小野寺陸 13
ふりだしに戻る。
子供の頃すごろくなんかした記憶はないから、この落胆は高校以降のものだ。 たぶん、遼太郎の家で人生ゲーム(のwii版)をやったときだと思う。 人生ゲーム、というかゲーム機を初めて触ると言って回りをドン引きさせた。 だって必要なかったんだ。 生きていくのに精一杯だったんだから。
最初のゲームで陸は人生とは大人になっても楽ではないことを知る。 学生のうちに結婚してあれよあれよと子供が増え、就職になかなかつけず借金が増える。 稼ぎの悪い夫に愛想を尽かし妻は子供をおいて失踪。 陸は4人の子供を抱えて人生の荒波を渡っていった挙げ句のふりだしに戻る。
金はどんなに稼いでも着実になくなっていくし、子供はこちらの事情にお構いなしに進学したりする。
でも。 陸はその時思った。 別にふりだしに戻ったって構わないじゃないか。 家族が一緒なんだから。
電話口の筒井にギャンギャンと怒られているとき、ああ、おれ今『ふりだしに戻る』だ、としみじみ思った。 仕事から逃げて人から逃げて、遼太郎から逃げた。
筒井には生活がかかっているのだから無事とこれからのことを指示しておかなければと連絡したが、本当にあとは誰にも話していない。
筒井の給料分は今のまま自動振り込みにしておけば何年かはもつ。 伯父は仕事中の事故死だったため多額の労災が下り、伯母はそのほとんどに手をつけず陸のためにとっておいてくれた。 伯母が闘病中も、自分の保険で十分まかなえ、なおかつ生命保険もあったので陸は数年働かないところでどうということはない。
でも、伯父たちが望んだ使い道はそういうことではないのだから、今後のことは考えなくてはならないが。
もしかしたらこのまま元いたところには戻れないかもしれない。 そのくらいの覚悟はして家を出た。キャンセルしたクライアントがまた再び仕事をくれる保証はないし、今は昔からの付き合いの会社ばかりに仕事をさせてもらっている。
そういう人たちの仕事を断ることがどういうことか、フリーになって日が浅いがよくわかっているつもりだ。
それでも、ここにはいられなかった。 どこか、知っている人が誰もいないところに逃げたかった。 中学生じゃあるまいしと、自分にツッコミもした。 でも、今行かなければ自分がバラバラになりそうな気がした。 もう二度と、誰も信じられなくなるような。
衝動に突き動かされるまま2ヶ月の入院生活で増えた荷物を部屋にぶっこむとそのまま、最低の荷物をもって電車に乗った。
「とにかく!今どこにいるか教えてください!」
「無理。ごめん。とにかく生きてるから、たぶん、帰るから」
「小野寺さーん……」
「ホントにごめんな。心配しないで」
陸は、新潟にいた。
勢い余って東京駅まで来たものの、新幹線は特急は、日本のどこへでも繋がっており、路線図の前で途方にくれてしまった。 金さえ出せばどこへでも行けるという無責任の前で、不意に自分のした数少ない旅行を思い出した。
最初は中学の修学旅行、次は高校。 それ以前にそんな思い出があるはずもない。 伯父の家に移ってからは二人とも忙しくまた、陸にしても小学生ならいざ知らず保護者と旅行というのも気恥ずかしく、どこにも出掛けたことはなかった。
伯母は温泉行きたい、とかいっていなかったっけ? どうして元気なうちに連れ出してやれなかったんだろう。
人が行き交う券売機の前、陸は呆然としてしまった。 生まれて初めて自主的にしようとしている旅。 そういえば。
隆一とは旅行に行った。
彼は日本酒が好きだったから新潟で酒蔵見学と温泉にいく、と珍しく張り切って計画をたてていた 。酒蔵によっては予約がないと見学ができなかったり一日の見学人数を決めているところもあるからと予約までとっていた。
なんだかかわいいな、と思ったのもつかの間、現地についたら当然のように陸は運転手で貴重な蔵元限定試飲などもできるはずもなく。
「ワガママなところもあったよな……」
陸は新潟への切符を買って、ついに旅はスタートした。
新潟では隆一と訪れた酒蔵を思い出して回ってみた。 夜は同じ旅館に泊まる。そうしたら勢いがついてしまい、彼と行った数少ない場所を巡ってみようと思い立った。
新潟にはそのまま数泊して、次は静岡、そして高知。 どこも隆一が嬉しそうに旅行パンフレットを持ってきた日のトワレまで覚えている。
あのまま、付き合いが続いたら次はどこへ行ったんだろう。 もう二度とない『次』に思いを馳せてしまう。
どこに行っても隆一がいた。 着ていたジャケットの色が、跳ねた襟足が、袖から少しのぞいた手首の骨が陸を思い出に引きずり込む。
この湖畔を歩いていて振り返った隆一は好きだよって言ってくれた。 居酒屋でほろ酔いで他の客の目を盗んでキスをしたよな。 夜の温泉街を浴衣で並んで歩いていた時、仕事行きたくねえなあ、って珍しく愚痴っていた。
もう帰るときの駅前で、どうして隆一は驚いた顔をしたんだっけ?
もしも、隆一と妻が死んだ原因が陸なら、陸との交際が 妻の怒りをかっての無理心中なら、きっといまよりもっと苦しくて悲しくて、申し訳なくて。 それでもきっと嬉しかったと思う。 自分とのことはちゃんと意味があってその事は妻のことを傷つけるだけの本物の恋だったと思えるから。
でも実際は違った。 妻は、男の恋人にはたいして動揺を見せなかったが愛人との間にできた子供には車の運転を誤るほどのショックを受けた。 陸と隆一に間にはなにもなく、関係者ですらない。 確かに二人は繋がっていたのに。
「……お客さん、去年もいらっしゃいましたよね?」
「……えと」
「ああ、ごめんなさい。髪の色が印象的で」
「そうでしたか」
ちょっと待っててくださいね、と居酒屋の店員はどこかに走っていった。 ここは隆一と高知の最後の夜に訪れた居酒屋だ。 人の目を盗んでキスをした、例の。 変なところ、見られていなかったかと嫌な汗が出た。
店員は大学生かそこらの女の子で、ぱきっとしたショートボブが愛らしい印象の人だった。 店の奥から元気な笑顔でまた飛び出してきた。
「これ!前回見えたときにお連れ様が忘れていかれて。良かったです、また来てくださって。大切そうなものだったから」
差し出されたものは手帳だった。 ダークブラウンの革が大分こなれていい色になっている。 陸はそれに見覚えがあった。
「これ、中身見ました?」
「ああ、お名前とかお電話がわかるものが書いていないかと思って、チラッと。でも、連絡先は書いてなくて」
「そうでしたか……」
「お連れ様に渡していただけますか?あ、その前に一応中身確認してくださいね。間違いないと思うんですけど……」
「……あ、はい」
手が震える。 隆一と過ごす日々、何度かこの手帳は見たことがある。 「それなに?」と聞くたびはぐらかされていた。隆一にはいくつか開けてはいけないドアがあった。
家のこと、将来のこと、陸と会っていないときのこと、この手帳のこと。
それが今陸の手に 中にある。
ゆっくりと開く。最初のページ、クリアケースに二人の子供の写真が入っていた。 男の子と女の子、幼稚園にいくかどうかのふくふくとした薔薇色の頬。 何となくお揃いのトレーナーを着てそれぞれにポーズを決めている。
ああ。 そうだよな、当たり前だよ。 これは見せられない。 指先がキンと冷たくなった気がして、ページをめくった陸は息が止まるかと思った。
そのクリアケースの裏、写真の裏にかくれるように陸の名刺があった。 まだ二人が付き合う前、村上の不始末を謝罪に行ったときに渡したプライベートのアドレスを書いた名刺。
これをずっと、隆一の大切なものと一緒に持っていてくれた……。
「その名刺のアドレスにも連絡したんです。でも番号は使われていなくて、会社もお辞めになってて移転先は個人情報保護の関係でお教えできませんって言われて……まあ、あたりまえなんですけど」
「……」
携帯はそのあとすぐに始まった隆一の暴力で壊してしまった。 そのままキャリアを変えてしまったので、通じなくなるのは当然だ。 会社も辞めたあとだったのだろう。
「……」
「あの……何か気に触るようなこと言ってしまいましたか?」
手帳の上に涙が落ちた。 落とした陸が驚いて、慌てて首を横に振る。
「違うんだ、ごめん。大丈夫だから。これ、ありがとう」
「いいえ……」
隆一と一緒の旅が終わる。 最後のほうの陸に手をあげた彼はいない。 穏やかで優しくて紳士で、陸のことをきれいだといってくれた隆一。 前を向く勇気をくれた隆一。
誰に認められなくても、例え隆一が認めなくても、陸のなかではちゃんと恋だった。 体は、唇は繋がってももしかしたら片想いだったのかもしれない。 それでも構わない。 陸のなかには全部残っている。
もう二度と会えないという ことが、すべてを優しい思い出に書き換えてくれる。遠くに見える山から涌き出るのだという水のように時間に磨かれてもう、輝きしか見えない。
笑いあい、手を振って別れる。 あのときはできなかったけれど、いまはもう。
「ありがと。さよなら、隆一」
高知の駅前で、あの日隆一を呼び止めた。 旅の最後の日はからっと晴れたいい天気だった。
「お父さんたちにお土産買わなくていいの?」
隆一は一瞬驚いて、そして寂しそうな顔をした。
うん、いいんだ、と。
およそ1ヶ月のセンチメンタルジャーニーを終え、それでも陸は家には戻らなかった。 伯父たちと暮らした隣町にマンスリーマンションを借り住み始めた。
いつまでも伯父の残してくれたものを食い潰すわけにもいかないのでアルバイトを始めた。 近所のスーパーで野菜にひたすらラップフィルムをかけて店頭に出す仕事だ。 面接で髪色がダメだと言われたらまた染めるかと覚悟していたら、衛生のため耳まですっぽりと帽子をかぶってもらうからそれは大丈夫、と告げられ安心した。
ほとんどバックヤードから出ない仕事は、気楽だった。 万が一にも知り合いに合うことがない。
日がな一日、キャベツやキュウリをラップでくるむ。 単調に思える仕事も、慣れてくると野菜の良し悪しがわかってきて楽しい。 同じ青果コーナーで働くパート従業員に野菜の調理法を聞く。 簡単な炒めたり茹でたりといった調理法だが部屋で試してみる。
今まで注意して見たことのない野菜のフォルムも興味深い。 気がつくと『この野菜の断面を撮って表紙に使ったら』などと考えていて少しおかしい。 もうデザインの仕事には戻れないかもしれないのに。
淡々と、それでも穏やかで充実した日々。 筒井には時おり生存報告を入れたが、それ以外は以前の知り合いとは誰も繋がっていない日々。 いいじゃないか、とても快適。 誰にも何にも心を揺さぶられることのない日常────遼太郎。
静かに波のたたない毎日に、ひょっこり顔を出す人懐っこい瞳。 そのたび、どこかがチクリと痛む。
あんな別れかたはなかったかもしれない。 旅を終えて冷静になってみればわかる。
心療内科に紹介状をかかれる状態の友人に元恋人が死んだなんて、言えない。
それなのに心配してくれていた気持ちごと振り払って逃げてしまった……あのときと同じだ。
入院していたあのベッドの上で額や頬に触れたものになにか意味はあったんだろうか。 うつらうつらしていた陸の額に触れた温かいもの、微かな吐息。 思い出すと心臓が騒がしくなる。
それを確かめもせず逃げ出した陸を、もう忘れてしまっただろうか。
明日が最後の陸ターン。
長いことお付き合いいただきましてありがとうございます。
また明日22時頃お邪魔します。
うえの




