第二章 人外バトル解禁
1 それぞれのスニーキング・ミッション
「………結論から言えば、うちの魔力でそうなったんじゃないかしらね」
制服に着替えて向かいに座った彼女はそう言った後、自分にだけ淹れたコーヒーを一口啜った。香りからしてかなり良いやつと見た。
「うちの魔力って、どう言う事だ?」
……チクショウ。アダルトなお姉さん声に全然馴れねえ。
自分で言葉を喋ってるのに油断してると心底ビックリする。
ちなみに男の話し方を止めて女言葉風に喋ってみると、とんでもなく色っぽくなってしまうので以前と同じ話し方をしている。これはこれで声色とのギャップが痛いのだが。
ところで、遠城には違和感とか無いのだろうか。それとも、感じる必要も無いって事か。
「家や向こうの病院は霊地の関係で魔力が溜まり易いようになってるのよ。こっちは主に回復休息の為に調整されていて、向こうの病院は実験とかが出来るように調整してあるの。一晩こっちで休んだ事で魔力が溜まってあんたに施した術式が正常に動き始めたって事かな」
「女になるのが正常な働きなのかあっ!」
断固抗議する!
「それは予想外だけど許容範囲よ。あたしはあんたが女になろうと翼が生えようと、正常に動いているなら困らないし」
「俺は困るッ!」
「どうして?」
「どうしてって当然だろッ! それは………風呂とか、着替えとか、人の目とか」
軽く胸を挟んで揺らしてみる。何と言う量感。俺は、これを生で正視出来るだろうか?
「お風呂くらい問題無いでしょ。美人だし、スタイルもかなりいいじゃない。プライベートな行為までは禁止するつもりはないし、見て楽しんだら?」
「楽しめるかっ!」
一応落ち着いているが実際かなりショックなのだ。
TSものとかでは男と女が入れ替わったり女体化した後、興味本位で女性式自家発電をいたしてしまう話もあるが、俺はとてもそんな気分にはなれない。
身に付けているのがそのまま男物のジーンズとトランクスのせいか、あるべき部分が存在しないスペースがスースーする。それが何とも言えず悲しい。
あと盛り上がったデカイ胸部装甲のおかげで視界が結構狭くて怖い。スーパーモデルとか、これで何センチとかのヒールとか履いてるんだから凄いと思う。俺は足元が怖くて下駄も履けない。
「着替えに関しては後で考えるわ。うちにあるあたしの服じゃ入らないと思うし。ま、男物でも大丈夫ね。人目に関しては気にしなくていいでしょ。自分の気持ち次第よ」
意見は全て他人事のように却下され、俺は黙り込むしかなかった。
「さてと。それじゃあそろそろ時間ね」
「今日は何をするんだ?」
取り敢えず意識を切り替える事にした。
女になってしまったのはかなり衝撃的だが、時間は限られている。戦うのが俺である以上、積極的に対応しなくてはなるまい。
俺だって命は惜しい。遠城の説明では一度殺されたわけだが、だからこそ今の命を大切にしたいと思うのだ。
これはもう悟りの境地と言っていいかもしれない。齢十七、もとい享年十七で悟りを啓くとは思わなかったよ。
が、遠城の答えは俺を悟りの境地からあっさりと引き摺り下ろした。
「まず学校よ。準備しなさい」
「ちょ、ちょっと待て! 学校? 正気か?」
「………随分な訊き方じゃない。何? 何か文句あるの?」
「あるよ! なんで時間が限られているのに学校なんだよ!」
「あら、平常心って言葉を知ってる? 何かあってオタオタするようじゃ本番だって失敗するのよ。使い古された言葉だけど、ここ一番の大勝負で一番大事なのはまず自分に勝つ事。学校に行くのも効果が期待できるトレーニングよ」
にこやかに遠城は説明する。が、その笑顔の裏に悪魔が居る事を俺は知っている。
「それに、今のあんたは力を蓄えているところなんだから、あと半日は様子を見たいの。あんただって体の変化に馴れる必要あるでしょ? それには激しいトレーニングなんて逆効果。まず普通に過ごしてみるのが大事よ」
(………それはそうだ)
今だって充分混乱してる。でもこの状態に馴れるってのもなんか嫌だ。
でも、ちょっと待った。それには肝心な部分に穴がある。
「と言うか、俺学校に入れないぞ?」
「ん?」
「俺は家に男の制服しかないんだ。男物の制服着たんじゃ変質者だ」
仮に女物の制服を着ても、部外者なのは変わらないけどな。むしろそっちの方が痛い。
「そうね。あたしの制服は女性用Mサイズ。今のあんたは贔屓目に見ても女性用Lだもんね」
身長一六九センチ。男としては全体で半ば程度の俺だが、女性で一六九センチは結構高い。男と女ではもちろんサイズ表記も異なる。
「しかもその胸は標準のLでも入らないわね、絶対。日本人レベル超えてるし、シャツ一枚買うのも一苦労よ、きっと」
また胸か。デカ過ぎると着る服に困ると言う話は聞いた事もあるが、まさか自分の身に降りかかって来るとは思わなかった。
でも思わねえよ、普通は。俺、男の子ですから。
「でもまあ、どっちにしても関係無いわね。放課後まで学校の敷地内に居なさい。ただし、何処に居てもあたしが呼んだら五秒で来ること」
「それはなんか色々無茶だ!」
「隠れ潜むのもあんたにとっては訓練になるんじゃない? 準備運動の代わりに」
………潜入する事自体は難しくないだろう。
何しろ都市部の学校と違い、うちの学校には基本的に塀もフェンスも無い。壁があるのはプール周辺と飛び道具使用の弓道場のみ。野球用グラウンドは敷地の端なので除外していい。
職員室や生徒会室等の重要な部分と女子が使う更衣室等の施設以外なら監視カメラ等の警備も緩い。昼間なら見回りもいないから、敷地に居るだけなら難しくはないかもしれない。
しかし地方な分、敷地も広い。広くなくとも端から端まで五秒は無理だ。
残念ながら遠城の話はそれで終わりになった。元より俺の意見が通る隙間なんて無い訳だ。
彼女は時計を見て椅子から立ち上がる。学校まで行くには丁度良い時間になっていた。
「そうそう。登下校ではあたしの半径十メートルに近寄らないでね」
……何か何気に酷い扱いなのは気のせいか。と言うか、俺この格好で街中うろつくのか? 超立体になってしまった男物Tシャツへそチラにウェスト部分に余裕がある男物のジーパン。
………しかもこのジーパンで動き回るにはちょっと問題がある。
他に方法は無いので、俺は台所に洗い物を運ぶ遠城を呼び止めた。
「待て。出る前に二つ頼みがある」
「何?」
「電話貸してくれ。学校に休む連絡を入れる」
「いいわよ。玄関の所にあるから使いなさい。三分以内」
今時三分かよ。
「それで、もう一つは?」
「ベルトの穴開け貸してくれ。あと二つはウェストが搾れそうだ」
「殺すわよ?」
満面の笑顔が振り向いた。
それ以上何か言ったら本当に殺されていたと思う。残虐行為手当付きで。
*
「風邪をひいた」と定番中の定番の言い訳で担任に断わりの電話を入れた。俺が一人暮らしなのは担任も知っている。
問題だったのは声だ。迂闊に丁寧な言葉を使おうとすると声優顔負けの艶っぽい声になってしまう。そんな声が電話に出ては不審に思われる事は間違い無い。
大切なのでもう一度言いますが、俺は一人暮らしなのである。女が居る筈が無い。
そんな訳で、可能な限り声を押さえて具合が悪そうに喋るのは大変だった。幸い担任にも何とか通じたので、取り敢えず問題は一つ片付いた。ふう。
「………遅い。罰金ものよ」
さすがに素人が三分でぶっつけ本番の演技をするのは難しいと言うのに理解が無い。地獄から呪いを送りそうな機嫌の悪い声色からしてやりかねないかもしれない。
命令通り俺は登校する遠城から離れて歩く事にした。
取り敢えず姿を視界に入れとけばいいだろうと思って後ろを歩く。遠城も別に走ったりせず普通に歩いている。
(まあ、これなら登校中は何とかなるか)
要は通行人Aになればいいのだ。
……もっとも、すぐにそれが甘い認識な事に気が付いた。具体的に言うと、俺たちが街中に出た辺りで。
今は登校時間だ。完全に失念していたが、歩いているのは遠城だけじゃなく他の生徒たちもいる。それも当然、学校に近付くにつれて段々と増える。段々気になる。
遠城が特に何も指示しない訳がようやく分かった。この状況を想定していたのだろう。
(………えるっ! 背中を向けているにもかかわらず腹の中で嗤っているツラが!)
あのアマは魔女云々の前に精神的にどこか欠陥がある筈だ。そうに決まっている。
そして更に数分後。
………俺は男女問わず視線を集めまくっていた。
考えてみれば俺の服装はブラ無しのシャツ一枚にサイズの合っていない男物のジーンズ。学ランとセーラー服の群れの中では見た目もかなり浮きまくっている。視線も集めまくっている。
なんとなく『痴女』に属性修正。更に登校の生徒も増えて行く登校ラッシュタイム突入。ジャンジャンバリバリざわめきもどんどん多く大きくなっていく。
(………目立ってるな。ヤバイかもしれん)
………今はまだいい。
まだここは公共の道だから誰が歩こうと、危険物所持とか銃砲刀剣等不法所持とか猥褻物陳列罪に抵触しない限り問題は無い。ノーブラは猥褻物陳列罪にはならない筈だ、たぶん。
でも、高校に向かう道に入ったら確実に不審者へとジョブチェンジする。だってその先にはうちの学校しかねーもんな。
言い訳は不可能だろう。迂闊に何かしゃべると墓穴とか掘りそうだし。
遠城は俺の方を向きもしない。ざわめきが聴こえていない筈は無いだろうし、この状況は自分の手で何とかしろって事なんだろう。
が、凌ぐ方法を思い付かない。
女になっているという点は除外するとして、俺には特殊能力なんて無いのだ。遠城のように周囲に認識を撹乱する魔術とか、そんな都合の良い技も有る筈が無い。
となると、出来る事は一つ。とっておきの手が一つ。
(………つまり、逃げるしかねえ)
と言っても逃げるのは登校ラッシュからであり、断じてマスターの手からではない。何なら誓ってもいい。だって、多分そっちはアルカトラズ刑務所からの脱出よりも困難だろう。
俺は何気ない振りを装い、途中の路地で曲がった。
そこから身を隠しつつ遠城の姿を確認し素早く動く。この町に長く住む経験があるからこそ成り立つ路地移動術だ。
もっとも、注目度は下がったがストーカーレベルは上昇。……今度は通報されてもおかしくないアブナイ人だな。
(………はあ)
幾つ目かのポイントで遠城を目視確認しつつ、今の立場に疑問を抱き溜息を吐く。
俺、無用な心的疲労を重ねてるんじゃねえかなあ。
「あー、もしもし。そこの御方。そこはボクの指定席なので譲って頂けませんかね」
背後から声。待て。ここ、さっきまで人の気配の無かった路地裏なんすけど。
「………うおわっ?」
何時の間にか、俺の後ろに一人の女子生徒が居た。
見えなかったのは、ついさっき路地の奥から出て来たからだろう。
既製の制服がブカブカに見えるほど細く白い手足に、俎板どころか物干し竿みたいにスレンダーな体付き。
長い黒髪に分厚く大きなレンズ眼鏡。白く長い指には結構お高い一眼レフのデジカメが握られている。レンズも遠距離仕様だ。
朝だからハッキリと人間だと分かるが、夕方薄暗い場所で遭遇したら都市伝説の怪人デジカメ女にしか見えない。変人レベルでは今の俺と良い勝負。
………って言うか、俺、こいつの事知ってます。
「………や、八橋?」
それは俺と同じクラスで悪友、宮古八橋その人だった。
デジカメ部の大幹部で遠城麗緒ファン倶楽部設立の立役者。自称『花高のタケシマ』を名乗るデジカメ娘。タケシマって誰なのか? 有名なカメラマンだろうか。
普段は独特の価値観と卓越した行動力を誇り、性別を超えた飄々とした態度な奴だが、しかし今の八橋は珍しく困惑した表情を浮かべ、俺を奇妙な目で見つめている。
………はて?
「………失礼ですが、どこかでお会いしましたか? いえ、そもそもボクを『八橋』と呼ぶ人間は限られているんですが」
そう言われて気が付いた。
(………やっべえ。今俺、女だった)
それに、八橋の事はほとんどの人間が名字の『宮古』で名前を呼ぶ。彼女の親が何だって娘に『八橋』なんて名前を付けたのかは知らんが、ミヤコの方が女の子らしい響きなのは確かだ。
しかし、なぜか俺だけは彼女の事を名前の『八橋』と呼んでいる。
理由は大した事じゃない。去年高校に入って彼女と知り合った時、デジイチを向けられて、「フレンドは親しみを込めて呼び捨てにするもんだ」とか言われたからだ。
あれは凄い迫力だった。こっちに向けられたデジイチがコルトガバメントに見えたくらいだ。
ヤバさ加減は理解していただけただろうか?
「………いや、ほら、君、『花高のタケシマ』って言えば結構有名だから。花高デジカメ部の」
「そうですか? ……ふむ。貴女のような美女にそう言われると悪い気はしませんね」
八橋は首を傾げつつも納得したのか、俺が譲ったポジションに入る。
「ふうう。間に合った。もしやと思っていたけど今朝はラッキーだった」
呟きながら登校途中の遠城に向かってタイミングを取り素早くシャッターを切る。
「ラッキーって?」
「興味ありますか? 見て下さい。我が花祭高校のカリスマ美少女・遠城麗緒と運動部のトップスター・七瀬夏樹の登校中のツーショット。これはレア物ですよ」
言う通り、何時の間にか遠城の隣に遠城ほど有名ではないが美少女として名高い七瀬夏樹が現れていた。
タイプの違う美少女二人が揃って歩く光景はまるで映画のワンシーン。二人がカップルに見えそうな光景である。何か間違っている気もするが。
続けてカシャリとシャッターを切る音が鳴る。
驚くべき事に、その直前からすぐ側にいる筈の八橋の気配が薄くなっていた。
(なんと?)
野生動物を撮る一流のカメラマンは気配遮断の為に事前から食事などに気を使って体臭を消し、写す瞬間は自然に同化すると言う話を聞いた事があるが、その技術に勝るとも劣らない。
いや、最早どこの殺し屋かと言う領域だ。
もしや、実はデジカメよりもスナイパーライフルの方が得意なんじゃないだろうか? 狙撃王国ロシアに生まれていれば凄腕のスナイパーになって、世界中の要人に恐れられる伝説を作ったかもしれない。
「あの二人は今年同じクラスになって仲が結構良いみたいだけど、登校はなかなか一緒にならないのですよ。麗緒嬢は普通登校。それに対して部活の朝錬で早出の夏樹嬢。これが揃うのはラッキーとしか………はて。ボクはなぜにこんなに初対面の相手にペラペラと。………話し方とか、どこかの誰かと雰囲気が似ているせいですかね」
(ヤベェヤベェ)
………背中に冷や汗が。なんて鋭い奴。
いや、八橋の持つジャーナリストとしての力量から考えれば第六感に引っ掛かっても不思議は無いかもしれん。
しかし、いつもこんな感じでこいつは写真を撮っていたのか。
「いや。ええと、それはおそらく隠し撮りと言うやつなんでは?」
見事に犯罪行為である。
まあ登校風景だし、同じ学校の生徒だし、一応女同士だし。………外見からいくと限り無くアウトっぽい気もしなくはないが、彼女の名誉の為にもギリギリグレーゾーンでセーフとしておこう。
「失礼ですね。ちゃんと彼女たちと契約は結んでいるんですよ。これ本当はオフレコだけど。写真一枚の売上げにつき三割をマージンとして出しているのです。特に麗緒嬢とは他人に迷惑をかけずトイレ以外なら可と契約しています。写真の値段も要相談でダンピング不可。二次配布禁止。その代わりパンチラだって構わないとのお達し。まだ成功した奴はいないけど。去年一年で二十万くらい出したと思いますね」
マージン二十万って事は遠城だけで年六十万以上稼いでいるって事か。考えるだけで恐ろしい。
と言うか、高校生の部活内容じゃねえ。そして何より金を出している俺たちが一番どうかしているのかもしれない。アイドル商法が短期間にガッツリと稼ぐのは定石だとは言え。
遠城は完全な一人暮らしみたいだし、現金の収入はどうしても必要なんだろう。
しかし多くの男子が持つ清純とかそう言うイメージとは若干ずれる。何と言うか、ぶっちゃけ腹黒い? 俺はとっくに宗旨変わったんで気にしないけどな。
しかしなるほど。例の水着写真が売りに出されたのは遠城の正式な許可だったのか。いや、案外収入を得る為に敢えて出させたか。汚い。遠城汚い。
純真な(エロの)少年たちを踏み躙る悪魔め。
「………む。なぜボクはこんなにペラペラと。本当にオフレコでお願いしますよ」
「え? あ、ああ。大丈夫」
仮に俺が彼女の悪口を言っても信用する奴なんていないだろうし、もしそんな事が遠城にバレたら、ああ、考えるだけで恐ろしい。
あるいは近々結成される《神聖派》に処刑されてしまうかもしれん。そんなのは御免だ。
「……ふーむ。ボクと同じ臭いがするからかもしれませんね」
「同じ臭い?」
「気を悪くしないで下さい。どうも貴女からは誰かの後を尾行しているような雰囲気が。……いえ、忘れて下さい。野暮になりたくはありませんからね」
何を勘違いしたのか。しかし八割ほど当たっているのだから、宮古八橋恐るべし。
「今朝は大当たりですね。麗緒嬢は言うまでもなく、夏樹嬢は女子に人気が高い。………まあ女子は余程のベストショットでもない限り結構金払いが渋いんですが。今年の学園祭では是非男装をやって欲しいものです。人気爆発間違い無しでしょうね」
「ええと、そろそろ学校だけど、行かなくていいのか?」
この路地は正反対。学校に向かうには道路を横断して進まなくてはならない。
「そうですね。それでは美しいお姉さん、またお会いしましょう………っと、お名前を教えて頂けますか?」
「名前? ええと、名前、ねえ」
いきなり言われても困る。俺の名前は海上真也だが、まさかこの姿でその名を名乗る訳にもいかない。
「ええと、ま、マヤかな?」
「なぜに疑問系? いや、検索はよしましょう。では」
そう言うと八橋は忍者、と言うか何かの妖怪みたいに奇怪なポーズで走って行った。
シャッターチャンスに備える為に突き詰められ、獲物を狙う肉食動物的な境地に辿り着いたのかも。
人間辞めている領域だ。
(………それにしてもマヤはねえよ。マヤは)
解説するのも恥ずかしいくらいシンプルな呼び替えに、俺は心の中で頭を抱えた。
(………って、問題はここからだな。遠城のことだし頻繁に呼び出しなんかしないだろうけど、それでも敷地内に居ない訳にはいかないし)
どう言う事か知らないが、俺の考える事が遠城に筒抜けになっている事がある。
それが使い魔の証みたいなものだが、裏を返せば逃げられないって事だ。
(とにかく、登校路から外れて裏の方に回ろう)
2 大事の前の小事
朝起きると、あいつは女になっていた。
いや、比喩とかそんなんじゃなく、現実に。
それも 何処に出しても恥ずかしくない綺麗系美人。スタイルも犯罪レベルの高得点。身長が高いせいか、少し年上にも見える。声も綺麗でどこか艶っぽい。
さすがに女になったのには内心驚いたけど、たった一晩でここまで大きな変化が起きたのはむしろ明るい材料だ。あいつの秘められた才能には本当に驚かされる。
予想外だけど許容範囲内と言うところ。スタイルの良さにはちょっと殺意も湧いたけど。
登校の途中であいつは視線を集めまくっていた。
ったく、もうちょっと考えて動きなさいよ。自覚しているかどうか分からないけど、今のあいつは外見だけなら完全な美女。さらにラフ過ぎる服装では男も女も目を引くに決まっている。………あ、路地に逃げた。
それでも言いつけ通りちゃんと着いて来ている。何となく忠犬っぽい。よしよし。
ふふっ、と笑みが漏れた。
「や、おっはよう。りーおっ」
目を向けると道の向こうで七瀬があたしに向けて手を振っていた。
「あら、おはよう夏樹。珍しいわね、こんな時間に」
本当に珍しい。七瀬は部活の朝練で早出が普通なのだ。
この登校ラッシュ時間に遭う事は期末試験期間中くらいで、他はまず無い。
そう言えば、あたしが誰かと一緒に並んで登校すると言うのも余り例が無いわね。
「今日は朝練無し。昨日、ちょっと部員の一人が事故ってさ」
「事故? 穏やかじゃないわね」
「大した事じゃないよ。いや、親的には大変な事なのか。原因は貧血でさ。その子、中心街の方から通う子なんだけど、昨日の帰り道、路地で伸びていたらしいんだ」
「………それって事件に巻き込まれた、と言う訳じゃないのね?」
「『事故』って言ったでしょ。それも貧血で倒れただけ。まあ場所が場所だし、他に何も無くて良かったんだけど、さすがにそんな事があった次の日じゃ朝練も自粛ってこと。放課後の方もたぶん先生から注意を受けて切り上げかな」
「その子、ダイエットでもしてたの?」
最近、高校の運動部顧問がダイエット(と言うか減量)を勧めると言う事があるらしい。
当たり前の事だけど減量と言うのは成長期の人間にとっては一歩間違えば大変な事になる。高校時代の部活での減量が原因で摂食障害になった人も居るんだそうだ。
「さてね。まだ入ったばかりだし、本気でやっていくなら体重は平均以下なのが望ましいってのはあるよ。もちろん痩せ過ぎは論外だけど」
夏樹は後輩から慕われているだけあって面倒見が良い。だから後輩の様子とかそう言うのって、時に指導者よりも見え易いのだ。
「その娘、大事を取って入院したし、放課後お見舞いに行って来るさ。それよりも麗緒。あんた今朝機嫌良くない?」
「え?」
突然話が切り替わって驚いた。
ううん、想像もしていない話を振られたから、か。
「私が、機嫌が良い?」
「うん、なんかそんな感じ。なに? 男でも出来た?」
「まさか。………ああ、でも、そうね」
あいつは男だけどそれは単に性別。今はそれすら怪しいけど。第一、あれは使い魔みたいな物だ。
あたしの、初めての。
………ふうん、そっか。そう言う事か。
「そうね。確かに私は今、生まれて十七年で一番ドキドキしているかもしれない」
そう。あたしは興奮している。
初めて持った自分の躯体。劇的な変化。現れた敵。
自分の周りに時間が追い風で流れている事を感じる。
こう言う感覚は初めてだ。
やっと、自分の世界で生きている充実感がある。
「ふうん。ちょっと悔しいね」
「あら、どうして?」
「麗緒を本気にさせた相手があたしじゃないって事かな」
「まるで私が適当に生きているって言ってるみたいね」
「ちょっと違う。あんたは学校で何をやってもそつなくこなすし成績はとんでもなく優秀。でも誰かと競おうって雰囲気が無いからね。負けて悔しいとかそう言う姿を見た事が無い」
……鋭い。思わず心で舌を巻く。
「別に。私はスポーツに青春懸けてないし、競争心とかそう言うのを他人に見せないだけよ」
七瀬の洞察力、と言うかそこまであたしが見られていたと言うのも驚きだ。
そしてそのプロファイリングは結構当たっている。案外、類友ってやつだろうか。人の道から外れているあたしに関わる以上、彼女が実は奇妙な才能を持っていたとしてもおかしくない。
喩えて言うなら、あたしと夏樹は全く違う山を登っている。それも頂上の見えない険しい山。
そこに競争なんて入る余地が無い。自分一人で手一杯。考えるだけ無駄な事だ。
「人間誰だって違う道を通るものでしょ。価値観なんて人それぞれなんだし。第一、私が夏樹の土俵で戦える訳無いでしょ」
けれど、七瀬はそんなあたしの顔を見てけらけら笑った。
「どうだか。麗緒なら、本気で打ち込めば大概のスポーツはものになりそうな気がするんだよ。自慢じゃないけど、他はともかくあたしのその勘、外した事が無いからね」
「将来はスポーツ指導者に決まりね。羨ましいわ。才能がはっきりして」
「やれやれ。高校生活であたしが切磋琢磨出来る相手はいないのかね」
「なによ、そっちが本音?」
「当然でしょ。花も実もある高校生活ももうすぐ折り返しなんだから」
「全国まで行けばいっぱいいるでしょ。まだ見ぬライバルたちってのが」
「すぐ近くに欲しい」
(………贅沢者め)
校門をくぐり敷地に入る。少しあいつの気配が遠い。
まだ馴れ始めだし回線もはっきりしないけど、いずれは一方通行だけじゃなくて簡単な意思疎通もできるだろう。今のところは余程近くじゃないと意志までは読めない。
今あたしたちが歩くこの登校道は部外者である今のあいつには使えない。正面突破は避けるのがセオリー。
実はあいつがどう言うルートを使うのか、ちょっとだけ興味があったりする。
シンプルに行くなら裏手だけど、この学校、結構敷地が広いので校門と裏手が五百メートル近く離れていたりする。
野球グラウンド、サッカー、陸上、ラグビーがそれぞれ独立して一面ずつ。テニスは四面。
全校生徒を並べて充分お釣りのある第一講堂にバスケットが二面取れる第二体育館。柔道場。剣道場。武家屋敷みたいな弓道場に屋根付き土俵。
冬季は使えないけど八コース二十五メートルのプール。ついでに百名利用可能な合宿施設。
いやホント、設備なら非常に豪華だ。しかし実はこの設備が造成の際のネックだったらしい。
常識的に、スキー等を除けばスポーツ施設は平面に作らなければならない。平面でなければ調整に予算が必要になる。
これだけの平地を確保するのはさすがに大変だったらしく、花祭の場合ツケは校舎等の学業側に回された。簡単に言うと、昔の山城よろしく丘の上に建てられたのだ。
実際登校路である正面坂道は徒歩も自転車登校も大変だ。車で登っていく教職員がかなり憎らしく見える事もある。もちろん帰りは楽なんだけど。
さて、表がこんなだから北側裏手はもっと洒落にならない。具体的に言うと学校が建てられて以来手の入らない森がある。斜面も最低限の崩落防止が施されているだけ。
まさに戦国時代の城攻めポイント。
ちょっとした冒険気分になるけれど、仮にここで身動きの取れない怪我でもしたら冗談抜きで遭難するかもしれない。
滅多に人も近寄らないし、だからこそ身を隠しながら敷地に入るには絶好のルートだろう。
(さぁて、見せてもらいましょうか。あんたの性能をね)
ヤバイ。あたし、本当にわくわくしている。当人比七倍くらいは。
*
昼休みに入ると、あたしは少し強めに魔力を込めて回線に命令を通した。
内容は「今すぐ屋上に来る事」で手応えを確認。
それからあたしは購買のパン販売に寄ってコロッケパンとコッペパンを一個ずつ買い、自販機に寄ってパックの紅茶を二つ買って上に向かった。
「………わざわざ昼休みに呼び出すな。頼むから」
「あら、ちゃんと来てたんだ。感心感心」
肩で息をしているあいつがそこに来ていた。
ところで、この場合「彼」と「彼女」、使い分けなきゃ駄目だろうか? 面倒臭いし「彼」で統一しよう。決定。
「感心、じゃねえよ。昼休みになれば人が校舎から溢れて隠れにくくなるぐらい分かるだろうが。おまけに屋上だなんて、無茶もいいところだ!」
「あら。もちろん困難なタイミングだからこそ命令したのよ。あんたの訓練の一環なんだから。これくらいはクリアして貰わないとねえ」
「………地獄に落ちろ、マスター」
「馬鹿ね。魔女が逝く場所なんて始めからそこしかないのよ。うちにとっては御先祖様生誕の地でもあるし。ほら、ご褒美あるわよ」
あたしはコッペパンとパック紅茶を彼の前に置いた。それから自分も適当な場所に座る。
今日みたいに晴れている日は、よくここに来る。
屋上には他に人は居ない。
別に立入禁止って訳じゃないけど、転落防止の為に端から随分余裕をもってフェンスが張られているから眺めはあんまり良くないし、そのフェンスもサビだらけだから環境面でもイマイチ。
まともな掃除もされていないし、好き好んでここに来る人間は大概ロクなものじゃない。あたしも含めてね。
「………出たな。パン販売人気ワースト一位のコッペパン」
それはマーガリンすら塗られていない素パンだ。
元々市内の人気パン屋の品で二十種を越えるジャムやクリームを中に一種もしくは二種挟んで売られている。
パン自体も成人男子の掌を二つ合わせたよりも大きい上、ジャムやクリーム類のバリエーションが何種類もあるのが人気の理由だ。しかも格安。
本店に行けば更にコロッケやトンカツ、野菜サラダにヤキソバなんかも自由に選べる。お昼時の本店前は大行列になるらしい。
もちろん人気店のパンだけあってパンそのものも美味しい。
しかし、わざわざ素パンを買う者なんてそうはいない。中味が無い分安いので剛の者はジャム持参で大量購入したコッペパンに塗って食べるらしい。主に相撲部と柔道部の猛者どもがおやつに。
それがコッペパン最大の需要先で、昼休みにはあんまり売れないらしい。
「ん? 嫌なら食べなくてもいいけど?」
「いや、食べる。さすがに腹が減ってる感じ………はしないんだけど。疲れてるから何か喰いたい」
「そう言えば、どうやって上がってきたのかしら? 階段?」
隠れながら上がる事は出来たと思う。けど、彼の答えは違っていた。
「壁」
「へえ、登ったの」
雨どいや窓があるから手掛かりにして登れない事はない。
更にぶっきらぼうに返って来た答えは少し予想から外れていた。
「跳んだ。一瞬仮面ライダーになったかと思った。この身体のスペックおかしいぞ」
彼はそう言いつつ齧り付いたコッペパンを紅茶で流し込んでいる。
跳んだ? ジャンプってこと?
「一応三階建ての校舎よ? 何メートルあると思ってるのよ」
「別に一回で登ったんじゃねえよ。この校舎、屋根で結構繋がってるだろ? ほとんどは返りがあるから上がりにくいけど、低い所からなら垂直で五メートルも跳べれば充分だからな」
垂直で、五メートル。
学校と言う場所で測るなら、地面から二階の中間まで。確かギネス記録が一メートルと三十センチ弱。
その数倍。
それは人智を越えた跳躍力だ。
「やってみるか?」
軽く膝を曲げただけで、彼は三メートルのフェンスを飛び越えて向こうに行った。そしてもう一度同じようにして戻って来る。猫のように着地も静かだ。
「………朝からの事、全部話してくれる?」
「ええとだな。朝、学校の敷地に入る為に裏に回るまでが大変だった。一旦登校ルートから外れて裏に入れる道に回った。藪を掻き分けて進んで行って、やっと敷地に入った。授業中は校舎の北側にはほとんど人が来ないし、体育館と窓にさえ気を付けてれば安全地帯も同然だったからな」
へえ。結構考えて動いてたんだ。少し意外だけど細かな所に気が付くタイプなのか。
「窓の外って案外見られるからさ。慎重に死角に移動してな。ああ、授業サボって裏に煙草吸いに来る奴がいたらどうしようとは思った」
「校舎裏で煙草? 今時いるんだ、そう言うの」
ちょっとカルチャーショックだったりして。そう言うのって八〇年代の話だと思ってた。
「一箱千円にでもならない限りは続くさ。藪の中に吸殻が詰まったコーヒー缶が幾つか転がってた。人気の無い所で吸って北側に投げ捨ててるんだろ。吸殻の処分が一番大変なんだ」
「あんたも吸った事あるの?」
「まさか。煙草買う金があるならもっと有意義に使う」
「有意義って?」
「煙草って一箱四百円くらいだろ。まずキャベツだな。それから大根。これで一週間いけるな」
随分所帯じみた発言だけど、それはあたしも同意見。
煙草なんて目標の無い人間が吸う物だ。一昔前の阿片なんかと同じ国営の麻薬だ。本当に目標のある人間なら煙草なんて見向きもしないだろう。時間もお金も健康も失う物なんだから。
第一、頻繁に授業を休むとチェックが入る。それで確実に目を付けられる。うちの学校はそう言う事に厳しい。
「で、昼休みに何処行こうかと思ってたら呼び出された。しかも屋上。何とか屋根に上がれそうな場所を見付けて飛び上がろうとしたらスペックがおかしい事に気が付いた。後は何度か試してみてここに来た。以上」
「やっぱり馴染んできてるのね。良い傾向だわ」
ゾクゾクしてきた。喜びを表情に出さないようにするのに苦労する。
「一度死んで今は改造超人か。俺は今、本郷猛と同じ苦悩を抱えているのかもしれん」
「それってあたしがショッカーと言いたいのね」
「似たようなもんだろ」
組織と個人経営と言う違いはあれどスタンスは近いかも。
「ま、別にいいじゃない。人生を賭けるに足る男子の夢じゃない?」
「………せめて女じゃなけりゃあ。どこの鉄腕サマだよ」
身体は違っても心は同じだからマシだと思うわね。
「この調子なら夜にはもう少し進んだ能力開発ができそうね。じゃあ午後も同じように。帰りにまた集合場所を連絡するわ」
そろそろお昼休みも半ばを過ぎる。授業の準備とか、他にやる事もあるから切り上げ時だ。
でも、そこで彼が言葉を挟んだ。
「ちょっと待った。実は午前中ずっと考えてたんだが、午後に自由時間をくれ。頼む」
「…………ちょっとあんた。自分の立場って、分かってる?」
「その辺は重々承知で頼んでる。一旦家に戻りたいんだ」
「戻ってどうするのよ」
「必要な物を纏めて運び出す。当面の着替えとか男に戻った時の為の制服とか教科書とか、通帳とか。あとガスの元栓とブレーカーと冷蔵庫が心配なんだ。滞在が長くなったら電気代はかさむし冷蔵庫の中身が逝っちまう」
………うん。それは大事だ。その気持ちは一人暮らしのあたしにもよく分かる。
ただ、今はあたしが生きるか死ぬかの瀬戸際でもあるのだ。一分一秒を彼の開発に使いたいのも事実だから、さてどうするか。
………よし決めた。
日中に出来る事は限られている。派手な事もやりにくいだろう。それに動いていれば少なからず経験値にはなる。
「………分かった。でも六時よ。必ず六時には病院の方に来てなさい」
「おお、サンキュー遠城。んじゃ、後でな」
「逃げたら絶対に後悔させてやるわ」
あたしは屋上から出る直前に振り向いてそう言った。
「もうそんなタイミングじゃない事くらい分かる。逃げねえって」
彼の答えは意外にも心強い、あたしの望む真摯な物だった。
………へえ。
3 男と女の華麗なるひととき
意外にも簡単に許可が降りたので、俺は行きと同じ苦労をしつつ学校から脱出した。
もっとも、放課後の下校ラッシュの最中に行動するよりはずっとマシだったろう。
ただ枝や土に汚れた今の格好で街中を歩くのは不審者丸出しだったので、出来るだけ人通りの無いルートを選んで部屋に帰った。その割には随分と早く着いたんだがこれも身体能力が上がっているからか。
幸いと言うべきか、家の鍵は味噌を買う金と一緒に遠城から返して貰っている。何も変わっていない部屋に上がると、何だか妙に懐かしい。
取り敢えず学校関連の物を纏める。教科書なんかを集めると結構な量になるが必要最低限の物だけを選別する。後の物は必要になったらここに寄って持って行けばいい。
着替えなどの生活用具も最低限の物を集める。こちらも必要になればここに取りに来る。いざとなれば宅配便で遠城の家にでも送ればいい。
………あんな所に荷物送ったら宅配業者にとっては怪談のネタになりそうな気もするが。
(………まるで夜逃げだな)
大型のバッグに詰め込んだ物を見てそう考える。
遠城麗緒の家で生活すると言う観点から見ればもう少し明るい見方も出来そうだが、どっちかと言うと地獄行き片道切符と言う方が正しい気がする。
そう言えば、人を惑わす美女は地獄の方が相応しいよな。
(………深く考えるのはやめよう。欝になりそうだ)
次は冷蔵庫だ。
元々一人暮らしなので必要以上に食材を溜め込むような真似はしない。とは言え、買出しの関係上ピークと言うものがあり、今はその丁度中間くらいだ。
「………味噌買う訳にもいかなかったし、シジミはインスタント味噌汁に混ぜて味噌汁にするか。問題は………ニンジンにジャガイモにタマネギに………そうか、飯も」
週末に買い物に行って日持ちする野菜がまだ残っているのだ。
しかも飯も結構残っている。冷蔵庫には傷み易い挽肉も若干。ブレーカーを落とせばどうなるか、想像もしたくない。
だからと言ってこれら全てを廃棄するのはかなり困難を極める。しかも生ゴミを出せる日は今朝。次は週末だ。
お裾分けと言う事で近所に出せればいいのだが、俺んちの近所、つまり同じ階の連中はなぜか料理が出来ない一人暮らし技能の薄い面子が集まっている。
つまり、出来る限りゴミを少なくするには、これを食い物に変えるしかない。
「これは…………カレーしかねえ」
………味噌汁と一緒に責任を取って遠城に喰わせよう。そうしよう。
時計を見ると時間はまだ充分にあるので、俺はカレーを作り始めた。
包丁を使うのがどうもぎこちないと思ったら胸が邪魔と言う泣くに泣けないオチがあったりしたが、とにかく俺は鍋一杯のカレーを完成させつつあった。
「ふう。取り敢えずこれでブレーカー落としても冷蔵庫は大丈夫だな。後は電話か………」
前からある宅電ばかりはどうしようもない。まさか親に無断で解約する訳にもいかん。幸い留守電機能はあるから、まめに戻ってチェックするしかない。
「っと、煮えてきたな。遠城の所に持って行くには風呂敷がないと駄目か。……風呂敷なあ。どこにあったっけ」
カレー鍋の火を消して風呂敷を探そうとした時だった。
「突撃! 隣の晩ゴハーンっ! 真ちゃん俺カレー大盛りでよろ………」
俺んちの玄関がそれはもう勢いよくババーンと開かれた。
何と言うか、このタイミングで文字通りお隣に住んでいる大学生の来襲である。
まあ、よくある事なんだが。
名前を浜路。電車で三十分程の街にある国立大学に通っている。
なぜか一人暮らしの高校生の俺に夕飯、場合によっては朝飯や昼飯をたかりに来ると言う完全無欠の炊事不能者だ。出来る事はAV機器の管理だけと言う徹底振り。
一応ギブ&テイクが成立していて別の面で世話になったりしているのだが。
今日も外に流れたカレー臭を嗅ぎ分けたのか、マイ皿&マイスプーン持参で来襲。
ちなみに今は日本時間平日午後五時前です。大学生が部屋で屯っている時間じゃねえ。
授業とかバイトとか友人関係とか、あんたにはもっとやるべき事がある筈だ!
(………やべえ。隣近所の事考えてなかった)
常に問答無用でたかりに来る連中だ。最早日常風景。
いや、正直なところカレーに関しては問題無いんだ。鍋一杯のカレーだし喰い切ってくれるなら有り難いくらいだ。
問題は別の所にある。
………そう。今の俺は、俺であっても彼らの知る所の海上真也じゃない。外見では全くの別人なのだ。
それも、女。
「き、き、き、き」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔とよく言うがまさにそれ。俺を見て指差しているポーズは少し間抜け。
黙ってればジャニ系の美男子なんだけど、口を開くと好みのAV女優とか新人AV女優とか言い出す男子中学生みたいな人である。その話題を裏打ちするコレクションも凄い。隣の部屋はアダルトショップ並に肌色に埋め尽くされている。
俺が世話になってるのも主にそっち方面なんだが、彼女とか出来たらこの人はどうするつもりなんだろ。
「キンキュージタイハッセイッ! キンキュージタイハッセイッ! 全員直ちに食堂に集合せよ! 繰り返す! 全員直ちに食堂に集合せよ!」
「ちょ、ちょっと待」
外に出て騒ぎ出した浜路さんを引き止めようとしたが手は届かない。
もっとも届いていたら俺のパワーで何が起きていたか分からないから良かったのかもしれない。
ちなみに『食堂』とは俺の部屋の別称だ。しかもダイナーではなくダイニングの方。それにしても近所迷惑なのでトーンを下げて欲しい。
「ったく、こらハマジ。何騒いでんのよ。近所迷惑ってのを考えなさ………ぬ」
浜路さんの後ろから女性が顔を出した。やはりマイ皿&マイスプーン持参で、やはり俺の姿を確認して、やはり一時停止した。
この人は春田智美さん。花祭市近郊をカバーするタウン情報誌に務める編集者だ。
美人で仕事柄地方在住にしてはオシャレ。でも地方小都市なので逆に浮いている。
そして繰り返すが日本時間平日午後五時前。仮にフレックス制を導入していても、OLが飯をたかりに来る時間じゃありません。
「アア出遅れたー。皆サ―ン。通路の邪魔デース。早く中に入って下サーイ。浜路サンちょっと御免ナスって横にドイテデス。海上サーン僕大盛りでヨロ………オンヤー?」
隙間からやはり顔とマイ皿マイスプーンを突っ込んできたのが飯をたかる三人衆最後の一人。
この男こそ謎の中国人留学生、名は金沢弘。中国は四川省からやって来て、浜路さんと同じ大学に通い学んでいる。
………筈なのだが、やはりよく俺んちに飯をたかりにくる。
あと麻雀が桁外れに強い。前は四人で打っていたがパワーバランスが酷いので最近はやってない。中国式ルールも馴染みが無いし。
俺の近所はこんなのしか居ない。と言うか、ロイヤルストレートフラッシュか? 今日に限ってこんな時間に全員揃っていやがる。なんで? 先祖の供養に問題があるのだろうか?
「真也の部屋に女が! それもすげえ美人が!」
「………凄いデスね。浜路サンの巨乳コレクションにも負けてませんヨ」
「はいはい。見りゃ分かるから」
見りゃ分かるのか。いや、確かにそうなんだけど。
「ねえ貴女。真也君はどこ?」
この三人にしてみれば、この部屋の主ではなく見覚えのない女がカレー作ってんだから真相を調べたいと思うだろう。仮に俺が向こうの立場なら多分同じ事をする。
が、しかし。まさか「ここに居ます」とは言えないし、まして「僕です」とも言える訳が無い。
さて、ここはどうするべきか。
「………ええと、彼は、ですね」
「彼ッ!」
「オオ。『彼』。日本語で愛人の意味でしたカ?」
一言だけでこの反応か! あと、知ってて言ってるだろ中国人留学生。日本に来て二年目でアニメも字幕無しで理解できてカラオケで桃井はるこをセレクトする男のくせに。
「あんたたち、いちいち反応するんじゃないの。二十歳越えてるくせに。ごめん、続けて」
続けてと言われても困る。俺にも話せる範囲が分からないのだ。
「真也は………ですね。急に病院に入る事になって」
「呼び捨て!」
「オオ、A以上の深い間柄と言う奴デスね」
「反応する場所はそこじゃない! 病院って、入院?」
今日ほど春田さんが飯をたかりに来る以外は常識人である事を感謝した日は無い。
「いえ、その、ええと、そう、アルバイトです。アルバイト。急な話で当分こっちに戻れないから荷物を俺………じゃない。私が纏めて持って行く事になって」
病院に入ると言う話も間違ってはいない。金は出ないけどな。報酬らしい報酬はゼロだ。
「貴女は真也君とどう言う関係?」
当然の質問。ある意味、これが一番の問題だろう。向こうにとっても俺にとっても。
しかし、どう言う関係、と言われても困る。答えを一つ間違えば火に油どころかガソリンを注ぐ結果になりかねない。となると、だ。
「従姉妹です」
こう言う時は取り敢えずシンプルに。差しさわりのない位置関係を模索した結果の答えを出す。この僅かな時間で得た教訓である。
しっかし、名前と言い間柄と言い、何か思わぬところで俺の女版プロフィールが出来ていく。
ちなみに、俺には本当に従兄妹が居る。結構離れたところに住んでいて、最後に会ったのは俺が小六の頃だったから、もう四年は会ってないな。
「そのカレーは?」
「当分こっちに戻れないから冷蔵庫の中味をカレーにして近所に分けてくれと」
「おお、よっしゃあっ! 美少女の手料理!」
その言葉を待ち構えていた二人は飛び掛るようにカレー鍋と炊飯器を奪い、パパッとテーブルにセッティング。手料理って、カレーだぞ? 今までそう言われた事は無いが。
「イタダキマスデスヨ! ちょっと浜路サーン! ご飯は一膳分デショウ! 非常識ネ!」
「そう言うおまえはカレー盛り過ぎなんだよ! 全域にかけるんじゃねえっ!」
「中国ではこれが普通ネ」
「って、カレーを混ぜるんじゃねえっ! 美少女の手作りをなんだと思ってやがる!」
「中国ではこれが普通ヨー」
「掻き混ぜるのは韓国文化だろうが!」
「がっつくな馬鹿者ども! 取り敢えず私も頂きます」
何だかんだ言って春田さんもテーブルに着く。そして大学生の男二人に負けぬほどマイ皿に大盛り。この人もいつもこうだ。そのくせスタイルがいい。燃費が良いのか悪いのか。
更に春田さんはテーブルに缶ビールの六本束をドン。更に倍でドン。計十二本。ぎゃあ!
「おおっヱビス! さすが社会人! よっ、三石琴乃によく似た声を持つ女!」
「初めて会った時はビックリしましたヨ。僕がニホンゴ勉強した教材の人と凄くソックリな声でしたカラ。ちなみに、美少女な方デス」
それはタイトルか。それともキャラ造形か。あ、どっちでも同じか。
ちなみにどっちも世界で人気らしいぜ? 映画的造形作品も萌え狙いの作品も皆ジャパニメーションだけどな。
「一人一本よ。あとは全部あたしんだから。貴女は? 食べないの?」
「へ? あ、ええ。頂きます」
別に空腹ではないけれど、ここで食べないのも変なので俺も皿とスプーンを出してカレーを盛る。つーか俺、なんで自分の作ったカレーに遠慮してんだか。
「………まあ納得できる範囲だけど気になる部分もあるのよね」
「はい?」
「そのシャツ、男物よね。しかも下に着けてないでしょ。それに履いてるジーンズは真也君のやつだし。見た事あるもの。一人暮らしの男の部屋でそう言う格好してるのは気になるわ」
「オオ。フェイト・ステイナイト・トゥギャザーですネ」
「訳すと『共に過ごす運命の夜』?」
その英語、合ってんのか?
「うおエロっ! エロいぞキムチ。あとおまえは国文じゃなかったか?」
「僕の卒論はラノベですカラ守備範囲ですヨー」
「正気か? いや、ハリポが有りならラノベだって有りか」
男二人の缶ビールは既にデッドソルジャー。早っ! しかも浜路さんの缶にはショットガンの形跡が。人の家でそんな飲み方をするな。零れるんだよ。
「おまいらエロ談義ならハマジの部屋でやれ! ………で、貴女の年頃で男の服を借りるのって結構大胆だし、食器も迷わないみたいだし、結構前からここに来てたのかしら?」
鋭い目付きで俺を見る。
………ヤバイ。何か嗅ぎ付かれている感触。春田さんは一応流行を相手にしている女性だから服装とかの観察眼が優れているんだろう。男だった時には何にも言われた事無いけど。
「うーん。従姉妹と言うには似てないよな」
「似てませんネー。でもカレーの味は似ていマス。オオ中国四千年スパイスの妙技」
「いや、カレーはインドだろ」
味が似ているのは当たり前。だって俺の家の材料といつものルウを使って俺が作ったんだもん。こいつらに味とか言われるのは驚きだけど。
「ふう。男と女だし、そもそも従姉妹同士で似ている方が凄いわよ。遺伝の法則って知ってる?」
遺伝の法則。ま、単純に考えれば従兄妹同士で、共通する遺伝子は二分の一。それだけ違えば似る方が困難だろう。
実際の俺の従兄妹は俺と全然似てなかったし、今はもっと違うだろう。
「俺、英文科だから。ハリー・ポッターの原文読んでる」
「僕、国文学デス。今、宮澤賢治やってマス。『やまなし』難しいデスヨ」
………駄目だ、この二人。大学生だよね?
「この程度ゆとり世代だって高校までに必修だろうが! あたしなんかタウン情報誌勤務よ!」
「………似てませんかね?」
ぽつりと訊ねてみると、三人はほぼ同時に答えた。
「似てない。犬と猫? それも可愛げのない雑種犬とピンとした血統書付きの猫」
「ドワーフとエルフくらい」
「ヒロインと顔が出ない端役男子ネー」
(種族レベル、か。俺もそう思う。でも俺ドワーフ? あと顔が出ない端役って、喩えとしてどうよ)
「で、本当の所は? 彼女では無い? 例えば洗濯機の中を見てみると言う手もあるんだけど」
いや、洗濯機の中には何も無いけど。
………あ。そうか。服を借りているなら借りる前の服がなくちゃ駄目なのか。うっわ。
目の据わった春田さんが俺の顔を見つめる。
………あれー? 何時の間にか空き缶が三本転んでますよー? もしかしてこの人、酔ってますか?
「い、従姉妹ですよ。今はあんまり顔を会わせないけれど、小学校の頃は年に何度か会ってましたし」
何度も言うが、本当の所も何も言える筈がない。
「大丈夫! 従姉妹は結婚出来る!」
「オオ! 浪漫シング性!」
この中国人には儒教概念とか一般常識とかあるんだろうか。
「住んでる場所は?」
「県庁所在地ですよ」
本物の俺の従兄妹は県庁所在地でも三つ隣の県人だがな。
「………ふむ。泥棒って訳じゃないか」
「もちろんですよ」
それを疑っていたのか。
でも、泥棒だとしたら相当凄いよな。冷蔵庫の中身でカレー作っちまうんだから。あれだ、都市伝説みたい。人を殺して料理してしまうってやつ。
「親戚って言って家財道具持ってくって話もあるからね。そう言う記事があたしのやってる情報誌に載った事があるのよ。下手な泥棒よりも性質が悪い。まあこうしてカレー食べてるんだからその線は無いか。疑ってごめんね。でも、あなた綺麗なんだからちゃんと服装に気を付ければいいのに」
「いや、まあ興味が湧かないって言うか」
女になったのは今朝の話だ。ファッションで着飾ると言うところまで思考回路はカバーしていない。もともとファッション感覚無いしな。
プシっと新しい缶が開けられる。男二人はカレーおかわり。この調子なら飯もさばけるな。
「ぷはー。そんなんじゃ駄目よー。ああ、あなたが花祭の在住ならモデル頼むのになー」
「モデル?」
思わず目が点になる。モデルって、俺が?
「そ。表紙モデル。あたしの勤めるタウン情報誌は必ず花祭在住の高校生か大学生を表紙モデルにしてるの。もちろん本人と家族、学校に断わってね。正規のモデル料も出すし。去年の秋にモデル頼んだ花高の美少女の号は凄い売れたのよねー。はあ、部数を伸ばしにくいのがタウン情報誌のネックなのよ~。第一さ、街中情報よりもラブホ紹介の広告ページが多いってのはどう言う事?」
その辺は人口の問題なわけだから仕方ないよな。
地方都市だから郊外には農家も多い。二世帯住宅だって多いし、ラブホテルのニーズは案外大きいのだ。
真面目な話、地方に於ける少子化対策の一つとしてラブホは必要不可欠だったりする。
「大学の購買だと結構売れてるみたいっすよ? ほら、飲み屋の割引チケットとか付いてるし」
「ラブホテルの割引情報も載ってルシ」
「そんなのデリヘル情報誌にも載ってるわよお~。………畜生。今月は怖い話回ってくるし、もう最悪」
「なんです、それ?」
「でっかい声では言えないけどさー。タウン情報誌にはね、表に出せないようなガチでおっかない話が時々舞い込んでくるのよ」
何だか涙声になっている。この人はアルコール入ると情緒不安定になるのは知っていたが、そんな話は初めてだった。
「おっかない話、ですか」
「そ。どこから仕入れてくるのか、ありがちな都市伝説系ね。市立病院の四階の窓に首吊りの死体が映るとか。国道に首無し武者が走るとか。下水道にでっかい蛇が居るとか。郊外の潰れたドライブインで夜に営業しているのを見たとか!」
幾つかは俺も聞いた事がある、定番ネタだった。
「うちの番長………じゃなくて、デスクがそう言うの本っ当に大好きで、特集組みたいって毎回駄々捏ねるのよ。ったく、地域を盛り上げるタウン情報誌に怪談載せてどうするっての! こないだも変な事言い出して」
以前ならその手の毒にも薬にもならない与太話は軽く聞き流していたが、今の俺は片足どころかほぼ全身そっち側に沈み込んでいる。
……だから、その話の何かが気になった。
「話を続けて下さい」
「それが『絵光ビルが営業再開した』って話なのよ。そんな訳無いじゃない。あのビル何年死んでると思うのよ。なのに営業再開したなら広告取って来いって言うのよ。何が広告よ。普通広告は営業か広報が取って来るもんでしょお? 記者に行かせるなんて絶対心霊現象とか体験させようって腹よ、あの廃墟マニアデスク! あたしは絶対イヤっ!」
「絵光ビルってナンですカー?」
金がカレーのスプーンを止めて訊ねた。
あ、知らないのか。結構有名な話だから何年もこの街に居れば聞く機会も多いと思うけど。そもそも中国人だし文化が違うから、そう言う話に今まで興味が向かなかったのかもしれない。
「あー、キムチは知らんのか。呪いのラブホだよ。それもひでえ曰く付きの。俺も花祭に来て三年だけど、大学の先輩とかから教えて貰ったからな」
「酷い曰く付きデスカ。興味有りますネ。フフフ」
「ぬふふふ。それはだな………今を遡る事十年前」
スカーンっ!
話し出そうとした浜路さんの顔にカラになった四本目がぶち当たる。早い。ペースが早い。もう一リットル以上空けている。一体この身体の何処に入るのだろう?
「うぬらーっ、食事時にする話では無いわ! 聞きたいならハマジの部屋でスナッフポルノでも見ながらやるがよいわあーっ!」
酔いが回りきり世紀末拳王風にスパルタンになるトモミさん。でも怪談話に怯える辺りちょっと可愛い人である。三十手前らしいけどな。
ピンポーン
何と言うタイミングか、チャイムが鳴った。
話が話で、タイミングがタイミングなので、四人が四人、ビクリと肩を震わせた。いや、まだ陽も落ちてないけどな。
(………誰だ?)
もうカレーをたかりに来るような人間はいない。家賃回収にはまだ余裕があるし、とすると新聞の勧誘か?
いや、もしや俺が今日休んだから課題プリントとかを誰かが持って来たのか?
恋愛SLGじゃあるまいし高校にもなってお見舞いと言う線は薄いと思う。
(待て待て。それって、まずくね?)
現在この部屋では病気の筈の本人が不在の状態でカレーパーティやってるんだぜ?
今の俺を説明するのも面倒だし、病状が重くて奥から出て来れないと言う言い訳もこの状態では無理だ。無意味に傷口が開いていく感覚。
ピンポーンピンポーンピンポーン
向こうには待つと言う選択肢が無いのか、無遠慮なチャイムが連続して鳴る。
と言うか連射状態。新聞勧誘ならもう少し好印象を与える鳴らし方をするから、これはもう同級生と言う線が強い。
(くっ、誰だ。そんな親切なお節介は)
途惑っているところで、今度はドンっ!と言う打撃音がドアの下方から響いた。
マジか? ドアを………蹴った? 誰だ、そんな礼儀知らずな事をしやがるのは。男友達でもそんな真似をする奴は居ない筈………いや、待て。もしや。
俺の脳裏に可能性は低そうだが心当たりが浮かぶ。
「ちょ、ちょっと待った!」
ようやく俺は飛びかかるようにしてドアに跳び付き、蹴破られる前にそれを開いた。
「遅いっ! ちゃんと出なさいよ!」
何と言う事だろう。不機嫌な表情を浮かべる遠城麗緒が、そこに居た。
………なぜ、ここに? だってまだ時間じゃないし。
「何で………ここに?」
俺の質問に、遠城はなぜかプイッと横を向いた。
「な、何でって。少しくらいなら荷物持ってあげるつもりで来たのよ。あ、あと、ついでだからあんたに出された課題プリントとか持ってきてあげたわ」
………おや? クラスが違う筈の遠城が俺の課題を、どうやって?
「ったく。アパートなんだから呼び鈴鳴らしたら三秒で出なさいよ。………あら? 何この臭い。カレーと………ビール? ちょっとあんた、一体何を」
疑問を感じて止まった俺を遠城が押しのけ、部屋の中を覗き込む。
待て、ちょっと待て。今はマズイ。かなりマズイ。
中に居るのは缶ビールを既に五本空けた女傑と大盛りカレーを貪るエロネタに餓えた大学生×二。
この状況に遠城投入は危険過ぎる。
「うおおおおおおおっ! 美少女キタァーアアアア」
「オオ! 清純で何となくツンでデレな旺気を感じますヨ?」
いや、どっちかと言うとヤン確定。ヤンキーでも病でもなく殺の方。
って言うか手遅れだった。子羊は狼の群れに飛び込んだ。
(………これは?)
(同じ階の皆さん)
(なんで居るの?)
(カレー喰ってる)
(………なんで、カレー?)
(冷蔵庫を空にする為に)
(それをお裾分けってわけ? 正気なの?)
(本当は遠城の家に持って行くつもりだった。でもカレーの臭いでバレて押しかけられた)
(あ、あたしの家に?)
(ああ。失敗した。煮込むだけにして味付けはあっちでやれば良かった)
つーか、今俺たちテレパシーで会話してます。昼は一方通行の命令だったのに凄い進歩。いや、むしろ進化。環境に適応した新しい能力と言う事か。
でも折角発動したニュータイプ能力なのに、話している内容が所帯じみてる。
「あれえ。あなた、確か花高の遠城さん?」
少し呂律の回らなくなった口調で春田さんが遠城を指差した。
なぜ知っている?
「え? あ、花祭タウンガイドの春田さん?」
こっちもか。この街ってやっぱり狭いのかもしれん。
「知っているのか?」
「ええ。前に表紙モデルをやった事があるから、その時に。でも海上君と同じアパートに住んでいたなんて」
遠城が言葉を止める。
たぶん、それは昨夜の事を考えていたのだろう。彼女は大胆過ぎる事を俺の家の前でやったのだから。知り合いに目撃されていたかもしれなかったのだ。
「あー、一年ぶりくらいだけどますます美少女に磨きかかったわねー。うはははは。ね、ね、今年もう一回モデルやらない? あの時の号はね、そりゃもう伝説級に売れたのよ~」
あ、さっき話していたやつか。でも納得。遠城がモデルやったなら売れる筈だ。って言うか、俺ファン倶楽部会員なのに今の今まで知りませんでしたよ?
「すみません。最近は忙しいので」
打って変わって口調が余所行きに変化した。
(切り替え早っ!)
(五月蝿いっ)
心が通じ合うのも考え物だ。争いが絶えないわけだよ宇宙世紀。
「そうよね~。二年生ともなれば花高は忙しいか~。あー残念っ」
「しっかし、とびきりの美少女が二人。是非ここで撮影会やりたいねえ~」
「もちろん水着ですネ」
「ビキニとハイレグはどっちが良い?」
「スリングショットかTバックですネ~」
神でも仏でも関聖帝君でもかまわん。誰かこのセクハラ星人どもに鉄槌を。それに水着? 絶対有り得ねえ。
「でも、なんでまた遠城さんが真也君の家に? 知り合いだったの?」
「え? あ、実は真也君今日休んだので課題のプリントとか持って来たんです」
「休み? んん~?」
春田さんが首を捻る。酔いが回っているのに脳はちゃんと働いている。
それはさながら麻薬をやりまくりながら世界最強の名探偵であるシャーロック・ホームズのごとく。
そう。まだ情報は繋がっていないのだ。脳内作戦会議再び勃発。
(この人たちにはしばらく病院でバイトって説明したんだ)
(バイト? まあ間違ってないか。でもなんでまた)
(だって俺がいないのに女がカレー作ってるんだぞ? ちなみに、俺は従姉妹設定だから)
(あ、なるほどね。オッケー。じゃあその線で)
「遠城さん、ええと、真也は生活費を稼ぐ為バイトに行ってるんです、よ?」
「あ、あらそうなの。じゃあプリントどうしようかな?」
「私が持って行きますよ。ほら、荷物纏めているし」
「それならそうして貰おうかな」
咄嗟に芝居を打つ俺たち。我ながら三文よりも安い芝居。遠城も冷や汗を浮かべている。
「何だか仲良さそう」
いや、それは無いです。ええ。
男二人はと言えば俺たちの掛け合いを見てヤンヤヤンヤと声援を送っている。宴の余興にしか見えてないのかもしれん。
「でも今日は驚きまくりだな。真也にこんな超絶美少女の従姉妹がいるかと思ったら、こんな清純系超美少女が訪ねて来るんだもんな」
「しかし、ここに居ないというのがカレの不運と言うか何と言うカ」
「そうねー。青春時代の擦れ違いかー。あたしも覚えあるわー」
「春田さんは拳の擦れ違いって感じですけどね」
「うぬは黙っているがよいわ!」
「だらぼしゃっ!」
余計な事を言った浜路さんが見事な剛掌破を喰らって吹っ飛んだ。合掌。
「席も空いたし、折角だから遠城さんもカレー食べてったら?」
何食わぬ顔で空いた席を勧める拳王トモミ様。
「え、でもまだ夕方だし」
「あと一人分くらいはあるし、今の時期は食べ切った方が良いからね」
んーと、それはたぶん俺の台詞なのだが。
遠城はちらりと俺の方を見て、すぐに社交的な声で答えた。
「それじゃあ頂きます」
………何気に凄い事かもしれん。遠城が俺の家で俺の作ったカレー喰ってんだから。
とても一昨日までは信じられない光景。
もっとも、幸福感など何処にも無いけど。
4 夜間特訓
人気の無い夜の道を走る。男の時とは比べ物にならない速力は闇の中の景色が吹っ飛んでいくようだった。
………なんじゃ、このスピードは? 全速力の我が愛車よりも速い。
「約二キロ往復を三分弱、か。百メートル世界記録のペースって事ね」
「人類の限界を軽く超えてるぞ?」
それも軽く流しているだけだ。全力で走ったらどうなるか、本人である俺にも分からない。
「異常は無いでしょ?」
「まあな。疲れも無い」
遠城の病院の側で、俺は春に行なう体力測定みたいな事をやらされていた。
が、そのどれもが呆れた記録を叩き出した。オリンピックに出る気も起きなくなるような記録だ。垂直跳び十メートルとか、ほとんど忍者。
ひょっとすると水泳は着衣のままでも世界記録更新出来るかもしれない。
砲丸投げはハンドボール投げと同じ要領で百メートル越え。
握力はその砲丸を指の跡で変型させられる。両手なら多分潰せる。
俺は完全にアニメやゲームの住人になっていた。
「これくらいのスペックがなきゃ戦いなんて出来ないわよ」
「………いや、あのさ。走ったり跳んだりで勝負するんじゃないよな、やっぱり」
「当然でしょ。今のは基礎スペックの確認だもの。ある意味、これからが本番よ」
マジですか。と言うか、やっぱり決闘ってのはガチで殺り合うって事か。
「まず、あんたがどう言う状態なのか説明するわ。その方が理解も進んで馴染むのも早くなるかもしれない」
「馴染む、ってのはどう言う事だ?」
「あんたに施した術式の事よ。あんたの才能は『躯体』と言って、肉体改造系の術式に馴染み易く引き出せる力も大きいと言う能力があるの。あんたの場合、それは桁外れの適応性を持つ、おそろしく特殊で稀少な才能よ」
「レアって言われてもなあ」
それが殺されてしまう原因なのだから有り難くない事この上無い。
「外道専門の人買いの手に渡ったら、億の値が付いてもおかしくないくらいよ。ホント、ラッキーだったわね。タダだもん」
それは俺じゃなくて遠城が、だな。
「………なんで殺されなきゃならなかったんだ? 穏便な方法だってあるだろう」
「あたしの家の技術は死体を相手にする方だから。死体にしないと使えないの」
………ひでえ話だ。自己中もここまで来ると人類の敵じゃないのか。
まあ突き詰めれば犠牲とは大抵自己中に巻き込まれた結果なのかもしれない。つまりそれこそが人類の真実。
世界は自己中によって進歩し、自己中によって滅ぶ。
「で、あんたにはあたしの家の現時点で最高の秘術が施されている。それが今、あんたの体を変化させていると言うわけ」
「俺が女になってるって事か?」
「そう。戦闘用使い魔の性質の問題よ。そもそも肉弾戦なら僵尸みたいに優れた使い魔は多い。でも、それはほとんどが対人。それも一般人用に近いの」
「一般人、ねえ。わざわざ使うものなのか」
「現代では一般人向けじゃ費用対効果は出ないかもしれないわね。で、対魔術師を想定した使い魔となれば、当然対魔術能力が必要になる。でもそれは世界中の魔術系統の中でも奥義中の奥義なわけ。ソロモン王伝説なんかその典型よ。ソロモン自身には強大な能力は無いけれど、彼は能力を特化した七十二の魔神を使役して力を得た。召喚魔法の基本理念よね」
「って事は、俺にも何か能力があるって事か? まさか『女になる能力』じゃないよな」
俺も男の子だ。漫画やアニメのスーパーパワーや必殺技に憧れた時代がある。
しかし、『女になる能力』だとしたらガッカリだ。いや、使えなくはないだろうが、実戦向きではないってこと。
「違うわよ。能力ってのはあくまでもあんたの意思で制御している筈だから。今あんたが女なのは術式に影響を受けているからだけよ。………たぶん」
………なんだか不安になる尻すぼみな言葉が聴こえたけど気のせいですよね。
測定で気付いたんだが、今は妙に夜目が利くし集中すると聴覚も鋭くなるんだけど。
「……うちの魔術は流れが特殊でね。昔から伝わる一派じゃなく、色々な系統から関係ある部分を抜き取って構成される陰陽道の亜流なの。死体関連に特化した魔術体系と言っても良いわ。で、影響を強く受けた物の一つに中国道教秘術の流れを組む《英傑転生法》と言う物があるの。
中華王朝は長い歴史の中で多くの王朝が建国されては崩壊する歴史を繰り返してきた。国が倒れる時は必ず乱世が生まれ、戦乱の中で多くの英雄豪傑たちが生まれたの。そして、繰り返される乱世の歴史を憂えた道教の導師たちは過去の豪傑を蘇らせる秘術を生み出した。それが《英傑転生法》。でも、その大部分は伝説の中で僅かに語られるのみ。
ところが、あたしの家にはどう言う流れか知らないけれどその資料が残っていたらしくて、それを再現する事が代々一族研究の大きな課題だった。で、それをあたしの曽祖父に当たる人が成功に漕ぎ付けたの。成功って言っても完全再現じゃなくて色々混ぜ合わせた遠城流なんだけどね。ここまで説明すればピンと来た?」
何とか。昨日の夕方まで一般人だった俺でも理解可能なマジカル話だった。
「つーまーりー、俺が今、こうして女の姿をしているのは、なんらかの英雄が再現されているから、と言う事なのか?」
「正解。もっとも完全な再現じゃない。記憶や人格のコピーなんかも出来ない。出来るのは身体能力の再現とか魔術的な能力とかの情報再現なんだけど。強力な力を持っている者や古い存在を映し出すのも難しいの。力の強さの再現は躯体の才能次第だけど、情報が少なかったり矛盾を抱えたりする神話級の古の者は厳しいわね」
「………なあ、なんで女なんだ? 男だったら問題は………別人の姿になっちまうならあんまり変わらないけど、それでも性別変わるよりはマシだと思うんだ。それを、わざわざ女にする理由が分からないんだが。って言うか、そもそも女の英雄って何? 巴御前とかその辺か?」
俺のゲーム知識だと、洋の東西に関わらず男に比べて女性の英雄は割合的に見ても非常に少ない。神様とか神話時代とかだとまた別だけどな。基本的に英雄が生まれる戦争は男の世界だ。
「………え? ええと、じゃ、ジャンヌ・ダルク、とか?」
なぜか遠城の視線が横斜め上に泳いだ。いつも自信に溢れていそうな彼女にしては非常に珍しい。そして分かり易い動揺だった。
「何で疑問形なんだよ。遠城がやったんだろうが! あと黒髪のジャンヌ・ダルクが何処にいるんだよ!」
「う。………も、もう、分かったわよ! ちゃんと話すから聞きなさいよっ!」
………と言う事は何か問題があるんだな? 本人でも把握していないような問題がっ!
「………ふう。この秘術を行なう為には大まかに分けて材料が二つ要るの」
「一つは………俺みたいなのか」
「そ。躯体は手に入れるのが難しい。魔術師のオークションに出るのは安くて億。買えるような値段じゃない。あんたほどの器だと五億でも買い手が現れると思うわ。仕方無いから、あたしは何とか他の物で代用出来ないかどうか試してみたけど、結局時間の無駄だった。ちなみに昨夜あんたが見た首はその材料だったんだけどね」
「………あ。………いや、もしかしてアレ、生首?」
昨夜の事。生首を両手で掲げる遠城の姿が網膜に蘇る。………あ、なんか鳥肌。
「アレ、作り物よ。ゴーレムって聞いた事ある? アレは本物とは随分違うけど、要は魔術で動く人形式の使い魔のパーツなの。理論上は間違ってなかったんだけど、とてもじゃないけど間に合わない結果だったわね」
………あれ、作り物だったのか。そうか。結構リアルだったけど。
でもあの状況じゃ勘違いしても仕方無いよな。だって俺、一般人だったもん。
「って事はもう一つの方が女になった原因か?」
「そう。もう一つは術式の核よ。言ってみれば、あんたの才能はゲームハード。それ単体でも意味はあるけど遊べない。真価を発揮するのは専用のソフトを入れてから。そのソフトに当たる物ね」
分かり易い喩えだが、俺の場合一度入れたら取り出せないんじゃなかろうか。
「………で、その術式核なんだけど………実はあんたに使ったのはあたしの作った物じゃないのよね」
「………まさか、通販とかか?」
ギロリ、と遠城の目が煌くナイフのような危険な意志を見せた。………怒ってる? 何か地雷でも踏んだか。一応小粋なジョークのつもりだったんですけど。
「うちの秘伝の結晶が通販で買えてたまるもんですかっ! ………全く失礼ね。数代ぶりの天才と言われた、あたしのお父様が残した術式核よ。しっかりエージングまで行なわれた、取って置きなのよ? そりゃあ術式核はあたしも作れるけれど、今の状況じゃとても同じレベルの物は無理。それで、あんたと言う最高級の躯体を得た。組み合わせるのが当然じゃない。だからあたしも実は術式核に何の情報が入っているかは知らないのよね」
………インチキ通販よりも性質悪くねえすか、それ。変な物が入っていたらどうするんだ。
「でも、あんたの馴染み具合からして能力開花も早いと思うし、魔術型よりも肉弾型だと思うから、もう暫く身体を動かしてみなさい。今度は、そうね。必殺技とかイメージしてみて」
「必殺技って、なんだ?」
「やっぱり光線とか光線とか光線とか、かしらね」
………インフレバトル漫画か。実際に出来れば便利そうだけどな。
ところで光線技を出せる女英雄って誰なのか教えて下さい。男なら諸葛孔明と言う手もあるが。
「それじゃあ、あと二時間くらい動いてなさい。あたしはちょっと調べる事があるから」
遠城はそう言うと家の方に歩いて行く。ん? 調べる事って、出かける事じゃないのか。
「おーい、街の方に行くなら俺も一緒の方が良くないか?」
「街? 行かないわよ。調べるのはインターネットの方」
そう言えばパソコン繋いでるって言ってたな。
「ネット? 宿題か?」
「まさか。魔術師用のサイトがあるの。それであいつの情報を拾ってくるわ。それまであんたはこの周辺で身体を動かして能力を高めていなさい」
魔術師用のネットサイトか。
まあ、悪魔をパソコンで召喚するアイデアから早二十年以上。二十一世紀の魔術師がネットで情報交換していてもなんら不思議ではない。梟で手紙を遣り取りするよりは速そうだしな。
「でも、必殺技って言われてもなあ」
自分が何者なのかも分からないのに、必殺技なんぞピコーンと閃くものだろうか。
*
部屋の中にあるパソコンを起動させ、魔術師の互助組合のホームページに繋ぐ。
二十一世紀は魔術師も情報を高速化させる時代。
ま、ぶっちゃけ、これが一番早くて効率が良いって事。
ちなみに一般人が普通にここに行こうとすると、絶対に失敗する。ハッカー撃退率百パーセントは伊達じゃない。
それどころか行く気も起こしてはならない。具体的に言うと侵入者に対してはディスプレイを通して七十四通りの呪詛が掛かる仕組みになっている。
知らないで入り込もうとするとこの呪詛プログラムに引っかかって死んじゃう事になる。マジで。
神秘を探ろうとする者に対する報酬はデッド・オア・アライブと言うのは昔からの伝統と言える。
まあ一流ハッカーでもここの存在を知る事はほぼ不可能。どっかの国のサイバー軍レベルなら存在くらいは知るだろうけれど、ここに手を出せばヤバイ事は暗黙の了解になってる。
実際表に情報が出ていないだけで、以前某大国のサイバー軍が専用ルームで集団死した事件もある。
と言っても、ここには別に魔術の秘奥義が載っている訳じゃない。
ここの最重要な物は情報。稀少物の協会公認オークション情報から要注意人物の公開情報まで、その情報用途は幅広く、あたしみたいな零細には有り難い物ばかりだ。
中でも零細にとって重要なのは要注意人物リスト。魔術師の外道たちの情報だ。
本来魔術師は大きく分けて二通りの生き方を選択する。
一つは霊地に入り自分の研究を行なう者たち。言わば伝統的な本道がこれ。
あたしみたいな小規模霊地にしがみ付く者から、国家に従属する世界レベルの霊地に集う魔道の者たちまで、規模はピンキリだ。
ところで、この業界では霊地を持って初めて一人前と扱われる風習がある。しかし、当然肝心の霊地には数に限りがある。
もちろん地球上にはまだ多くの未発見スポットがあると言えばあるけれど、その殆どが海の底。既存の霊地はほぼ全てが人の手で管理されている。
その上、伝統的な魔術師の大半が血脈重視だから、天変地異で島が出来たりでもしない限り新しい物を得るのは不可能に近い。
中には公海上の無人島を買い付けて魔術的な開発をする剛の者もいるらしいけど、さすが難易度が高過ぎ。
どちらかと言えば生きて行くだけで精一杯なのだ。
そこで、霊地を得られない者が選ぶ選択肢に、『入門』と言う物がある。大きな霊地を管理しているのは大抵大きな宗教集団か名の通った魔術集団だから、そこに弟子入りして末席を得る方法だ。
ただし、この場合はその集団に合わない研究なんかは出来ないと言うデメリットもある。あたしの家はその典型で、研究内容が大概の派閥のタブー部分なので協力するメリットすら無い。
もう一つが研究教育者の道だ。
数こそ少ないけれど、世界には古くから魔術を学び研究する国家や宗教から独立した教育機関がある。そう言った機関は当然の事ながら充分な霊地を保有しており、そこで教鞭を取りつつ自身の研究を行なうのだ。当然教育者も兼ねる為、かなり狭き門だけど研究に関しては束縛が少ないと言うメリットがある。
でも。
人間が多種多様なように、こう言った集団協調のルールにも従わない者は少なくない。
己の魔術を捨てる事を選ばず、一個の魔術師として生き続ける事を選んだ者。
本道から堕ちて尚手段を選ばず己の研鑚を続ける者。
総じて外道と呼ばれる者たちだ。
ある者は独自の研究を邁進する為。
またある者は自分の才能に酔い他者を蔑む故。
そしてある者は、その狂気故に集団から追放されて。
彼らのほとんどは、自らの安住の地を求め世界を彷徨っている。日々の糧を得る為に暗黒街の中で泥を啜り、時には犯罪に加担し、虎視眈々と誰かの霊地を狙っている。
零細はそう言った連中から狙われ易い。だから情報が命なのだ。
あいつもその一人。
あたしを殺す気満々で顔を出した。あれはタイプB。自分の才能に酔いしれて近視眼的な状態。出来れば一生関わりたくないタイプ。
「………アンドレアル・レミエールソン・ワークァメイア、っと。………あ、やっぱりいたいた。見覚えあったのよね。ええと、なになに?」
*
「魔術師として名高いナポリ大公の流れを組む名門ペロー伯爵家の先代の三男。現在、家は長男が引き継いでいる。プラハ学院を三席で卒業。研究者として残る事を希望するも一年の研修後、席の取得を認められず野に下る。現在まで問題行動七件。危険度B1」
「三席って事は成績第三位って事か。それって凄いんじゃないか?」
プロフィールの部分を聴いた彼はそう呟いた。
プリントアウトした資料を持って戻ると、彼は如何にも光線技を出しますと言うポーズを連続して取っていた。取り敢えず初代から最近の奴まで。アイスラッガーは光線技ではないと思うけど。あと一兆度火球は怪獣の技だ。
………その様子を見る限りではやっぱり駄目らしい。
それを続けさせたまま、あたしは隣で資料の中身を読み上げた。
「物理学の教授と精神医学の教授はどっちが凄い?」
「へ? そんなもん比べられる訳がないだろ」
「そ。魔術だって同じ。精霊魔術を研究する者もいれば、ソロモン派の召喚術を研究する者もいる。宇宙の彼方に天使が居ると信じて交信を試みる者もいれば、地獄の底に居るらしい大魔王と話をしようとする者もいる。その連中に初期段階の優劣をどうやって付ける?」
「ええと、どうするんだろうな」
必殺技アニメ編になったらしく、闘気を操る剛の拳を構えつつ頭を捻っている。
「一つは基礎能力。もう一つは基礎知識。三つ目は実践結果。それ以降の研究は細分化すれば個人の領域まで行っちゃう訳だから比べられないのよ。で、基礎能力と基礎知識で得た三位がどれほどのものなんだか? 侮るつもりは無いわ。でも、学院に残る事が出来ない時点で総合評価は下がるわね。基礎は出来ても発展性が無いと判断されたか、あるいは性格が悪いか。でも、ちょっと気になるのはプラハ出身ってとこかしらね」
「プラハ?」
両手で気を放つ世界的にも超有名な必殺技ポーズを決めながら彼は訊ねる。
そうか、プラハと言われても一般人の彼じゃピンと来ないか。そりゃそうか。
「プラハ学院は神聖ローマ帝国時代に錬金術の都と呼ばれていた頃から続く超名門で、またの名を『プラハ城』。ナチス・オカルト部隊の再三の協力要請にも共産主義の弾圧にも屈しなかった、その名に恥じない質実剛健の鉄骨学士集団。今でも業界内じゃ錬金術の三大学院に数えられているんだけれど」
欧州の錬金術研究の中心であると言ってもいい。あと二つはアラブ圏なのでヨーロッパ系の錬金術師志望者は大概そっちに流れるらしい。
「それがどうかしたのか?」
「こいつの出身のペロー伯爵家はどっちかと言えば実践の精霊魔術家系な筈なのよ。それがわざわざ宗旨の異なるプラハに入ってるのは何でなのかって事。家を継いだ長男はともかく、次男の方もちゃんと精霊系名門の倫敦に行ってるのに」
練られた血脈と言うのは強力である反面、能力が特化し他のジャンルに手を出しにくい事になる。その分、家を引き継ぐ際はキープが出来易いので困らない。
結局、他の系統の魔術をカバー出来るかどうかは結局本人の才能次第って事になるけど。
「確かに実験を中心とする錬金術は比較的新たに学び易い部分もある。でも、才能を無視してまでわざわざやる事じゃないと思うのよね」
魔術を志す者なんて大なり小なり精神破綻者ばかりだ。特に研究畑なんて大抵の事なら受け入れるし認める気風がある。
そう言う場所から厄介払いを受けるとなると、色々な意味でとんでもない相手らしい。性格か、才能かはまだ分からない。服装からして前者だと思うけど。
「でも、出身が分かるなら相手の手も読めるんじゃないのか?」
彼は小宇宙を感じながら必殺拳を構えている。その姿はまるで冬の空を飛ぶ白鳥。
「世界を流浪している時間の方が長いし、どんなネタを仕込んでいるかは読めないわ。でもこいつ、プラハを追い出された後あちこちを流浪しながら色々な所に勝負を吹っ掛けているのよ。ユーラシア大陸を西から東へ。ご苦労さんって感じよね。だから要注意者リストに入っている。でも、それって逆を言えば今まで連敗している奴って事だもの。出来の悪い僵尸を使っている辺り、たぶん切り札も大した事は無いわね」
思い付く限りのアニメ編が終わったらしく、今度は格闘ゲーム編に移った。
まずは地面を走らせるダブルな烈風。と思ったら、何か乱舞を始める。アイム・ノット・ボーイ?
速い速い。軸がぶれない。マッハ突きとか普通に出してるんじゃないだろうか。
「油断は出来ないと思うけどな。向こうだって勝算があるからわざわざ日本まで来て勝負を挑んできたんだろうし」
それはそうだ。
僵尸を買ったと言う事から考えて、直前に東南アジア圏に居た事は間違い無い。
お隣みたいなものだけれど、地続きではないから僵尸を持ち込むのも一苦労だった筈。
正直、それ以上の大物を持ち込んだとは考えにくい気はする。向こうも間抜けじゃないだろうから、この街に何を運び込んだかは悟られないようにしていると思うけど。
「油断なんてしないわよ。出来るほどこっちに手札は無いし。でも絶対勝つんだから。あたしは、誰にもこの場所を渡さない」
そんな覚悟、とっくの昔から完了している。事が起きるのが遅過ぎたくらいだ。
………あの日。自分は魔女であると自覚した時から。
この場所はあたしにとって全てなのだから。
*
「………全く。ロアナプラのあの海賊モドキの運び屋どもときたらふざけている。何が重量過特別料金だよ。ハイエナよりも意地汚いドブネズミどもめ。地獄でも金を漁っていろ」
廃墟に男のぶつくさ言う言葉が響く。
暗闇の中、壊れかけた建物の群れが作り出す陰影のコントラスト。
そこはどこか朽ちた町を思わせる。
そこに一人在る極彩色の赤は奇妙に浮いていた。
置き去りにされた機械。
雨風に晒され壊れるままの塗炭壁が巻かれた安普請の工場。
剥き出しの鉄骨は錆に埋もれ、乗り捨てられた車が転がされ、廃棄物すら放置されている。
あちこちに積み上げられた古タイヤは不法投棄の物だった。処分に困った連中が捨てて行ったのだろう。
一昔前なら鉄屑も財産だったが、今では解体して運ぶ方が高く付くから誰も手を付けない。
クーラーや冷蔵庫の不法投棄は未だ後を断たず、環境が悪過ぎてホームレスすら近寄らない。
《堕ちた霊地》
スポットと呼ばれる霊地はその実、一塊ではない。比較的大きな場所の周囲に飛び地のようにばらけている事が圧倒的に多い。
規模が小さいとは言え、そう言った霊脈の恩恵を受ける場所は管理する知識が無くともある程度繁栄する。しかし、知識が無い以上そう言った場所の繁栄は長続きしない。
そもそも、盛者必衰は世の流れである。
風水が得意とする地相術は霊脈の力を利用して上げ幅を大きくし、下降を最小限に食い止める。
しかし無限の成長は有り得ない。必ず下降の時が来る。知識を持って管理された江戸ですら幾度となく落ち込みがあった。管理されていたからこそ再び上昇発展を得る事が出来たのだ。
だが、知識が無ければ下降を最低限に押さえる事も出来ず、復帰させる事も出来ない。
結果、こう言う場所が現れる。
好景気に乗って爆発的に膨れ上がり、景気の後退であっと言う間に沈没する。
この廃墟残骸は、まさに陸の上の難破船だった。
こうなった場所は霊地でありながら不浄を抱え込む。祓う者がいないのだから当然だ。
廃墟に怪談が多いのも雰囲気だけではないのだ。そこには確実に悪影響を与えるモノが澱んでいる。
「………それにこの国の流通もそうだよ。なんで荷物の運搬があんなに高く付くんだ。高速道路は有料で制限速度があって、貨物列車は高さだ重さだと融通が利かない。僕を馬鹿にしているのか。川があるなら水路が使えると思ったらあっちこっちコンクリートで固めまくるはダムで水を止めるわ。この国の連中は本気で頭がおかしいんじゃないか?」
彼の後ろには巨大なコンテナが置かれていた。コンテナと言うが、貨物列車の一両分はある。これを運べと言われたら、大概の業者が料金を計算するよりも先に頭を抱えるだろう。
「………ま、コンボイの運転手は気の良い男だったし、途中で食べた豚骨ラーメンは旨かったけどな。………さて、中味に異常は無いな」
念入りに検査をする。決闘に間に合わなければ何の意味も無い。わざわざ運び込んだコレは、彼のこれまでの魔術師としての活動の集大成でもある。
「………ふん。あの女も良い話を寄越してくれたものだ。半端者のネットワークと言えど侮れないな。あんな小娘にこの僕が負ける訳が無い。僕は神に到る天才なんだからな。ひゃははは」
コンテナに男の声が響く。
「へくしっ………それにしても寒いな。ホテル、この時間に戻れるだろうか?」
5 神の言葉を発するモノ
どうも俺には光線技は無理らしいと結論が着いたのは夜明け頃だった。
幼稚園児じゃあるまいし、もう少し早く気が付けと自分に言いたい。まあ打撃系ならそこそこいけそうな手応えは掴めたので、まるっきり無駄と言う訳ではなかったが。
「………もう少し冷静に考えた方が良かったんじゃないか?」
「………うるさいわね。あたしだって残念よ。父さんの趣味とは違うかと思ったけど」
「………あのな。こう言う事を趣味で決めるってのはどうよ?」
こんなに虚しい朝日は初めてだ。
あ、隣に遠城が居るから一応共に朝を迎えたって事になるのか。今の俺は女だけど。
うわ、当然の事ながら嬉しくも何ともない。
「武器とかは? 何か出せそう?」
出せそう? と訊かれてもな。身体が良く動く、ぐらいしか分からん。
ちなみに炎とか氷とか電撃とかも駄目。拳圧で五メートル蝋燭消しくらいは出来るかもしれないけど。
「………ふう。って事は、まだ馴染みきっていないのかも」
女になってしまって、尚まだ先があると言うのか。一般人の俺には想像も付かないが。
「まさか猫の耳が生えたりしないだろうな?」
「………獣人か。有りかもね。身体能力が高いってのもピッタリだし」
恐ろしい事に、彼女は俺の冗談を受け入れた。
「獣人の英雄って、誰? と言うか何?」
しかも女。
「英雄じゃなく怪談系の存在かも。神話級とまではいかなくても、言い伝えられていると言う点では同じだし、情報としても結構纏まっている。世界には結構ケモノ系っているわよ? ヨーロッパなら何と言っても狼だし、男だけじゃなくて女の狼人間の話もある。日本にだって猫又に天狗、鵺とか」
百歩譲って天狗は有りかもしれないが、鵺は人型ではなく合成獣だと思います。
「天狗と言えば源九郎判官義経なんてどうかしら?」
「源義経は男だろうが」
「女みたいな美形だった話もあるわよ」
それは後世の創作だ。尚、義経には正妻含め二十人以上女がいたそうだ。それで本人が女では大問題だろう。
「他にはそうね………あ、ほら、もしかして、白面金毛九尾妖狐、玉藻前とか?」
そりゃ日本史上八俣大蛇と並ぶG級モンスターじゃねえか。九尾の狐と言えば妖怪と言うよりも邪神の類だ。幾らなんでもさすがに無理だろ。
と言うかですね、女の身体ですら持て余して肩の荷が重いのに、何が悲しくてこの世全ての悪の権化、大暗黒妖獣邪神にならねばならないのか。マジ、勘弁して下さい。
「いいじゃない。どうせ人間じゃないんだし。狐耳が生えようが尻尾が九本生えようが。むしろカッコいいんじゃない?」
九尾の妖狐で決定事項かよ。本っ当に勘弁して下さい。
「………狐かー。でも玉藻前が武闘派なんて話は聞いた事無いぞ」
「そう? 身体ポテンシャルは高いに決まってると思うけど」
昨今の萌えブーム。動物耳妖怪の流れからか玉藻前は存在がマイナー級からそこそこメジャー級に昇格して見直されてはいるが。
変身魔法少女がファイナルファイトをする昨今、玉藻前が肉弾戦をやっても確かに不思議は無いのかも。
その玉藻前の武器と言えば妖術と………色気? 確か権力者に取り入ってとかそう言うキャラの筈。肉体的には合格ラインかもしれないけど。
「うむう。他には、そうねえ………あー、何だかボォーッとして考えが纏まんない。こりゃ駄目かな。もう寝よ。あんたも体を休めときなさい。昨日と同じとこ使っていいから」
「学校は?」
「休む」
そう言うと、遠城はフラフラと家に戻って行った。
………そっか、何だかんだ言って夜通し訓練に付き合って貰った訳だ。
(そうなると………俺も休まなきゃ駄目だな、学校。どの道この姿じゃ行けねえけど)
仕方無い。熱が上がって身動きも出来ないと言おう。
あと、感染ったらマズイから家には絶対に来ないようにと釘を刺しておかないと。
*
それで三時間後にきっかり目覚めてしまうのは俺の習性の為せる業なのか。もっとも、身体の調子は頗る良い。回復が早いとはこう言う事なのか。
昨日は朝起きて女の身体になっていた。
今朝起きたら耳が生えて尻尾が生えているかもしれんと内心思ってはいたが、鏡の中に映っているのは昨日と変わらないスーパーモデル級綺麗系美少女の俺。
いや、モデルになるには身長がちょい足りないからその形容は少し違うか。
二日連続で欠席の旨を電話で担任に連絡し、何とか納得させて一息つく。
昨日より重病に且つ疑いを持たれず意志を伝えると言う離れ業に疲れ果てた。
この演技力、冗談抜きで声優になれるかもしれない。
一方、八時を回っても遠城は起きて来ない。
(あいつ、欠席の連絡はどうするんだ?)
自室でケータイからかけるんだろうか。
八時半を回っても寝坊の御主人様は起きて来ない。本気で学校はパスらしい。
俺もそれに倣って二度寝する事にした。
や、ほら、身体を休めるのが今の所最後の命令なのだし? 迂闊に外に出かけてまたトラブルを起こすのもイヤだ。精神的に疲れる。
結局、遠城が起きたのは夕方五時。俺が三度寝を検討しているところだった。
「おお、起きたな」
「………耳が無い」
開口一番にそれかね。この時間でまだ寝惚けてんのか。あと埴輪柄パジャマは昨日とはプリントされている埴輪のデザインが違っている。昨日のはポージングしたデザインだったが、今日のは七支刀を持っていた。どうも『HANIWA』と言うシリーズ物らしい。
それから簡単な食事を作る事になった。
と言っても俺は何も手を出さなかった。出せなかった、と言うのが正しい。何しろ人の家であり、どこに何があるのか分からない以上、でしゃばる理由は無い。メニューは簡単なミックスサンドイッチと謎のミックス野菜ジュース。
作業中ぶつぶつ言っていた遠城の向かいに座る。いや、皿が置かれた席だから別に座っても良いんだよな?
………と言うか、手料理って事になるのか、これ? 遠城の手料理を喰った男って、もしかして俺が初めてなんじゃないだろうか。家庭科を除いて。
「………べ、別にカレーの借りとかそんな事考えてないわよ。………何? 何か文句有る?」
「あ、いや。このジュースがちょっと気になってな。中味、何?」
野菜ジュース特有の赤系の濁った色をしていてトロミもある。トマト辺りは確実に入っているようだ。
「トマトとアロエベラよ」
「アロエ? アロエって、あれか、火傷に使う植木の」
「それはたぶんキダチアロエ。アロエベラは有史人類最古の薬草にして地上最高の健康自然食品よ。すごく身体に良いの」
「………魔女が健康食品ねえ」
魔女って言ったらどうしても大釜でドロドロとした怪しい物を掻き混ぜるイメージがある。遠城からそう言うイメージを引き出しにくいのはともかく。
「あら、魔女の基本は薬草術よ。アロエベラなんて基本中の基本。古代の魔術書にも書かれているって代物よ。レシピによっては万能薬の材料にも挙がってる。もっとも、日本のスーパーで売っているゼリーとかヨーグルトじゃ栄養素が無くてほとんどダメだけどね」
と言いながら、遠城は自分の分のコップを空けた。いい飲みっぷり。
俺も試しにと思いながら飲んでみるとドロリとした見た目に反して、野菜ジュース特有のクセが全然無くて飲み易い。
ところで、遠城曰く一度死んで人外になった俺に、果たして健康食品にどれほど効果があるのか。
むしろダメージとか出たりしないだろうか? こう、ゾンビにケアルみたいな感じで。
「一応訊いておくけど、昨日に比べて何か変化はあった?」
「残念ながら。身体の調子はかなり良いみたいだけどな」
「って事は、身体能力でやるしかないか。何とかなればいいけど」
不安が無いと言えば嘘になる。
今なら喩え世界最強の格闘技チャンプが出てこようと日本最強の哺乳類であるヒグマと相対しようと百パーセント勝つ自信がある。
だが敵は未知数どころか何をやってくるか想像も付かない相手なのだ。
「武器とかは無いのか? 俺が使えそうで効果があるような。魔剣とか妖刀とか」
「無いわ。ひょっとしたら裏の蔵にあるかもしれないけど、前にあたしが三日がかりで見た限りじゃそれらしい物は無かったわね」
『蔵』と言うのが遠城家の年代と格を感じさせる。さりげなく名家発言か。
「相手の手は予想できるのか?」
「錬金術のメジャーって言ったらやっぱりホムンクルスよ。人造生命体ね」
「人間型か?」
「まさか。ホムンクルスはクローンよりも扱いが難しいの。そこまで出来る奴なら学院から追い出されないわよ。きっと戦闘用に特化したモンスターみたいなやつじゃないかしら」
人型ですらない可能性があるのか。うわー、遭いたくねえ。
「それでも、デカくても人間サイズってところでしょ。ホムンクルスの欠点は生命体であるが故に常に栄養を補給する必要がある事。連れ歩くにしても作業を行なうにしても、あいつの境遇じゃ設備に限界はあるだろうし」
喩えるなら大型犬は強力だが、飼う場所も連れ歩ける場所も限られて餌代もかかるって言う事か。
「多分それに錬金術で作った色々なアイテムを内蔵、もしくは外装。あとはせいぜい自律換装が出来るかどうかってところかしら。戦う場所に廃工場を選んだのも、予め色々隠しておけるからだと思う。補給アイテムとか罠とか」
「罠? そうか、罠を張る為に時間を取ったのか」
「そー言うの好きそうだったし。追い込まれなきゃいいだけの話よ」
「………こっちは物理攻撃しか手が無いからな。相手がそう言う防御法を持ってたら厄介だぞ」
と言うか、そうなった場合勝ち目が無い。だって俺、他に何も出来ないし。
「物理防御は当然施してくるだろうけど、完全物理無効なんてエンチャントは無理。そうね。現実的には鋼鉄の盾が構えられているくらいよ。それも常に消耗する訳だからね」
鋼鉄の盾。何とかなりそうな、微妙な所だ。それを殴る俺の立場的に。
「使い魔だけで戦う場合、基本的に術者が予め魔術をかけておくしかないからよ。ホムンクルス自身が魔術を使えるなら話は別だけれど、そこまでの物を持ってるとは思えない。それに、魔力を与えるならともかく使い魔を通して術者が自分の魔術を使わせるなんて超高等技術、と言うかそれマリオネット系の最高奥義よ。世界で十人といないと思う。第一、そこまでの技能を持っていて今まで負け通しって、ただの阿呆じゃない」
「特殊なアイテムを装備してるって事は無いのか?」
「技術的には同じよ。半永久的に魔術効果のあるアイテムはあるけれど、そう言う物を造れるのは名人クラス。どこからか盗んで来たとしてもホムンクルスに搭載するのは調整が難しいと思うわ。オン・オフの調整とか道具を選んで使わせるとか、かなり大変なんだもの。
はっきり言うと、ロボット玩具より賢いって有り得ないわよ? 集積回路より優れた魔術ってまず無いから。だから、アイテムが搭載されていても基本は使い捨てよ。まあ使い捨ての場合、威力だけはある筈だけど。とにかく、使い魔のポテンシャルとしてはあんたの方が絶対に上だと断言するわ」
慰めにも応援にもなってない気がする。
「本体が使い捨て、ってオチはねえよな?」
「特攻自爆専門? なるほど。確かに有り得なくはないけど。一応注意はしておいて。特に相手が複数だった時は要注意ね」
不安は幾らでもあるが、とにかく出たとこ勝負って訳だ。相手次第では長期戦も覚悟しなくてはならないだろう。
出たとこ勝負と言っても、今までの人生と違う点が一つある。俺の命が懸かっているって事だ。
人間、人生の中で文字通り命懸けの戦いって何度経験するんだろうな。
そう言う意味では、俺の人生は充実し始めているのかもしれん。
こんな充実なんて要りませんけど。
*
夜が更ける。それなりの喧騒に包まれる街から外れ、目的の場所に移動する。
制服姿のあたしと、男物と呼ぶのもアレな、Tシャツ・ジーパンルックの彼。
結構見た目怪しい二人組だけど、人避けの術を掛けているから呼び止められるような事は無かった。
出発前、折角のスタイルなんだしもう少し考えてもいいと思うと言ったら、彼は心底嫌そうな顔をして答えた。
「戦闘で汚れても破れてもいいような服にファッション性を求めないで下さい」
なるほど。それもそうか。
「あと、動くと胸が暴れて困る。サラシか何か無いか?」
と訊いて来たので「そんな物、ある訳無いでしょ」と殺意を込めて答えた。
大体サラシなんて今時そうそう使う物じゃない。昔のあたしの家、と言うか病院には山程あったけど、ほとんど駄目になったので捨てた。
あたしのスポーツブラじゃ絶対に納まらないしもう仕方無い。
あたしたちは指定時刻の直前に廃工場に入った。月明かりが出ても、工場の廃墟が影を作り視界が狭く感じる。こいつは夜目が利くみたいだから気にしないだろうけど。
「………周辺への防音魔術は張ってあるみたいだけど、他は特に無いみたいね」
まだ分からないけど。と付け足しておく。
「そうなのか? ここの空気が妙に濃密に感じるんだけど。………いや、空気……じゃないな、これは。………なんだろう?」
彼が首を傾げる。へえ、そう言う物に敏感なのは驚いた。
「………ここは霊的に『負』が溜まってる場所なのよ。本来は恩恵を引き出せる場所だけど、ちゃんと管理しなかったから、属性が反転しているの。………たぶん、あたしの父さんはここを澱みが流れ込む場所に作り変えたんだと思う」
「澱み?」
「風水の技法で街を造ると、活気が集まる半面、陰気が溜まり易くなるのよ。人は常に善悪両面を持つもの。人が集まればそのどちらも膨れ上がるのは道理。平安京はそれを流す仕組みが機能しなくなったから荒れてしまったとも言われてる。江戸は風水だけじゃなく複数の術式を組んで再生機構を意識しているから壊れても修復出来るようになってる」
陰気の蓄積は大都市なら存亡の問題だけど、小さな町程度なら大規模な仕組みを作らなくても、溜まる場所を作って定期的に祓えばいい。ゴミ処理問題とちょっと似ているかもしれない。
「………あいつも来てるな」
「ホント?」
「ああ。この先。この間の服の上に赤いマントを羽織ってる」
あのファッションなら夜目が利かなくても目立ちそうだ。実際、あたしの目にも姿が映った。
それにしても、あの服装は脳味噌のどの辺りを使っているんだか。麻薬中毒者は色彩感覚がおかしくなると聞いた事があるけれど。たぶんあいつも脳に致命的な問題があるんだろう。
「………一人だな。側に何も無い」
言う通りアンドレアルの側には他に何も見えない。隠れる場所なんて腐るほどあるけど。
「ほう、どうやらこの間の少年型じゃないのを連れて来たみたいだね。切り札と言うところかな。外見も随分と凝ってるみたいじゃないか」
相変わらず大袈裟な手振りに慇懃無礼な言葉。こっちを見下しているのが丸分かりで底が知れる。
「そう言うそっちは? 相手を連れて来ないんじゃ決闘にならないんじゃない? 僵尸のストックは切れたの?」
「ハハハハ。僵尸だって? この僕があんな物に頼るわけが無いだろ。いいだろう。僕の最高傑作を君たちにも見せてあげるよ。さあ来い、鉄人! ショウ・ターイムッ!」
片腕を空に掲げるアンドレアル。………今、何て言った?
「………なんだ? 向こうで、デカイ気配が動いて」
ドゴオォォォォォオンッ!
振り返った彼が言葉を言い終わらないうちに、それは爆発にも似た轟音と共に鉄筋コンクリ製の建物の壁を突き破って姿を現した。
………いや、正直最初はそれが敵だとは思えなかった。なぜなら、
「でけえッ!」
「な………ッ!」
視界を覆い尽くす程のサイズで、一瞬ではそれの形を認識出来なかったのだ。
その姿に思わず言葉を失う。
全長は五メートル越え。しかし図太い台型円筒形の胴体に太く長い両腕を左右二本ずつ生やしている。その両手を広げた大きさは横十メートル以上ある。
頭部は何となく取って付けたような感じがする円柱で、それらの自重を太く短い両脚が支えている。
パーツの隙間からは焔のような瞬く赤い輝きが絶え間なく漏れて周囲の闇に色を付けた。
廃工場の陰影はまるで影絵の街並みだ。
その中で、巨大な何かが天を抱えるように腕を振り上げる。夜の街にガオーッって感じ。
その威容には恐怖を通り越して乾いた笑いが漏れる。
「避けろッ!」
あたしたちが居た場所に振り下ろされる鉄拳。
あたしを抱えて、彼が横っ飛びに転がる。そのまま、砕かれ撒き散らされるコンクリートの破片からあたしを庇った。振り下ろされた拳は道路工事の重機みたいにコンクリートの地面に大穴を空けていた。
「まさかこれって………クレタの《青銅巨人》ッ?」
ギリシャ神話に登場するロボット兵器とも言うべき物が頭に思い浮かぶ。
「たぶん俺を狙って来たんだ。離れるから後は自分で安全地帯に行け!」
突き飛ばされるように彼が離れ、巨人の攻撃範囲に飛び込んだ。
「くそッ! こっちだデカブツ!」
「はーははははっ! 行け行け鉄人ッ! そいつらを潰してしまえぇっ!」
そいつらって言ったか? あの赤。
(脚を見て! 踵に弱点の鋲がある筈!)
(踵に鋲? ドムみたいなラッパボトム脚しか見えねえ。くそっ、なんだコイツ、この図体で回頭速度が速い! しかも近くに居ると分かるがメチャクチャ熱い! マジに熱核ホバーで動いてるんじゃねえだろうな!)
「踵に何も無い? じゃあタロスじゃないっての?」
実は『不死身の金属兵』と呼ばれる存在は広く世界各地の神話伝承にある。
ギリシャでは鍛冶の神が創ったクレタ島の守護者タロスの他、不死身の肉体を持つ勇者アキレウス。
東洋にはその名もズバリ『鉄人』と言う兵器が有り、古代中国で使用されたと言われる他、朝鮮半島から古代日本に侵略軍が来た際に先陣を務めたと言う。
この手の話は必ず足首や脚が弱点であると伝えられている。
金属で巨人を作れば重量や重心の問題が出る。仮に可動を確保しているとするとそこに負荷が掛かるから、自然と脚が弱点になるのだ。
また、金属重鎧を付けた人間も動く為には脚の可動部に余裕が無ければならない為、必然的に脚が弱点になる。
身体から熱を発する、と言う点では確かにギリシャのタロスに当て嵌まる。タロスは両腕を発熱させて敵を焼き殺したと言われているから。
(それに硬い! こりゃ鉄か? 青銅じゃないのは確かだ。そう言えばさっきから鉄人鉄人って言ってるな。そのまんまだ。あと、腕が四本あって避けにくいっ!)
振り回される柱みたいな四本腕を何とか避けているけれど、パンチやキックで何とかなりそうだとはとても思えない。
材質なんて問題じゃない。この手の物にある筈の弱点が無いとなると、攻略は厳しい事になる。
………あの赤野郎。何てモノを持ち込んできたのよ。
どうやってあんな物を日本に運び込んだのか。幻術でも結界でもないからアレは間違い無く本物だ。密輸なのは間違い無いだろうけど。
「ははははは! タロスだって? この天才の僕がそんな欠陥品を使う訳が無いだろう! この鉄人こそ僕の錬金術の作品、最高傑作なのさあ!」
厭味ったらしい笑い声が廃墟に響く。
ところが、思わずカチンと来たあたしの頭に、別のスイッチが入った。
錬金術? プラハ? あたしが真っ先にそれは無いだろうと外した使い魔の存在が頭に浮かぶ。
………まさか、そっちなんだろうか? だって、そんな馬鹿な話は無い。
「まさか、………『ゴーレム』?」
それはユダヤ神秘学の奥義。『人になる前の泥』と呼ばれる、世界でも有名なモンスターの一つ。
それの発祥の地こそプラハ。錬金術の黄金時代に生み出された人造使い魔だ。
(ゴーレム? アイアンゴーレムってやつか?)
否。ゴーレムはゴーレム。本来は泥土から作られ、主人の命令に忠実に動くヒトガタ。
一説では最初の人間アダムと同じ方法で作られたとも言われている。だから金属を材料にして作る、なんて本来は有り得ない。RPGのモンスターとは違う。
それに、ゴーレムには明確な弱点が伝えられている。
一つは神の名の元にその存在をキャンセルする事。要は自滅プログラムだ。
そして、もう一つの方はもっと有名だ。
(ゴーレムならどこかに『emeth』の単語がある筈。それを探して、『e』を削って!)
(単語? 身体のどこか?)
『emeth』とは『真理』と言う意味がある。これから『e』を外すと『meth』になり、『彼は死んだ』と言う意味に変わる。
言葉に支配されるユダヤ系秘術ならではのギミックだが、実はこれラテン語。ユダヤ発の筈なのにラテン語と言う辺り胡散臭くて実に錬金術っぽい。
とにかくあたしは、そんな明確な弱点がある物をわざわざ決闘に出してくる筈が無いと思い込んでしまった。
呆れるほどの凡ミス。ある限りの可能性を考えるべきだったのに。
「ねえっ!」
………何ですって?
「だから、無い。のっぺらぼうだ! 型番くらい入れてりゃいいのに」
「はぁーはっはっは! ひゃはははははッ! 弱点? 弱点だって? 弱点なんて有る訳がないだろう! この天才の僕が作り上げた英知の結晶! 神の領域の創造物なんだからな! まさにパーフェクト! パーフェクト・ゴーレムだ! ゴッド! ゴッダー! ゴォッディストォ! うひゃはひゃひゃ。うわぁーはっはっはっは!」
くるくると赤いマントが翻る。
まるで大舞台に上げられた大根俳優がはしゃいでいるかのよう。酔っ払いでもここまでハイにならないんじゃないだろうか。
(………神に『er』と『est』付けてやがる。何処の中学生だよ。アレ、出来れば知り合いたくない人種みたいだな)
(同感。極めて同感。もう知り合っちゃったけどね)
(他に弱点とか無いのか? アイアンゴーレムなら電撃とか利くんじゃね?)
(根拠は?)
(いや、ゲームとかだと弱点そんな感じだろ?)
彼はそうは言ったが、第一どこから電撃を引っ張ってくるつもりなんだろう? ここは廃工場。電気はもちろん、自家発電もすでに無い。不法投棄の家電くらいはあるけど。
(もうちょっとよく考えなさいよ。いい? 絶対無理よ。たぶん、だけど、あれはゴーレムの技術に鎧か何か着けているんだと思う。文字が表面に無いのはそのせい。あれが本物のゴーレムなら、強物理耐性に強魔術耐性って事になる。錬金術と魔術が腐るほどあった錬金術黄金時代のプラハで、軍隊の攻撃でも最高クラスの魔術師たちの攻撃でも止められなかった怪物なんだから。電撃なら、せめて落雷並。後は装甲を引き剥がして文字を探すしか)
(無理! 絶対無理! あの装甲、まるで内側から焼けてるみたいに発熱してやがる。火傷ならまだしも、指が焼け落ちちまう)
確かに、色々な物が焼ける匂いが周囲に漂っている。
………多少の水では触れるだけで蒸発しそうだ。雨でも降れば………雨乞いなんて出来ないけど。
(何か………何か良い方法は。一発で吹き飛ばすとか。………エクスカリバーとか使えない?)
(人の事馬鹿にできるのか……いや、ちょっと待て? ………電撃、か)
(だから無理よ。第一、どこからそんな物引っ張ってくるのよ?)
(………いや、妙な感じなんだけど。………なんだか何か出来そうな気がする。………このバショがシにチカイからか?)
………出来そう? 何が? シって何?
不穏な意味が込められた言葉に、あたしの身体に震えが走る。
これは………恐れ? ………あたしは今、何に恐怖した?
そして、あたしが彼の言葉の意味を理解出来ずにいるうちに、彼は鉄人の前に踊り出る。
「うひゃひゃひゃひゃ! さあ鉄人、そいつを叩き潰せェェェッ! アァァクショォォォンッ! バイバイ・リビングデッドレディイイイイイッ!」
アンドレアルの逝ってしまった笑い声。振り下ろされる鉄人の腕。
………そして、あたしはとんでもないものをそこに見た。
「………嘘」
振り下ろされた鋼鉄の腕を、彼は避ける事なく受け止めた。コンクリート地面を吹き飛ばすロケットランチャー並の破壊力のそれを、片手で。
「………おお、やれば出来るもんだ」
苦も無い彼の言葉に反応したのか、もう片方の腕が振り下ろされるが、彼はそれをも、重量を無視したかのようにあっさりと受け止める。
………これでプロレスで言うところの手四つ力比べ状態。もっとも体格が全然違う上、鉄人にはまだ左右一本ずつ腕がある。だが、届かないのだ。
「よしよし良い子だ。可動範囲にゃ限界はあるみたいだな」
死角を無くす為の腕の配置なんだろうけど、同時攻撃をするには彼は小柄過ぎたのだ。
動かない。
いや、鉄人は力を込めている。脚が目の前のモノを押し潰そうと足掻いてコンクリートに少しずつめり込み、瓦礫に変え、破片を弾いている。
けれど、目の前の彼は動かない。まるで山を押しているかのように動かない。
物理現象を越えた有り得ない光景。
………つまり今ここでは、魔術的な力が働いている。
「おおおおおおおおおおおおおおッ!」
吼えた。大気が震える。
これはヒトの声じゃない。ヒトがまだケモノだった頃、言葉の代わりに持っていたモノ。
相手を破壊する気合。
武器だった声。
捕食者の雄叫び。
力比べの拮抗が崩れる。崩したのは彼。
鉄人の腕から軋むような悲鳴じみたギシギシと言う嫌な金属亀裂音が漏れ始めている。
「だありゃああああああああッ!」
鉄人の腕が………もげた。
腕力とか、そんな風には見えない。両肩からボキリと、恐ろしく綺麗に。折れた腕の奥から赤い光が零れる。中は赤く燃えているようだった。
衝撃で鉄人の身体が揺れる。まるで動物が痛みに耐えられずのたうち回るように。
もぎ取った一対の鉄人の腕を脇に投げ捨てる。
その時、鉄人に異変が起こった。
外れた腕から炎が噴き上がり、鉄人の身体を包みこんだのだ。その炎は次第に何かの形を成していった。
もっとも異形なのは天を突く曲った二本の角を持つ獣の頭。
「牛の頭………まさか、牛頭の神像を材料にしていた?」
直感が閃く。
あれはたぶん炎の中に生贄をくべた古代神の神像。
後にユーラシアの東西に炎の牛頭神として伝えられたもの。
古代カナンの地にケモシと言う神が居た。牛頭の太陽神で、子供を炎の生贄とした。その要素はユダヤ教の唯一神にも取り入れられている。アブラハムの末子イサクのエピソードがそれだ。
ケモシは後にクレタ島のタロス像やミノタウロス、中国古代神話の蚩尤に繋がる。キリスト教ではモロクと言う大悪魔になった。
あのアホ魔術師はそんな祟り要素抜群の超危険物をゴーレムの装甲に使っていたのだ。
だが、彼は異形を前にして尚怯まなかった。
彼は飛び上がって自分の右手を炎が包む鉄人の頭部に、躊躇いも見せずアイアンクローを決める。
最大限に開いても掴む事すら出来ない筈のサイズの頭部円柱に、文字通り彼の指が突き刺さるように喰い込んだ。
その一瞬、宙に踊った彼の長い黒髪が白く染まったように見えた。
次の瞬間、鼓膜を吹き飛ばすような轟音が廃墟に、いや、世界に響く。
バリズガシャァァアアアアアアアアンッ!
金管楽器をMAXで吹き鳴らしたような、金属の球体を内圧でぶち破ったような、形容する事も困難な破壊的大音量の鉄砲水。
周囲を吹き飛ばすような衝撃に、あたしは地面を転がるように受身を取った。
空気を伝うビリビリとした肌に刺さるような衝撃。
この感覚。間違い無い。今のはそう………『落雷』だ。
顔を上げると、動きを止めた鉄人の上に、彼が立っていた。
流れる髪の色は元のまま黒い。
………たぶん、さっきは落雷の輝きで白く見えたんだろう。
ドンと彼が片足を突き刺すと、鉄人はその一撃でガラガラと崩れ落ちた。
「………あれ?」
そんな間抜けな呟きを漏らしたのは、そこに居た誰だったのか。
一瞬で自慢の逸品を徹底的に壊されたアンドレアルか。
想像もしなかった出来事に心を奪われたあたしか。
………あるいは、他ならぬ彼本人か。
とにかく、この決闘は終わりを告げた。
………あたしたちの勝利と、それ以上の謎を残して。
*
暗い。
寒い。
闇よりも暗く、氷室よりも尚凍える場所。
その先に、何かが蠢いている。
俺の事を見つめている。
6 這い寄る悪意
「うあっ?」
気が付いた時、自称天才、アンドレアル・レミエールソン・ワークァメイアは、俺のすぐ側の残骸の前でへたり込んでいた。
残骸。熱か衝撃か、捻じ曲がったガラクタの山。
それが一体何なのか、すぐには分からなかったが、何とかさっきまで生き死にを賭けて戦った物体である事を理解する。
「そうか………勝ったみたいだな」
何となく他人事だ。
自分がやったと言う事は分かるし手応えもあるのだが、何処と無く自分のやった事では無いようにも感じる。
「うん、やっぱり電撃が有効だったんだな」
俺が電撃を出したと言う事は、取り敢えず置いておく。遠城なら幾らでも理由を考えられるだろうし。知識の無い俺が考えても時間の無駄に等しい。
「………うおッ、な………何か下っ腹が締め付けられる。だっ、ダメージか?」
「………気付いてないの? 今の自分の姿に」
勝った筈なのに、顔中に渋い表情を浮かべた彼女は、側に来て俺の身体を指差した。
「姿? ………ぬわッ!」
遠城の言う通り視線を下に向けると、果たして視界が随分と良くなっていた。
「胸がッ! 胸がねえッ! 下は………有るッ! って事は、元に戻ったのか? つまりこの締め付けの原因は…………ベルトかっ!」
急いでベルトを男子レベルに戻した。それで随分と楽になる。
「………さっきまで女の姿だったけど、溜めていた魔力を全部放出して男に戻った、と言う事かしらね。………さて」
遠城は、未だ呆けているアンドレアルに目を向ける。その瞳には、危険な光が宿っていた。
敗者を見る目じゃない。
いや、人間を見る目でもない。嬲り尽くして虫の息の鼠をどうやって殺してやろうかと見る猫の目、とでも言えばいいのだろうか。
一瞬、彼女の片足が振り子のように後ろに動いた。
「ちょ、遠城ッ!」
ドゴッ!
「ウグボォッ!」
俺の制止は間に合う筈もなく、タイガーショットも真っ青な手加減無しのトゥーキックがアンドレアルの腹にぶち込まれた。
………破裂とかしてませんよね、中身?
「何時までも呆けて貰う訳にもいかないわ。今から幾つか質問をします。解答次第では相応の代価を払って貰うからそのつもりで」
凍るように冷たい声。手加減無しの蹴りを腹にぶち込んでおいてここまでクールだと、そっちの方が怖い。
「ゴボっ、じ………ジツモン?」
胃液が咽喉に来たのか、言葉が怪しい。
………まあ、普通無理だろ。あの蹴りの後に質問に答えろと言われても。人体の構造的に。
「ボ、グノ奥義、ゲホッゲゴホッ、ノ事ガ?」
「奥義? そんな物に興味は無いわ。一つ目。この街の結界を壊したのは貴方?」
「………ヂ、ヂガウ。ボ、僕はゲホッゲホッ。やってない!」
お、復活した。意外に、と言うか馬鹿っぽい分タフなのか。
「やってない? じゃあ、貴方はなんでこの街に来たの?」
「じょ、情報を買ったんだ。日本に年端も行かない女が管理する霊地があるって。今不調だからチャンスだって」
「………情報を、買った? 何それ?」
「半端者が集まるアンダーグラウンドにも情報業者はあるんだ。そこから買ったんだよ」
なぜか、遠城が眉をひそめる。何か疑問が浮かんだのか。
「………その情報を貴方に渡したのは誰? 何日前?」
「は? いや、黒い服の女だったね。そうだね。たぶん東洋系なのは間違い無いだろう。中国人か日本人かそれとも韓国人は分からない。モンゴロイドの年齢は読みにくいんだが、おそらく二十歳にはなっていない筈だ。買った場所は十日程前のロアナプラ。僻地の情報だから格安だった。わざわざ手渡しで来てくれるとは、情報屋もサービスが良くなったと思って………ん?」
ベラベラと喋るアンドレアルの口が止まった。
止まる筈だ。遠城の表情が大きく変化している。
怒りと、それからたぶん恐れが混じり合い虚空を睨む形相。
その威力たるや調子に乗るとベラベラと何時間でも喋り続けそうな男の口を自ら黙らせるほど。
「その女と、日本に来てから会った?」
「………い、いや」
「………そう。ついでに訊いておくけれど、貴方の連れていた僵尸は二体だけ?」
「ん? あ、ああ、昨日壊された二体だけだ。最高級品だとか言って随分とふんだくられたが、とんだ不良品だったよ」
「そいつらに、この街で血を吸わせた?」
「いや、吸わせてない。どうせ使い捨てだからね。僕は無駄な事が嫌いなんだ」
こいつの存在そのものが無駄な気もするんだがどうだろ。
「………OK。知りたい事は全部分かったわ。特別サービスよ。二十四時間以内に荷物纏めてこの街から出て行きなさい。そして、二度と来ないように」
地獄の底から湧き上がるような最終通告に、さすがの奴もうんうんと首を高速反応させた。
それから遠城はくるりと俺の方を向くと、無言で「ついて来なさい」と言う感じで顔を廃墟の出口に向けた。
もうこいつに関わる理由は無い。俺も遠城の後に付いて行った。
「………いいのか、アレで?」
「………いいのよ。アレは前座。この街を本当に狙って来たのは、あいつを躍らせた奴だから」
その意味は、確認する必要も無く俺にも理解出来る。
黒幕が居るのだ。
「………覚悟を決めて。これから大変な事になる。あたしの考えが正しいのなら、仕掛けて来たのはあいつ。あいつがこの街に帰って来る」
「あいつ? 帰って来る?」
抽象的な言葉に首を捻るが、その答えなど訊かなくたって返って来るモノなんか決まっている。
それはとてもロクでもない事で、酷く危険な中味なんだろうさ。
「帰って来る、じゃないわね。まず間違い無く、もう帰って来ていると思う。そいつはね、十年前、この街で何人も手に掛けて消えた殺人鬼。………天才だったあたしの父を殺した、正真正銘の怪物だから」
現実はいつだって予想より酷いか悪いかしかないが、今回は想像以上に恐ろしい言葉が返ってきた。
「………今度は決闘じゃない。戦争よ。殺し合い、生き残るだけが目的」
*
………と言うか、その怪物とは俺が戦うんだろうな。間違い無く。
何だろうな。生き返ってからこんなんばっかりだ。