小野寺陸 5
生まれてはじめての恋人のいる生活は、陸にとても穏やかな気持ちを与えてくれた。
最初の夜、飲んでいた店からまだ別れたくなくて陸は自分の部屋に福永を誘った。 いきなり家に呼んだりして引かれるだろうかと躊躇したが、それでももっと福永のことを知りたかった。
伯父たちは色々陸に残してくれたが、あまり身分不相応を望まなかった陸の部屋はあまり物がない。 よく言えばシンプルな、有り体に言えば殺風景なベッドと本棚だけの部屋だ。
そこに、福永がいる。 今日出掛けるときまではこんなことになるなんて思ってもいなかった。 もっとも、なりふり構わず誰かのことを知りたいなんていう感情は陸の中でずいぶん前に錆び付いている。
「まだ、あんまり信用してないでしょ?」
「いえ、そうじゃないです、けど……」
「じゃあ、おいで?」
福永が両手を広げた。 おおいに戸惑った陸はうろたえて視点も定まらない。
「おれ……あの……」
「いいから」
ぐい、と腕を引かれて福永の胸に転がり込んだ。 狭い部屋の後ろはすぐにベッドで、後ずさった福永につられて陸もそのまま沈みこんだ。
「あのっ!」
頭の上からクスクスと笑う声が聞こえる。 からかわれたのかと仰ぎ見ればなんとも言えない顔の福永と目があった。
「なんにも知らない子を騙していたずらしてるみたい。安心して。何にもしないよ」
「でも!」
「僕とこうして抱き合ってるのは嫌?」
「嫌、じゃないです」
久しぶりに感じる他人の温もりは、この上なく心地よかった。 しかも相手はゆきずりの男じゃない。 陸のことを好きでいてくれる人なのだ。
「……こうしてると、安心して気持ちがいいです」
「そう。よかった」
陸よりも5センチほど背が高いだろうか。 長い腕にふんわりと包まれていると眠たくなるような安らかさを感じる。 固まっている陸を落ち着かせるためか背中をゆっくりさすってくれる。 母にもそんなことをされたことはない。伯母にところに移ったときには中学生でそういう甘えかたをする年頃はとっくに過ぎていた。
「このほくろ、嫌い?」
「え……ああ。学生の頃からかわれたりしたので。なんか、寂しそうだし」
「そう。じゃあ、ここは僕だけが好きな場所だ」
「……な……」
「みんながからかって小野寺くんも嫌いなところ。だから、僕だけが好きなところ」
指でするりとほくろを撫でると隆一はそこに小さくキスをした。
「わ……」
不意に、くるりと回り込んだ手に顔を上向きにさせられた。福永の吐息が触れたと思ったらくちびるが重なっていた。ただ触れる。そして離れる。
「どんな感じ、嫌だった?」
「……わからなかった、だって……」
あんまり早く離れてしまったから。 感触が頭に伝わるその前に。 言いたいことが伝わったか伝わらなかったかはわからない。 返事はそれより深い口づけに飲み込まれてしまったから。
薄い唇は案外高い熱を放った。 陸の口内を探るように艶かしく動く。 口蓋をくすぐられれば鳥肌が立つほど感じた。 時々鼻から漏れる自分の声にまで震えた。 唇を食まれながら福永の指が服の上から陸をまさぐるから否応なしに体は反応する。 足を擦り合わせて逃れようとするが、体は言うことを聞かない。
口づけが穏やかになりすっかり乱れた前髪を福永が直し、もう一度目尻にキスをする。
「今日はここまで。もう帰らなくちゃ」
「え……どうして」
金曜だったから、泊まってくれても構わない。 もうすっかりその気だった。
「やりたいだけとか思われたくないし。これからずっと一緒なんだから初めてはちょっといいホテルとかにしようよ……って、俺、乙女っぽいこと言ってる?」
照れたように言われて、陸は思わず笑ってしまった。 今まで緊張していたせいか涙まで出てくるほど笑った。
「いいね、笑った顔。思った通りかわいい」
音が出るような可愛らしいキスと共に言われ、ますます涙が出た。
自分を愛して、必要としてくれる人はもういないと思っていた。 母にも疎まれ、好きな人からも拒絶された傷は、一人の夜にじわりと心を覆った。 ズブズブと底のない沼に引きずり込まれ息絶える夢を何度見たか知れない。
でも今は暖かい腕に包まれてかわいい、好きだと囁かれている。 甘いキスなんて一生知ることのない、月よりも遠いところにあるものだった。
「ずっと一緒にいよう。好きだよ。陸」
自分の名前が宝物のように輝いて聞こえる。 前にもそう思ったときがあったけれど今は忘れてしまった。
なにもしなくても泊まっていって欲しいと言った陸の懇願にも、両親が心配だからとすまなそうに福永は帰っていった。 欲求は満たされなかったけれど、そういう福永のことも陸は好ましく思った。
福永と付き合いはじめてすぐに陸はコンタクトをやめ髪色をもとに戻した。 デザイン部は急にイメージの変わった陸に大騒ぎだったが、それもそのうち慣れていった。
そのままがいい、と福永が言ってくれたからだ。 母にも気持ちが悪いと言われ、愛してくれていた伯父と伯母でさえ隠す方がいいと言われた陸の本当の姿。 自分でも数年ぶりに見る本当の自分はやはり違う人みたいだった。 でもこれからは隠すことなく生きていく。 愛する人がそれを望んでくれているのだから。
お互いの仕事が忙しいせいもあって同じ会社にいながらあまり会うことはできなかった。 何度か二人で休みをとって温泉やリゾートにも出掛けたがそれも片手で余るほどの回数だ。 デートは大体、福永の都合に合わせて食事をしたり、呑みに行ったり。 そのあと陸の部屋かホテルにいくのがパターンだった。
それでも陸には不満などなかった。 最初の頃から変わらず穏やかで大人の福永は安らぐ時間をくれた。 ずっと自炊だった陸がちょっとした料理を作れば美味しそうに食べてくれたし、会社での困ったこと(といっても女子社員同士が対立してるとか、上司が企画を通してくれない位のものだが)を相談してくれれば頼られているようで嬉しかった。 会えば必ずセックスをしたが、それも毎回満たされて幸せだった。
陸にとって、必要とされるということはイコール愛されるということだった。 伯母との最後の日々、それまでよりも色濃くその事を感じた。
頼られること、求められること、そういったことに縁がなかった幼少時代はこんなに遠く離れたところでまでも陸を支配している。 もう失ったままのものだと思っていたが今では福永がそれを与えてくれる。 それに答えたい。 ずっと必要とされたい。
最初に言われたように福永の両親に配慮して彼の家を訪れたことはない。 何かあれば友人として手伝うこともできるのに。 それは少しだけ気がかりではあるが致し方ない。 そういう陸の気持ちを面倒がらずに福永はいつも包んでくれた。
付き合いはじめて4年の月日が流れていた。
「……陸。この間お前のこと知ってるかもって奴が訪ねてきたよ?」
「は?なに、誰」
独立して仕事は順調に回りだした。 雨宮での仕事が一定の評価をされていたお陰で、すぐに仕事が入り困ることはなかった。 事務所を立ち上げる資金は貯金と伯父の残してくれたものを一部あて、赤字は数ヵ月で収まりそうだ。 経営を担当してくれている筒井は本当に頼りになる存在だ。
仕事も恋愛もうまくいっていて、充実した日々。そこに、誰が陸を嗅ぎまわっているのか。
いずれは仕方がないと思っているが今のところ陸は本名を明かす気はなかった。 母親がまだどこかにいて、自分のことを知られたくないというのがひとつ。 自分を伯母に押し付けておいて最後の連絡手段まで絶ってしまうという身勝手さは許せない。 恋しい気持ちがないわけではなかったが、伯母の死の前で気持ちは逆転してしまった。 もう二度と会いたくない。彼女の目に映りたくもない。
また、陸は自ら交流を絶った高校時代の友人たちにも会いたくなかった。 あの頃のどんよりと暗い思い出に、彼らは直結している。 どんなに楽しく笑っていても、一人家に帰ると病気の家族の存在が重くのし掛かる。 受験だ恋だと、楽しそうにはしゃぐ彼らの中にいて、自分は異質だと感じていた。
伯母の存在が煩わしかったわけではない。 彼らが能天気だと軽蔑していたわけでもない。
伯母に必要とされ嬉しかったし、友人は崩れ落ちそうな心を知らず支えてくれていた。 でも、やはりなにか溝のようなものがありそこが埋まることはないように思えた。
そんなわけで独立する際に『時雨デザインオフィス』を名乗り書籍に載せるクレジットもそれを通している。 陸を元の会社で知っているものなら誰でも知っているし、今仕事で絡んでいる相手はすべてその頃の顧客な訳だからわざわざ福永のところに探りを入れる必要はない。
まさか。
「木暮遼太郎くんて、知ってる?」
「……」
そのまさかだ。 何故遼太郎が、しかも福永のところに。
「なんだか必死だったよ?陸に会いたいんだけど仲違いして会えないとか、ずっと時雨のファンだったとか。」
「それで……隆一は、なんて」
「なんにも。だって、本当に同級生だったかもわかんない人だし、なんか変なこと言っちゃって陸が揺すられたりしてもあれだし」
「ありがとう……もしまた来ても知らぬ存ぜぬで通していいから」
ホッとした。 一番知られたくなかった奴に見つかるなんて最悪だ。
今日の福永は少し元気がないように見える。 顔色も少し悪くて、しばらく会えない間に痩せたような感じを受ける。 まさか遼太郎のことを気に病んでなんてないと思うが要らぬ誤解はさせたくない。
「で、あの人どういう知り合いだったの?陸のことずいぶん探してたよ。細い繋がり手繰って、僕のところにまで来るなんて」
「どういうって……高校の同級生は間違いないけど……卒業してから会ってなかったのに、この間澤木さんの結婚式で偶然会っちゃって。そんときは振り切って帰って来たんだよ。なんで隆一のところになんて……」
「だから、陸に会いたかったんでしょ。会ってやればいいのに。言いたいこともあるんじゃないの、彼?」
そんなことは陸には関係ない。 会いたくない。あんなに自分が動揺するなんて思わなかった。
仕事も順調で恋人もいる。 なんの不安も不満もなく、幸せだ。 それなのに不意討ちで子供の頃の影がよぎったというそれだけで。
村上に言われて、18歳は確かに子供だったと思う。 自分の世界にないことを言われてうまく立ち回れるような年齢ではない。
でもやっぱり、会うのは怖い。 もう、忘れたと思っていたあの頃に、引き戻されるようで。
「……会わないよ。おれには言いたいことも会いたい理由もない。大体、仕事忙しくって隆一に会う時間もないのに。それよりさ」
きっと隆一はこんなことで陸を疑ったりはしないだろう。 それでも空気を変えたくて明るく装った声で陸はこれからの予定を話した。
「あのさ、おれ今度イベントで作る本のデザインやるかもしれないんだ。最近の仕事結構評価してくれる人も多いみたいで、新しいクライアントなんだ。イベント自体も楽しそうで、今から楽しみなんだよね」
「……そう」
「それでね、そのイベントが8月に予定してるんだけどおれも招待してくれるって言われて。写真も撮んなきゃいけないからお客さんではないんだけどね?隆一も一緒に行ってみない?」
「陸、ごめん」
「あー、なんか予定ありそうかな?おれもまだ詳細は聞いてないんだけど、あんまり遠いところじゃなかったら行けるんじゃないかな?それでさ」
話は途中だったがそこで途切れた。 一瞬何が起こったかわからなかった。 テレビをつけていなかった部屋は最初と同じように静かで穏やかなはずだ。 弾けるように熱い、陸の頬だけがいつもと違う。
くらりとめまいがする。 目の前にいる福永を恐ろしくて見ることができない。 叩かれたのだ、ということはすぐにわかった。 しかし頭が理解してくれない。
何か気に触るようなことを言っただろうか。 遼太郎とのことを疑われただろうか。 それとも、興味のないイベントの話などベラベラ話して挙げ句誘ったりしたから?
そこまで考えるとしんと頭が冷えてきた。
捨てられる。
嫌われて、必要とされなくなる。
お互いに動けず、陸に手を出した福永の動揺までも空気に満ちてくる。 ピーっと、風呂が沸いたことを報せる間抜けな音が鳴った。 目が覚めるように福永が動き、キッチンから冷やして絞ったタオルを持ってきた。
「ごめん、どうかしてた。最近、うまくいかないことが多くてちょっといらいらしてたのかも。痛かったよね。本当にごめん」
「……ううん、おれこそ無神経だった。隆一が大変なの気がつかないで。辛かったら話してね。聞くしか、出来ないけどさ」
「うん、ありがと。陸、好きだよ」
福永は陸をしっかりと抱き締めて肩に額をすり付けた。 陸は確かにあるいつもの温もりのなかに、いつかと同じ薄暗い不安を感じていた。
今日もありがとうございました。
明日もお付き合いくださると嬉しいです。
22時頃更新予定です。
うえの