小野寺陸 1
失ったと思った意識が、脛にぶつかる強烈な痛みでそうではないことを知らせる。 痛いも辛いも、もうよくわからない。 からだ全体が痺れて膨張と収縮を繰り返す。
どのくらいの時間がたったのだろう。
今日は久しぶりに恋人が家に来た。 1ヶ月振りだろうか。用意していた食事をとって、お土産にと渡されたワインを開けた。 軽くつまみながら前に会ったときに次に見ようと約束していたDVDを見て、ゆっくりと会えなかった日の話を楽しくしてたはずだった。
フローリングの床に叩きつけられ、恋人が馬乗りになる。 着ていた青いシャツはむしりとられた。 貝のボタンが弾け飛び、ひとつが陸の頬に当たる。 そこだけが妙に現実味を帯びて痛い。
肩に恋人が噛みつく。 甘咬みなんていうものではない。 皮膚を破り肉を食いちぎるような強さでだ。 ぐったりとしていた体が鮮烈な痛みを訴えて逃れようとする。 恋人はその体を易々と裏返しボトムと下着をまとめて引きずり下ろした。 そのあとに来る衝撃に備えて体がこれ以上ないくらいに強ばる。 足で蹴られ下半身を高々と上げさせられると、なんの準備もしていないそこに恋人の欲望が突き込まれた。
そんなことをすれば自分だって苦しいはずなのに彼は構うことなく揺すりあげた。 力を抜きたくてもそうできない。 悲鳴は手近にあったクッションに顔をめり込ませ吸いとってもらった。
抑えきれない吐き気に襲われ、胃の中のものをすべて戻した。 それでも何が足りないのか後ろからのびてきた手が陸の首に回る。 ギリギリと締め上げられ今度こそ気を失った。
目を開けているはずなのに真っ暗になる視界の中で強く願う。
どうか、彼の役にたてますように
小野寺陸には、物心ついた時にはもう父親はいなかった。 母と二人、小さなアパートに暮らしていた。 母はパートかなにかをしていて昼間は出掛け、夜は遊びにいくのかやはり出掛けていた。
お腹が空いたらいつ買ったのかわからない食パンをかじり、寒くなればありったけの毛布にくるまって寒さをしのいでいた。
陸は明らかに日本の子供とは違う風貌をしていた。 顔立ちはそう違わないが、肌は白く、髪は目が覚めるような金色をしていた。 瞳の色もグレーとグリーンが光線によって顔をのぞかせる不思議な色。 父親について詳しく聞いたことはない。
というより聞かせるほどの材料が母の方にもなかったようだ。
つまり、陸はどこぞの誰ともわからない日本人ではない父親と母の間に生まれた子供だと言うわけだ。 時々母の姉だという伯母が様子を見に来てくれて、冷蔵庫におかずをいれていってくれた。 レンジの使い方はずいぶん小さい頃から知っていたように思う。 しばらくは暖かい食事ができるので嬉しいお客さんだった。
小学校に通うようになると、とりあえずいつも空腹という状況はなくなった。 給食が出るし、自分でも炊飯器で米を炊き、ゆで卵くらいは作れるようになったからだ。 それも材料があればだが。
陸の背丈は他の子供より大分低かった。 それなのに明らかに他とは違う髪の色をしていたため、元気でやんちゃな子供より目立つことも多々あった。
低学年のうちはあまり気にせず遊んでくれた友達も高学年になると様子が変わる。 家庭でそういう会話をしているんだろうか『明らかにハーフだけどお父さんのいない子』という扱いをされていると子供心にわかるようになった。 挙げ句陸には母親の影もあまり見えない。 なかには露骨に遊んじゃいけないって言われたと宣言してくる子供もいて、陸の小さい世界は更に住みにくくなってしまった。
陸が10歳の時。母が急に家を出ると言い出した。
伯母が慌てて飛んできて「陸はどうするの!?」と問い詰めた。
もとから母という人は母らしくはない人で、本人は来たこともないが学校の授業参観などがあると、他の家のお母さんとはずいぶん違うと思ったものだった。
いつも短くてピッタリとしたスカートを履いて、靴もシンデレラが履いていそうに華奢なものばかりだった。 いつでもしっかりとメークがされた顔で前髪の角度も狂ったことがないように記憶している。
伯母に迫られ、それでもなんでもないように母は
「だって、好きな人が出来ちゃったんだもん。陸はなんか気持ち悪いから連れていけないわ」
そういい残し、家を出ていった。
その後、伯母は小学校を卒業するまで母と暮らしたアパートに住み込んで、陸の面倒を見た。 母の代わりに、授業参観に出て、運動会で走って、卒業式で泣いた。
陸はそれを自分のこととして見ることはできなかった。 ずっと、違う家のホームビデオを見せられているような気持ちが拭えなかった。
小学校を卒業すると母と暮らしたアパートを引き払い、伯母の家に移り住んだ。 養子縁組をして名字が小野寺になった。
伯父も伯母も子供がいなかったせいか陸に優しく、なに不自由なく過ごせたが、心を開くことはなかなかできなかった。
伯母は中学に上がる前に髪を染めてはどうだろうと提案してきた。 子供の頃に比べると少し深い色になってはいるが、それでもやはり金色だ。 学校の先生には染めたり色を抜いたりしているわけではないことを説明はしてある。 しかし小学校で仲間はずれのような目に遭っていたことを把握していた伯母が、中学ではそんなことにならないようにと、おもんばかってくれたのだ。
ついでに瞳の色を隠すため黒いカラーコンタクトレンズも用意された。
髪を染めコンタクトを装着し、制服を来た鏡の中の自分は、知らない人だった。 でも、今日からこの自分で生きていかなくてはならないと納得するしかなかった。
相変わらず友達はできなかった。 しかし、とりあえず真面目に授業を受けていたので、成績には問題があったことはない。
甲も乙もない三年間を終え、陸は地元の高校に進学した。
クラスのなかでもおとなしい子と回りは認識していたと思う。 実際、教室では誰とも話さず、本を読むか外をぼんやり見ているような生徒だった。
入学して部活動のオリエンテーションに参加した陸は、美術部の展示の前で足を止めた。 それは、前の年に賞を取ったOBのもので、大きいキャンバスに色とりどりの絵の具の水玉がただ並んでいるものだった。
陸は首をかしげて絵を見る。 何が描いてあるのかさっぱりわからない。
「ああ、それは、少し離れて見てごらん?」
「……」
美術部の生徒らしき男が言う。 陸は数歩下がって絵を見上げた。
「……人」
「そう、子供。点描画法っていうんだ。スーラの グランド・ジャット島の日曜日の午後とか見たことないかな?絵を線や面じゃなくて点で表現するの。 こうして離れてみるとちゃんと絵が浮かび上がってくるんだよね」
「……すごい」
「良かったら、また遊びにおいでよ。今日は展示だけだから誰もいないんだけど、描いてるとこも見たら楽しいかもよ?」
それから陸は伯母に美術部に入りたいと打ち明けた。 あれがしたいこれがほしいなどと言ったことのない陸の申し出に、伯父も伯母も喜んで支度をした。
何かをしたいと言ったら喜んでくれた伯父と伯母に、今年の文化祭で絵を見せたい。 やる気や喜び、学校に行く楽しみを初めて知った。
しかし、その小さな願いは半分、叶わなかった。
伯父がその年の夏の終わり、仕事中の事故で亡くなったのだ。電機関係の工事の仕事をしていて、倒れた重機に巻き込まれたのだと。
驚いた。
朝、行ってきますといつものように出勤していった伯父が、もう帰ってこないのだとはにわかに信じられなかった。 学校で呼び出され、駆けつけた病院で伯母が泣き崩れているのを見るまでは悪い冗談だと思っていたほどだ。 冷たいフロアタイルに膝をつき伯母の背中を支えると、震える腕ですがり付かれた。 伯母が泣いている。 いつもいつも、陸を助けてくれた明るい笑顔が、今は哀しみに歪んで大声をあげて泣いていた。
そうか、伯母も今一人きりになってしまったのか。 伯母と母の両親も早くに亡くなっていて姉妹は二人きり。 遠くの親戚はあるかもしれないが、頼れるものはお互いだけになってしまった。
陸は伯母を支えながら、薄暗い不安を抱え込んでいた。
高校3年になった、風薫る季節。 家に帰ろうと昇降口まで来ると雨が降っていた。 あまりに静かに降りだしたものだから気づかなかった。
背中にはリュック、腕には大判のスケッチブックを抱えて呆然と空を見上げた。 家に持って帰って下絵の続きをしようかと思っていたが、今日は諦めて学校に置いていくしかなさそうだ。
部室の鍵はさっき返してしまったから、また借りに行くか教室においておくか……。
「なあ、小野寺だっけ?傘持ってねえの?」
「……」
声のする方にいたのは確か、木暮。 木暮遼太郎。 サッカー部でいつも誰かに囲まれている、クラスの中心人物だ。 この春初めて同じクラスになって、まさか自分の名前を覚えているとは思わなかった。
「俺もないんだけどね。あ、良かったらこのビニール使う?それ、濡れちゃ困るもんなんだろ」
陸が持っているスケッチブックを指して言う。
「ほら、こうやって入れてけば濡れない」
袋を逆さにして中身を空け、陸の手からスケッチブックを取り上げるとそのビニール袋でくるんでしまった。
「……それは、どうするんだ?」
床に転がっているジャージを指差す。 むき出しで持っていったらそれこそ雨の重みで大変なことになるのではないか。
「ん?これは、こうして……」
木暮はジャージを拾い上げると、上着の方を陸の頭から被せリュックまでをジャージで覆うと袖を顎の下で結びつけた。
「これでお前も濡れないだろ?!」
得意満面で陸を見た。
「……俺ばっかり、悪いからいいよ」
「俺もするから」
そう言うと小暮は持っていたジャージのズボンをウエスト部分から颯爽と頭に被り、足の部分を顎の下でキリリと結んだ。
「な?これで大丈夫」
決して大丈夫ではない。 雨は勢いを増し傘を差していても濡らすように風もある。 それでも、小暮が自信満々に言うので、ついそういうものかと思えてしまった。
「なんだよお前ら!アホ兄弟みたいだぞー」
「フハッ、やべえ、ツボった!」
後ろで小暮の仲間が大袈裟に笑っている。 それに小暮も笑顔で答えるとぐいっと陸の手を引いた。
「お前も駅までだろ?走るぞ!」
「え、あ!」
あれよと言う間に、陸は雨のなかに引きずり出された。 瞬く間にずぶ濡れになっていく手はしっかりと小暮が掴んでいる。 よく見えない視界の先に小暮の背中があった。 時おり振り返り、付いてこられるかを確認しているようだ。
毎日コートを駆け回っているお前らと文化部を一緒にするなよ、と文句を言ってやりたかったが、回りも楽しそうに走っていくので、それを陸は飲み込んだ。
歩いても10分ほどの距離を数人の塊が転がるように走っていく。 時々笑い声が聞こえる。 そちらを向けば、今まで話もしたことがなかった奴が「もう少し、ガンバレー」と笑顔を向ける。
桜も咲き終えて緑が美しい木々の通りを笑い声が駆けていく。 雨粒のひとつひとつが夢のようにきれいで、世界が色づく瞬間を、陸は見た。
頭から被せられたジャージは雨を吸って小暮の匂いが強くなる。 引かれる腕も、向けられた背中の濡れて張り付くシャツも、何もかもが陸を魅了した。
駅までの7分で、陸は初めての恋に落ちた。
「……さん、小野寺さん」
「……あ……うわ、俺寝てた?」
「はいぐっすり。まあ、昼休みなんだからいいんですけど。これ、資料来てたんで持ってきました」
「あー、さんきゅ」
「いい夢見てました?笑ってましたよ」
「ああー、うん。なんかスッゴク懐かしい夢見た。学生の頃の、アホな夢」
「あはは、それはよかった。午後からまた忙しくなりますからね。リフレッシュできましたね!」
高校を卒業した陸は、離れた土地で一人暮らしをしながら美大に通った。 進学の際は最後の最後まで悩んだが、最終的に伯母の強い後押しがあり大学進学を決めた。
4年を遠くの大学で過ごした陸は卒業しても故郷に戻ることはなかった。 東京にある出版社のデザイン部に就職して6年が過ぎていた。
仕事は思っていたほど単調でもなく、毎日新しい発見がある。 やりがいもあり自分を指名してくれる編集者や作家がいることは嬉しい。
でも、あの時の輝くような日々には敵わない。
恋に落ちるとはよく言ったものだが、陸はあの時、引きずれ込まれた。 手を取った本人によって、その仲間に突き飛ばされる形で。
どんよりとした学生時代にたったひとつ、光るビー玉のような日々。 本当にあの数ヵ月だけが陸にとって学生らしく、煌めく毎日だった。
今でもこうして時々夢に見る。 仕事が順調でも恋人がいても、それとは関係なしにあの頃を恋しがる。
そしてもう戻らない時を知る。
すっかり温くなったコーヒーを見下ろし、ため息をついた。
あの頃の仲間は、みんなどうしているだろうか。 あれから誰一人、会うことも連絡をすることすらなかった。 自分で関係を切っておきながら懐かしく思うなんて勝手だ。
飲み干したコーヒーは気まぐれにいれた砂糖が下に沈んで、変に甘かった。