に姿を見る必要もあるまい。それとも蛆に蝕まれ屍の如き我を見たいか?」

 いえ。承知致しました。それで、我々に御用ですか?

「うむ。此度はお主を呼び、褒めてつかわそうと思ったのだ」

 ………褒める?

「左様。微かとは言え我が分御魂わけみたまをよくぞ押し込めた。『逆事さかごと』を用いた事、憎々しいながらも天晴れである」

 ………『逆事』っ? い、いや、あれはその、そう言う意味は無いんですけどっ。

 『逆事』ってなんだ? そもそも俺に何が起きたんだ?

 あ、後で教えるから。

「死に挑む魔道の乙女よ。尚一層精進せよ。我はしばしこの遊興に加担する事を約束しよう」

 望外の御言葉、感謝致します。

 で、俺にはなんか言う事は無いのか。人の身体を勝手に使った詫びとか。

「己を失わぬよう心掛けよ。さもなくば我が分御魂が汝を傀儡とするであろう」

 神様に脅迫されてる?

「では、我が子子孫孫に連なる者よ。疾く地上へ戻るが良い」


   *


 気が付くと、あたしの下で、『彼』が眠っている。その姿は腹が立つほど安らかだ。

 幽羅もボロボロだけど生きて………もとい、稼働している。

 まあ、とにかく。

 ………夜が、終わったのだ。


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