女神、盟友
エルダの中央には高い塔がある。
現在その塔は三十年程昔に無名の彫刻家によって掘られた女神像を中心とした石像が保管される施設となっているが、八十年程昔は赤翼怪鳥の襲撃に備える為の監視塔だった。
五十年程前に魔法士団が組織された頃から、赤翼怪鳥はエルダの脅威ではなくなりつつあった。
同じ頃、貯水草の生態が変化した事により特定の野草を主食としていた花兎が激減した。
赤翼怪鳥が好んで狩るのがその花兎だった。
赤翼怪鳥は花兎が絶滅しても生きていける種族ではある。
赤翼怪鳥の強力な嘴は岩喰の外郭ですら容易に砕く。狩れない相手は少ない。
とは言え、狩りやすい花兎が激減してしまえば、やはり影響が出る。
個体数に大きな変化は無かったが、その大きさが年々小さくなって行った。
そして現在、ルドアリ平野の覇者は草原狼となっていた。
草原狼は脅威たる存在だが、飛ばない。
その塔は本来赤翼怪鳥の襲来に備えての監視塔なのだから、塔の存在価値は低下する。
幸いにも、塔の価値ある時代に監視に当たる者達の為にと設置された女神像が別の価値を生み、現在は女神の塔としての価値を得て存在している。
そして、大地の女神を信仰するエルダの住民は、月日が流れる中でその女神像と大地の女神を同一視し始めていた。
演算スライムはその女神像に目を付けたのである。
試算の結果、幾つかの計画は実行可能と算出された。
そしてその日はやって来る。
穀物の収穫が例年より多い年の暮れに執り行われる感謝祭。
人族にとっては不定期に行われる祭りだが、演算スライムにとっては百年程先までは予定された祭りと同義である。
人族の身体を手に入れてから四年後のその日、エルダは感謝祭で賑わっていた。
通常は教団の関係者しか入れない女神の塔も、その日は一般開放される。
特に重要な施設等無いのだから過度な警備も無い。
一般客の一人として塔に入った演算スライムは、幻覚魔法によって不可視化した流動体を一つの石像へと伸ばす。
十二階層ある塔の五階層に鎮座する女神像。
他の石像と比べて明らに精巧なその出来栄え。
女神像の背中には二対の翼が拡げられ、右手には長槍、左手には盾。
演算スライムはその石像を造った人族を知っている。
そして現在の身体がその子孫である事も知っている。
知っているが、行動に変化を与える類の情報としては認識していないし、他の人族に教えようとも思っていない。
エルダの住民にしてみれば、女神像製作者の子孫がエルダを震撼させた殺人鬼だと知っても困ったであろうが。
因みに演算スライムが図らずも粛清してしまったその殺人鬼は、現在生死不明の扱いで半ば伝説化している。
皮剥ぎを失敗して打ち捨てられた数体の死体から、皮削鬼との異名と共に。
その皮削鬼の皮を被った演算スライムは、幻覚魔法の範囲を更に広げて人族の身体もまた不可視へと変えていた。
人族の身体は既に用済みである。
そもそも演算スライムは人族の身体能力の低さに辟易していたのだ。
流動体と同様そこになにも無かったと認識された人族の身体は、溶かされて吸収された。
丸裸になった演算スライムは女神像を取り囲み、その内部へと浸透する。
流動体が浸透した女神像の身体は柔軟な特性を得た。
それは永遠に固まらない泥濘の様な物質へと変容していた。
石像表面に残っていた核が沈む様に内部へと侵入して行く。
そうやって、演算スライムは四体目の身体を手に入れた。
非生物の身体も悪くないなと、女神像を動かしながら演算スライムはそんな暢気な事を考えていた。
ただし、暢気なのは演算スライムだけである。
女神像が突如動き出せば、普通の人族は驚く。
動き出したのが信仰対象たる女神像だった為、辛うじて恐慌状態にはならなかったが。
人々が戸惑いその場を動けない中、五階層の管理をしていた巫女達が困惑しながらも女神像を取り囲む。
その陣形は本来、女神像に害意を持つ者から女神像を護る陣形であった。
その為何人かの巫女は女神像を一旦背にしてから慌てて女神像へと向き直った。
それぞれが魔法を行使する準備を整えつつ、どうしたら良いのか判断出来ずに困惑する中、その声はその場にいた全員の頭の中に響いた。
後の記録では、その場にいた全員が聞いたにも関わらず、聞いた声の詳細は全員一致しなかったと言う。
ある者は私は女神だと聞いたと言い、ある者は私は支配者であると聞いたと言い、ある者は私は人では無いと聞いたと言う。
総合すると女神或いは女神の使いと聞いた者が多かった為、動き出した女神像は女神になったのだと言う事で結論付けられた。
そして後にこの声は神託と名付けられる。
この日、女神像からの神託は二つ。
一つは自分が女神であると言う事。
もう一つは、より多くの者が聞いた内容に準じて、以下の様に記録されている。
「皆の話が聞きたい」
これらの内容は教典に載った内容だが、経典には載らなかった逸話が一つだけある。
当時の魔法士団長フロイ=サウラの事である。
貴族と言う高い身分、魔獣や獣からエルダを防衛する為に常に最前線に出て戦うその姿、自他の身分に関わらず常に温厚で紳士的な態度、眉目秀麗な様。
唯一の欠点とも言える魔法学に対する異様な執着も世間からは勤勉で博識な人物として解釈されていた。
特に通商街道沿いの草原狼討伐作戦の際に数十を超える狼を地面毎凍結させた手腕から、白氷の貴公子等と呼ばれていた。
それだけ人望と権威のある人物が、女神像に儀礼用の剣を向けて怒鳴ったのだ。
「お前は女神では無い!」
結論だけ言えば、その日から彼には白痴の奇行子と言う通り名が追加された。
そして彼の死後、天恵の大魔法士と言う通り名が追加される事になるのだが、この時点では演算スライムすらその事を算出してはいなかった。
フロイ=サウラは哀れにも巫女集団によって取り押さえられた。
明確な敵が欲しかった彼女等にとって、不敬な言葉を発した男は恰好の標的だった。
本来なら下位巫女集団等片手で制圧出来るフロイ=サウラだったが、この時ばかりは何ともならなかった。
フロイ=サウラとて動揺と無縁では無かったからだ。
その為、この時の言葉には重要な言葉が欠けていた。
フロイ=サウラの脳内で、その叫びは以下の様な言葉となる予定だった。
「お前は女神では無い!下等な不定形種だ!」
魔法に長けていた、異常なまでに魔法に精通していたフロイ=サウラには幻覚魔法が殆ど効いていなかった。
フロイ=サウラの見ていた光景はほぼ現実である。
下等魔物でしかない不定形種が女神像に染み込んだ次の瞬間に、女神像が動き出した。
そして人族とは、現実を見たからと言っても、それを素直に信じる事が出来る種族では無かった。
目にした事象は真実であり、一方で見ておきながら全く信じられない。
その葛藤が無意識の内に後半の言葉を削っていたのだ。
その時、演算スライムは連れ去られるフロイ=サウラを興味深く見送っていた。
とても興味深い人族として、見送っていた。
翌日、女神像の前に集まった高位司祭達は女神像からの神託に戸惑う事になる。
神託は一言。ただし映像が添付されていた。
「連れて来い」
短い内容である事も大きく影響していたが、ほぼ同じ思考形式に統一された高位司祭達は、演算スライムの反響話法によって発生する認識に誤差が生まれなかった。
それは映像に関しても同様であった。
添付された映像が前日巫女達に寄って連行される自身であった事を、教会の懺悔室に軟禁されるフロイ=サウラが知るのは少し後の事である。
演算スライムの生涯で唯一盟友と呼べる人族との二度目の邂逅は、この様な経緯を経て実現した。