小野寺陸 3
「あああああっ!ほんとに、ムカつくっ!」
「まあまあ、小野寺さん。がんがん飲みましょうよ。スイマセーン、ここお代わりくださーい!」
カメラマンの結婚式から一週間。 ここしばらく陸は忙しく、その間は忘れていられたものが週末になると腸が煮え変えるような怒りに変わってきた。
喫煙所で遼太郎が目の前に立ったとき、すぐにわかった。 あっという間に過ぎた時間が巻き戻されて十八の自分が所在なさげに立ち尽くしていた。 背を向けた遼太郎を見送ったあの日のように。
大体、ひどい言葉を投げつけて逃げ出したのはそっちじゃないか。 どうして平気な顔で声なんかかけられるのか。 奴の正気を疑ってしまう。
あの年、秋からのことは本当によく思い出せない。 夏休みの終わり、しばらく調子が悪いと言っていた伯母を病院につれていった。 聞かされた病名は癌だった。 手術はしないで放射線治療と抗がん剤を併用して病巣を観察する方針になった。 家に帰る道すがら、伯母は何度も立ち止まり嗚咽をこらえていた。 そのたびに伯母の横に立ち、その背をさすった。
伯母が陸の前で涙を見せたのはそれが最後だった。 治療中苦しかったり痛かったりしたこともあっただろう。 でも決して泣き言は言わず気丈に振る舞った。
卒業式の前後で、伯母の病状がぐっと進行した。 式に出られなくてごめん、と謝られたがそれどころではないことは一番近くで見てきてよくわかっている。 一時、本当に危険な状態になり眠れない夜を何日も過ごした。
どっちにしろ誰にも進路を話していかないつもりだった。 誰かと繋がりを持てば、甘えてしまう。 甘えてしまったら、もう立ち上がれないような気がする。 そんな暗闇を抱えていることを誰にも、遼太郎にも知られたくなかった。
遼太郎。
そばにいられて幸せだったけど辛かった。 彼はほどほどにモテるようで陸が知っているだけで二人と付き合った。 そうは長く続かなかったようだが、それでも陸とは違うのだと思い知らされた。
たぶん陸は、男だけを恋愛の対象とする人種なのだろう。 だから一生結婚もしない。 でも、遼太郎にはきっと素晴らしい出会いがあって、彼のすべてを手にいれる人が現れる。
それを友人の立場で見るのなんかごめんだった。
関西の美大に進もうと決めたのは2年の夏だった。 美術部のOBが進んだ学校で、尊敬するデザイナーが講師を勤めていた。 伯母も喜んでくれて予備校にもいかせてくれた。
それなのに今は行きたくない気持ちで一杯だった。 連絡をもらったとして急いで帰ってきても4~5時間はかかる。 いつも家を出るときはこれが最後かもしれないと思いながら帰らなければならなくなる。
最後まで迷っていた受験の背中を押したのもやはり叔母だった。
「今じゃなくても、必ず私が先に死ぬの。だからこれからも生きる人の邪魔はできない。大学にはいつでも行けるけど、心が若いうちでないと吸収できないこともある。だから行きなさい。私とお父さんの望みでもあるんだから」
伯母は伯父をお父さん、と言った。初めて。
卒業式当日、陸ははたからみてもボロボロだった。 顔色は悪くよく立っていられると自分でも感心するほどだ。 やっと終わって、早く病院に向かおうと帰りを急いでいると遼太郎に引き留められた。
まだ少し肌寒い校庭を、遼太郎たちの幻影が駆けていく。 いつも笑っていた。 必要以上に大きな声でしゃべっていた。 憧れていた笑顔、声、背中。思わず目を細めてそちらを見た。 気のせいだ。 もう、二度と見ることなどない。
眠れない夜も朝が来ればまた遼太郎に会えると思えば辛くなかった。 どんなに不安でも怖くても立ち上がることができた。 不思議なほど涙は出ない。 その代わり本当に自分の内側の方から零れるように言葉が流れた。
「おれ、お前のことが好きだった」
「でも、声をかけてきたっていうことはその人にとってはいい思い出だったんじゃないですか?」
「……まさか」
時間がたてばたつほど腹が立ってきて、思わず村上に電話をしてしまった。 大石は今日は家庭サービスだと言っていた。
村上は、呑む。 すごい呑む。 そして癖が悪い。 でも、陸の事情を知っていて、気を使わずに飲めるのはこの村上と大石、それに事務所の雑用を一手に引き受けてくれている筒井杏奈しかいない。
筒井は大石の姪だ。事務所を立ち上げるとき経理と一般常識に明るい陸がゲイだとわかってもビックリしない人を紹介してほしいとお願いしたら来てくれたのが彼女だった。 少ない給料で申し訳なくなるほどよく働いてくれる。 感謝してもしきれない。
「だって黒歴史だったら顔見たって声もかけませんよ、私なら」
「……」
「小野寺さん、18歳って子供ですよー。親友だと思ってた人に急に告白されたら何て言っていいか、わかんなくなりますって」
「……うん、そうかな」
実際、よく考えてみれば頭に来ていたのは遼太郎に対してではなかったかもしれない。 確かにあの時誰かに寄りかかりたかった。 だからって無責任な告白をはねのけられて傷つくなんて勝手すぎる。 言わないつもりだったのに本当にあの日は、どうかしていたんだ。
伯母はその後、陸が大学二年目を迎えるまで頑張った。 卒業してすぐに免許をとり中古で車を買った。 それを足にしてこられる週末は必ず地元に戻った。 そしてやはり大学のある町に帰るとき、これで最後かもしれないと言い様のない不安を感じていた。
秋だった。 いよいよ痩せて小枝のようになった腕を陸に伸ばし、伯母はこれからのことを言って聞かせた。 葬儀会社はどこ、家の権利書や印鑑はどこ、すべてのことは遺言を残し面倒にならないようにしてあるからと。
自分も病気を抱えてそんなに気を回していたのかと驚いた。
「陸は小さい頃から親戚付き合いのない家に育ってたから急に何かあってからじゃ困るでしょう。私たちの子供は陸だけだし、学生の間のお金の心配はいらないよ。でも、家とか銀行口座とかそのままにしておいたら面倒でしょう。その辺陸が迷わないように書いておいたから」
「……うん」
「陸ー。ずっと大変な子供時代だったのに最後の最後でこんな切ない思いさせてごめんねー」
伯母がくしゃくしゃと陸の髪をかき回した。泣いてはいけない。泣きたいのは伯母の方だ。陸は奥歯を噛み締めて堪えた。
「母さん、探してみる?たった一人の姉妹だもん、会いたい?」
「……ごめんね、もう何年も間にね携帯も繋がらなくて。探そうにもなんの手がかりもないの。だから……」
「いいんだ。俺にも父さんと母さんは、伯父さんと伯母さんだけだから」
水気が抜けてカサカサになった手をそっと握った。 それから住んでいたアパートに戻るまで、陸はずっと伯母を母さん、と呼んだ。
伯母が息を引き取ったのは陸が戻って三日目の朝だった。
当然、臨終には間に合わず病院に駆けつけたときはすでに霊安室に移された後だった。 伯母が遺してくれたメモや書類から葬儀会社に手配をして一切を教えてもらった。 近所の人や伯父の会社関係だった人が来てくれて色々手伝ってくれた。
家は売却するようにと遺言してあったという。 その手続きにも、必要なあらゆる場所に近所の司法書士の先生が付いてきてくれた。 先生はよく伯母がお茶を飲みに行くほどの仲良しの人の旦那さんで、陸もしょっちゅう顔を会わせていたがこんなに難しそうな仕事をしている人だとはつゆほども思っていなかった。
葬儀も終わり、週一で地元に帰る日々ももう終わる。 買い手はまだつかないがここは場所もいいから家もすぐに人手にわたるだろう。 ノロノロと片付けをして最後の荷物を運び出した。
何もなくなった家を見る。 たった六年だった。 この家で子供でいられた幸せな日々。 最後まで伯父のことは父さんと呼べなかったが、それでも間違いなく二人は陸の両親だった。
作り付けの引き出しが目に入った。 居間に使っていた畳の部屋だ。 庭いじりが趣味だった伯父が精魂込めて咲かせる色とりどりの花が季節ごとに美しかった庭を見渡せる。
「そういえばこの中のものはパッキングしてないかも……」
引き出しを開けるとそこには陸の写真が山のように詰まっていた。それこそ生まれた頃からの。 母はああいう人だったので、幼い頃から子供になど興味はなかったのだろう。 写真など撮ってもらった記憶はない。 しかし時々遊びに来た伯父や伯母が撮ってくれたのは覚えている。 ああ、ここにあったのか。
母に抱かれている陸。 ブランコに乗っている陸。 時にはセルフタイマーでも使ったのだろうか伯父と伯母と三人で写っているもの。
小型のアルバムは30冊ほどもあり、最後の方はここ最近のものだった。 中学生の体育祭、文化祭、卒業式。 平日でも伯父は会社を休んで見に来てくれた。
高校の入学式、佳作をとった県の美術展、学校で注文した修学旅行の集合写真やスナップ。
「遼太郎……」
ほとんどの写真に遼太郎が写っている。 下心を隠してそばにいることも知らず、なぜか仲間内のなかでも特に遼太郎は陸をかまって来た。 必然的に写真に写ることも多かったんだろう。
そんなに真ん中に寄らなくても回りはスカスカなのに押しくらまんじゅうになっている今より少し幼い自分たち。
陸の回りには誰もいなくなってしまった。 自分がここに住んだ証しさえなくなろうとしている。
みんな、どうしているのだろう。 遼太郎は自分のことを思い出してくれることはあっただろうか。 きれいさっぱり忘れていれば辛いけど嬉しい。 嫌な思いをさせてしまったのだから。
日が暮れていく思い出の家で、伯母が亡くなってから初めて泣いた。 たくさんのアルバムを抱き締めて、どうしようもなく寂しかった。
今日もありがとうございました。
明日も11時頃更新予定です。
また遊びに来てください!
うえの