第一章 魔女との遭遇 ~デッドエンド~
1 原因があって結果がある
なぜこんな事になっているんだろうか?
*
原因を考えるなら、まず味噌だ。味噌。それは日本人の心。
昨日。つまり月曜の朝、味噌汁を作った時に味噌が無くなった事に気が付いた。
もし昨日ちゃんと味噌を買って帰っていれば、俺の運命は今までとさして変わらない日常のレールの上を走っていただろう。
普通結構。一番事故らない。
しかし、俺はその日に限って味噌を買い忘れた。
理由は分からない。いつも買い物で利用する大型スーパーEVANのチラシでその日に限って味噌が安くなかったから忘れたのかもしれない。
しかしそれでも、わざわざ夜九時を過ぎた時点で思い出さなきゃ良かったのだ。俺の朝飯は米と味噌汁に決めている。トースト一枚二枚では腹の足しにもならない。朝からバターなんて脂の塊を嘗められるか。それでも、朝に味噌が無い事に気が付けば諦めただろう。
大昔なら味噌をお隣から借りるなんてウルトラEも出来たかもしれないが、俺が住んでいるマンション、と言う名の築二十年のアパートでは味噌を常備している部屋は同じ階には存在しない。
むしろ同じ階に住む大学生と社会人と留学生は、あろう事か高校生で自炊している俺に、最低週三で飯をたかりに来る。一応連中とはギブ&テイクが成立しているが。
ああ。中国からの留学生だが、豆板醤だけは常備しているけど、それを使うのは専ら俺である。と言うか頑張って覚えた。
さて。それでもこの俺に高校二年で自炊歴一年強と言うステータスなんぞ無ければ、そもそも夜中に味噌を買いに行くなんて発想は出なかった筈。
つまり間接的原因を探るなら更に遡る事になる。
それは去年の春の事だった。
我が親父に転勤の話が来た。親父は建築設計技師で、建物ならば高層ビルやら公民館やら橋やら、とにかく人工物なら大抵カバー。材料はコンクリートから茅葺屋根まで。場所は日本を含む世界各地。色々な物を手がけている腕の良い、要は何でも屋だった。
転勤の話は海外赴任。ただ、別にそれくらいなら問題は無かった。親父は日本国内どころか世界中に仕事で飛んだ事があるし、また大抵の所で生きていけるだけのサバイバル能力があるからだ。
過去どこかの大富豪から依頼を受け無人島に赴任して食料を半分自給しながらセレブ向けマリンリゾートを造った事もある。
しかし、それでも大抵は二ヶ月から長くて半年。月に一度は帰国可と言う感じだった。
ところが、この時の話はレベルが違った。場所は南米。仕事は都市計画。期間は最低三年。状況次第でそれ以上と言う途方もない物だったのだ。
何しろこれから町を造ろうって話なのだから当然今そこに行っても何も無い。 ネット回線やアンテナをどこにどう引くか建てるか、と言う段階から始めなくてはならないらしい。
しかも時代は環境保全エコ志向。前途多難は間違い無く、また簡単には帰国も出来ず貴重な情報源の新聞は三日遅れなら早い方。陸の孤島どころか世界の果てと言う場所への赴任。百人社員がいたら百人が断わるか会社辞めるかと言う嫌がらせ以外の何物でもなさそうな話を、我が親父は家族に相談もせず、即決で受けた。
以下はその理由である。
「父さんは南米でギギの腕輪とガガの腕輪を見付けて創世王になるのが夢だった」
以上。
親父が昭和ライダーの熱狂的ファンなのは知っていたが、どこまで本気なのか息子の俺にも分からない。
ちなみに親父が設計の道を歩んだのは特撮番組で出てくる秘密基地を造りたかったからだとか。だから秘密基地とかが出てこない平成ライダーは基本無視。
遺伝工学とかそっちの道に進んでいたら良くて変人研究者。悪けりゃ人体改造なんかをやるマッド犯罪者になっていたかもしれない。息子の俺も無事では済まなかっただろう。
「息子を改造するのはマッド科学者の浪漫」とか言いそうだ。
さすがに親父を三年も南米に行かせるのはお袋も不安だったらしく、自分も同行する事を決定。
ただ、さっきも言ったとおり赴任地には何も無いので、最寄りの、と言っても片道半日くらいかかるが、南米の大都市で部屋を借りて親父が休暇に過ごせる場所をキープするらしい。
……しかし俺は知っている。
お袋はブラジルサッカーの熱狂的ファンだって事を。日本代表よりブラジル代表を応援する気合の入った人間だ。
昔、ブラジルが日本に不覚の敗北をした時、涙を流して悔しがったのを、親父はたまに思い返して話す。なぜかと言うと、その直後の数日間、まるで台風が食卓に上陸したかと思うほど食事が荒れまくったからだそうだ。
そう言う感情をスタジアム以外の場所に持ち込むのは勘弁して欲しい。以来、我が家では国際大会でブラジル代表と当たらないように祈るのが通例となった。
で、時期は俺が高校に受かった直後。入学が決まっていた俺は必然、日本に残される事になった。
南米に行くのはどこでもドアが実用化されてからでもいい。あとたった一世紀だしな。
一応国内に親戚と呼べる相手は居たが、そのどれも半径五十キロ以内に住んでいない。
それで俺は近所の高校に通いつつ一人暮らしを始める事になったのだ。
学費は完全先払い。仕送りと言うか生活費は毎月一定。三度の飯と生活備品、水道・電気代やら小遣いやらをそこからでやりくりしなくてはならない。
新聞は速攻で止めた。最初の頃は当然のようにコンビニ弁当やら外食やらで過ごしたが、経済的に圧迫する事を肌で感じた俺は食生活を見直す事を決定。自然と主食は米になった。真面目な話、パンと米では一食辺りの単価が倍近く違う。もちろんパンも自分で焼けば安上がりだろうが。国産米万歳だ。
俺の入った学校では長期休暇中はアルバイトOKで、学期中でも申請すれば許可が出るから稼げない事はないのだが、やる事は幾らでもある高校生活。余裕と言う点を考えると厳しい。
もっとも、彼女とか出来たら、デート費用とかファッション費を稼ぐ為、思考がそっちにシフトしたかもしれない。
そうならなかったのは幸か不幸か。まあ彼女が出来なかった理由は別な部分にもあるんだが。
とにかく窮すれば通ず。一年経った今、俺は寝る前に米を研いで炊飯器をセットし、毎朝一日の味噌汁を作るような、選択科目で家庭科を履修しなくても大丈夫なほどの腕になっていた。
話を戻そう。
そんな訳で『朝=味噌汁』と言う公式が頭の中に出来上がっていた俺は、味噌が無い事に夜九時に気が付き、買いに出る事にした。正直味噌だけなら何とでもなったかもしれないが、冷蔵庫にまだ一個残っている三割引きシールが付いた特売のシジミパックが俺の背中を押した。この手のシジミは味噌汁以外では使い物にならず、かと言ってあと一日冷蔵庫に置く勇気は無かった。
値引きの無いコンビニで買うのでは主夫的に話にならないので、黒いボディも美しい我が買い物自転車・黒王号で郊外のスーパーに遠征する事にした。俺の家からはEVANよりも若干近いので夜中に買いに行く場合はこっちを利用する事が多いのだ。ただ十時には閉店になる田舎町のスーパーなので急がなくてはならなかった。
故に俺はショートカットできるルートを選択したのだが、それがある意味分岐点。
そこで俺は『あるもの』を見てしまった。
その道は住宅地にあるとは思えない密林に隣接する鬱蒼とした道で、事故を恐れて車ですら夜中は滅多に通らない道だった。俺は前述の理由で割とよく夜にここを通るのだが、ほとんどは俺一人だった。車はもちろん歩行者を見かけた事も無い。まあ逆に人が歩いていたら怖い雰囲気なのだが。
ここは住宅地を造成する際に道路を通す為山を切り崩したらしいのだが、この利用率の低さでは崩された山も浮かばれない。無駄になった税金も浮かばれない。疑いようも無く自然破壊オチ。
しかし、この日は違っていた。
そんな人寂しい道の更に脇。そこに人影が入って行くのを見たのだ。記憶にある限りでは、そこには獣道すらない林の奥に続く藪の筈だった。
それが見知らぬ人物なら、俺はそんなもの記憶の隅に押しやって、あるいは忘れて味噌を優先しただろう。おっかないしさ。
だが、その人物は俺にとって味噌や明日の朝食の献立などどこか遠くへ押しやってしまう存在だったのだ。
「………遠城麗緒?」
道路の僅かな街灯しか明かりはなかったものの、俺が彼女の顔を見間違える筈がなかった。
*
遠城麗緒。
入学式から二十四時間で学校中にその存在が広まったと言う、市町村合併してようやく人口十万に手が届いた地方小都市の平均値を圧倒的に上回る全国区級の美少女である。アイドルグループのセンターに居ても全くおかしくない。
艶があって背中まで長い黒髪は彼女の纏う高級感を一際高くしている。彼女の髪を見てしまうと、どんな綺麗なモデルでも染めたり抜いたりした髪が貧相に見えてしまう。
一見スレンダーなボディだが、体育で着替えを一緒にしたとある女子の話では、彼女は実は着痩せしているとか形が綺麗だとか。
眉唾レベルの噂だったのに、それは後々とんでもない形で証明される。
その美貌に加え柔らかく礼儀正しい物腰に優秀な学力。
少子化人口減の為、東大に進学する奴も出れば赤点留年する奴も出ると言う極端に幅広い層が集う我らが県立花祭北高。通称花高には若干似つかわしくない、生息分布が異なるレッドデータレベルの才媛。
電車で一時間ほどの県庁所在地には県内どころか近県のトップ進学校の更に頂点に立つ男女寮完備のバケモノ超進学校があるのだが、多分その学校にもトップで入学出来るほどの成績優秀であるにも関わらず、地元の花高に入学したと言う。
事実、入学後から今まで数回行なわれた全国模試では県下トップの座を一度も譲っていない。
ここまで来ると正真正銘化け物である。噂では彼女の引き抜き転校を警戒して、公立校のくせに彼女に対し特例の授業料免除が有るとか無いとか。
そんなハイスペック美少女が青春真っ盛りの連中が集まる場所に現れれば一体どうなるか、言わなくたって分かりそうなものだろ?
その光景は、端から見ればまるで一目惚れウィルスをばら撒いてバイオハザードを引き起こしているようにも見えたかもしれない。
実際、彼女が現れると、某ゲームの如くゾンビ状態の連中が周囲に涌き出る。恐ろしい事に男女比率ほぼ二対一。
しかし彼女の一挙一動は無限マグナムを持ったクリス・レッドフィールドの如く、半径二メートルにゾンビどもを寄せ付けない風格があった。その結果がゾンビ行進である。
そしてここが肝心なのだが、俺もウィルスにやられた一市民だった。Tウィルスなど目じゃない感染力だった。
一目惚れと言うのは一種の感染症だ。今ならそう思う。
俺の高校生活最初の二ヶ月くらいは、いわゆるファッション研究とその投資に費やされた。が、限界もすぐに見えた。財政的な話だけじゃない。
ファッション情報誌を手本にした場合、俺とモデル様のギャップが問題になる。基本的にそう言うモデルは一級か超一級。地方発の情報誌ですら準一級くらいのモデルを使う。アマチュアの読モ様だってそれなりの容姿端麗なのがデフォルトだ。
対して俺はと言えば三級に毛が生えたか、どう高く見積もっても二級品に三割引シールが貼り付いているレベル。挑むには要整形。それでもなお強攻すれば、勘違い野郎が一人出来上がるだけだ。
実際、ちょっと人が集まる場所に行けばファッションが決まっている奴より勘違いした人間の方が圧倒的に多いのが地方小都市。なんでこの情報高速化時代に流行が都心と十年も後れるのか、地方の永遠の謎である。
ちなみに外見に自信など微塵も無く、内面の方にもあんまり自信は無く(それを評価するのは自分ではなく他人である)、学力に関しては絶望的。そんな俺に一体何が出来ようか。
ここで当たって砕け散るのも一つの手だったかもしれないが、そんな勇気が有るようなら自分に自信が無いなど言わぬ。
愛も勇気も俺とは友達ではなかった。
しかし、世の中と言う奴は結構上手く出来ているもので、ゴミにはゴミ箱と言う場所があるように、一目惚れの恋を実らせる事を諦めた俺にも行く場所があった。 地下活動サークル『遠城麗緒ファン倶楽部』と言うのがそれ。
遠城麗緒が入学して二十四時間後、すなわち次の日には誕生していた恐るべき組織である。
デジカメ部の遠城ファン数名が発起人となり、写真を中心としたグッズを適正価格で普及させる事を目的としている。たまに座談会とかやるらしい。
余談だが、行事写真を撮らない筈の女子水泳大会での写真は一枚五百円で販売された。俺も一枚持ってる。あの噂は真実である事を確認できた価値ある一枚だった。
近々《神聖派》と呼ばれる狂信団体が倶楽部を脱退して新設されるらしい、と言うのは俺に倶楽部を紹介してくれた悪友の情報だったりする。人々は一体何処まで行くのだろうか。
*
以上で理解して貰えただろうか?
告白なんて遠の昔に諦めたが、一応狂信者の一人として、ちょっとした場所でも彼女の顔を追わない日は無かった。
チャンスがあればゾンビのように後ろを歩いたりする。明かりが乏しかろうが距離があろうが、喩え芋洗い状態の海水浴場における監視員バイト中でも見間違えない自信がある。
………いや、去年の夏休みに悪友の八橋に「水着美女を観賞しようぜー」とか言われてやったけど、アレははっきり言って大変なんだ。目の保養より気苦労の方が大きい。
無論、遠城麗緒を味噌や明日の朝食の充実と天秤にかけるまでもない。
グレーに白いラインの映えるセーラー服と言う昭和中頃から変わらない我が校の制服姿の彼女は、道の脇に姿を消した。道の脇と言っても、そこにはまるで人間お断りの壁みたいな藪があるばかり。
俺は黒王号を降り、彼女が入って行った藪を見る。とても人が入れそうな感じはしないが、腕を差し込んで通れそうな幅を捜した。
躊躇無く後を着ける事になっているが、これは状況的に仕方無いだろう。これが街中なら俺だってストーカーのような事はしたくない。
………男と並んで歩いていたら後を尾けるかもしれないが、今のところ彼女にはそう言った話は無いそうだ。これも悪友情報。
なんでそんなに詳しいかと言うと、我が悪友・宮古八橋こそは他でも無いファン倶楽部発起人の一人で、現最高幹部である。
(しかし、なんで彼女がこんな場所に?)
間違っても普通の女子高生が夜中に来るような場所では無い。と言うか一般人は来る必要性も無いだろう。無論、優等生の美少女・遠城麗緒のイメージにも合わない。
この環境からありそうな線を考えると、どうしても犯罪系しか思い浮かばない。
猟奇殺人とか死体遺棄とか自殺とか不法投棄。
あるいは、弱みを握られ人気の無い場所に呼び出されて複数に囲まれ華を散らせるとかの官能系か。
(………いかん。もしそんな事だったら助けないと)
勝手なイメージから尾行の正当な理由を得た俺は、泳ぐ形で林の中心に向かって進んだ。
とは言うものの、ここに彼女以外が居るとは考えにくいんだけどな。
道らしい道は無いし、ここを他に誰かが通ったとも思えない。
街灯の明かりなんてとっくに届かないが、幸い今日は雲もあるが月明かりがある。遭難するほど広さもない筈だ。
何しろ近所ではこの鬱屈した雰囲気のせいで、事実無根ながら自殺の名所だとか不法投棄の聖地だとか言われているのだ。
この有様じゃ当然と言うべきか、怪談系都市伝説の幾つかもここにはある。花祭市心霊スポットとしては、ここの近くにある『静ヶ丘の廃墟病院』や繁華街の裏手にあると言う『呪われた絵光ビル』と毎年夏のランキング一位を争っている。
(一人で肝試し、とか)
この前五月の連休が終わったばっかりで季節的には若干早いけどな。
(………ん?)
藪を掻き分けていた俺の手が宙を掻いた。目の前に何も無い空間が出現したのだ。
生い茂っていた筈の草はそこから先には無く、木どころか周囲の木の枝すら入らない完全な円形の広場が広がっている。感覚的にはミステリーサークルっぽいが明らかに人工の広場だった。何故かと言うと、そこには石畳が敷かれていたからだ。
(………なんだここ。こんな場所があるなんて、聞いた事も無いぞ)
まるで神社の境内。何となく、自然の中に人工的に区切られた空間と言うイメージ。
その中心では一つの人影が膝を着いていた。見間違いではなく、彼女はやはりここに来ていたのだ。
問題は、彼女が何か手に持っている事だ。さすがに何を持ってるかまでは分からない。
と、丁度その時、雲が途切れたのか、月光が広場に差し込んだ。
自然、多くの人間を魅了する彼女の美しい横顔と、彼女が持っている物が浮かび上がる。
それを見た瞬間。
「ななっ! ななななななななっ! ○▼□※ぃっ!」
思わず意味不明の悲鳴を上げてしまった。
それも仕方無いと思う。不覚にも、月光に照らされる遠城麗緒の常人離れした美しい横顔よりも、彼女が奉げ持つ物のインパクトが圧倒的に強過ぎた。
それは首。生首。生首生米生麦酒。
ご丁寧に、首を持つ彼女の掌の下には、ぶらぶらと脊柱が垂れ下がっている。リアル過ぎて非常に悪趣味。学校の日々。Z指定。
性別はたぶん成人男。この状況では重要ではないと思うが一応言っておく。生首と脊柱に比べれば瑣末な問題だ。
当然、絶叫に近い俺の声に彼女は俺の方を見た。
遠城麗緒が俺個人を意識して見たのは、たぶんこれが初めてだろう。こんな状況じゃなければ喜ばしい事だった。
が、俺を見る彼女の表情は、俺が見た事の無い物だった。隠し撮り写真の横行するファン倶楽部の写真ですらこんな顔を見た事が無い。
言うなればそれは人を殺す瞬間の顔。
一切の表情が無く、瞳だけが殺意を輝かせている。たぶん、俺の事を人間とは思っていない。ネズミか、あるいはゴキブリか、それとも屠殺場の豚か。躊躇も無いだろう。
ヤバイ。絶対にヤバイ。ここに居たら三秒で死ぬ。いや、殺される。一瞬で悟りを啓いた。
ファン倶楽部の連中。特に《神聖派》に傾きそうな狂信者の中には「遠城麗緒様に殺されるなら本望」と言う奴が男女問わずいるらしいが、そいつらに彼女のその顔を見せてやりてえよ。
俺はそれまでの人生の中のどんな時よりも素早く振り返り、藪で身体が傷つく事も構わず来た道を全速力で走った。
入った場所と同じ場所から転げるように飛び出すと、駐輪していた黒王号に飛び乗り、夢中でペダルを漕いだ。
味噌なんてとっくに頭の中から消えているから全速力で向かったのは自分の家だ。他に行く場所なんて無かった。頭から布団を被って悪い夢だと思いたかった。
人間の行動パターンと言うのは窮地に陥るほど単純になる。
*
………いや、後から考えると、これはホラー映画でも確実に死ぬパターンだ。
御伽話ならともかく、脅威に対して家は安全地帯なんかじゃないのだ。
自分の身は自分で守らなきゃならない。家に向かうのは本能に近い逃避に過ぎない。
*
もっとも。
結果から言えば、俺は家の中に逃げ込む事すら出来なかった。
「こんばんは。いい夜ね」
俺の住むアパートのマイルーム前にある金属製の手摺に、彼女は腰掛けていた。
全速力の自転車で最短ルートをかっ飛ばして来た俺よりも早く、地上三階にある俺の部屋の前に、彼女はすでに到着していた。
学校で見る普段通りの万人を魅了する天使か女神の微笑で、彼女は俺の事を見つめている。
何かの間違いじゃないかと思いたかった。
彼女にかけられた初めての言葉。
さっきの事が無かったら、きっと俺の心は驚きと喜びに満ち溢れ、耳には祝福のラッパと鐘が鳴り響き、視界は理想郷を捉えていただろう。
………ま、さっきの事が無ければ、だ。
さっきの光景、さっきの表情がまだ目の底に写真のように写り残っている今、彼女の微笑みはむしろ俺に向かって今にも振り下ろされそうなおぞましい凶器にしか見えなかった。
足はすでに止まっている。一歩も進めないし、逃げる事も出来ない。恐怖に呑まれる、と言うのはこう言う事だ。
彼女は手摺からトンッと飛び降りると。静かに俺の方に歩いてくる。距離にして五メートルほどしかないのに、いやに時間が経つのが遅い。
(そうだ、助けを)
横目で手近なドアを見る。この階に住むのは大学生に社会人に留学生。誰かが帰宅している可能性はあった。日頃付き合いも深いし、逃げ込む事は可能かもしれない。普段飯を食わせているし命の危機からくらいは助けて欲しい。
だが、俺の表情から読み取ったのか、彼女は微笑んだまま和やかに言った。
「やめなさい。被害を増やしたいの?」
(現実に勝る悪夢など無いと言ったのはどこの方でしたでしょうか?)
その説の支持に一票投じたい。その衝撃たるや蜂蜜でコーティングしてチョコチップをトッピングした釘バットで横っ面をぶん殴られたかと思った。
「私だってこれ以上手間を増やしたくないのよ」
一歩。また一歩彼女は近付いてくる。
テレビ画面から呪いが這い出てくるホラー映画のような恐怖を、今の俺は味わっていた。確実な生命の危機なのに全く動けない恐怖。
あと一メートル。
かつてない急接近に、心臓の動悸も激しくなる。惜しむらくは甘酸っぱいトキメキではなく、死を目の前にしながら身動きも取れない事への本能的な恐怖だった。このまま心臓が破裂してしまうのではないかと思うほど、危険な高鳴りが俺の身体にガンガン響く。
「大丈夫よ。何も気にしなくていい………え?」
俺の目の前に手をかざそうとした彼女が、初めて言葉を澱ませた。
見ると、彼女の表情からは偽りの微笑が消え、明らかな驚きが浮かんでいた。
「………そう。そう言う事。なあるほど」
俺に対して向けられたのではない呟き。その声色は同じ彼女の口から漏れたとは思えないほど混沌とした感情が含まれていた。
女神だアイドルだと言われるモノではない、たぶんそれこそが彼女の本質だと感じた。
俺は、この時に浮かんだ彼女の表情変化を絶対忘れないだろう。
似非の微笑の仮面は消え失せ、驚愕の表情は爛々と瞳を輝かせ、唇を吊り上げた悪魔の笑いへと変わった。
それは、あるいは生贄を前にした邪教の司祭のように。
あるいは暴行犯が邪な欲望を吐き出そうとする直前の歓喜の表情だった。
飲み込んだ息も吐き出させない凶悪な表情だ。
窒息してしまいそうな恐怖。シリアルキラーに暴行される直前の女の子の気持ちってこんな感じなのかもしんねえ。
「例えば、よ? どうしようもない失敗の後にそれを挽回するくらいのチャンスが目の前に現れるかどうか。そして、それを掴めるかどうかが人間の器量だと思うわけ。チャンスが回らない掴めない人間は生き方を変えるべきよ」
それまでの彼女とは打って変わった、砕けたハイな声質。
だが、危険な感覚はむしろ角度を更に上げて右肩上がりの急成長。
勘弁してくれ。限度はとっくに振り切れている。
いっそ気を失いたいのに、どうしてか頭はハッキリしている。何か脳味噌の重要な部分が焼き切れたのかもしれない。
「あたしはチャンスを掴むし、あんたは人生が変わる。運命の神様っているのかもね。こんなにベストな結果を用意してくれるんだもの」
俺の胸の中心に当たるかどうかの至近距離で止まった彼女の指が一瞬光った。
意識よりも速く。
ドゴンッと、まるで猛スピードで突っ込んできた自動車に吹き飛ばされるような衝撃が全身を揺らがせる。
実際には俺は一歩も動いていないのに、明らかにそれが致命の一撃だって事が頭の裏側で情報がぶちまけられた。
死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだしんだしんだしんだしんだしんだしんだしんだしんだしんだしんだしんだしんだしんだしんだしんだ?
あまりにもジャンク情報が大量過ぎてまともに処理出来ない。
次の瞬間、俺の身体は巨大な壁にぶち当たった。
冷たいコンクリ製の壁。こんな壁どこにあったんだ、と疑問が浮かぶがすぐにそれが何なのか理解できた。
(………あ、床か………)
力が入らなくて、起き上がる事どころか身体をひっくり返す事も出来ない。
「な………なにを」
身体中の酸素を全部吐き出すようにして、俺は最後になるだろうと自分でも分かる言葉を呟いた。
我ながら気の利かない台詞だと頭の何処かで思っていると、それに答えるように彼女のハイな声が耳元で囁いた。
「あんたは死ぬの」
………恋も冷める地獄行きの言葉だった。
だが、意識が死の暗闇に落ちていく中で、俺の耳は微かにだがその言葉を捕らえていた。
「………あんたは死んで、あたしのモノになるの」
もっとも、すでに俺の意識はその意味を解析出来るほどの能力を残していなかったんだが。
2 最悪の月曜日 魔女の場合
「あれ? 麗緒、機嫌悪い?」
月曜日の休み時間。同じクラスの割と仲のいい七瀬に指摘されて、あたしは自分の精神状況を恥じる羽目になった。
幾ら追い詰められていても日常生活の中でそれを顔に出すなんて、情けないにも程がある。
「……そうね、つまらないと分かってるお呼び出しに行かなきゃならないのは気が滅入るわね」
「ははは。モテ税ってやつだな。アイドルは大変だ」
彼女は自分の机の上に座って笑っている。今朝、あたしの靴箱に手紙が入っていた事を彼女も知っているのだ。中身も一緒に確認し、それが言わば告白の為の前振りである事も予想済み。
「いっそ彼氏を作りゃあいいのに」
「虫除けの管理の方が面倒じゃない?」
それに、ファン倶楽部の中に排除組織が出来るから放っておいても煩わしさは減るだろうし。
「夏樹が相手をしてくれるならいいけどね」
「あたしだって女同士よりは男女交際の方がいいんだけど。麗緒とはせいぜい一緒にランジェリーとか水着選ぶくらいがギリギリのラインかな」
この友人、七瀬夏樹も外見なら充分の美少女だけど、それ以上にスポーツ万能で逞しいのが男子を寄せ付けない
この学校で彼女に百メートルで勝てる男子って校内にいるんだろうか? 走りでもいいし泳ぎでもいい。
自分で言うのも何だけど、あたしよりもずっとオススメ物件。
代わりと言っては何だけど七瀬は女子によくモテる。主にタチ役的に。去年は主に上級生で今年は下級生に大人気だ。部活でもシャワーとかすっごく大変らしい。裸の社交場って大変よね。
とは言え、七瀬にはそうは言ったもののあたしの機嫌を悪くしているのは今朝のお手紙の事じゃない。
ちなみに差出人は紙や筆跡から判断するに多分一年生男子。二年や三年でこんな事をしてくるのはもういない筈。もし二、三年がやるなら連休前か夏休み前かな。今は季節外れの五月半ばだし、入学後からあたしの事を調べて、決行に到ったと言うところか。
でも、悪いけれど、あたしはこの子にきっと何の興味も持てない。価値観も生きている場所も違う。
普段ならあたしは微笑みの仮面を被り大抵の感情を表に出さない。ずっとそうやってきたし、これからも、少なくとも高校と言う組織に属している間は、あたしは仮面を被り続けるだろう。
でも。今それが無意識に外れかかっているのは、ここのところ起きているあたしの人生に於いては二度目となる深刻な事件のせいだった。
ぶっちゃけ、今は身体も精神も、特に心の方が疲れ果てている。
………正確に言えば、十年前に父親を失って以来の事件。
やらなければならない事は山程あり、成果は確実には掴めない情況。
(………本っ当にタイミングの悪い)
顔も名前も知らないラブレターの相手に、心の中で毒づいた。
*
名前はさっさと忘れた。
明らかに中学生から上がったばかりと言う雰囲気をまだあちこちに纏わりつかせている。
生真面目そうだけれどそれ以外取り得は無さそうにも見える。
例えば「高校生は彼女を作ってセックスしなきゃダメだ」とか、そう言う情報に洗脳されている感じ。
それが悪いとは言わないけれど、あたしはそう言う人間には興味を持てない。
とは言え、こう言うタイプの人間を雑に扱うと面倒な事になる。なまじ生真面目なだけに反転すると手間がかかってしまう。
丁寧に、でも期待を持たせないように断わる。高校に入学して一番上手くなったのが交際の断わり方って言うのも不毛な話よね。
幸いにも彼は思ったよりも簡単に納得して引き下がってくれた。時間を浪費しなかったのは本当に有り難い。
あたしもすぐに下校する事にした。一旦家に戻って宿題を片付けなければならない。夜はやる事がたくさんあるんだから。
*
あたしたちの街である花祭市は県の内陸部に位置している。
江戸時代に藩境に造られた城下町を起源とする地方の小都市だ。街道と大河を含む土地を支配したこの地は、常にそこそこの繁栄を得てきた。
災害や大飢饉にも何度か遭ったものの、壊滅的な状態には陥らず復興されてきたと言う歴史がある。
理由の一つは、江戸時代では藩内屈指の交通の発達で流通が発展していたから被害にもすぐに対処できたし、ここにはそれだけの価値と意味と財源があったからだ。
もう一つは、この地の繁栄を呪術的に管理する役目を持った一族が居たからだ。
江戸幕府を開いた徳川家康が繁栄の拠点とする江戸を平安京以上の複数にわたる呪術で組み上げたように、地方でも規模の大小はあったものの都市基礎に呪術を用いた藩は少なくない。
例えば仙台を中心に実質百万石以上の大藩を築いた伊達政宗は、早くから周辺の鎮護の寺社仏閣建築復興に力を入れたし、『仙台』と言う地名も言霊思想から改名されたものだ。
青森県にあった弘前藩では、徳川三代に仕え江戸を設計した事でも知られる天海僧正に教えを乞うて言霊の視点から藩の名前を決めたと言う。
で、ぶっちゃけ、花祭の土地ではあたしの家がその役目だったりする。
遡る事平安時代前期。陰陽術を始めとして呪術が加速発展し先端科学として政治に堂々と取り入れられていた時代。
従三位参議という高位に小野某と言う男がいた。この男、決して呪術者として知られた男ではなかったけれど、奇妙な特技を持っていたと言う。
それは生きたまま冥府に赴く事。彼は昼の間は朝廷に仕え、夜は冥府に赴き閻魔大王の補佐をしていたらしい。
ある夜、閻魔大王の前に一人の女が現れる。彼はその女性に見覚えがあった。それは彼の異母妹だった。いや、ただの異母妹ではない。
実は彼とその妹は密かに恋仲だったのだが周囲にバレて引き離されてしまい、妹はそれを理由に悶死していた。兄貴の方が平気だったのは彼が都を賑わすプレイボーイだったから。
報われないわね、妹。
ちなみにこの頃は異母血縁の結婚は一応有りな筈なんだけど、権力闘争や財産の関係上まず賛成されない関係なのである。
で、彼は死の国でなら憚る理由は無いと閻魔大王に頼み込み、彼女と交わる。こう言う男こそ真っ先に裁かれるべきだと思うのはあたしが女だからだろうか。
やがて彼女は死の国で子供を産むんだけれど、死の国で子供は育てられないから兄に子供を託し永久の別れをする事になる。目出度し目出度し。
近親相姦に死者婚とタブーのオンパレード。しかし、その子供が一応あたしんちのご先祖様らしい。成長したご先祖様は当時の科学技術庁兼気象庁的な陰陽寮に入って色々勉強したんだけれど、藤原氏台頭と共に実家が零落し、地方の地脈管理の役目を受けて都落ち。今の花祭市に根付くのでした。
実は朝廷は天武天皇の時代から龍脈、すなわち風水の技術思想を取り入れている。平安の陰陽術にもそれは取り入れられ、日本の霊脈を管理して泰平鎮護を行おうと言う流れがあった。
平安京を造った桓武天皇は同時に積極的な蝦夷侵略を行なった事でも有名だけど、彼は蝦夷の持つ豊かな資源を奪い取ると共に、日本全土の霊脈を朝廷によって押さえるように画策していたらしい。御先祖様の地方送りもそれと関係があったわけだ。
以来、あたしの家は花祭の龍脈管理役をやってきた。
言い方を変えるなら、あたしは文字通りの鬼子の末裔で秘術の類もしっかり伝承されているため、『魔女』って事になる。
*
ところが、その地脈の様子がここ数日急変している。遠城が管理制御していた呪術陣を構成する要の一つが破壊されていたのだ。
すぐに何か災害に到る訳では無いけれど、問題は別の所にある。
(………誰が、妨害しているのか、よね)
幾ら呪術陣を修復しても妨害している誰かが分からない限り埒があかない。
そして、そいつはあたしに、と言うよりもこの地を管理する遠城家に戦いを挑んでくると思って間違い無い。
だからここ数日、あたしは調査と来るべき戦いの準備に明け暮れていた。
………だと言うのに。今のところそのどちらにも進展が無い。
それなりに順応性のあるあたしの体力と精神力が余計に消耗しているのはそんな訳だった。
犯人の情報は掴めず、迎撃手段の構築は上手くいかない。
上手くいかない理由は分かっている。術に或る要素が足りないのだ。
ううん。敢えて、あたしはその要素を組み込む事を避けている。理由は様々だけど、現代でそれを手に入れるのはかなり面倒で困難でリスキーだった。
それを使わなくとも良い方法を模索して、今のところ全敗なのだから話にならないのだけれど。
その日の夜。あたしは街中を歩きながら様子を確認した。
地方の小都市らしいこぢんまりとした繁華街もまずまず賑わっている。
ほとんど変化が無い光景。
九割以上の人間には異変なんて感じ取れないのだから、何が変わるとも言えないけれど、目立つ余所者が入り込んでいたら噂くらいにはなるんじゃないかとちょっとだけ思ったのだが、相手もそこまで間抜けではないようだ。
地脈制御の呪術陣も、壊された一つを除けば正常だった。
これは予想通り。相手の狙いはやはりこの街の霊穴なのだろう。地脈を不安定にする事は相手にとっても本意ではないのだ。相手はあたしから『ここ』を奪い取りたいのだから。
街を一回りして少し肩を落とした。
今日も手懸りは無い。あたしは最後の場所である住宅街にある林に向かう事にした。
数年前の都市造成計画で周囲は宅地や道路になったけど、その場所だけは鬱蒼とした林のままだった。ここは制御術式の要の一点であり、霊穴のスポットなのである。
本来地脈の力は文字通り地下にある。それも桁外れに深い。
温泉とちょっと似ているかもしれない。それを引き上げるポンプみたいな役割を果たすのが制御術式で、それを仕掛けるのはどこでもいい訳ではなく力を押さえるポイントが存在する。この林にあるのはその中の一つで、実は何者かに壊された当の場所でもある。
あたしはここで仕込みを行なっていた。迎撃の為の装備を作っていると言い換えてもいい。力こそ低いがここは曲形にも霊地なので霊具のエージングには丁度良かったりするのだ。
今あたしが仕込んでいるのは、遠城家が代々引き継ぎ練り上げてきた最も得意とする秘術。………の、あたし流のアレンジ。これが失敗すればもう打つ手は一つしかなくなる背水の陣。
意を決してそこに置いていた物を取り出し掲げ持ってみる。
………失敗だった。
(………ううん、理屈は正しいけど、肝心の力の蓄積が遅過ぎる)
感じる限り、使い物にするには最低でも半年はここに置かなければならない。それではどう考えても間に合わない。おそらく時は近い。余裕はあと三日あるかどうか。
(………やっぱり、アレしかないか)
ところが。
あたしが結果にガックリするよりも早く、その声はあたしの耳に届いた。
「ななっ! ななななななななっ! ○▼□※ぃっ!」
何時の間にかそこに居た一人の少年と目が合った。
(うそっ? ここには普通の人は入れないように結界が)
大ドジだ。魔女である今の姿を一般人に見られるなんて。
でも、すぐに頭を切り替える。
見られた。それが事実である以上、あたしは彼から今の記憶を奪わなくてはならない。
しかし、魔力で金縛りをかけようとした瞬間、彼はくるりと振り返って一目散に逃げ出した。
藪の中のくせに随分と速い。あたしも手に持っていた物を地面に置いて上を跳んで彼を追う。元々ここはあたしにとっては開けた道路みたいなものだ。
彼は道路に飛び出すと、置いてあった自転車に乗って猛スピードで走り去っていく。自転車は予想外だったけれど、無論あたしもそれを追う。
(それにしても、なんであそこに来たんだろ?)
あそこには人避けの結界が張ってある。普通なら自殺志願者だって入ろうとも思わない筈だ。
それに、彼が居た場所はあたし用の入口のある場所でもあった。
(………まさか、あたしの姿を見られて追ってきた、とか?)
普通ならますます考えにくい。夜の街と言うのは女子高校生が出歩くのにはあまり向いていないから、あたしは夜回りの時は常に簡単な気配遮断の術をかけている。その術をかけたあたしを見付けられるのは同業者か魔物妖物の類だろう。
魔物妖物ではないし、まさか同業者にも見えない。あたしの顔を見て逃げ出す同業者なんて間抜け過ぎる。
………いや、そうか。確かに彼はさっきあたしの事を見ていた。ここに入る直前に術を解いたから、その時あたしを見ていても不思議は無い。
(………まあ、どっちにしろ口封じはしないとダメなんだけど)
猛スピードで自転車を飛ばした彼は一軒のアパートに入った。律儀に自転車を自分に割り当てられたスペースに止めている。それで彼の部屋が分かった。四〇二。
彼が部屋に入ってから襲うのは面倒臭い。あたしは彼の部屋の前に外から魔術補助による跳躍で先回りして手摺に腰掛けて数秒後の邂逅を待った。
やがて階段を駆け上がって彼が登ってくる。
「こんばんは。いい夜ね」
たっぷりの自虐をこめた言葉が口から出た。
まったく、こんな夜は初めてだ。仕込みが当てにならないと分かった以上、やるべき厄介事は増加したのに、更にこんな無駄な手間をしなければならないなんて。
腹が立てば立つほど顔が微笑むのは日頃の生活からか。
手摺から降りてゆっくりと油断無く彼に近付く。彼の一挙一動を見逃さない。万が一同業者であたしを誘い出したのなら罠があるかもしれなかったからだ。
もっとも彼はそんな感じは見せず、冷や汗を浮かべた顔で目だけを側のドアに向けた。
助けを呼ぶつもりだろうか。そんな事させる訳が無い。
「やめなさい。被害を増やしたいの?」
あたしは命令するように言った。それで彼の動きは今度こそ止まる。
あたしは尚もゆっくり近付き、言葉と目と魔力で金縛りにかける。言い換えれば通常の魔力式に聴覚・視覚を織り交ぜた物。絶対に失敗は出来ないから念には念を入れる。
「私だってこれ以上手間を増やしたくないのよ」
思わず本音がこぼれるが流しておく。
距離は充分詰めた。後は記憶消去の術をかけるだけ。
「大丈夫よ。何も気にしなくていい………」
そこで、あたしは思わず言葉を詰まらせた。
(………これは………まさか!)
記憶消去の術はその性質上相手の『本質』に触れなければならない。ありがちな外部からの暗示だけでは完全ではないからだ。
しかし、その為この術は危険過ぎて同業者等には使えないのだけど、本質に触れると言うその行為が稀に思わぬ副産物を拾える事がある。
あたしが触れた彼の『それ』は、なんと今あたしが最も望む『才能』だった。
「………そう。そう言う事。なあるほど」
こいつの『才能』なら、結界に入り込んだのもあたしを見る事が出来たのも可能性がある。
大ドジだと思っていた今夜の出来事が全部ひっくり返る。
いや、ひっくり返ろうとしている。
躊躇はなかった。
元々あたしは魔女としての生活が中心で、思考もそちらを優先する。これまで「そこ」に手を出さなかったのは単に面倒でリスキーだったからに過ぎない。
ここで、この幸運を逃がすようなら、この先とても魔女として生きてはいけない。
(こいつを殺して、あたしのモノにする)
湧き上がる久し振りの昂揚感に支配されるように、あたしはこいつの心臓を撃ち潰していた。
3 目覚めまして ~Re BIRTH~
夢を見ている時オチが見える事ってないだろうか?
例えば夢を見ているある時点から「これは悪夢だ」と分かるような感じ。
遠城麗緒。
彼女の夢を何度見ただろうか。日常風景のような夢もあれば、デートしたりキスしたりイケるところまでイッたりとお年頃の男子高校生らしい夢も見た事がある。
……しかしだ、こんな悪夢はかつて記憶に無い。
「………悪夢って、どんな?」
「………酷い夢だ。遠城さんに心臓を出刃包丁で刺されて、その後ノコギリで首を切り落とされた。手足はバラバラにされて、極め付けに頭蓋を割られて『中に何も無いわね』とか言われた。スポーツバッグみたいな物に首を入れられてファスナーが閉まって真っ暗になってジ・エンド。水平線に船が見えた」
「キャラごちゃ混ぜじゃない。アニメの見過ぎだっての」
酷い事を言う。と言うかネタ元が分かる時点でそっちも相当な物だろうに。
……ところで、俺は今誰と話してるんだろう?
俺は一人暮らしの高校生。寝ても一人。起きても一人。朝、誰かに声をかけられた事などここ一年近く無い。
まして朝俺を起こしてくれる幼馴染の女の子などいない。
「意識は戻ってるみたいだし、とっとと目を覚ましなさい。時間は限られてるんだから」
不機嫌そうな刺々しい言葉に導かれるように、瞼が開いて光が入ってくる。
「うおっ」
眩しさに手をかざして光を遮る。
「ふむ。動けるみたいね。どこか変な感じの所はある?」
声のする方に顔を向けると、そこには彼女の顔があった。
「遠城………麗緒?」
チラチラと揺らぐ明かりだったが、目の前に居るのは間違い無く彼女だった。
しかし、俺の良く知る学校での彼女とは随分と表情が異なる。
誰からも愛されるような天使の微笑ではなく、周囲から孤高であろうとする鉄の表情。
もっとも、瞳に殺気を宿していないと言う違いはあるが、俺はその顔を知っている。
不意に網膜に体験が蘇る。
夜中に彼女を見かけ、後を追い、首を掲げた姿を見て、逃げて、それなのに部屋の前に居て、邪悪な表情を見せて、俺は………。
「つまり、これはまだ悪夢の続きだって事だ。これはレクイエムの力か?」
しかし永遠に終わらないのはかなり困る。
「これは夢じゃないのよ。あんたはさっき一度死んで、あたしがここに連れて来たの」
「………ここ?」
周囲に気を回す余裕も無かったのでわからなかったが、そこは石造りの部屋だった。
用意されている照明は何と三叉の燭台。チラチラと揺らいだ光は、なるほど炎の物だったらしい。こんな場所で火を焚けばすぐに空気が悪くなりそうだが、どこかに換気能力があるのか、気になるような事はなかった。
上半身を起こすと、俺が何に乗せられていたか判明した。
「………これ、あれだよな。病院とかで急患を乗せて運ぶストレッチャーとか言うやつ………」
それも、かなり使い込まれているやつ。否。使い込まれていると言うか、サビが浮き上がっている気合の入った年代物だ。
………石造りの部屋に燭台に囲まれて、サビの浮いた鉄パイプで構成されたこれがあるのは違和感とホラー感が満点だった。下手なお化け屋敷よりも嫌な汗をかく。廃病院を舞台にしたホラーゲームに迷い込んだ感じがする。
「急な話だったし、手頃な物が無かったのよ。まあ床に直に転がしても良かったけど、そうするとあたしも大変だし」
「石の床に転がすなよ!」
「いちいちうるさいわね。で、動ける? 動けるなら着いて来なさい。動けないならしばらくそのストレッチャー使っていいから」
全力で御免被る。
俺は床に降りて手足を確認した。着ているズボンや靴は同じ物だったが、上半身は裸だった。
「裸? 何で? ホワイ?」
「色々処置した時に破いたの。はい、これ」
袋に入ったままの新品のTシャツが渡された。ロゴも入ってない無地の白Tシャツ。
「それはあげるわ。でも他は自分で着替えを用意して」
彼女はそう言うと石壁の一面にある鉄の扉を開けた。
(………まるで牢屋みたいだ)
あるいは軟禁されて命を賭けた無理難題に挑戦するような場所とか。
こんな所に長居はしたくない。
急いで渡されたTシャツを着て、彼女を追って通路に出る。
部屋と廊下では雰囲気は一変する。
割と近代仕様のコンクリート壁だ。窓は無い。照明も型は古いがきちんと外付けの蛍光灯が据えられている。扉から歩いてすぐの場所に、やはりコンクリート製の登り階段。
ますます地下室っぽいな。とは言え、雰囲気は最悪だ。この食い違いが余計にホラー臭い。
「………ええと、ここは一体、何処なんだ?」
彼女の後に着いて階段を登りながら訊ねた。
「静ヶ丘って知ってるかしら?」
「知ってる。病院の廃墟で有名なとこだよな」
元々静ヶ丘は小高い山の麓に広がる古い歴史ある住宅地だった。
しかし、今はほとんど人が住んでいないゴーストエリアである。都市開発のルートから外れてしまい、不便になってしまった事が理由の一つ。
もう一つは、前述した病院に関わっている。
『静ヶ丘の廃病院』と言えば地元民では知らぬ者無しと言える花祭心霊スポットランキング上位の常連。
元はかなり大きな個人病院だったらしいのだが、今から十年ほど前に一家が忽然と行方不明になり廃業。それも夜逃げではなく、どうも何かとんでもない事件があったらしい。
この話はかなり有名で、当時遊び盛りの小学生だった俺は両親から絶対近付くなと釘を刺された。
俄かに信じ難い話だが、そう言った事件の噂が僅か数年で住宅地を丸々一つ寂れさせた。人間の噂は時として猛毒にも勝る力を持つって事だ。人間って怖いですね。
今は気合の入った廃墟マニアですら恐ろしくて近寄らないと言われている。
ベッド目的に忍び込んだ不届きなカップルが錯乱状態で発見されたとか、かつての入院患者の霊に祟られるとか、殺人医師の霊に捕まると麻酔無しで脳手術されるとか、汲み取り式の和式便所の便槽に宇宙人の死体漬があるとか、その手の噂話も大量にある。ゾンビが夜な夜な盆踊りを踊るって話もあったな。八〇年代B級ホラーは偉大過ぎる。『死霊の盆踊り』は1965年だが。
階段を登りきって扉を開けると、目の前に暗闇を満たした伽藍とした空間が広がった。
いや、ただの空間じゃない。廊下だ。それも非常に特徴のある造りの廊下。
窓が無く両脇には手摺が据えられている。横に開くタイプの扉が右脇に見え、待合用なのか古びたビニール張の長椅子が一脚ポツンと置いてある。
俺たちが出て来たのは廊下の突き当たりの部分だった。隠し扉でも何でも無く、ごく普通の扉だ。とてもあんな地下室に繋がっているとは思えない。
「その有名な廃墟がここよ」
なぜか遠城麗緒は不機嫌そうに言った。
「………マジか? って言うか、なんで」
しかし、言われてみれば正に病院だった。床は古いが病院でお馴染みの足音がカンカン響くリノリウム。隅に積まれている器具などもよく見ると古い点滴台や古い車椅子など病院アイテムばかりだった。
錆びた金具に闇が纏わり付いて不気味過ぎです。今にもメスを持ったマネキンみたいな看護婦が闇の向こうから出てきそうです。勘弁して下さい。
「ここはあたしの家だから」
返答は短いが、驚くべき内容だった。
………家? マイホーム? どっちかと言うとスウィートホームだと思う。もちろん映画の方。ゲームでも可。
「………うそ、だろ」
「嘘をつく理由なんてある? なんなら後で表に出て看板見てみなさい。十年間手入れしてないからかすれて読みにくいかもしれないけど、『遠城医院』って書いてあるわよ」
廊下を歩いて行くとすぐに待合室にやってきた。全てに於いて個人で経営するには随分と広い建物だ。窓が板で打ち付けられているのが痛々しいと言うかおどろおどろしいのだが。
「元々、明治の終わりに出来た病院なのよ。一応花祭で正規開業第一号よ。だから出来るだけ広く作ったのよ。当時の病院って言ったら評判が悪いのが普通だけど、うちはそれなりに評判良かったみたいね。あとは何回か改築と増築したらしいわね」
彼女はそう言いつつ、待合室の椅子に埃を払って座る。俺にも座れと言う事だろう。
「言っておく事が色々あるから、とにかく座りなさい。時間も無いのよ」
「そう言えば、あれから何時間経ってるんだ?」
腕時計もケータイも無い。こんな廃病院の時計は動いていても当てにならない。
「二時間半くらいね。ここに運んで処置をしてから一時間くらいだから、やっぱり凄いのかも」
(処置? 凄い?)
いや、そもそも俺の身に一体何が起きたのか。それから訊かなければならないだろう。
「……説明、してくれるか?」
「もちろんよ。これからのあたしたちに関係ある話だし。まず、一番大事なところからね。あんたは二時間半前に死んだの」
「は?」
「殺したのはあたし。以上。分かったわね」
「わ、分かったわね、って。俺、生きてるよな?」
分かれと言われて一発で受け入れられるほど簡単な内容じゃないぞ。
第一、俺は起き上がってここまで歩いて来た。別に不自由な部分も無い。
「生きてるわよ。ここは天国でも地獄でもない、あたしたちが住む街に間違い無いわ」
「じゃあ死んでないよな? ええと、あれか。仮死状態だったって事か?」
「違うわ。『死んでいた』じゃなくて『死んだ』の。一度死んで生きているモノは『人間』とは呼ばない。今のあんたは人間の形をした別な物よ。実際、中味も違うしね」
「………じゃあ、俺は一体なんなんだ?」
人間扱いされない言動に戸惑いながら、俺は彼女に訊ねる。
「業界的にはリビングデッドの一種。専門用語では《躯体》。そうね。簡単に言えば使い魔ってところかしら。もちろん、あたしの」
ロクな答えが返って来ないだろうとは頭の裏側では思っていたが。なんだ、そりゃ?
「意味が分からないって顔ね。ま、別に今すぐ理解する必要なんて無いけど」
「………まさか、俺は、ぞ、ぞ、ゾンビになったのか?」
「………映画やゲームのゾンビとは違うわよ。使い魔と言う意味なら、語源の『ズンビー』には近いかもね。あれはヤク中にして洗脳して命令をきかせる物だけど。簡潔に説明するなら、あたしがあんたを殺して、使い魔に作り変えたって事。これからはあたしをマスターと呼びなさい。あんたはあたしの下僕なんだから」
………着いて行けねえ。
普段見る学校のアイドル遠城麗緒とギャップがあり過ぎるのもイマイチ現実感を掴めない原因だったりする。
「遠城………。あんた一体何者なんだ? どう考えてもオカルト系の方に傾いているみたいなんだけど」
俺の情報網の何処にもそんな話は無かった筈だ。
と言うか、遠城麗緒がオカルト系だったら、俺はきっと今頃『MMR』を全巻揃え、『ムー』を定期購読している。なんなら古本屋で『ショックサイエンス』を捜し回ったかもしれない。
「馬鹿な事言わないで。あたしは正真正銘そっちの世界の住人よ。あたしは『魔女』だもの」
「………自称か? ええと、何て言っていいんだか。大丈夫?」
凶悪な目で睨まれた。怖い。黒髪の美少女なだけに余計怖い。
背景が廃病院の待合室で、板で打ち付けられた窓とか見えて、ホラー風味が五割以上増し。怖いよ、ホントに。
「………心臓」
地獄の底から響くような低音で彼女は呟く。
「へ?」
「心臓………は、分かり難いか。ううん、脈を取ってみなさい。取れるもんなら」
言われるまま中学の保健体育の授業で習ったとおり脈拍を取ってみる。
………いや、取ろうとした。俺の腕はどこを押さえても、脈動が見付からなかった。腕を変えても駄目。
「聴診器があれば心臓が分かり易いんだけど。うん、動いてないから。聴診器で訊くと本当ならメトロノームみたいに忙しいけど、今のあんたは何も聴こえないから」
「マジかよ………」
「その代わり別な物を詰めてあるから生命活動は出来るわよ」
知らぬうちに俺はオカルト技術で改造人間になっていたらしい。
って事は、今こうして遠城の話を聞いているのは、秘密組織に改造人間として協力するかどうかと言う場面に重なる。
父親がマッド科学者にならなくても、俺の運命は改造人間だったのか。
「言っておくけど、あんたはあたしに絶対服従しか道は無いわよ。使い魔ってそう言う物」
………なんかさっきから俺の心が読まれているような気がするんだが、俺ってそんなに表情に出易いタイプだっただろうか。
「私は正真正銘、魔術の世界に身を置く魔女。………ま、現代の一般日本人やってりゃ当然の反応かしらね」
表情から険が取れる。そうすると他者を魅了してやまない天使に戻るのだから不思議だ。女ってすげえ。
「そもそもオカルトなんて区別される事自体心外なんだけどね。メディアでは隔離されてバカにされるけど、より人間の内面を総括するのは科学ではなく歴史が積み上げた魔術。心理学や近代哲学なんて千年以上も昔に魔術が到達した物をアルファベットで翻訳しているだけよ。本当は世界の各地には魔術による文化が連綿と続いているの。アメリカや中国、旧共産圏や独裁者が知識階級を弾圧したような国の例外を除いて、ほとんどが各国政府の認可を受けているしね。ヨーロッパなんてあたしクラスの魔術師や魔女はあちこち腐るほどいるのよ。あたしの家も平安朝から長く続いている、割と由緒正しい家系」
「平安朝? 千年かよ!」
「本当かどうかは知らないけどね。何しろ、家系図の一番上にいる人物の出自からして怪しさ爆発なのよ。何しろ出身が地獄だから」
出身地地獄ってなんだよ………。どこの超人だ。
いや、そもそも千年前からの家系図がある事自体が凄いと思うが。俺ん家なんて家系図なる物を見た事も無い。
「そのせいかどうか知らないけど、あたしの家系は代々『屍人役師』、西洋風に言えばネクロマンサ―。死体から人間の死を研究する魔術なの。究極の目的は反魂だけじゃなく、無からの完全な死者復活。日本の主流魔術は神道や真言密教、陰陽道だけどそれと比べてもうちのは異質で交流があんまり無いのよね。あんたがさっきまで居た所も霊安室兼研究実験場。医者と兼業してるのも生死に関わる生業だから、代々ずっとね」
「………てっきり隔離病室かと。あ、じゃあもしかして成績優秀なのは、医学部志望って事か」
「そう言う事。………ま、別に学閥に興味は無いし、医師免許取れるなら何処でもいいんだけど………今は関係無い話ね、これ。死体のあんたを改造した技術もうちの物。これがこの三時間未満で起こった事の全て。質問は?」
「一つある。………なんで俺だったんだ?」
俺と遠城麗緒の間に今日に到るまで何かイベントがあったとは思えない。去年クラスメイトだったのに言葉を交わした記憶すらない。
少なくとも遠城麗緒にとって海上真也はその他生徒でCVも紹介されないエキストラの筈だった。
つまり、俺は今夜の出来事が理由で殺されて改造されてしまった、と言う事になる。
………あんまりと言えばあんまりだ。と言うか、他ならぬ遠城麗緒の願いなら口止めくらい幾らでも応じただろう。
「………やっぱ、アレを見た口封じって事なのか?」
殺して口封じし、死体を使い魔に再利用したとかそんな感じなのだろうか。コストとか段取りとか悪そうな気もするんだが。
「そうね。最初は口封じだけをするつもりだった。まあ記憶操作程度だったんだけど、その術をかけようとしたお蔭で、あんたがあたしの求めていた最高の材料だって分かったのよ。だから殺して材料にしたの」
………なんだかこう、最近月一程度で発生する凶悪通り魔事件犯人の供述を聞いているような感じだった。「そいつが持っていた新型タブレットが欲しかったから殺して奪い取りました」とか、どうもそんな感じに聞こえるんだが。
俺の命とか人権とか、そう言う物は何処に消えてしまったんでしょうねえ?
「言い換えれば天に与えられた才能と言っても良いわね。才能を最高に活かせる場に連れて来たんだから、感謝こそされても恨まれる筋合いは無いわ。才能を活かせる人生なんて百人に一人も通れない道だもの。ま、人間の身体は失ったけど、瑣末な問題よね」
瑣末じゃねえよ、他人事だと思って。
「別にあんたの意見なんて関係無い。これからはあたしの下僕。逆らえば死体に逆戻りよ。もちろんあたしも主人としての義務は果たすし、仕事もたっぷりあるから遣り甲斐はあるわよ」
『遣り甲斐』と言う言葉は都合の良い時にしか使われない言葉だと思う。
「取り敢えず寝床はここ。部屋もベッドも山程あるし好きなの使っていいわ。まあ快適に過ごしたいなら掃除は自分で」
まるでペットを買ってきたばかりの発言。世話をしない分、扱いがペット以下ではあるが。
「ちょ、ちょっと待て! 俺にはちゃんと家が………まあアパートで今俺しか住んでないけど。だけど、とにかく帰る場所があるんだ!」
少なくとも廃病院よりも遥かにマシな環境の場所が。
しかし、マスターは冷たく俺の言い分を蹴飛ばした。
………と言うか、何気に俺の思考も彼女の下僕である事を認め始めている気が。大丈夫か、俺のアイデンティティ。
「却下。あたしの住む場所にあんたも住む。使い魔の常識よ」
「遠城もここに住んでるのか?」
俺は床を指差して訊ねた。見た限りではとても人の住める環境には見えない。幾つか利用している部分はあっても、基本的にそれ以外は掃除もされてないようだし。
「あたしが住んでいるのは、裏にある生活用の別棟。当然でしょ。あー、良かった。ちょうどこっち側の管理人が欲しかったのよ。掃除する場所は幾らでもあるし、人の敷地に入り込んで盛る奴とかいてさ。中味入りのゴム投げ捨てるのよ。別に性道徳語るつもりは無いわ。あたし魔女だし。ただ、あたしのテリトリーにゴミを捨てるなって言うのよ。休憩代払うなら考えてもいいけど。頭きたから、そう言う奴はとっ捕まえて色々記憶いじって道端に投げ捨てた事もあるのよ。財布の中身も没収して」
それは窃盗だ。知ってるか? 財布を拾ってネコババすると刑事罰なんだぞ。
「………そう言や前にここに忍び込んだカップルが錯乱して保護されたとか聞いたな」
てっきり都市伝説かと思ったが。
しかし、この調子じゃこの病院が復興する事なんて有り得んな。評判ベクトルが地面に向かってほぼ垂直に落ちてるもん。
「まあ、魔女の敷地に入ってスープのダシにされずに済んだだけマシよね」
殺された俺の例があるから、それが確かにマシな方だと言う理屈は分かる。
だが、それだけじゃない。
遠城麗緒と言う人物は、つまるところ目的の為なら人も殺せる、一般社会倫理を持たない人間なのだ。
彼女を縛っているのは道徳や倫理ではなく、言わば擬態の為のルール。
コノハチョウが木の葉の形を真似るように、ナナフシが小枝を真似るように、彼女は人間社会に存在する為、優等生の女子高生と言う形を作り維持しているに過ぎない。
頭脳派の殺人鬼が集団の中で目立たない生を営むように。
この病院を建てたと言う彼女の祖父か曽祖父辺りが地元に愛されたと言うのも理由は多分同じなんだろう。
造られた形を意図的に維持する。それは偶像と同義だ。
あの世界では素の人間が売れる割合はおそらく一パーセントにも満たない。ポップスをやりたい青年がデスメタルでしか支持されないように、本人の意志は必要無い。
好かれるように作られる。
愛されるように作られる。
親しまれるように作られる。
そう、観る者たちが支持する物を作る。それがイコールで結ばれる方程式だ。
なるほど、彼女の人気が異常な筈だ。彼女のファンは、テレビの向こうにいるプロデュースされたアイドルのファンと同じ。作られた物、自分たちが望む物に熱狂しているだけ。
『魔女』。彼女は自分をそう言ったが、今の俺ならそれを肯定する。
彼女は魔女だ。それも、極めて危険で悪質な部類に入る魔女だ。善い悪いで言えば後者。
ヘンゼルにはグレーテルがいたわけだが、俺には誰もいない。俺にとっての相方の理想だった少女は実は魔女だったと言う大オチ。
もしこれが、今年の正月に掛けた願いが神様なりキューピッドなりに受理された結果だとしたら、俺はあらん限りの声を振り絞って、天に向かって叫ぼう。
「詐欺だ」と。
………まあ世間に氾濫する情報を整理すると、恋愛の九割は大なり小なりそんなものなのかもしれないけどな。
4 エンカウント
「………そう言えば、名前訊いてなかったわね」
言うべき事は全部言ったから後は明日、と言って椅子から立ち上がった後、彼女はふとそう言った。
………ところで………俺、元クラスメイトですよ? 俺、認識すらされていなかったのか。あの教室で。
「………去年、クラスメイトだったんだが」
「………そう? ……ふーん。覚えてないわ。クラスメイトなんか興味無かったし。使い魔の名前をマスターが知るって言うのは重要な儀式だから聞いてあげる」
とことん自己中心な人間なのな。
「海上真也。海の上って書いてミカミと読む」
「………ふん。ちょっと変わった名字ね」
「読み方だけな」
自慢にもならないが、フリガナ無しで「ミカミ」と呼ばれる事は無い。
入学式直後の点呼では平仮名だった小学校低学年以降はほぼ全滅。電話でセールスしてくる連中も十人に八人は間違える。
どうせ由緒正しき平民だったご先祖様が四民平等になった時に付けた姓だと思うんだが、なんでそんな読みを振ったのかは謎。『申請の際に間違えた説』が今の所有力だ。
「何か気になる事でも?」
「ちょっとね。あんたの才能ってレアだから、ひょっとしてそう言う家系なのかなって思って。名字は一番簡単な手懸りだしね」
「まさか。うちは先祖代々これと言って特徴の無い平民さ。もう亡くなったけど、父方の爺さんも婆さんも花祭出身らしいし。……と言うか、そう言う家系だったらどうするつもりだったんだ?」
「材料キープしておこうかな、って」
人の家族を材料呼ばわりとは。しかも本人の目の前で。いい度胸と言うか、やはり根本的に何か違う。DIO様なタイプだ。
「零落した家系って可能性もあるけど、血は何もしなければ薄れるし、大概そう言うのは力が死んでいるのよね。だからあんたは先祖返りなのかも」
褒められているように聞こえなくもないが、嬉しくない。全然。
「………でも、花祭は川と山に囲まれていて海が無いのに『海上』か。名字の意味って大事よ。漢字は平凡でも読みの意味はずっと古くから地域とか家に伝えられてるって事もあるし。漢字にだって強い意味が与えられる事もあるしね。あたしの『遠城』の意味って分かる?」
「遠い城?」
「………そのまんまじゃない。『遠』って言う字にはね、元々死者の国、異世界って意味があるのよ。『城』って言うのは境、柵、ランドマーク。つまり『遠城』って言うのは此の世と彼の世の境に居るモノと言う意味があるの。うちにピッタリでしょ」
なるほど。そう言われると魔女であると言う彼女の家にピッタリの名字と言う気がしてくる。
ただ、日本全国の『遠』と言う漢字を名字に持つ方々には迷惑千万な解釈かもしれん。
「城の他にも川とか坂とか道とか山とか江………海もそう。他にも似た意味合いを持つ字もあるわね。有名な所で言うと、岩手県にある遠野。あれは元々蝦夷の言葉から由来する名前だと思うけど、そう言う字を与えられた意味が土地に有るって事よ。『遠野物語』の名前くらいは知ってるでしょ?」
名前くらいは。民話の代表くらいの知識しかないけど。
「………ま、そんなものか。じゃ、こっちの管理はよろしくね」
遠城は本気で俺をここに住まわせる気らしい。一戸建てに男を入れると言えば、女社長の愛人みたいに聞こえるが、入れられる場所が廃病院では監禁に近い。何のサイコホラーだよ。
「あら、分かってるじゃない」
俺の感想のどの部分に賛同したのかは聞かないでおこう。怖いし。
彼女は俺の方も見ず外に出ようとしたけど、まあ見送りくらいはいいだろうと思って入口まで着いて行くことにした。
まるで仕事に行く飼い主を見送る室内犬か、あるいは忠犬みたいな行動だが気にしない事にする。気にしたら負けだと思う。
入口には下足箱がある。もっとも今は土足可同然の状態で彼女もそれを気にしてはいないようだった。そう言えば俺も靴を履いている。
と、その時だった。
PPPPPPPP
(うわっ!)
静寂には充分過ぎるほど響くアラーム音。心臓に悪い。ケータイか? 短く切れたからメールの着信だろう。俺は持ってないから、鳴ったのは遠城のケータイって事になる。実際、彼女は制服のポケットからケータイを取り出して画面を見た。
後ろ姿なので表情は見えなかったが、纏う雰囲気が変化した事にすぐに気が付く。
短い時間だが彼女と一緒に居て少しだけ分かった事がある。彼女は『敵』に対して遠慮も容赦も無い。第一に撃滅を目的にする。雰囲気が変わるのはそのスイッチが入るからだ。
「………誰か来た」
「誰か、来た? なんでケータイ見てそんな事が分かるんだ?」
「来客感知機ってあるでしょ。あれを自宅のパソコンサーバーに繋いで、反応があったらケータイに回すようにしてるの」
出来るのか、そんな事。いや、そもそも魔女が使うツールなのか?
「ちょっと理由があってね。便利なのよ。それはそうと、とにかくここに誰か来るみたいだから、あんたの初仕事よ。『ここは私有地だから帰れ』って言ってきて」
「自宅じゃなくてこっちかよ」
「そうよ。ま、途中まで道は同じだし、忍び込んでくる連中がいるんで設置したのよ。そうね、そこにある点滴台か一人用の椅子持って行きなさい」
待て。ちょっと待て。
点滴台や椅子を愚カップルに対してどんな目的で使えと言うのだ。まさかプレイに使えと差し出すわけじゃないだろ。
「椅子は便利よ。街中を持ち歩いても職務質問されないのに手軽で破壊力があるから」
何の話だよ。と言うか真夜中にそんなもん持ち歩いていたら外見だけで十分犯罪者だっての。
「あんたが何を考えるかは自由だけど、あたしの命令は絶対よ。あんたがこれからどれくらい生きて行けるかはあたしの考え一つなんだから」
そう言うと、遠城はポンと手を叩いた。
すると、俺の周囲が真っ暗になる。
………違う。なんだこれ?
眠りとも気絶とも違う。どこか闇の中に放り込まれたかのような感覚。
上も下も分からない。そもそもそんな物があるのかも分からない。
冷える。何もかもが凍えそうな。
スイッチが入り電気がすぐ灯るかのように、景色が戻った。
「い、今のはなんだっ?」
俺を見る遠城の顔に悪魔の笑みが浮かんでいる。
「あんたの機能を休止させたの。スイッチを切った感じ? 今のあんたはあたしの使い魔。あんたを動かしているのはあたしの魔力よ。それを送らなければあんたは今みたいに機能停止するわ。どう? もう一度止まってみる?」
………冗談じゃない。俺はしっぽを引っ張られた猫型ロボットか。
「やるよ。やればいいんだろッ!」
仕方無いので俺は手頃な椅子を選んで外に出た。
椅子は割と軽い。月明かりのおかげか、結構明るいので迷う事は無いだろう。裏を返せば、相手も俺の事が見えるって事になる。今の俺は椅子を持っている。立派な外見犯罪者だ。通報されない事を祈ろう。罪状は差し詰め『人類の平和な夜を騒がせた罪』だろうか。
しかしまあ、初仕事がカップルの追い払いならかわいいものだ。椅子だって要は使わなきゃいいのである。核ミサイルだって作っても使わなければいい。核ミサイルの維持費は人民が餓えるほどベラボーに高いが椅子は持ってるだけだ。仮に職質されたら「友達に椅子を貰って持ち帰るところです」とでも言えばいい。
もっとも、相手がすでにこう、互いにべったりとくっついていたり口と口でがっぷり大相撲なんぞしていたりしたら、さすがに温厚な俺も核ミサイル、もとい椅子を投げるかもしれない。市は路上での迷惑行為禁止条例に対カップル戦略を付け加えて貰いたいもんだ。
病院から出てしばらく車二台分ほどの道を歩くと、確かにこちらに歩いてくる人影が二つ見えた。幸いと言うか距離をとって歩いている。
………体型からして男女ではなく男×2。距離を取っているところからしてカップルではないのだろう。
それにしてもそうか、そう言うハッテン的な可能性もあったわけか。もしそんな光景を見てしまったら、俺の頭はどうなっていたか分からん。
(しかし。肝試しにしては………様子が変だな)
充分俺に気が付く距離なのに、こっちに気付いた気配が無い。態度にも歩くスピードにも変化が見られない。
(………クスリ、か? ラリって前後不覚になっているとか)
大都市から遠く離れた田舎町なので、そう言った物が近場で出回っていると言う話はまだ聞いた事が無い。
でも、流通やらネットが発達した現代なら手に入れる方法はそれこそ山程あるだろう。クスリを楽しむ為に夜中人気の無い場所を選ぶ、と言うのもちょっと分かる。
もっとも、ラリっているにしては歩調がしっかりとしている。
しかし、そもそも正常だとしたら、懐中電灯も無しに歩くだろうか? 今は月明かりがあるけど足元は結構不安ではないのか。
それに、この先がどう言う場所なのか知っている人間が、明かりも無しに歩くだろうか?
嫌な予感がする。それも、これまで感じた事の無い類の、真っ暗な底無しの闇を覗き込む直前のような、そんな感じだ。
顔立ちも見て取れる距離に入った。
………歳は二十過ぎ。でも………日本人じゃない。片方は多分中国系。後ろに居るのは日焼けした東南アジア、フィリピン系。どちらもアロハみたいなシャツでチンピラ的服装をしている。
多分と言ったのは二人ともお揃いのサングラスを着けていたから、はっきりと分からないのだ。
まだ外国人が闊歩するのも珍しい地方小都市に出没するにしては随分とダークでカオス側な感じがする。俺のアパートの同じ階に住む留学生は一応外見秀才風なんだが。
嫌な予感が音速のハリネズミみたいにヤバイ加速を始める。
相手はここまで来ても歩調が変わらない。俺が見えていないのか。そもそも電灯も無しに良道でサングラスなんかかけて大丈夫なのか。
距離は五メートルを切る。ここまで来ても二人の様子は変わらない。
まるで、俺の姿が目に入っていないような、
そこで、
臭いが鼻を突いた。
臭いは二種類。一つは抹香。寺で嗅ぐ臭いだ。もう一つは恐ろしく不吉でおぞましい臭気。
(………って、これ死臭かっ!)
それに気が付くや否や、俺は椅子を思いっきり横にスイングして手前の中国系の頭をぶっ叩いていた。
ほとんど反射の領域だ。更に返す刀ならぬ返す椅子でフェリピン系の頭もぶっ叩く。二人は時代劇のやられ役みたいに盛大に地面に転がった。ここまで三秒とかかってない。
こっちは再び椅子を構え、転がった二人の方に身体を向けた。
着替えたばかりの真新しいシャツの背に嫌な汗がべったりと滲むのが分かる。一度死んだ俺でも汗をかくのかどうかは知らない。もしかすると別な物なのかもしれないが、それは反射的にいきなり相手に殴りかかってしまった事に対してじゃない。
ヤバイ。こいつらは何かヤバイ。
どこかおかしい。いや。どこもかしこもおかしい。
人間の姿をしているのに人間のルールに従っていない。他人の事は言えないのかもしれないが、まるで死体が服を着て歩いているかのようだ。
その直感は当たっていたらしい。
首が折れてもおかしくない打撃だったのに、二人は平然と立ち上がった。
立ち上がったと言うよりは操り糸か何かで上に引き上げられたみたいだった。自分の意思、みたいな物を感じさせない動き。それだけでゾッとする。
何より、顔にかかっていたサングラスはさっきの攻撃で外れていたのだが、その下にあった瞳は人間の物ではなかった。いや、此の世に生きる生物の目じゃない。
まるで死後硬直して見開かれた瞳のように限界を超えて開かれて、濁った金色で焦点の合わない瞳が中で爛々と輝いている。
何時の間にか前に構えられた手には猛獣のような鉤爪。裂けるほど開かれた口には悪鬼の如き門歯。
どう見積もっても人間と呼べるモノではなかった。
「こっ、こっち来るなあぁっ!」
悪い予感的中。そいつらはまるで獲物を見付けた肉食獣みたいにこっちに向かって飛び掛ってきた。
当初の目的に近い言葉を叫ぶが、さっきまでの緩やかな歩行と打って変わってこちらに対して猛烈に攻撃を仕掛けてくる。
叫びながら放った三度目の椅子攻撃は止められて椅子をグンニャリと曲げられてしまった。
なんつー馬鹿力だ。もう武器に使うのは無理そうだった。
得物は無くなり、向こうは牙に鉤爪に怪力。たぶん人間の肉なんかテーブルナイフ使うよりも簡単に千切れそうだ。
ピョンピョン跳ねるように連続で襲い掛かってくる。こんな事なら点滴台も持ってくりゃよかった。こいつらに対して役に立ったかどうかは分からんが。
逃げようにも二対一ではそれもままならない。
使える武器は自分の拳と脚だけ。生まれて初めてかもしれない素手喧嘩の相手がよりにもよって化け物だとは。
と言うかもう喧嘩とは言わない。生きるか死ぬかの言葉通りデスマッチ。
「おりゃあ!」
中国系の腕を掻い潜り、型もへったくれもないゲームで観て覚えたパンチを鳩尾部分に打ち込む。鳩尾は素人でも人を殺しうる必殺のポイントだ。ボクシングでも最悪の一撃と呼ばれる急所。
…………が。
(かっ、硬えっ!)
まるで分厚い鉄板をぶん殴ったような衝撃が返ってくる。
相手も吹っ飛んだが俺の手も衝撃でどうにかなってしまいそうだった。
壊れはしないが響く。それでも怯んではいられない。相手はもう一体いる。仲間が倒れたのにも目を向けず、フィリピン系が襲ってくる。
俺を攻撃しているのにこの二体には感情の一つも浮き上がらない。映画なんかじゃ幽霊だって怨念と言う感情を持って人間を祟るが、こいつらにはそう言うものが皆無だ。人形かよ。
一体だけなら避けるのも簡単だ。飛び掛ってきた相手を避け、爪先蹴りで脇腹を思いっきり蹴る。
(ぐおわっ!)
………やっぱり鉄板みたいだった。しかしその一撃で、フィリピン系も地面に転がる。中国系はまだ起き上がってこない。椅子の時はあっさり立ったんだが。とにかくチャンスだ、これで逃げられる。
(遠城なら何とかできるんじゃないか?)
俺がそう思った時だった。
「参ったねえ。折角高い金払って持ち込んだって言うのに。露払いにも使えないなんて」
俺でも遠城でもない。第三者の声が聞こえた。
*
道路の向こうの闇。二体の化け物がやってきた向こうから、そいつは姿を現した。
雑魚を倒したらボスがやって来た。
それはまさにそんな感じだった。
さっきの二体と違い、人の言葉を喋るし人みたいに動く。
ああ。確かにちゃんと人の形はしている。人間なのは間違い無い。だが、そこに纏う雰囲気は、例えば連続殺人犯よりも性質の悪い腐った闇色だ。
そいつは遠目でも目立ちそうな赤い生地に金のボタンを飾ったスリーボタンスーツを着た男だった。
白のシャツにネクタイではなく微妙に色合いの異なる白いスカーフを巻き、赤い山高帽を被っている。踵のある革靴も赤。左手に持つステッキも赤。
まるで道化みたいな赤い姿の男だった。
そこまで派手にも関わらず、そいつはまるで闇から滲み出たみたいにそこに現れた。
日本語は流暢だが顔付きはヨーロッパ系。それも地中海側の陽気さを漂わせる。外国人の年齢を推測するのはは難しいが、たぶん二十代後半の男。細身の長身で割と美形。
何もかもぶち壊しなようなスタイルなのに、夜の闇が奇妙に良く似合う。
「やっぱり安物の僵尸は駄目だねえ。ネクロマンサーの土地だから使えるかと思ったのに、力負けしてるんだもんな。そこは、さすがと言うべきところだろうね。うんうん」
男は地面に転がって動く気配の無い中国系の頭を軽く蹴った。
ん? そう言えばまだ起きて来ない。
って言うか、今この男、何て言った? キョンシー? キョンシーってあれか? 中国のゾンビ妖怪で両手を前に出してピョンピョン飛び跳ねるやつ?
そう言われると、確かにこいつらの動きにはキョンシーのような特徴があった気も。
「まあ今日のところはここまでとしよう。日本で言う小手調べと言うやつさ。さて、君の御主人様にこれから僕の言う言葉を伝えてくれたまえ。一言一句間違えないようにだ」
そいつは笑みを浮かべたまま俺の方を見た。
顔は笑っているが目は笑っていない。それは人間を見る目じゃない。汚物塗れの犬か猫を見るような眼つきだ。いけ好かない目だ。手にさっきの椅子が無いのが悔まれる。
「あら、私はここにいますけど。用件なら直接お伺いしますわ」
俺のすぐ後ろから遠城の声がした。
何時の間にか来ていた彼女が俺の横にすっと歩み出る。もしかして戦闘に入ったので駆けつけていたのだろうか。
「これはこれは。管理者本人に出て来て頂けるとは」
「当然でしょう。深夜とは言え私を訪ねていらしたのでしょうから」
いちいち舞台役者みたいな大きな動作を取る赤い男に対し、遠城は腕を前で組んで微動だにしない。
「では、ご挨拶させて頂きましょう。僕の名前はアンドレアル・レミエールソン・ワークァメイア。南イタリアの栄えある名門ペロー伯爵家に連なる者だ」
「………ペロー伯爵家? ………ああ、なるほど。それでご用件は?」
質問と言う形ではあったけど、それは確認に過ぎないように感じた。
遠城はこの事態を想定していたのだろうか。俺にも教えて欲しかったよ。心臓に悪い。心臓、動いてないけど。
「用件は唯一つ。この地の霊地を預かる貴女に魔術師の決闘を申し込みたい」
「け、決闘?」
流れからして不自然ではないが物騒過ぎる単語が聞こえた。
「………いいわ。お受けしましょう。では、時と場所を」
それをあっさり受け入れる遠城。って言うかいいのか? 日常の事なのか?
しかし事態は俺の言葉など届かない場所でぽんぽんと進んで行く。
「時は二日後夜十一時。場所は………街の南東にある工場跡では如何かな?」
「それでいいわ。わざわざ礼儀を通して貰えた事に感謝します」
(南東の廃工場って、あそこかあ?)
そいつが指定した南東の廃工場も花祭心霊スポット上位の一つだった。
何十年も前に停止した工場の複数の建物や大型の機械が朽ちるままに放置されている。
まるで一個の街並みにも見えるその廃墟は通称『花祭サウスタウン』。色々な理由があって近付く人間は少ない。
「スタイルは定法に従い使い魔による決闘。無論、用意する物に規制はかけませんがよろしいかな?」
「ええ。指定の場所なら周囲に人家は無いし、街一つ吹き飛ばすとか毒ガスを撒くとか、そう言う破壊力さえなければ何をどれほど用意しようと私の知る限りではありません」
「結構。ではお約束の時に決戦の舞台でまたお会いましょう」
赤い男はそう言うと大仰に背を向けて、元来た道を戻り闇の中に消えて行った。
*
「………ふんっ。あたしに僵尸を仕向けた癖にいい根性じゃない。慇懃無礼とはこの事だわ」
地面に落ちていたサングラスを拾った遠城が呟く。口調が元に?戻っている。
「って言うか、こいつらあいつのだろ? 持って帰れよ」
地面には中国系とフィリピン系がまだ転がっている。なんと言うか、もう動く気配も無い。まるで死体に戻ってしまったようだ。まあ邪魔である。景観も悪い。
「もう使い物にならないから捨てたのよ。放って置いても朝になれば骨も残らないわ。よっぽど粗悪品を掴まされたのね。戻るわよ」
「粗悪品ってどう言う事だ?」
歩きながら俺は彼女に訊ねた。一応後ろの二体が起き上がっても大丈夫なように後ろを警戒している。
「言葉通りよ。香港とかタイ辺りの暗黒街、東南アジアの魔都ロアナプラなんかのダークサイドには僵尸売ってる奴らがいるのよ。そう言うとこじゃ材料の他殺死体にも困らないだろうし。もちろん扱ってるのはあいつと同じ、魔術師の外道だけどね」
「僵尸を、売ってる? 何の為に?」
まるでコンビニで弁当が売られている、とでも言うくらいあっさりと遠城は言った。
「使い捨ての鉄砲玉とか使い勝手は悪くないんじゃない? 何しろ僵尸は夜に限って言えば命令は簡単で腕力は強くて弱点まるで無しのハイスペックだし。欠点と言えば燃費の悪さくらいか。それでも砂漠横断する訳じゃないし。
昔ブームになった時、映画では色々特殊能力付け足したみたいだけど、そんな物無くとも強いのよ。知ってる? 僵尸って女性を強姦も出来るのよ。ゾンビ系じゃ超ハイスペックなの」
「ご、強姦?」
思わず遠城が押し倒されている不謹慎な想像が頭を通過する。
あー、いや仕方無いだろ? 男の子だもん。もちろん遠城には恐ろしい眼つきで睨まれた。さっきの連中よりも怖い気がするのは気のせいだろうか。
「妄想にまでケチを付けるつもりはないけど、時と場合を考えた方がいいわよ? あたしを不機嫌にさせたくないでしょ。向こうもあたしの顔知っていたみたいだし、僵尸向けたのも偶然じゃないわね。性格悪い。僵尸は死体だから輸送が難点だけど、吸血鬼みたいに流れる水が駄目って事は無いから金さえ積めば船でも充分運べるんでしょ。それと、僵尸と言えば制御の為の護符が必要だけど、このサングラス、制御護符の代わりみたいね」
遠城が投げ渡したサングラスの裏には映画に出てくるお札みたいな模様が刻まれていた。
「………あ、いきなり凶暴化したのって、もしかして」
そうだ。確か、椅子攻撃でサングラスが外れた直後だった。
「制御護符が外れれば手近な相手を襲うのが僵尸の習性だものね。もっとも、夜に戦って潰れる僵尸なんて不良品もいいところだわ。それとも栄養補給をケチったか」
確か映画では僵尸って人間の血を吸うんだよな。それを栄養補給って。間違ってないけど人としてどうよ? 魔界に行った方がいいんじゃね?
何だかんだで病院の前に来たので、俺は彼女に挨拶して中に入ろうとした。ところが、彼女はそんな俺を止める。
「待って。今夜はこっちに来なさい」
「こっち?」
「別棟の方よ。刺客が現れた以上使い魔は手元に置いておく方がいいもの」
それはつまり、遠城の寝起きしている場所って事である。つまらない期待などすでに一ミリだってしないが、やはり一度は憧れた少女の家だし興味が無い筈が無い。
………あれ? でも待て。
「いや今更だけど、ご両親とかは大丈夫なのか?」
本当に今更だった。
「あたし一人よ。気にしなくていいわ」
「一人暮らしって事か」
「そ。十年前に二人とも死んだのよ。あの赤い奴があたしを『管理者』って言ってたでしょ。あたしが今の『遠城の魔女』よ」
死んだ、か。同じ一人暮らしでも、俺とはかなり境遇が違う。
「………悪い。変な事訊いて」
「気にしなくていいって言ったでしょ。決着は着いてないけど十年も前の話だし。………それに、あの時だって悲しむ暇なんて無かった。もう誰もあたしを守ってくれる人はいない。だから、次は自分が死ぬって思ったから」
………それ、遠城が七つの時の話なんだよな?
……壮絶過ぎる。当たり前だけど、人は生まれながらにして違うのかもしれない。普通、そんな決断を十歳未満の女の子がするか?
「………なあ、決闘って言ってたけど、大丈夫なのか?」
彼女が一人と言う事は、バックアップは期待出来ないと言う事になる。
「あいつが提案した理由は分からないけど、時間は二日あるわ。それまでにあんたを戦闘可能な領域まで仕上げる。大丈夫よ」
「………やっぱ俺が戦うのか………」
相手との会話からしてそうなんじゃないかと思っていたがやっぱりだ。
「当ったり前じゃない。何の為にわざわざ急いであんたを用意したと思ってるの」
(………そうか。考えてみれば急ぎ過ぎな展開だもんな)
一歩間違えなくとも殺人。充分犯罪行為だ。慎重になって普通。俺はてっきり善は急げ(魔女流)で速攻だったのかと思っていたが。
「魔術師同士でやりあって怪我してもつまらないから、最低限のルールを互いに守る暗黙の了解があるのよ。外道の魔術師だって自分の身体は大事だもの。それに、使い魔の程度が魔術師の技量よ。質で来るか量で来るか決闘場所に罠を仕掛けるかの違いはあると思うけど」
遠城が続けて解説すると、つまりはこう言う事だ。
魔術師同士がやりあって怪我をしたら、どちらが勝っても後の霊地の運用に支障が出てしまう。特に挑戦者側は自分用に構築し直すという大仕事が控えている訳だから大ダメージを負ってしまっては話にもならない。仮に敗北した時も命の保証が付くからデメリットだけではないのだ。
「他にも、術者を潰すと止められなくなる魔術とか平気であるから、そう言う物に対してもストッパーになるわね」
それはただのイヤガラセだと思う。
「だからルールが要るのよ。倫理が無ければ戦争だって泥沼になるでしょ。魔術だって同じなのよ。最低限のルールが無いと何も出来ないってこと」
何となく納得。二十世紀後半から引き起こされた戦争の殆どは泥沼になってるもんな。
*
廃病院の裏手にあった林を抜けると、そこには確かに家があった。
もっとも、それを『家』と判別するのは深夜だと難しいと言わざるをえない。何しろ林の影で景色が闇と一体化している。どんなに夜目が利く人間でも黒い壁にしか見えない。
ちなみに、陽のある時間帯に来た場合、この家を『人家』だと判別するのは困難かもしれない。
遠城麗緒と言う人物の雰囲気から勝手に住居を洋館だと想像していたりしたのだが、そこにあったのは明治以降の近代和風建築だった。
と言うか、周囲の状況も含めて一言で言うと、横溝正史風。ここと比べるとあっちの廃病院はまだラブホテル並にファンシーだと思う。
「金田一さん、また事件ですか?」
「………何言ってるのよ」
「いや、立派だなと思って」
崩れていないのが立派だ。うん。今にもこう、壁が崩れたり白い人影が出てきたり障子から手がいっぱい出てきたり生首が落ちてきたり家が横倒しになったりしそう。
よく見ると手入れをしていないらしく緑に浸食されているもののかなり広い庭があり、母屋の他に離れが幾つかある。建築様式が異なるようで、明らかに洋式建築と思われる物もある。
ただ、小さいのでミニチュアみたいな感じで、ちょっと奇妙に見えるのだが。それが風景に更に怪奇な味付けをしている。
何と言うか。仮にこの家に女の子に誘われたら、ベッドインよりも生贄的扱いになる連想の方がやり易そうだ。
「ここから見える一つはお風呂。もう一つの二階建てはあたしの部屋のある建物。あと奥には資料庫や実験室なんかがあるけど、あたしの許可無く近寄ったら機能止めるから」
んなとこ、頼まれても近付きたくありません。出来れば連れ込まれるのも勘弁。
「洗面所はお風呂と同じよ。あんたは母屋のどこに寝てもいいから」
「どこでも、って言われてもなあ」
この惨状から見て、はたして寝られる場所自体あるのかどうか。
「それから、あたしはシャワーを浴びて寝るわね。それじゃあお休み」
無言になった俺を見て調教終了とばかりに自分の部屋だと言う離れに歩いて行く。
あのー、これで終わりですか? いやね、ほら………お布団をくれとまでは言わないが、せめて毛布くらい借りたいものだ。俺、シャツ一枚ですよ?
交渉は不可能に終わったが、幸いと言うか、母屋の玄関から入ってすぐの居間らしき和室に不釣合いのソファが幾つかあり、長いタイプは寝床に出来そうだった。
少なくとも廃病院の十数年物ヴィンテージマットだけのベッドよりはマシだと思う。
横になると、疲れからかドッと睡魔に襲われた。思った以上に寝心地が良い。
あるいはたった三時間強の間で起きた事が多過ぎて、遂に頭が冷却を必要としたのだろうか。どうにせよ、疑問も何も頭に浮かばず、俺の意識は眠りの闇に落ちて行く。
*
………この時はさすがに、起きたら美少女になっているのは思いもしなかった。
普通、絶対考えないと思うけどな。