木暮遼太郎 1
「くっっそ、だりいなー」
「そう言うなよ木暮。あちらさんだって困ってるんだろうからさ」
本日はお日柄も良い結婚式日和。 木暮遼太郎は防虫剤の匂いを気にしつつ、礼服を羽織りホテルのロビーに立っていた。
仕事関係の知人の結婚式だ。 知人といってもたいして知らない。 デビューしたてのアイドルが初めての写真集でカメラマンと恋に落ち電撃結婚。 キャリアのあるカメラマンの招待客の数に合わせて遼太郎のような知り合いだかなんだかわからない者にまでお声がかかったということらしい。 呼ばれた他の連中もみんなそんなもんで、まあ、仕方ないよなと納得するしかない。 どっちかが極端に招待客が少ないのも格好がつかないものだ。
「なあ、新郎がわの招待客に『時雨』がいるらしいぜ」
「え、時雨って……」
「ブックデザイナーでプロフィール非公開の」
「まじか、俺ファンなんだよ」
「でも、顔も性別も本名もわかんないんじゃ、隣に座ってても気づかねえよな」
「そーだよなあ……」
『時雨』とは最近フリーになった装丁家だ。 時雨が名字なのか名前なのかはわからない。 正式には『時雨デザインオフィス』というのだが、書籍クレジットにもそれしか記載されていないので実際、個人なのか複数のデザインチームなのかすらわからないのだ。 遼太郎の仕事はあまり関連がないので、共通の知人の可能性すら思い当たらない。
『時雨』は元々出版社のデザイン部に勤務していたがその頃からセンスのいいデザインは評判だった。 遼太郎もファンで、いつか一緒に仕事をしてみたい。 ただし、公開されているプロフィールは勤めていた出版社と、過去に携わった書籍のみ。 Web上ではそれこそ男か女かもわからない。
真っ青な表紙に浮かぶ白抜きのタイトル。 触れるとそこだけ質感が違う。 そしてただの青い紙だと思っていたバックの表紙を捲ると袖部分に雲が映っており、空の、しかも写真だったとわかる。 高校生の日常を生き生きと描いた小説の装丁だ。
淡い水彩の絵。 物憂げで不安定な主人公の気持ちを代弁するように散らばるタイトル。 写真や活字をコラージュして見るだけで楽しくその場所への期待が高まる旅行本シリーズ。 そのどれもが本を手にして開くまでの高まる気持ちをさらに盛り上げてくれるものだったし、読み終わったあとも余韻のようにいつまでも本の内容とセットになって記憶に残る素晴らしいデザインだった。
なにか痛みを抱えた、それを手放すことのできない。 そんな心情が滲み出ているような、触れたら容赦なく切りつけられそうな表紙の数々。 そうかと思えばゆるゆると心が溶け出すような優しいデザインもある。 右へ左へ揺れる。 本の内容からだけではなく、この装丁家にもそんな危うさを感じていた。
遼太郎は大学在学中、Webデザインの会社でアルバイトをしていた。 そこで広告の仕事に興味を持ち、何百倍の難関を突破し中堅どころの広告代理店に就職した。 ところが、美術系の大学を出ていない遼太郎は営業職採用となり、その後何度希望を出しても制作への移動は叶わなかった。 明るく他人の懐に飛び込むのが得意な彼を営業に引っ張った上司は見る目があったのだろう。
「そっか、時雨かあ。どの人だかわかるといいな」
「お前は、結婚式の予習もしとかないといけないんだろう? よく見て帰れよ」
「……はい」
「なに、木暮。結婚か?」
「あー、予定はあるんですけど、まだ未定ですよ?」
「まじか。あの、経理の子か?」
「はあ」
「なんだよ、はっきりしねえなあ」
「んー、なんすかね。マリッジブルーって言うのかなあ。本当に結婚なんてしちゃっていいのかっていう不安かしら?」
「女かよ! しちゃえよ、なんとかなるよ。なんてんだっけそういうの、案ずるよりヤるが安し?」
「バカか? 生むが、だろうが」
「だって、俺産めねえもん。その前くらい協力させてよ」
バカだバカだ、盛り上がる同僚や先輩をおいて、喫煙コーナーに向かった。 どこも禁煙で会場に入ったらもう吸えないだろうから一服していこう。
結婚に躊躇しているのは、彼女の方だった。 プロポーズはした。 用意した指輪は受け取ってもらえ、お互いの家族にも紹介しあった。 何もかもうまくいっていると思っていた矢先、彼女が待ったをかけたのだ。
会社帰りに偶然通りかかった式場のパンフレットを持ち帰り、ここどうかなと彼女に見せた。 すると、急に表情のこわばった彼女に「ごめん。結婚するの、もうちょっと待って」と宣言されたのだ。
どうしてだろう。何か悪かったんだろうか。
彼女、前田苑子は遼太郎より4歳年下の25歳。 同じ会社の経理課に務め、付き合って2年になる。 初めてあったとき化粧っ気もあまりなくどこかあか抜けない洋服を身にまとった彼女は逆に周囲の視線を集めていた。 なんの集まりだったかもう忘れたが、会場の隅で誰と会話することもなくうつむく彼女が何故か気になった。 話してみればおとなしく口数も少ないが、ゆっくり考えながらしゃべる仕草に好感を持った。
しばらくして、遼太郎の方から打ち明けて付き合いが始まったが、とたんに彼女は花が開くように美しくなった。 元々持っていた清楚さに、本人の努力もあいまって会社でも目を引く存在になったのだ。
良い成績を納める営業とかわいい彼女。 誰もが羨むカップルなはずなのに実際はまるで違う。 それでなくてもゆううつな結婚式。 いつ自分は挙げられるのだろうかと、しゃがみこみたい気分だった。
喫煙所には先客がいた。 柔らかそうに伸ばした髪を目が覚めるようなゴールドに染めている……たぶん男。 細身の体はしなやかそうだが、そのタバコを持った指に女らしさはない。
うつむいて、木暮の反対側に煙をはくから顔は見えない。
「失礼します」
小さく声をかけ、向かい側にたつ。 灰皿はひとつだった。
相手もす、と顔をあげ会釈をした。
身長は遼太郎より少し低いか。 個性的なネクタイが光沢のあるスーツに負けていない。 しかも、この男がそれに着られちゃってる感もない。 相手がぼんやり考え事をしているのをいいことに、じっくり観察する。
金髪を軽く耳にかけそこから覗くあごから耳にかかるラインの美しさ。 何度も下書きをしてここ、と決めたような鼻の形。 うつ向いているので良くわからないが、瞳の色が少し変わっている。 グレー?グリーン?カラコンだろうか。
モデル?ショーのモデルでは小柄すぎるがスチールならまあ、なくはない。 新郎側の招待客なら十分に可能性がある。
「灰、落ちますよ」
憂いを含んだ思案の縁からはっとした顔が戻ってきた。 吸いもせず指に挟まれたタバコの先には今にも腕を転がり落ちそうに頭をもたげている。
「うわ」
意外と普通に慌てて灰を落とし、続けてそのまま吸い殻を捨てた。 なんだかほほえましく、ニコニコと観察していると不躾な視線に気づいたのか彼が正面から遼太郎をとらえた。
「なにか?」
「いえ。綺麗な髪だなーと思って。俺、会社勤めだからそういうの無理だし。お手入れ大変ですか?」
「……伸びてきたら、美容院いくだけなので、特には」
「全部お任せなんですねー?」
彼はそれきりこちらも見ずに新しい一本に火を着けた。 めんどくさけりゃこの場を離れればいいのだから、いやがられてはいないのだろうと遼太郎も煙を吸い込む。
「時雨さん」
彼が声のした方に顔を向け、笑った。
「お疲れ」
声も笑っている。 タバコを消し、遼太郎に会釈をする。 耳にかかった金色の髪を解すように後ろに向かって掻き上げた。
ほくろ
左の目尻に小さなほくろが3つ、涙がこぼれる角度で並んでいた。 あれを、どこかで見た。 笑っていても泣いているみたいだと、よくからかった。 気にしているんだからやめろと、そいつも少しムキになっていた。 あれは
「時雨……」
そう呼ばれて歩き去っていった。 あれが、時雨。 金髪で美しい横顔の。彼が
披露宴はさすがに盛大だった。 でも遼太郎は時雨が気になって仕方ない。 離れた席で仕事関係者とだろうか楽しそうに歓談する彼から目が離せない。
彼とどこかで会っている。 どこだ。 現場に立ち会うこともたまにある。 それならきっと忘れない。 あの横顔、あのほくろ。
テーブルの上の料理や会話も目の前を転がっていく。 思い出せない。
「どうした?木暮。かわいい子でもいた?」
「っつーか……時雨がいたんです」
「え、まじ。どこどこ?」
「あの、むこうはしの、金髪」
「おえええ、すっげえ美形じゃん。なんでわかったの?」
「呼ばれてたから、時雨って」
その会話の間も、目をそらせなかった。 向こうも座が砕けてきたんだろう。 今までと反対側に座っているゲストと話をしようとした彼がそちらを見るように体を捻った。 ちょうど遼太郎に背中を向ける格好だ。 少し高めの椅子の背もたれに肘をかけ、眺めの金髪の襟足辺りをゆるりと鋤く。 根本から毛先に向かってさっきタバコを挟んでいた指が何度も。
「あ」
そうやってよく、学食のテーブルでも俺を見ていた。 体の全部をこちらに向けて、指は髪を撫でていた。 教室でも美術室でも。 校庭の隅っこでも。
「陸……」
間違いない。 3つのほくろ、あの横顔。 そしてあのしぐさ。
小野寺陸だ。
「あの……陸……小野寺、だよな?」
「……」
披露宴が終わって、エントランスに向かう時雨をすんでのところで呼び止めた。
「違う?植田西高の」
「……木暮」
陸に腕を引かれて、柱の影に連れてこられた。
「やっぱりそうだよな? そのほくろで思い出したよー。なに?陸が時雨だったの?」
「……大きい声で名前を呼ぶな。名前を公表したくないんだよ」
「ごめん。だって、久しぶりだから嬉しくなっちゃって。俺、時雨のファンだし。連絡先も変えちゃったんだろ?飲み会とか誘えなくってみんな困ってたぞー」
「……連絡してほしい人にはちゃんと教えてる。そういうことだ。もう声かけないでくれ」
「え」
「それじゃあ」
連絡がほしい人には教えてるって、教えてもらってない人は会いたくない人、だよな。 なに、それ。
「おいちょっと待てよ! なんでそんな避けられなきゃいけないわけ? 俺なんかした?」
陸が振り向き、ギリッとにらんだ。
あ、思い出した。
した、しました。正確には『言った』。
「もう、お前になんて会いたくなかったんだよ」
憎らしげに言い捨て、陸は立ち去った。
そうだあのとき、卒業式の後。
雨が降っていた。 朝からどんよりした天気でザアザア降るでもないやむでもないうっとおしい日だった。
数日前から陸の顔色は悪く風邪でもひいているのかと気にはしていた。
卒業式が終わってみんなでカラオケにでも流れようかと話して何の気なしに校門の方を見ると、陸が一人で帰るところだった。 そういえば進学先も結局教えてもらっていない。 カラオケもバックレる気かと走っていって呼び止めた。
「おーい、陸。みんなでカラオケ行こうって言ってんだけどお前も来るだろ?」
「おれは……ごめん、行けない」
「はああ?付き合い悪すぎ!行こうよ。1時間だけでもいいからさ。まだお前と話したいこともあるし」
うつ向いていた陸が迷うように視線をあげる。 やっぱり顔色が悪い。 元々インドアの彼は、夏でも日焼けしたところなど見たことはないけれど、それにしても紙のように白い。
ゆっくりと重たいまぶたを2、3瞬かせると、薄い唇が開いた。
「おれ、お前のことが好きだった」
足の先から地面にめり込んでしまうかと思った。 どういう意味だろう、どういう意味だろう、どういう意味だろう。 こんな時にこんな思い詰めた表情で告げる『好き』は友情の好きじゃない。 なんで、いつから。 考えても考えてもなにも浮かばず、続けてなにか言おうと口を開いた陸に、遼太郎は言い放った。
「……冗談言ってんじゃねえぞ、気持ち悪い」
そして踵を返して逃げ出した。
仲間のもとに戻って、小野寺は?と聞かれれば「用事があって来れないって」と言い、平静を装った。
振り替えったら陸が回れ右して校門に消えていくところだった。
「あれかあ……」
口から出してしまった言葉はもう戻らない。 しかもあれから10年が経っている。 そんなに恨まれているとは思ってもいなかった。
「失敗したな」
時雨の装丁が本当に好きだ。 だから余計に自分の言ったことが許せなかった。