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愛してるってゆってよね。

作者: かにヴぁ。


君が笑う夢を見たよ



ジョン・レノンになりたかった。ビートルズという世界的バンドをかなぐり捨てて、オノ・ヨーコという女性をただ一人一生愛し続けた。僕はジョン・レノンになりたかった。全てをかなぐり捨ててでも、誰かを一生愛し続けたかった。



なんて幸せなことだろうか、僕は僕のオノ・ヨーコを見つけることができた。ほんと、奇跡としか言いようがない。中森陽子。名前がオノ・ヨーコと同じだったということも奇跡としか言いようがない。僕は大学の軽音楽部に所属していて、彼女はそのサークルの先輩の彼女だった。一歳年上の先輩。一目見た時から恋に落ちた。彼女の瞳に宿る強い意志はジョン・レノンを見つめるときのオノ・ヨーコのようで、明るく振る舞うその姿はシド・ヴィシャスとともに騒ぐナンシー・スパンゲンのようで、時々横顔に翳る寂しさはカート・コヴァーンを思うコートニー・ラブのようだった。

僕は彼女に恋に落ちた。



「鈴木、准一くん……だっけ?」 彼女は僕にそう話しかけた。

サークルの定期ライブの打ち上げで僕たちは居酒屋にいた。僕はお酒があまり強くなくて、隅っこの席でビールをちびちびと飲んでいた。周りのサークル員は机から机へと歩き回り、酔いの回った頭のせいで必要以上に声を張り上げ、自分に確認するように大げさに笑っていた。ライブは散々なものだった。最近のJ‐POPのような軟派な産業ロック、Tシャツにジーンズ姿の二十歳前後の子供が作った吹けば飛んでいきそうな曲をぐだぐだにコピーしてステージで演奏することをライブと言えるのだろうか。あんな熱意も情熱もない歌。本気になるのがカッコ悪いだなんて思ってるから、Tシャツにジーンズ姿でロックだなんだと騒いでも恥ずかしくないんだ。恥ずかしいのはお前たちだ。自分を慰めるために音楽するんじゃねえ。ファックオフ。

そんなことを思いながら、僕は隅っこの席で一人でお酒を飲んでいた。誰にも喋りかけないし、誰からも喋りかけられない。この場で僕は空気のような存在だ。だから空気がいくら自分のことを見つめようが、気にしないだろうって思ってた。けれど彼女は、中森陽子は僕の視線に気が付くと、隅っこの席で小さくなってる僕の所まで向かってきて、僕に話しかけた。

「あ、そうです。よろしく……お願いします」

僕は思わず目をそらしてしまいながら、そう返事をした。「ははは、そんなに緊張しなくていいよ。私、中森陽子って言うの。よろしくね。って私このサークルのメンバーじゃないんだけど。あそこにいるさ、下岡、あいつ私の彼氏でね。そのついでって感じ。ところでさ、……ねえ、なんでずっと私のこと見つめてたの」

僕は恥ずかしくなってますます彼女を見れなくなった。

「いや、きれいな人だなって……、ごめんなさい」

けれど彼女は僕の気持ち悪い発言に引いたりせずに、むしろ目を細めて笑い始めた。

「え、ほんと? 嬉しいな。ありがとう」

その笑顔が、ほんとに、ほんとに可愛らしくて、綺麗で、素晴らしくて、僕は一層彼女のことが好きになっていた。

「ねえ、鈴木君はさ、どんな音楽が好きなの? 軽音サークルにいるってことは、音楽好きなんだよね?」

彼女は頬に肘をついて僕に話しかけた。

「そうですね……ビートルズとかローリングストーンズとか、ボブ・ディラン、セックスピストルズ、クラッシュ、ダムド、ニルヴァーナ、オアシス、レディオヘッド、とかですかね」

僕は緊張してどもりながら口早に話した。

「すごい。いっぱいバンド知ってるんだね。私もビートルズは好き。かっこいいよね。けどさ、そういうのが好きだったら、ここのサークルって雰囲気合わなくない? どっちかって言うとさ、ここのサークル、日本のロキノン系っていうの、なんかそんな感じの曲が好きな人が多いじゃない?」

「そう……ですね。正直入るサークル間違えちゃったかなって感じはありますけど……」

「ね、鈴木君の好きなバンド話してよ」

僕はそれから自分の好きなバンドのことを話し始めた。ジョン・レノンが成し遂げようとした愛と平和の話。シド・ヴィシャスがぶち壊そうとした常識と言う名の檻。カート・コヴァーンが支えようとしたロックの精神。彼女は僕のそんなつまらない話を、笑顔で聞いてくれていた。たまに彼女は話の節々に挟んだロックンローラーの裏話に笑った。その笑顔が出るたびに僕は彼女の顔を直視できずに俯いた。

「で、ですね。その九十年代のイギリスを覆っていた甘ったれた空気をトム・ヨークは」

僕がそう話していた時だった。

「おい、陽子、ちょっと来てみろって。長谷川がめちゃくそバカなことやってるぞ」

下岡先輩が彼女を呼んだ。

「えっなになに」

彼女は彼氏に呼ばれると僕の話をさえぎって立ち上がった。

「ごめん、鈴木君。ちょっと行って来るね」

「あ、いえ。とんでもないです」

彼女は僕から離れて先輩のもとへと行くと、さっき僕に向けていた微笑みとは打って変わっておなかを抑えて体全体で笑い始めた。僕はまた居酒屋の机の隅で一人になった。ジョッキに入ったビールに口を付けると、既にそれは炭酸の抜けたただの苦い液体に代わっていた。

打ち上げはそれから数十分後にお開きになった。僕は絶対に元が取れなかったであろう飲み放題の代金三千円を払って外に出た。まだ秋が始まったばかりなのに、冬はだんだんと近づいていて、アルコールで火照った体をゆっくりと冷やしていった。

「じゃあね」

彼女はそう言ってポケットに突っ込んだ先輩の手に腕を絡めてどこかへ行った。

僕は酔っぱらってふらふらと自転車をこぎながら、六畳一間の自分のマンションへと帰って行った。


次に彼女と出会ったのはバイト先のコンビニでだった。先輩と一緒に彼女は僕の働いているコンビニに訪れた。

「ここで働いてたんだ。知らなかった」

彼女はレジでバーコードを通している僕にそう言った。

「誰、この子」

先輩は彼女に向かって言った。

「洋二のサークルに入ってる後輩だよ、知らないの?」

「いや、うち人数多いからさ。ごめんね、君」「いえ、全然……。気にしないでください」

僕はそう言いながら代金を受け取ってお釣りを返した。

「じゃあね。また会おうね」

彼女は振り返って僕にそう言うと、先に出て行った先輩を小走りで追いかけはじめた。

「おい、レジ」 いつの間にか目の前に立っていたおっさんが僕に向かって言った。


ある日、彼女はまた僕の働いているコンビニに訪れた。

「ここに来たらね、会えると思って」 彼女はそう言った。

「ねえ、今日バイト何時に終わるの?」 あと数分だと言うと

「じゃあ、外で待ってるね」 と彼女は言った。

定時になった瞬間、僕は素早く控室に入って着替えをすまして外に出た。彼女は手に息を吹きかけながら待っていた。彼女の吐く息が白く浮かび上がって空へと昇っていた。そばに立つと、僕に気付いて彼女は笑った。

「ねえ、今から暇かな」 彼女は言った。

「暇です」

明日テストなのに全く勉強してなくたって、下宿先が火事で燃えてたって、実家の母親が急に危篤になっていたって、その時の僕は暇で暇でしょうがなかっただろう。

「じゃあさ、君の部屋行ってもいい?」

彼女がそう聞いたので僕はすぐに「いいです」と応えた。

部屋に入ると、バイトに出る前に読んでいたエロ本が机の上で全開になっていた。僕は急いで隠したが、完全にバレていたようで「男の子だもんね」と彼女は笑った。そして彼女は僕の部屋を見わたし、壁にかけているポスターを見つけるとそれに近づいて見つめた。

「ジョン・レノンです。横にいるのがオノ・ヨーコ。ベッド・インっていうアート・パフォーマンスの時の写真です。ベトナム戦争の時、反戦を訴える彼らはこのパフォーマンスを通じて世界中に愛と平和を訴えたんです」

「ジョンとヨーコ……そう言えば、私の名前もヨーコね。鈴木君も名前、准一だったっけ? ジョンじゃないけどジュンだね、似てる」

「ははは……」

僕は力なく笑った。そのたった一文字が大きな違いであると言わざるを得ない。

彼女はそれからずっとポスターを見入っていた。僕はキッチンへ戻ってお湯を沸かし始めた。やかんをコンロに置いて、引き出しを探り始めた。確か、入学当初に買ったっきりの紅茶のパックがどこかに置いてあったはずだ。

やっとこさ紅茶を見つけ出した時には既にお湯は沸いていた。コーヒーカップを二つ用意して紅茶を入れると僕は彼女の所へと持って行った。

彼女はまだそのポスターを見入っていた。

「先輩、紅茶入りましたよ……」 僕はカップを彼女に差し出した。

彼女はポスターを見いったまま泣いていた。かすかに鼻をすする音が部屋の中を覆っていた。

「先輩、どうしたんですか」

僕がそう話しかけると彼女は僕にしがみついてきた。カップから紅茶が零れ落ちてフローリングの床で跳ねた。僕が何度も話しかけても、彼女は僕の胸の中で泣き続けるばかりだった。


「今日ね、彼氏に追い出されちゃってさ」

真っ暗な部屋の中で彼女は唐突にそうつぶやいた。僕は背中越しにそれを聞いていた。

「『もうお前みたいなやつに付き合っていられない』って、そう言われちゃって。ははは、馬鹿だよね私。いっつもこうなんだ。愛される資格なんて、私ないんだよ」

彼女はそう自虐的に言うと、またすすり始めた。真っ暗な部屋の中で背中越しに彼女が震えているのが伝わってきた。

明るいと泣き顔が見られるからと彼女は部屋の電気を消した。近くにいないと不安だからと彼女はベッドに寝転がって僕を呼んだ。

「昔からなんだ、私。張り切りすぎて、うっとおしがられて。自分でもわかってるのにそれが止められなくて。なんでだろう。どうしてこうなっちゃったのかな。どうして、こうなっちゃうのかな」 Tシャツの背中が濡れてゆくのが分かる。

「ごめんね、卑怯だよね、私。こうやって甘えて、鈴木君がいい人だって分かってるからって、その優しさにつけ込んで。ごめんね。ごめんね……」

「そんなことないです。全然悪くなんてないです。……正直、甘えてもらって嬉しかったぐらいです。僕、先輩のこと好きですから」

言った瞬間しまったと思った。卑怯なのはどっちだ。傷心の先輩の心のつけ込んでるのは僕の方じゃないか。

「……ほんと?」

けど、彼女はそんな僕の卑しさを見下したりしなかった。「ほんとです。先輩のこと、好きです」 僕は勢いに任せてもう一度言った。

「けど、私ほんとダメダメだよ。迷惑かけちゃうよ。鈴木君の重荷になっちゃうよ」

「重荷になってくださいよ。背負わせてください。支えますよ、僕」 背中に伝わる震えが止まった。

「……鈴木君、お人よし過ぎるよ」

そう言うと彼女は僕を引き寄せて振り向かせると、そのまま唇を僕に押し付けた。

僕はその日初めて陽子を抱いた。



『想像してごらん。天国なんてないんだと。どう? 簡単だろう?』

ジョン・レノンの言葉だ。この言葉が入っている曲「イマジン」は9.11のテロの後放送自粛された。伝説の歌だ。どれだけ法律や条例で縛りつけようとしても、この言葉は国境を越え、人種を越え、世界中に届けられ続けている。『地上の天国は創らなくてもいいのだ。どうしてかというと、我々は既に地上の天国にいるのだから。地上の天国は、もう既に、ここに、あるのだ』

オノ・ヨーコの言葉だ。ジョンが死んだ後も芸術を通して世界に愛と平和を訴え続けた。今も彼女はジョンと作ったスピリット財団を通じて貧しい地域の子供たちに愛を届け続けている。

彼らの言うとおりだ。天国なんてない。この空の上に光り輝く世界なんてないんだ。だって、愛が、愛さえあれば、天国なんてこの地上にいくらでも存在できる。

陽子と過ごす日々はまるで天国に住んでいるかのような錯覚を僕に与えた。 毎日が幸せで幸せで、たまらなかった。

陽子はその後、彼氏と正式に別れたらしい。晴れやかな顔で彼女は僕にそう言った。

週末にはよく二人で出かけた。僕はお金がなかったので、映画を見に行ったり美術館に行ったりとかばかりだった。

「なんでそんなこと気にするの? 私、すごく好きだよ。准一と映画観に行くのも、美術館に行くのも」

僕が謝ると陽子はそう言って笑った。だから僕もつられて笑ってしまっていた。

ある日、彼女が僕の家に来ると、彼女の右手にはギターケースが握られていた。

「買ったんだけど、うまく弾けないから、教えてよ」

そう言って彼女はギターケースから新品のギブソンのアコースティックギターを取り出した。

僕は安物のエレキギターを片手にコードを教えた。EマイナーやAメジャーは簡単に弾けたがFメジャーとかのバレーコードを用いるものはうまく押さえられなくて苦労していた。

「エレキギターなら弦が柔らかくてすぐに押さえられるのに」 僕がそう言うと

「だってアコギの方が可愛くない?」 と意味不明なことを言った。けれど僕もエレキを買ったのはアコギよりカッコよかったからだったので、何も言い返せなかった。

「ギターここに置いておいてよ。私どうせ准一と一緒にいる時しか弾けないし」 僕はギタースタンドを一つ押入れから取り出して立てかけた。陽子のアコギは新品で有名ブランドでキラキラしてて、僕の持ってる使い古した安物ブランドの汚いギターに囲まれて少し浮いて見えた。

その日僕らはベッドに入ってセックスをしてそして朝まで抱き合って眠った。


ある日のことだった。いつも通り週末にデートをした。駅前に現れた陽子は今まで見たことがないくらい落ち込んでいた。僕が何か話しかけても、映画館に着いてからも、彼女は塞ぎ込んだまま喋ろうとしなかった。何か聞いてもぼそぼそと要領を得ない。彼女のこんな姿を見たのは初めてで、僕は不安でたまらなかった。今日公開されたという成金白人アメリカ人が資本主義的優位な立場から相手を圧倒し、その保有財産に目を奪われたパツキン女との情事を真実の愛と嘯くファッキンハリウッドムービーは胸糞悪くて僕たちの気分は全く晴れなかった。映画が終わった後、一階の喫茶店で軽く食事をとった。会話はほとんどなかった。こんなこと初めてだった。今までどんな時でも僕たちは時間を惜しむほどいろいろなことを喋っていたのに。せめてさっき見た映画が面白ければ。遠く太平洋の向こう、アメリカの西海岸に住む敏腕プロデューサーとやらに俺は中指をブチ立てた。

「今日はもう帰ろう」 彼女は言った。

駅のホームまで彼女を見送った。陽子はその間一度も僕と目を合わそうとしなかった。

「大丈夫? 家帰ったら連絡するから」

僕がそう言うと彼女は首を横に振って、鞄から封筒を一通取り出した。

「家に帰ったら、読んで。家に帰るまで読んじゃだめだからね」

ピンク色で隅にデコレーションがされてある可愛らしい封筒だった。

僕が視線を前に戻すと電車の扉が閉まった。ゆっくりとスピードを上げる電車の中で、彼女は一度もこっちを振り向いたりしなかった。

自転車に乗りながら、今日の彼女の姿をずっと思い返していた。何か彼女にあったのだろうか。都会の秋の終りの空気は嫌らしくて、靴の裏やコートの裾からじんわりと僕の体温を奪っていった。コートの襟を口元に引き寄せた。

家に帰ると、早速僕は封筒を開いた。中には手紙が一枚挟まれていた。

「ごめんなさい」

手紙はそう始まっていた。

「もう、私、准一と会えない。会わない方がいい。ごめんね、勝手にこんなこと言って。今まで優しくしてくれて本当にありがとうね。このままだと私、多分准一に嫌われちゃう。見捨てられちゃう。今まで本当に楽しかったよ。ごめんね」

なんだこれ。なんだこれ、なんだこれなんだこれ。彼女の携帯に連絡をかけるがつながらない。僕は部屋から飛び出していた。

電車なんかもうとっくに出てない。彼女の駅はここから十キロ以上ある。それが何の関係がある。脚が壊れるなら壊れればいい。二度と歩けなくなら好きにしろ。全力で一時も休まずに俺は自転車をこぎ続けた。気温は氷点下近くまで下がっていた。コートも羽織っていない。だからどうしたって言うんだ。ずっと全力でこぎ続けて体が火照ってるもんだから涼しいもんさ。はやく、はやく、はやく着いてくれ。

彼女のマンションに着いたのはもう街から明かりが全く見えなくなっていたころだった。彼女の部屋の電気も消えている。インターフォンから彼女の部屋に連絡するがまったく反応がない。オートロックも開いてくれない。こんな夜中だから誰もマンションから出てきたりもしない。僕はマンションのポストの方まで行くとチラシを一枚抜き取るとオートロックの扉と地面との間にチラシを差し込んだ。うまく内側のセンサーに反応したようで扉が開いた。

エレベーターで昇り、彼女の部屋の前まで行って扉を叩いた。

「陽子、陽子?」

全く返事がない。扉のノブに手をかけると、鍵はかかっておらずそのまま扉は開いた。

「陽子……?」

扉を開くと部屋のなかは真っ暗だった。僕は手探りで暗闇の中を進んだ。かすかに部屋の中に何か響く音があった。

「陽子、いるの……?」

部屋の中に響く音はだんだんと大きくなっていた。僕はその音の方向にすり足でゆっくり進んでいった。壁沿いに進んでいくと、手の先に何かが触れた。少しびくっとしたがゆっくり触るとカチッと音がしたと同時に部屋の明かりが灯った。

部屋の隅のベッドの上で彼女は体育座りで縮こまっていた。

「陽子……」

「電気消して」

僕は電気を消した。

「なんで来たの?」

僕は暗闇の中彼女の方へと近づいて行った。

「もう会いたくなかったのに」

暗闇に目が慣れてなくてほとんど何も見えない。

「声も姿も見たくなかった」

彼女の声の方向にゆっくり進む。

「なんで来たの?」

足の小指が何かにぶつかった。痛い。

「一度でも君に会っちゃうと、私、私さ」

僕は飛び込むようにベッドの上で俯く彼女を抱きしめた。やっと目が暗闇に慣れてきて押し倒してあおむけになった彼女の表情が見えてきた。

「准一のこと、忘れられなくなっちゃうじゃない……」

彼女は眼尻に涙をいっぱいに貯めて鼻をすすって泣いていた。


「うちさ、親が離婚してるの」

陽子は小さな声でぼそぼそと喋りはじめた。窓から見える外の空は心なしかすこし赤くなっているような気がした。

「私がまだ本当に小さいときの話でね。……正直お父さんとお母さんが一緒に過ごしているときの記憶、ほとんど何にもないんだ。……お父さんはさ、かなり大きな会社の役員やっててさ、だから別にお金に困ったとか言うのはなかったんだけどね。それで私はお母さんに引き取られて過ごしてたの。流石にお父さんからの養育費だけで生活はできなかったから、いや、もしかしたらできてたのかもしれない。今思うとお父さんの会社、本当に大きかったから。けどお母さんはそれが許せなかったのかな、働いてたんだよ。毎日毎日遅くまで。お父さんとお母さんの間に何があったのかは知らない。教えてもらったことないから。けど、多分それに関係してると思うんだけど、お母さんすごく厳しかったの。『これからは女でも男に頼らずに生きていけるようにならなきゃだめだ』って。お母さんの口癖だった。毎日日付が変わるくらいに帰ってきて、でさ、私を見るたびにそう言うの。私、すんごい勉強してさ、クラスの男の子に負けない様にって。試験の結果が返ってきて、クラスの男の子より上の成績取るとお母さんすんごい喜んでくれたの。私も嬉しかった。お母さんが『すごいね、さすがだね』って言いながら私の頭撫でてくれることが凄くうれしかった。けどね、クラスの男の子に負けると、お母さんすごく怒ってね、あんなに言ってるのになんでできないのって、努力が足りないからこうなるのよって、それが怖くて怖くて、テストの結果が返ってくるたびに緊張してしょうがなかった。悪い点数取ってきた日はお母さんが帰ってくるのが怖かった。お母さんがこのまま帰ってこなければいいのにって、そう思った日もいっぱいあった」 ぼくは仰向けに寝転がったまま呆然とそれを聞いていた。

「小っちゃいころは月に一回、お父さんと会ったの。けどお父さんは忙しくて、約束の日に仕事を抜けられない日も多くて、直前になって来られなくなったって言う日もだんだん増えてきて。で、私、ある日直接お父さんに会いに行ったの。お父さんの働いてる職場に行って。お父さんを見つけて私『お父さん』って近づいて行ったの。けどね、お父さん、私を見た瞬間眉にしわを寄せて、けど『陽子、どうしたんだ? こんなところまで、大変だっただろう?』って。私、どっちを信じていいか分からなくて、ずっと黙ってた。そしたらお父さんが『陽子はお父さんのこと、もう好きじゃないのか』って。私、分からなくなっちゃって、泣き出しちゃって。そしたらお父さんに女の職員さんが安藤さんのお子さんですかって話しかけてきたの。そしたら、お父さんこう言ったの『いや、親戚の子だよ』って。私もうわからなくなっちゃって、ずっと泣きじゃくって。お父さんはそれからもう私と会ってくれなくなった」

暖房が運転するモーター音が聞こえる。部屋の中を乾いた温度が埋め尽くしている。

「それから私、私立の中学校入ってね、塾とかもいっぱい掛け持ちしてさ。一生懸命勉強したんだけど、やっぱりさ、才能ってあるでしょ? 私勉強の才能がないみたいでね、だんだんと落ちこぼれていってさ『お金ドブに捨ててるんじゃないのよ!?』ってお母さんに怒られて、けど成績は上がらなくて、高校はエスカレーターだったから良かったんだけど大学はさ、受験だから。頑張ったんだけどね、やっぱり第一志望とか落ちちゃって」 乾燥した空気が喉に絡みついていがいがした。

「私さ、だめなんだよ。私にかかわるとみんな不幸になっちゃう。私のせいでみんな。だから、もう、私とかかわるのはさ」

「関係ないよ」

僕は胸元に顔を押し付けてる彼女の頭を抱きしめた。

「不幸になんてならない。嫌いになんてならない。絶対。絶対に。だからさ、もう会えないとか言うなよ。そんなこと言わないでよ」

陽子は胸の中で嗚咽をあげていたが、やがて僕の腕を枕にして小さな寝息を立てはじめた。ふと窓の外を見ると、空は白み始めていた。窓の外から小鳥のさえずる音がどこからともなく聞こえてきた。



一晩経つと陽子の情緒はおさまった。その日僕たちは遅めの朝食をとって、昼過ぎに出かけた。街中で適当に買い物をした。特に欲しいモノなんてなかったけど、明るく安心している彼女の顔を見ているだけで僕は幸せな気分になった。

夜、陽子は僕の家に来た。また僕たちはギターの練習をした。練習に簡単な曲を弾いたほうがいいと思い、ビートルズのスコアを取り出し「HELP!」のページを開いた。コードは五、六個しか使わない。それなのにこんなに素晴らしい曲を作ることができるだなんて、やっぱりビートルズは天才だ。

『できれば僕を助けてくれ。気が滅入ってしょうがないんだ。そばにいてくれるだけで感謝するよ』

やっぱり陽子はバレーコードを押さえるのが苦手なようで苦労していたが、一時間ほど練習するとゆっくりとだが間違わずに弾けるようになっていた。

「ちょっとおトイレ借りるね」

彼女がトイレに行ったので、僕はパソコンの電源を入れて作曲ソフトを立ち上げた。軽音サークルではろくな音楽を演奏できないと思っていたので、少ない親からの仕送りをやりくりして大学一回生の時に買った。正直まだ全然使いこなせてないが、マニュアルを読みながら一曲作ることくらいはできるようになっていた。

「ねえ」

トイレから出てきた陽子が僕を呼んだ。

「どうしたの」

「准ってさ、いっつもトイレの便座の蓋閉めないの?」

「え、まあ、そうだね。あまり閉めたりしないかな」

「どうして」

「いや、別に。実家にいた時からそうだったし」

「そういうの、非常識だと思う」

「あ、そう?」

「うん。私そういうところ凄く気になるんだけど」

「ごめんね。今度からは閉めるように気をつけるよ」

「うん。お願いね」

少し不機嫌な顔だった彼女だったが、パソコンの画面に表示されている音楽ソフトを見るとすぐに表情を変えて「え、なに? これ。ゲーム?」 と聞いてきた。

「違うよ。ゲームじゃない。作曲ソフトだよ。これでパソコンを使って音楽を作るんだよ」

「へえぇ。すごい。ねえねえ、何か准が作った曲聴かせてよ」

「ええ? 恥ずかしいよ」「いいじゃん。ね、お願い」

僕は恥ずかしがりながらも、半年くらい前に作った曲を聴かせた。音楽サイトに登録している僕の曲の中では一番再生数が多いものだ。

「あ、すごい。これほんとに准がつくったの?」

「うん、そう」

「すごいね、いい曲。私好きだな」

彼女が笑顔でそう言ったので僕は凄く幸せな気分になった。


金曜日の夜だった。次の日陽子も僕も講義がなかったのでいつも金曜日はどちらかの家に泊まった。その日は陽子の家だった。その日、陽子はすごく上機嫌で、僕にゲームをやろうと誘ってきた。僕は内心すこしビクビクした。陽子はゲームが好きなのだが、まるっきりゲームの才能がないのだ。しかも負けると拗ねる。拗ねてごねてこじらせて不機嫌になる。そうなるともうほとんど口を聞いてくれない。夜になってベッドで誘ってもつっけんどんな態度で拒否される。時にはその状態が三日ぐらい続く。そしてある日ころっと機嫌を治している。

「ぷよぷよやろう。ぷよぷよ」

ぷよぷよと聞いて僕は安心した。彼女はぷよぷよもびっくりするくらい下手なのだが、僕も自分でびっくりしてしまうくらい下手なのだ。だからいつもぷよぷよの時は全力でプレイして接戦になる。ちなみにマリオカートだと僕の方が下手くそだ。普通にやってるつもりなのにガードレールにあたる、コースアウトする、道路を逆方向に走ってる。絶対運転免許を取らない。それが僕がマリオカートから学んだ全てだ。しかしこれがスマブラとかなら話は変わる。僕はスマブラがかなり得意なので全力でやるとすぐに勝負がついてしまうのだ。しかも彼女はプリンだなんて上級者が使うようなキャラクターがお気に入りなのだ。初心者じゃガチャガチャ動かしてる間にぼこぼこにされてしまう。なんでプリンだなんてキャラクターを使うの、難しいじゃんと僕が言うと

「だって、ピンクで丸いのがかわいいでしょ」 と彼女は言う。だったらもっと初心者向けのカービィとか使えばいいのに。

あれもピンクの丸玉だ。けれど彼女は決して使わないのだ。

「今日は負けないからね」

陽子は僕に得意げに笑った。この前は勝負がつくまでに一時間くらいかかって、ようやく最後に僕が勝った。二人とも連鎖とか高度なテクニックは使えないから完全に耐久戦になる。

落ちてくるぷよを並べる。みっつめくらいでもうミスった。やばい。

三十分くらい経った時だっただろうか、玄関のチャイムが鳴った。新聞の勧誘か何かの押し売りだろうと思ったので放っておいたが、三度四度と何回もチャイムが鳴る。陽子は少し不機嫌にポーズボタンを押して玄関に向かっていった。僕はコントローラーを手放して床に寝転がった。逆さまの視界から時計を見ると午後九時を越していた。こんな時間に勧誘? 珍しいな。

そう思っていると玄関から陽子の怒鳴り声が聞こえた。慌てて飛び起きて玄関に向かった。

「入ってこないで! 帰って!」

陽子はそう叫んでいた。その向こう側、彼女の肩越しに見えたのは、陽子の元彼の下岡先輩だった。

先輩は僕の姿を見ると明らかに機嫌を悪くした。

「おい、なんだよあの男」 先輩は陽子にそう言った。

「あんたに関係ないでしょ。入ってこないで! 帰ってよ!」

「お前、俺に内緒で男と遊んでたのか。ふざけんじゃねえ、いい加減にしろよ」

「なんであんたにそんなこと言われなきゃいけないのよ。関係ないでしょ。なんで家まで来るの、信じられない!」

「いくら俺が電話しても連絡よこさないからだろうが! てめえふざけんなよ」

僕は思わず陽子の前に立った。

「先輩やめてください、怖がってるじゃないですか」

「は? 大体お前誰だよ。人の女横からとっておいて偉そうなんだよ」

「誰があんたの女よ。それに准はあんたのサークルの後輩でしょ。あんたのそういう軽薄な態度がむかつくのよ」

「……てめえ、うちのサークルの奴か。だったら知ってるだろ。そいつは俺の彼女なんだよ、勝手に手出してるんじゃねえ!」

「誰があんたの彼女よ、今さらになってそんなこと言って。帰って! 帰ってよ!」

「ああ? てめえこっちが下手に出ればいい気になりやがって」

「ちょっと、先輩落ち着いて」

「うるせえ殺すぞコラ!」

先輩はそう言うと僕の右頬を思い切り殴りつけた。僕はそのまま玄関の壁に叩きつけられた。けど咄嗟に先輩の腰に腕を巻きつけて引っ張った。

「離せ、てめえふざけんなよ」

「ちょっと、落ち着いて、落ち着いてくださいって」

「うるせえ!」

金属が叩きつけられる大きな音が聞こえた。見ると台所のシンクから鍋や皿がフローリングに落ちていた。陶器の皿は粉々に割れて床に小さな破片が散らばっていた。その中心で陽子が包丁を持って佇んでいた。「陽子、ちょっと待って。それはダメだ、落ち着けって」

僕の声が聞こえてないのか、聞くつもりもないのか、彼女はそのまま皿の破片を踏みつけながら近づいてきた。

「落ち着けって。進むな、足に破片が、止まれって!」 彼女はお構いなしにこっちへと近づいてくる。

「先輩逃げて!」

先輩は俺が叫ぶと正気に戻ったらしく、足を震わせながら立ち上がって外へと走り出そうとした。

その背中三センチ後ろを包丁の刃が通り過ぎた。

言葉にならない声をあげながら先輩は玄関を通り抜け、マンションの外へと駆け出した。

「陽子落ち着け、おい!」

僕は陽子の腕をつかむと包丁を握り締め取り上げて、放り捨てた。

「おい、大丈夫か、おい、おい!」

僕が肩を揺さぶると、陽子は動きを止めた。そして息を整えると段々と僕に顔を押し当てて泣き始めた。

「あいつがね、ずっとね、私はね、もう別れたいってずっと言ってたのにね、ずっとね、携帯に連絡してきて、それで私、全部無視してたら、そしたらね、私はね」

「もういいから、もういいって」

しゃがんだ彼女の足の裏には皿の破片がびっしりと突き刺さってて血まみれになっていた。

「病院行こう。足、痛いでしょ」

「いい、大丈夫、行かなくていい」「そんなわけにもいかないだろ」 僕は靴を履いてしゃがみこんだ。

「ほら、おぶるから。一緒に病院行こう。ね?」

彼女はぐずぐずとぐずりながらゆっくりと背中におぶさった。


真冬の夜はとても寒くて、僕たち以外に人は誰も歩いていなかった。コートも羽織らずに外に出たから僕は彼女を背中に乗せたままぶるぶる震えていた。「あいつがね、ちょっと前からね、ずっと私に連絡してね、うざったくて私もずっと無視してて、そしたらここ二三日ね連絡がなかったからね、私もすごく安心しててね、それで」

「いいから。大丈夫だから。もう大丈夫だから」 僕はそう言ってゆっくり一歩ずつ進んだ。

彼女は子供のように僕の背中の上で泣いていた。信号機の明かりしかない暗闇の中で、彼女の吐き出す息が首筋を通り過ぎて、僕の吐いた息と白く重なった。


僕はサークルを辞めた。当たり前だ。今頃あそこでは僕は人の彼女を寝取ったクズ野郎と言われているのだろう。構いやしない。正直あのサークルにいる理由だって無かったんだ。ただ惰性で在籍してただけ。音楽なら自分の家で作れる。後悔なんて何もなかった。陽子が傍にいてくれるだけでぼくはそれでいい。



「一緒に暮らさない?」

彼女はギターの弦を弾きながら僕に言った。

「私の家、あいつにバレちゃってるでしょ? いつあいつが押しかけてくるか分からないし、引っ越そうと思ってたんだ」 あいつってのは元彼の先輩のことだろう。

「でさ、ずっと思ってたんだけど、准と私の家って結構遠いでしょ? 不便だなって思ってたんだ。一緒に住んじゃえばいつでも一緒にいれるでしょ? お金は親がどうにかしてくれるだろうから。ね? 一緒に住もうよ」

僕は構わなかった。下宿の家賃は自分でバイトして払ってたし、彼女の親は金持ちだったらしいから家賃を出してもらえるならこれ以上嬉しいことはない。バイトだって辞められるかもしれない。それに彼女といつも一緒にいれるのだ、これ以上嬉しいことなんてない。僕は二つ返事で了承した。 バイト先の店長に言った。

「もしかしたらシフト減らしてもらうかもしれません」

「え、そうなの。残念だなあ。鈴木君よく働くから毎日でも入ってもらいたいところなのに」 苦笑いが出た。

新居はすぐ決まった。大学からは少し遠かったが、彼女は三回生でもうほとんど授業を入れていなかったし、僕が少し我慢をすればいいだけの話だ。間取りもよくて風呂とトイレが別。浴槽にお湯をいっぱいためて入りたいものだと思いながら毎日ユニットバスでシャワーばかりだった僕はそれだけで嬉しかった。日当たり良好、最上階、角部屋。少し田舎の方にあるが、夜中うるさくないっていうことでむしろ嬉しかった。

ただその分家賃はかなり値が張った。月八万五千円。けど僕が出すんじゃないし。全然かまいやしない。

引っ越しの作業を始めた。この六畳一間とももうおさらばだ。さらばカビの生えたユニットバスよ。さらば機能性ゼロのキッチンよ。これから僕はセパレートタイプの風呂とトイレ、コンロが複数あるキッチンのあるマンションへと旅立つのだ。ぬわははは。うらやましいか。

ジョン・レノンとオノ・ヨーコのポスターを外して丁重に段ボールへと入れる。ごみを捨てていらないものを処分すると持っていく物は段ボール五箱にも満たなかった。たったこれだけで僕は生活してたのか、そう思って少し驚いた。 業者から段ボールを受け取りエレベーターに乗ろうとすると大家さんだろうおばあさんが話しかけてきた。

「あ、これからお世話になります」

「こちらこそ、よろしくね」

感じのいい人だな、そう思った。

部屋に着くともう陽子は荷物を開けていた。

「え、たったそれだけ?」

陽子は僕の荷物の少なさを見て驚いていた。僕は彼女の横に積み重ねられた荷物の山に驚いていた。

「え、こんなにあるの?」「うん。普通だよ、普通」

僕の荷物は一時間程度でほとんど出し終わって陽子の荷物だしを手伝うことになった。全部が終わったのはすっかり日が暮れてからだった。

「あ、ねえ。このポスター貼っていい?」

僕はジョン・レノンとオノ・ヨーコのポスターを取り出した。

「いいよ。そことかいいんじゃない?」

僕は真新しいベッドの上にポスターを張り付けた。

「ベッドの上に『ベッド・イン』のポスターか」

「私たちもベッドインする?」

「陽子ってさ、たまにおっさんみたいなこと言いだすよね」

「え、ほんと?」

僕が肯定すると彼女は少し頬を膨らましてすぐに笑った。僕もおかしくて笑った。

「それにしても、こんないい部屋でこれから過ごせるのか。しかも家賃は払わなくていいって」

「あ、その件なんだけどね」

彼女は顔の前で両手を合わせた。

「ごめん、家賃お母さん払ってくれないって」

「……は?」

血の気が一瞬で引いたのが分かった。

「いやさ、お母さんが男と暮らすんだったら家賃は払わないって言いだしてね。

だから、親からお金は出なくなっちゃった」

「え、お父さんは? でっかい会社の役員なんでしょ?」

「お父さんはもう何年も連絡取ってない。連絡先も知らない」 僕はだんだん語気が強くなっていった。「え、じゃあどうするんだよ、ここの家賃、毎月八万五千円」

「だからさ、それは二人で何とかしようって」

「前僕が住んでたところの三倍くらいするんだよ。ていうかさ、なんで親が家賃払ってくれないってわかった時に僕に言わないの? 言ってくれたらさ、も

う一回もっと安いところ探したりできたじゃん」

陽子の表情がだんだんと怒気をはらんだものになっていた。

「え、なに、准は私と一緒に暮らしたくないの?」

「そういうことじゃないよ。もっと身の丈に合ったところがあったでしょって言いたいんだよ」

「意味わかんない。准だって風呂とトイレが別々だって喜んでたじゃん」

「けど金がないとさ、別に我慢すればいいんだよ、ユニットバスだって。もっと現実的にさ」

「私は准が喜ぶかと思ってやってたのに、何? 全部私のせいなの?」

「そうは言ってないだろ、俺はさ」

「もういい!」

彼女は怒鳴ってベッドに寝転がった。

「だったらどこにでも住めばいいじゃない。別に私頼んでない!」

それから彼女はどんなに僕が呼びかけても返事をすることなく黙ってしまった。


「すいません、店長、シフト入れるところ全部放り込んでいただけませんかね」 そう言うと店長は不思議そうな顔をして振り向いた。

「あれ? 鈴木君、シフト減らしてほしいって言ってなかった?」「いや、そうなんですけど、ちょっと手違いで」

「へぇ、まあこっちは入れるところ入ってもらえるのならこれほどありがたいことはないんだけどね」

「ありがとうございます、お願いします」


それから僕は毎日のようにバイトに入った。そうでもしないと毎月八万五千円の家賃はとてもじゃないけど払えなかった。新居はバイト先とも遠かったからほとんど家にいることはなかった。夜勤入った後とかだと疲れてしまって授業に出られないことも多かった。今期の授業の単位は絶望的だった。

そんな生活が三か月ほど続いた。これで五日連続のバイト、結構身体的にも精神的にもつかれていた。制服を着て、フロアに出ようとするとポケットの中の携帯が鳴った。確認すると陽子からのメールだった。

『お願い、すぐに帰ってきて』

僕はまたかと思って携帯をポケットにしまった。最近よくあるのだ。こうやってメールが来て何事かと思い急いで帰ると、笑顔でテレビを見ている。何があったのかと聞くとアップルパイをつくったから食べてほしいだとか、トイレの電球が切れたとか、ほんとどうでもいいことばかり。怒る気も失せてくる。

「おはようございます」

「おはよう、今日も勤務? 働くねえ」

パートのおばちゃんの田村さんは僕を見てそう言った。

「ははは、ちょっと疲れてます」

「大丈夫? 学校ちゃんと行ってる?」

「いやあ……ちょっと最近行けてなかったり……」「だめよ、バイトやりすぎて学校留年したなんて、本末転倒じゃないの」

「はは、そっすね、気を付けます」

そんなこと僕も分かってる。けど働かないと、お金を稼がないと、家賃を払えない。住むところがなくなる。

また携帯が鳴った。商品の確認をしにいくふりをしてバックボードへ向かう。

携帯を確認するとまたメールが来てた。

『ねえ早く来てよ』

携帯の電源を切った。やってられん。

ブザーが鳴って急いでフロアに出るとレジには客が大量に並んでいた。

「すいませんお客様、お待たせいたしました。こちらのレジにどうぞ」


勤務が終了したのはそれから四時間後だった。控室に戻って着替える。

「じゃあお疲れ様でした」 店長に挨拶する。

「ほい、お疲れ。次は明日の夜七時からだったよね」

「そうです。お願いします」

「はいはい、お疲れ」

外に出ると勤務中にかいた汗が寒さで一気に全部冷えた。勤務終わりに買っておいた缶コーヒーを飲む。温かさが喉を伝って胃に流れ落ちたのが分かる。携帯の電源を入れる。コーヒーをもう一口飲む。携帯が震えだした。何かと思って携帯の画面を見る。

受信メール43件 不在着信18件 全部陽子から。

僕は急いでメールの確認をする。

『早く来て、お願い』

『ねえ、いまどこいるの』

『お願い連絡ちょうだい』

『何で返信してくれないの』

『助けて』

最後のメールはちょうど三時間前、不在着信もそれ以来ぷつっと切れている。 僕は自転車に飛び乗ってはしりだした。思い切り早く。途中三回くらい車に引かれそうになった。信号なんか何回無視したか覚えてない。とにかく早く、早く着いてくれ、早く!

いつもは四十分くらいかかるバイト先から二十分くらいで戻ってきた。エレベーターが来る時間でさえもどかしい。

鍵を開けて部屋に入ると電気はどこも消えていた。居間もキッチンも、トイレも。ただ、風呂場だけを除いて。

僕は風呂場の扉の前まで行った。中からシャワーが床に落ちる音が聞こえる。大丈夫だ、ただシャワーを浴びてるだけだ。そうだ。そうに決まってる。そうであってくれ。頼む。僕は震える手でバスルームの扉を引いた。

赤。

床が赤い。

浴槽にたまった水も赤い。

扇状に広がる赤い液体の中心で、陽子は左手首から血を流してしゃがんでいた。

ははっ。

何かの前衛芸術かよ。

さすが僕のオノ・ヨーコだぜ、まったく、そう攻めてくるか、まいったぜ、さすがだ。

なんて冗談、思いつきさえしなかった。

「陽子、陽子?!」

僕がそう呼びかけると、彼女は焦点の合わない瞳で僕を見つめた。僕は急いでタオルをとってきて陽子の手首に巻きつけた。

その途端、陽子が俺の頭を思い切り横に殴った。僕は意味が分からず、頬を押さえた。

「なんですぐに連絡くれないの!?」 彼女は泣きながらそう叫んだ。

「いや、だってさ、僕バイト中で抜けられないじゃん、知ってるでしょ? 僕この時間バイトだって」

「知ってるよ! だから呼んだんだもん!」

僕は意味が分からず、ぼうっと彼女を見つめていた。

「だって准、毎日バイトばっかりで帰ったらすぐ寝ちゃって、何言っても不機嫌な顔するし、前みたいに一緒にギター弾こうよ、一緒にゲームしようよ、なんで無視するの、私怖いんだよ、不安なんだよ、見捨てないでよ」

風呂場の床がシャワーの水滴を弾く音が沈黙を覆っていた。確かに僕はそうだった。新居に移ってからずっとお金のことが頭にあって、バイトから戻ってくるといつも疲れてしまってすぐに寝て、大学にも全然行けてなくて単位のことを思っていつもイライラしてた。居間の隅に立てかけられたアコースティックギター、最後に弾いたのはいつだったっけ。

「……ごめん、そういえば最近全然陽子のこと構ってあげられなかった。ごめん」

「……うん、私もごめん」

「ほら、大丈夫? 手首見せてごらん」

腕には手首だけじゃなくて、肘のところの方までかなり古いのも含めて傷がいっぱいあった。彼女はいつも長袖の服を着ていて、夜の時も電気を消してしていたから僕は今まで気づいていなかった。

「大丈夫、もう血止まってるし」そう言って彼女は腕を振りほどいた。

「そっか。じゃあ着替えよう。服ビショビショじゃん」

「うん……ごめんね、ごめんね……」

「いいって、いいからもう……」



だからと言って僕たちの生活が楽になったわけじゃない。現実は容赦はしてくれない。毎月家賃は請求されるし、そのためには毎日のように働かなくちゃいけない。帰ったら陽子を慰めて、正直限界だった。

だから陽子が友達と遊んでくると言うと僕は内心ほっとした。彼女が外で遊んでる間に家で死んだように寝た。一人には大きすぎるダブルベッドを心ゆくまで占領して眠った。


その日陽子は夕方から友達と遊びに行くと言った。最近週四から週五のペースで彼女は遊びに出かけた。夜友達の家で泊まってくることも多くなった。彼女と一緒に過ごす時間が少なくなって、僕は少し寂しかった。

「じゃあ、行って来るね」「うん、行ってらっしゃい」

僕はマンションの玄関まで彼女を見送った。

「今日、准はバイトだったっけ?」

「うん、夜から」「そう、じゃあ」

彼女はそう言って背を向けて出て行った。

彼女の姿が見えなくなると僕は大きく欠伸をしてマンションの中に戻ろうとした。昨日遅かったからバイトまでもう少し寝てたい。

後ろを振り向くと大家さんがこちらを見ていた。

「あ、おはようございます」

僕は大家さんに向かってあいさつした。

大家さんはずんずんとこちらに向かってきて、目の前に立った。

あの最初見たときの人のいい感じはなかった。大家さんは僕のことを忌々しそうに見つめた。

「あんたたちさあ」「え、なんですか」

僕はたじろぎながらそう応えた。

「いつになったら家賃払うんだい?」

大家さんは僕の目を睨みながらそう言った。

「え……。どういうことですか?」「どういうことじゃないよ。もう二ヶ月、滞納してるんだよ」 僕は意味が分からなかった。

「受け取ってませんか? あの、さっき僕が一緒にいた女の子が渡してるはずなんですけど」

僕は焦ってそう応えた。

「来てないよ。二か月前からずっと」 大家さんははっきりとそう言った。

「とにかく、二ヶ月分十七万円、あんたたちは滞納してるんだよ」

僕は意味が分からなかった。毎月家賃は彼女が手渡しで大家さんに渡してるはずなのだ。なのに、それなのに。

僕は急いで携帯を取り出して彼女に電話した。けど分かったのは彼女が今携帯の電源を切っているということだけだった。

彼女の後を追って走り出した。まだ遠くに入ってないはずだ。行先は大体わかってる。大学近くで友達と待ち合わせると言っていた。電車に乗って大学へと向かう。電車の中で彼女にメールを送ったが返信はない。

大学前の駅に着くと彼女を探して走り出した。けど大学周辺という広い範囲の上に連絡が全然つかない。正直見つからないだろうなと思っていた。

だから彼女の姿を見つけたときには驚いた。彼女の横に知らない男が一緒に歩いているのにも驚いた。一瞬どうなっているのか分からなくて僕は立ち止まってしまった。二人は大学から離れるように歩いていた。僕はその後ろをバレないくらいの距離を保って付いて行った。彼女は楽しそうだった。僕が彼女と出会った頃の笑顔をしていた。久しくあの笑顔を見ていない様に思った。夕日はもう沈みかけていて空はだんだんと明るさを失っていった。僕はバイト先に電話をかけた。

「鈴木君、どうしたの?」

「すいません店長、今日休みます」

「え、そんな急に言われても困るよ」

「すいません、どうしても今日は出られないんです」

僕は店長がまだ何か言っているのを無視して電話を切った。彼女の横を歩く男はファッション雑誌でよく見るような服装をした、量産型大学生といった姿の男だった。最初は人通りの多い道、そしてだんだんと人通りの少ない道へと二人は進んでいった。何か男が言ったことに対して彼女は口に手を当てて笑った。そしてそのまま笑ったまま、彼女たちはホテルの中へと入って行った。

そして彼女たちがホテルに入って十分くらい後に、僕の携帯に「今日は友達の家に泊まるから帰れない」という内容のメールが、彼女の携帯から送られてきた。


「ただいま」

陽子がそう言って帰ってきたのは次の日の深夜近くだった。

「あれ? 准、今日もバイトじゃなかったっけ?」

彼女はそう言いながらコートを脱いだ。僕はベッドに腰掛けてずっと黙っていた。

「なに、どうしたの? ずっと黙って、ちょっと怖いよ」

「昨日、どこ泊まってたの?」

「なにいきなり。メール送ったでしょ? 友達の家だって」

「あのラブホテルが君の友達の家なの?」 僕がそう言うと彼女は動きを止めた。

「え、なんのこと?」

「しらばっくれるなよ!」 僕は思わず叫んだ。

「昨日見てたんだよ、陽子の後付いて行って。お前が大学の前で男と待ち合わせてたこともホテルに入ったこともそっから僕にメール送ってきたことも、全部見てたんだよ!」

こらえきれずに僕は叫んだ。けど、彼女は

「……つけてたってこと? 最っ低。そういうのホントにムカつくんだけど」 と叫び返してきた。

「なんでお前が怒ってるんだよ、ふざけんな!」

「あんたのせいよ! あんたが悪いのよ! あの日、私がお風呂で切った時、少しは准変わるかと思ってたのに、何にも変わってない、私の気持ち何も分かってない!」

「逆切れかよ! 大体さ、それだってお前の責任だろ。お前が家賃親が払ってくれないって知らせてくれればバイトだって増やさなくてよかったんだよ!」「お金なんてなくてもいいじゃない。准のそういう所が嫌いなのよ! あんたが昨日見た男だってお金なんて持ってないのに!」

「は、貧乏人が一々セックスするためにホテル使ってんじゃねえ……おい、お前まさか」

「……なによ」

「お前まさか渡してた家賃、それに使ったりしてないよな……」 彼女は何も言わず居心地悪そうに目を逸らした。「ふざけるなよ! ……ふざけんなよ! 俺がどんだけ」

「うるっさいなあ! 大体馬鹿らしいのよ、愛と平和とか。なによジョン・レノンとオノ・ヨーコって。確かにジョン・レノンはビートルズ投げ出してオノ・ヨーコを愛したかもしれないけど、あんた何持ってるのよ。あんた何も持ってないじゃない。捨てるものさえ持ってなくて、何かをかき集めようとして、あんたはジョン・レノンじゃないし私はオノ・ヨーコじゃないの。何も持ってないあんたはジョン・レノンなんかには一生なれない!」

カッとなった。それでも彼女に拳を振ったりしなかったのは愛情からだったとか、そんなんじゃない。図星を突かれたからだった。ただ何も言い返せなくて、けど怒りだけは無尽蔵に湧いてきて、僕は部屋から飛び出していた。


まただ。僕は白く息を吐き出しながら思った。コートも持たずに飛び出してた。あの女が絡むといつもこうだ。震える体を彼女のせいにして、僕はただ目的地もなく歩いていた。意識さえなくして、自分がどこを歩いているのか分からず、どこに向かっているのか知らず、ただただ僕は歩いていた。だから急に意識を取り戻した時、自分がどこにいるのか分からずひどく狼狽したし、目の前のコンビニが自分のバイト先だと気づいて周りが見知った風景だと確認できた瞬間ほっとした。

「あれ? どうしたの? 今日休みって聞いてたけど」 田村さんは店内に入った僕を見てそう言った。

「あらやだ、鈴木君上着も来てないじゃない。何やってるの」

「いや、ははは……」

僕はどうしようもなくただ笑うことしかできなかった。店内には深夜近くと言うこともあって僕以外誰も客はいなかった。

「……鈴木君、コーヒーいる? 驕ってあげるよ」

「え? いや、いいですよ。申し訳ないです」

「いいからいいから。こういう時は受け取っておくもの」

そう言って缶コーヒーを手渡してくれた。田村さんはレジに肘をついて話し始めた。

「私、息子が三人いてさ、娘は一人」

「はあ」

「一番上のことかもうとっくに就職してて。君より年上なわけだよ」

「へえ」

「ずっとあの年まで男の子がどう育っていくか見てるわけ。だからさ、君が今何かで悩んでるってことはわかる」

「…………」

「鈴木君さ、ここ何か月かで急激にシフト数増やしてるよね」

「ええ、はい」

「学校行けてる?」

「……お恥ずかしい話です」

「まあさ、私みたいな老人に片足突っ込んでるようなおばちゃんの言うこと真面目にとらなくてもいいけどさ、君くらい若い時だと自分のやるべきこととやらなくていいこと……というか、やれることとやれないことっていうの? それを見極めるのが難しかったりするけどさ、自分は何でもなれる、できるって思っちゃって。けど、年を取るってのはさ、できることを増やすんじゃなくて、何ができないかを知ることだと私は思うから、一回自分を見つめなおしてみるのがいいんじゃないかな」

客が一人寒そうに店内に入ってきて、田村さんは「いらっしゃいませ」と声を上げた。缶コーヒーを見つめる。まだ中身はあったかくて、手のひらから温かさが伝わってきた。

「……ありがとうございます。ちょっと考えてみます」

「うん、そうね。じゃ」「はい、お疲れ様です」

外に出ると店内の暖かさとのギャップで凍えるように寒く感じた。体を温めるために小走りで家に向かう。寒さで空気が澄んでひどく星がきれいに見えた。


玄関を開けた。流石に包丁を持って待ち伏せてるとかはないよな。怖がりながら一歩ずつ部屋の中に入る。物音が全くしないのが逆に恐ろしい。居間からの光が真っ暗な廊下に延びている。僕はおそるおそる扉を開いた。彼女がテーブルの近くにおとなしく座っていたのが見えたので、僕は安心して扉を開け中に入った。その瞬間息が止まった。

テーブルの上はいつか見たときのように真っ赤に染まっていて、テーブルの端から血が零れ落ちて白いカーペットを赤く汚していた。

急いで近寄って抱きかかえたが、目を瞑ったまま目蓋を開こうとしない。テーブルの上には剃刀と束になった睡眠薬の錠剤が置かれていて、そのほとんどが空になっていた。手首の傷を見ると肉が骨の近くまでえぐられていた。

僕はパニックになりながら119番に連絡した。まさか、自分がこの番号を押すことがあるだなんて思いもしなかった。

五分くらいたってから部屋の外からサイレンが聞こえてきた。僕はその間なにもできずにしゃがんでいただけだった。

救急車に彼女が担架で載せられているとき、住人がマンションの入り口までなにごとかと集まっていた。

「あんたたち、何したの」

大家さんが僕にそう叫んだ。

救急車の中は意外に静かだった。時折救急隊員が病院に連絡を取るのと、陽子の意識を確かめること以外、誰も何もしゃべらなかった。

病院に着くころには陽子は意識を取り戻した。胃の中を洗浄して、傷を針で縫って、点滴を打って帰された。僕はその間待合室でずっと待っていた。だんだんと空が白んでいくのを見ていた。


マンションの前で大家さんが待ち構えていた。

「出てって」

腕を組んだまま言った。

「今週中にね」

それだけ言うと大家さんは後ろを向いて去って行った。


部屋の暖房をガンガンにつけていたので、空気が乾いていた。僕は夢中に腰を動かしていた。背中を汗が流れているのが分かる。室外機の回る音、僕の吐く息の音と、突き上げるたびに漏れ出る彼女の声しか聞こえなかった。僕は彼女の首に手を伸ばした。彼女の汗が手のひらについた。

「愛してる」

彼女はそう言った。彼女の内側が僕のを熱くしめつけていた。顎から垂れ落ちた汗が彼女の乳房に落ちて跳ねた。

「ねえ」

彼女は荒い呼吸で言った。僕は手のひらで彼女の首を包んだ。

「殺して」

僕は両手に力を込めた。体重を乗せてつぶすように。彼女は嗚咽を上げて咳き込んだ。彼女の内側が僕を痛いほどに締め付け、僕は彼女の中に吐きだした。

全て出し終わった瞬間、僕は彼女の上に倒れ込んでそのまま眠った。


君が笑う夢を見た。


「寒いね」

僕はそう言った。

「寒いね」

陽子もそう言った。

陽はもう落ちかけていて世界を朱色に染めていた。ポケットに入れた僕の腕に絡みつけるように彼女の腕が重なっていた。電車が走るのが見える。飛行機雲が消えていく。

「ねえ」

彼女が言った。

「なに」

僕は聞いた。

「あのアコースティックギターさ、新品で買ったものなんだ。二十八万円で買ったの。お母さんが誕生日プレゼントだからって出してくれて。あれさ、売ったら結構するんじゃない?」

「ああ……そうだね。売ってしまおう」

僕は言った。飛行機雲が夕日と重なる。風が吹いて服の隙間から体を冷やす。

彼女が身を寄せてくる。僕は彼女の手を握ってポケットに入れなおした。

「あ」

消えてゆく飛行機雲の隙間から夕日が一筋洩れて道を照らした。彼女は僕から手を離してポケットから腕を引き抜くとその光に向かって走り出した。けれどすぐにまた夕日に雲がかかって、彼女が触る前にその光は消えてしまった。 道の真ん中で彼女は佇んだ。

結局、僕はジョン・レノンじゃなくて、彼女はオノ・ヨーコじゃなかった。僕たちはジョン&ヨーコでも、シド&ナンシーでも、カート&コートニーでもなかった。僕たちはただのどこにでもいる大学生で、僕たちの見ていた風景はそこら中のだれもが見たことのある風景だった。

彼女はこれからもああやって光を追い求めるのだろう。僕はもう疲れた。せめてあの光が彼女を連れて行ってくれれば、そして、僕を置いて行ってくれれば、それで、それでいい。

彼女は光が射していた場所をじっと見つめて、僕に振り返った。

「ねえ」

彼女は言った。

「私のこと愛してる?」 僕は少し笑って、言った。

「愛してるよ」


峯田和伸氏にありがとうございますと言いたいです。

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