木暮遼太郎 2
「遼太郎」
「ごめん、待った?」
苑子とは結婚が未定になった、というだけで毎週デートしている。 会社でも時間が合えばランチに行くし、電話やメールが減ったりもしていない。
日曜日。 前から行きたかったと言っていた蕎麦会席の店に行き、映画を見てショッピングに付き合う。 辺りが暗くなり出して、ショーウィンドウもレストランも光を溢れさす。
「どうする。今日はうち、寄ってく?」
少し声がかすれた。 こんな一言に勇気を振り絞るなんてアホみたいだ。
「んー……ごめんね。今日、親戚の人が来ちゃってて。早く帰ってこいって言われてるんだ」
「そっか。仕方ないね」
「うん、また連絡するね。今日は楽しかった。ありがとう」
駅の改札に消えていく彼女の背中を見送って、またか、と思う。 結婚を延期にして欲しいと言われてから、彼女を抱いていない。 偶然かわざとなのか、用事が入ったと言っては帰ってしまう。 2ヶ月は、まだセックスレスとは言わないだろうか。 でも、こんなに近くにいて?毎週会えているのに?
結婚が延期になったらただの友達に戻ったとでも思っているのか。 結婚だけが目的なわけではない。 もしも、違う将来を描いているならそう言ってくれればいい。 事実婚でうまくいっているカップルも多いし、遼太郎もそこに強いこだわりがあるわけではない。
でも、こんな何の理由もなしに宙ぶらりんなのも落ち着かない。 会社ではことあるごとに結婚は、と聞かれる。 お互いのことを知っている人ばかりの中で「ちょっと待ってって言われちゃって」とは言えない。
混雑しだした改札前で、遼太郎は項垂れていた。
「理由がわかんないのも、納得できないよね?」
「うーん……仕事とか、ダイエットとか?まさかなんか占いとかでしばらく結婚は見送った方がいいとかいわれたのかなあと思ったり……」
「どれも、違うんだ?」
その週末は苑子の都合が最初から悪く、遼太郎は高校、大学と一緒だった石田和馬を誘って居酒屋に来ていた。 人に聞かれたくない話ではあったが、雑然とした店内のせいでお情け程度にある衝立でも、隣の声もあまり聞こえない。
「だって、はっきりしないと気持ち悪いじゃん。考えうる全部に苑子はノーって言った」
「他にいる、とかは?」
「それだけは怖くて聞けなかった」
「考えない訳じゃなかったんだ」
遼太郎と付き合い初めて本当に苑子はきれいになった。 派手に飾り立てることはないが、一緒にいる人たちを不快にさせない程度に化粧をし、洋服を選んでいる。元々が悪かったわけではないので、結果人目を引く存在に仕上がった。
会社でも誘われることが多くなったと聞いている。 それは、本人からではなく経理課の同期連中からだ。 自分の彼女がモテないよりもモテた方がいいではないかと言う人もいるが、元々遼太郎は、地味目の女がタイプだ。 母親が専業主婦で、日頃化粧もせずに家事をしていたせいか、派手な身なりの女を見ると緊張してしまう。 友達付き合いをしたり、仕事を一緒にする上ではどんな相手でも構わないのだが、付き合う、となると萎縮してしまう。 おっとりのんびり、安らげる性格やルックスに惹かれてしまうのだ。
苑子もそのタイプだったので浮気の心配はあまりしていなかった。 むしろ、例えば金の問題や親の問題、病気などだったら打ち明けてくれればいいのに、と少し落ち込んでいるのだ。
「俺ってそんなに頼りないかなあ……」
「まあさ、好きだから言えないってあるんじゃないか?どーんと構えて待っててやれよ」
学級委員タイプの石田は学生の頃から頼りになった。 いつも回りのことに気を配り、冷静に問題を解決しようとしていた。 最もあの頃はみんなガキだったから、それにすら気づかないでいたのだけれど。
今はわかる。 みんなの話を同じだけ聞いて最善の解決策を探す。 人の好意を「気持ち悪い」でぶったぎったあの頃の遼太郎には足元にも及ばなかった。
ああ、そういえば
「俺、この間小野寺にあった。お前、連絡つかないって言ってたよな。そのあとわかった?」
「いや。引っ越しててわかんなかった。携帯も変わってたし、誰とも連絡とってないみたいで。でも、会えたんだ、連絡先わかった?」
「連絡はとれると思うけど……」
連絡したい人にはしてる、そういうことだ。
そういわれて、勝手なのはわかっているけど傷ついた。 陸に言われたからじゃない。 憧れの目標だった時雨に言われたからだ。 でも、時雨は陸で……やはり拒絶されたのは悲しい。 陸もあの時、同じ気持ちだったのだろうか。
「……これ、みんなには言ってなかったんだけどさ。あの頃小野寺んち大変だったみたいなんだよ」
「大変?」
「お前、小野寺の家にいた人が母親じゃなかったって知ってたか?」
「……え」
クラスのほぼ全員が進路を決定させていた夏休み明け。 石田は休み明けにあったテストの質問をしに職員室に来ていた。 部屋のすみにあったお情け程度の応接セットで待つように言われ座っていると隣の進路指導室から声が聞こえた。
「進学やめるって……小野寺、どうしたんだ」
「……」
話しているのは陸と担任のようだ。 進学やめるってこの時期に。 確かどっかの美大に進学を考えてて、二年の時から美大用の予備校にも通っているって言わなかったか?
「……伯母が……癌で」
「あの、お前の保護者になってる?……」
「はい。看病とか付き添いとか……一人じゃ大変だと思うから……」
「……他に親戚とか……お前の母親には?連絡つかないのか」
返事は聞こえなかった。 つまり、連絡はつかない、生きているのに連絡がつけられない、そういうことなのだと石田は理解した。
「それは、伯母さんの希望でもあるのか?」
「いえ。行って来いって言ってくれたのは伯母ですし、たぶん今も……でも、伯父も一昨年亡くなったばかりですし、心細いと思います。だから、地元に残って就職しようかと」
担任はしばらく黙っていた。陸も声を出さなかった。石田は同じクラスの友達が抱えたものを知ってしまい淋しくなった。さっきだって昼休みに笑っていたのに。
陸と一番仲がいいのはたぶん木暮だ。 最初に陸と言葉を交わしたとき、彼は木暮のジャージを頭からかぶり困ったような顔をしていた。 そのままみんなで雨が降る駅までの道を走っていった。 あの時すでに陸は伯父の死を抱えていた。 それだけでなく連絡のつかない母親という存在までも。
木暮もそんなこと一言も言っていなかった。 誰にも打ち明けず一人で立っていた仲間のことを知ってしまった。 自分がいかにぬるま湯に浸かっていたのかを知ってもなにもできない。
石田の高校最後の夏は、もう大人だと思っていた自分がいかに無力かを知る夏だった。
「だから、俺小野寺は地元に残ってるんだと思ってたんだけど、クラス会の時、もう連絡つかなくて」
「あの、成人式のあとのやつ?」
「そう」
ほとんどの仲のよかった奴は、大学の多い他県に出ていった。 引っ越し先で開催される成人式が終わったタイミングで地元に帰りクラス会を開いた。 その時幹事を任されていた石田は陸と連絡がつかないことに気づいた。 携帯も番号が変わっていたしメールも戻ってきた。 地元に帰ったとき陸の実家に行って言付けてもらおうと思ったら、その家がなかった。 隣の家の人に聞けば、奥さんが亡くなって息子が一人で葬儀から家を売却する手続きまでしたのだと。
「気丈に一度も泣かないで、まだはたちだっていうのに立派だったわよ。でも、本当のお子さんじゃなかったっていうから、あんなにドライだったのかしらねえ?」
違う。 ドライでなんかなかった。 あの時、あの夏の進路指導室で言葉をつまらせていた陸は確かに抱えた不安や動揺、たぶん悲しみと戦っていた。 たった18で。 たったはたちで。
「俺、成人式でどんなスーツ着ようなんて考えてた自分がバカに思えたよ」
「そんなことないよ。陸の環境が特殊だっただけだよ」
「そうなんだけどね。だから、俺らに連絡しなかったのはそういう背景もあったんじゃないかと思うんだ。思い出しちゃうとか、悲しいこと」
陸の告白を知らない友人がそう言った。
そんな状況でどんな気持ちで、陸は遼太郎に好きだと打ち明けたのだろう。 白い顔をして、肉親の死の前になにもできなくて。 どうして自分は、あんな傷つけるような言い方しかできなかったんだろう。 その時の陸の顔を、もう思い出すことができない。
「NES印刷の福永さん?」
「うん。前に時雨デザインの人が務めてた雨宮書房にいたみたいだよ。今度会いに行くんだけど話しといてやろうか?」
「え、個人的に会えるように?」
「ああ。時雨さんのこと知ってる人だったらね。聞きたいんでしょ?どんな人なのかとか」
ある意味、すごく知っているともいえる。 なにも知らないとも言える。 10年ぶりにあった陸は……取り巻く色が違うから全くの別人に見えた。 あの髪に手をやる仕草がでなかったら、きっとわからないまま過ぎてしまっただろう。
あの頃の陸は、いつも中心から外れたところにいて時々視線をあげて遼太郎を見ていた。 誰かが下らないことを言ってそれにどっと笑って、その瞬間を静かに笑って見ていた。 決して輪の中心に入ってくることはなく、むしろ目立ちたくない様子でみんなの話を聞いていることが多かった。
この間見た陸はそんな弱々しいところはなく、人のなかで輝いていた。 自信があって尊敬されていて、華があって。 怒らせてしまったあと颯爽とエントランスに向かっていく後ろ姿さえ、王様のように神々しかった。 綺麗だった。
「すみません、お忙しいのに」
「いいえ、こんなところで申し訳ない」
数日後、遼太郎は雨宮書房で陸と顔見知りだったと言う福永に面会することができた。 あちらの会社近くのカフェで待ち合わせ、数分遅れで彼は来た。 お互いに名刺を交換しあって席につく。
年の頃は40手前か、すっきりとした輪郭と細身のからだが神経質そうな男だ。 そこを遊び心のある眼鏡のフレームと少しウエーブの入った髪型で和らげている。 一言でいったらモテそうだ。
「で、時雨にご用の方がどうして私に?」
コーヒーをオーダーすると時計を見ながら切り出した。
「はい、彼とは高校で同級で。私自身は営業職なので時雨さんとお仕事する機会はないんですけれど、すごいファンで……この間ちらっとお見かけしたんですけど、あまりお話しできなくて……今、どうしてるのかと」
「電話すればよかったじゃない」
苦笑いで首をかしげた。そういう仕草も計算されているようだ。
「そうなんですけど。お恥ずかしい話、在学中に、ちょっと……仲違いを……。彼とは知らず、ずっと時雨さんのファンだったので」
「ああー……まあ、装丁家としては天才肌だよね。でも、人としては欠陥品じゃない?」
「……欠陥品?」
「君、彼のあの髪の毛と目の色、自前だって知ってる?」
「え?」
「大学出て雨宮来るまでずっと隠してたんだよ。 あれ、奴のトラウマらしい。 産みの母親にそれを『気持ち悪い』って捨てられたんだって。 ひどい話だよね」
「……」
「……そういや、初恋の相手にも同じこと言われて振られたって言ってたなあ。 断るにしてももっと優しい言いかたもあるだろうにね。そう思わない?」
届いたコーヒーを飲んだ記憶もそのあと何て言って別れたかもあまりよく覚えていない。 ただ、あの時自分が投げた爆弾はずっと陸に残って傷つけ続けていたのだ。 もしかすると過去まで遡って傷痕をほじくり返しその痛みを鮮烈にしていたのかもしれない。
『もう、お前になんて会いたくなかったんだよ』
そう言われてしまうわけだ。陸。
明日も23時頃、更新しまーす。
今日もお越しくださいましてありがとうございました。
うえの