最終話 第四章 マシアス その5
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このこみ上げてくる光は何だ?
初めは神々しい光だと思った。しかし、そうじゃないことに気づく、ただ、なつかしいだけなのだ。
与えられたものじゃない。人が皆、初めから持っている光。
この光……何処かで……。そう……これは……。
心の中に、誰かの意識が流れ込んでくる。
それは個ではなく全。
全ではなく個。
悠久なる時を感じさせる意識が優しく語り出した。
『心優しき少年よ。愛には神と人との境界は存在しない。生命あるもの、すべてが心の中に秘め、拒絶しないかぎりその扉を開く。
心優しき少年よ。奇跡とは人の持つ偶像でしかない。心理から眼をそむけてはならない。
目覚めなさい。森羅万象には人も神も一つなのだから』
今までに経験したことのない感情が芽生えたのは、レオノールと初めて会話をしたときだった。
人身掌握の妙に長けていたレオノールは、村中の人々から気味悪がられていた。夢魔カスバートの化身だ。いや、人々を惑わす邪神サーマンの使いだ、などという根も葉もない噂が絶えなかった。
長期間の日照りのため作物が育たず、村は凶作にみまわれていた時だった。
何とか食料を調達しようと村外れの湖に向かった。
その湖は水神様が棲んでいるとされ、めったに人は寄りつかない。
半時をかけて湖に到着するとその光景を疑った。
罰あたりなことに、湖の中に一人の少女がいたのだ。
水面を波打つ光が少女の身体を神聖なものとし、上空に巻き上げた水滴が、空中を漂う妖精のように輝いている。一糸纏わぬ少女のその姿は、天空から降りてきたばかりの天女そのものだった。
「誰? そこにいるのは」
「あ、あ、ご、ごめん」
女は急いで背を向けた。
「このエッチ」
「エッチだって? わざとじゃない。それにこの湖は遊泳禁止だぞ。人がいるなんて思ってもいなかった。どっちかというとお前のほうが悪いんじゃないか」
「まだ振り向いちゃだめ!」
「あ、ご、ごめん」
再び背を向けた。
「もう、いいわよ」
少女はレオノールだった。周りの視線を気にして意識的に避けていた。だから、話すのは初めてだった。だけど不思議と緊張感はない。
腰まで伸ばした黒髪は濡れることによって、その妖艶さを増していた。衣服は濡れた身体に纏わりついている。彼女の体系がダイレクトに視覚に飛び込んでくる。
赤くなりそうな顔を気づかれないように話し出した。
「水神様の祟りがあったらどうするんだよ」
レオノールは唸りながら口を膨らませた。
髪の毛の先を人差し指に巻いている。困ったときの癖なのだろう。
「それは私が悪かったわ。でも、あなたの持っているつり竿はなんなの?」
「う、こ、これは……」
「うふふ。おあいこさまね。このことは二人だけの秘密にしましょう」
村のみんなはレオノールのことを魔女の生まれ変わりだといったが、それよりももっと性質の悪い存在だ、とローランドは思った。
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「やはり生きていたか、レオノール。俺はあのとき確かに息の根を止めた。これで説明がつく。ローランドの能力か? いや、違うな。あのときはまだそんな力はなかったはずだ。ということは、ラースは生きているのか。死んだなどと俺をだますつもりだったのだな? 影でこそこそと……」
レオノールは無表情のまま、マシアスの腕を掴んでいる。
マシアスの勘違いのおかげで立ちあがれるまで治療が進んだ。失われた血液は戻ってこないけれど、形勢を逆転させるくらいには……。
ローランドの様子を窺うと、彼も立てるまで回復したようだ。しかし、身体のあちらこちらから出血している。早くもっと細部まで治療を施さなければならない。
「力は何も手に入れられない、と云ったな」
身体を引きずりながらローランドの元へ歩いている僕の背中にマシアスの声が掛かった。
「それは弱者の理想と哀願と懇願でしかない」
僕は振り返らずに歩を進める。
ローランドさんさえ回復してやれば勝機はある。とにかく、頼みの綱である彼を戦線に復帰させなければならない……。
……?
様子が変だ。
ローランドの眼は大きく見開かれ、ひどく驚いた表情をしていた。
どうしたんだ?
ローランドはおもむろに自分の胸に触れた。どうしたんだ? 何か異変を感じているのか?
妙な行動にマシアスは気づいた様子もなく、声を高らかに云う。
「残念だがローランドとお前には消えてもらう。ラースを俺のもとに置き、不動の地位を手に入れる。それは今、この時点で約束された。俺の悲願はもう成就された。さらばこの世界。初めまして新世界!」
あれが来るのか? すべてを呑み込む球体。
僕は自然と、あきらめの気持ちが湧いた。実力で、運で、機転で、どうにかなる攻撃ではないのだから。それでも、相手の出方を見て対策を練らなければならない。そうやって、生き抜かなければ。なんとしても。
その刹那、レオノールに掴まれていたマシアスの肘から下がボトリと落ちた。
レオノールの手首から生えた赤黒い剣が、太陽の光を受け妖しく輝いている。
「ぎゃああ!」
血が噴水のように舞う。マシアスが情けなく叫ぶ。
「どけ! ノリエガ」
ローランドはボールを投げるような姿勢で鞭を構えた。
それを見て僕は慌てて横へ飛び退いた。
ローランドの左足が大地を踏み込む。地面が大きく陥没する。腰をひねり、胸をそらせ、右腕を振りぬく。鞭がうなる。音速の壁を超え、さらに……。
「爆縮」
かろうじてマシアスが能力を発動させる。正面に重力球が立ちふさがった。それも恐ろしい数の……。
「そんなに出したら、世界樹、いや、この地域一帯を滅ぼすぞ!」
「いいさ」僕の問いに笑顔で応える。「ラースが死んでも問題ないんだよ、実は」
どういう意味だ?
「消えてなくなれ。この攻撃で、すべてを終わらせる」
「云ったはずだ。俺はお前を超えると」
鞭はさらなる壁を超えた。
辺りに耳をつんざくような重い音が走る。
ローランドの全身の筋肉が悲鳴を上げる。
僕の鼓膜が激痛をもたらす。
鞭は、球体を突破し……そして、消えた。
「は、はははは。光速を越えたのか? それには賞賛を贈ろう。しかしどうやら、鞭が光圧に耐えられなかったようだな」
ローランドは力なく膝をついた。
「ローランドよ。マシアス自治領の歴史は古い。俺は書物庫でおもしろい文献を発見した。はるか東にある小さな島国に、生命を自在に操る者たちが存在する、そう書かれていたのだ。これがどういう意味かわかるか? お前とラースはあきらめる。それも、喜んでな。どうせ、新しいネクロマンサーが手に入るのだから。ふふふ、ははははははは!」
マシアスは天を仰ぎ勝利を宣言する。
「歯車のいたずらは終止符を打たれた。神にそむく行為を行い、闇の翼は我に開かれた。ここに宣言しよう。世界は茨の道に閉ざされ民は苦痛にさいなまれる。凡庸な民よ。我に暗涙は通用しない。ひたすら許しを乞うがよい。さすれば、我が闇の腕は上げられよう」
マシアスは恍惚な表情を引き締めて元に戻すと、ずいと前に進み出た。
視線は真っ直ぐローランドに注がれている。
「お前はその範疇にない。ローランドよ。ここで闇の一部になるがいい。はははは」
「両腕がなければ大好きなワインも飲めないじゃないか。俺が飲ませてあげようか?」
ローランドは苦痛に顔を歪めながら軽口をたたいた。しかし、動けないでいる。
動けるのは、僕だけだ。
今……この瞬間……世界を救う手助けができるのは、僕だけだ。
ふいに、レオノールの姿が視界に入り、視線と視線が交差した。
レオノールが小さくうなずく、ように見えた。
カーメンの姿が重なる。この世でもっとも美しい女性。それは外見ではなく、内に眠るもの。
「さらばだ、ローランド」
マシアスはローランドを見下ろしたまま身の丈ほどもある球体を発生させた。
空間にぽっかりと口を開けたそれは、存在するすべてを混沌へと誘うようだった。
ローランドは僕に視線をよこし、すぐさま握られている鞭へ注がれた。
無残な姿と化した鞭を見てローランドが何を求めているのか僕は悟った。
そんなことが出来るのか?
しかし……。
やるしかない。
僕の背中をカーメンが押してくれた。
「トリック・ドクター!」
ローランドは僕に、鞭を治せ、と促したのだ。
驚いたことに、物質を治す、いや、修理する能力を僕は知らないうちに習得していた。精神力の変化が影響しているのだろうか。僕にはわからない。それでも、結果は出た。
元の姿に戻ったローランドの鞭はまるで生きているかのように躍動する。しかしそれを見たマシアスは余裕の姿勢を崩さない。
「無駄なんだよ。そんな幼稚な攻撃では。はははは!」
「よく笑うじゃないかマシアス。変だと思わないのか? まあ、思わないだろうな。お前の敗北は、その笑いで決まっているんだから。さよならだ。古き友よ。可哀そうな、親友よ」
「はははは……は……は?」
僕は気づいた。なるほど、マシアスはもう負けていたのだ。何故なら、レオノールの舞が、視界に入っているのだから。
彼と僕の視界に……ははははははは……。
つづく




