帝都、魔王
ネヴが剣を振るうと、迫り来る漆黒が掻き消された。
ネヴの魔法が届く範囲、幅が二キロ程奥行きは二十キロ程に渡る範囲に何も無い平地が広がる。
約二十人が生き残る重武装使節団が闇を削った道を突き進む。
地面は押し固められた様に固く圧縮されている為、その進撃速度は速い。
過去に原則派を中心とした二万の軍勢を消し去ったネヴの広域魔法の威力は暴虐的ですらあった。
しかし、それでも、及ばない。
「きりが無い…!」
ネヴ教皇の率いる重武装使節団は、既にその半数近くを損耗していた。
「「「業炎の洗礼よ、道を切り開かん。切り開かん」」」
疲労によって既に三度交代した魔術士達が同時詠唱によって火球を出現させる。
魔法によって照らされた闇は、辛うじてその浸食速度を減退させるが、減退させるのは闇の浸食だけである。
二十キロ遠方にあった防壁の如き闇は既に数キロの地点まで迫っている。
左右の闇もまた重武装使節団を挟撃せんと迫りつつ、そこから闇に憑りつかれた生物を放出した。
迎撃は容易い。
理性も知性も感情も持たない有象無象は簡単に地に伏す。
しかし、進撃速度を緩めた一人が後方から迫り来る闇に呑み込まれた。
断末魔の代わりに閃光が後方から迸る。
結晶石を用いた自爆装置が作動したのだ。
生身の生物ならまだしも、重武装使節団が闇の捨て駒として投入されるのは防がなければならなかった。
それらの犠牲を顧みもせず重武装使節団は突き進む。
実際の所、ネヴ以外は損耗しても問題無い。
周囲を固める人員は皆死刑囚なのだから。
やがて闇は晴れる。
前方に見えるのはかつて帝都と呼ばれていた場所である。
帝都を覆っていた防壁は無事な部分を探すのが難しくなるまで破壊を受けていた。
重武装視閲団は闇から脱しても速度を緩めない。
破られた防壁から激流の様に帝都へ流れ込む。
帝都には闇人と呼ばれる闇によって形作られた何かが群れていた。
物理的には干渉出来ない厄介な存在だが、威力を抑えたネヴの斬撃は闇人を数十まとめて掻き消した。
後方で閃光と爆発音が二度発生する頃には、ネヴは帝都の中心に聳え立つ城に辿り着いていた。
籠城していた者達が重武装使節団を見つけて歓声を挙げる。
ネヴは自分以外の重武装使節団に城の防衛を任せると、脱出の段取りは階級証を持つ武官らしき人物に一任して、自身は執務室へと駆け込んだ。
重厚な扉が勢い良く開かれ、壊れた。
「扉を壊さないで貰えるかな?延命装置が壊れれば私は死んでしまうのでね」
エダが呆れた声でネヴを迎えた。
その声は酷くしゃがれており、樹皮状の皮膚は表情を作れない。
「すまない」
ネヴは沈痛な表情で一言、呻く様にそう言った。
私に構っている暇があったら生き残りを逃がしてやってくれないかなと言うエダに、ネヴはお前も一緒に連れて行くと断言する。
「どうやって?」
エダの身体から伸びる多数の管。
その管は執務室の壁面を覆い尽くす延命装置に接続されていた。
エダは執務室の外では生存出来ない。
俺が何とかすると言うネヴに、エダは冗談でも無いと笑って言った。
「ギナギとその助手に先を越されて、今ようやく私も死ねると言うのに、まだ生き長らえるなんてぞっとしないね」
エダが六十区で呆気なく死んだギナギ技師の事を思い出しながら感慨深げにそう言うと、ネヴは形容し難い表情で押し黙った。
「髪流しの氾濫の件だがね、どうやらエルフ達が原因の様だね。ゴシキリュウとか言ったかな?諜報室からの報告によるとだがね」
エダの声から先程までの感情は消え、エダの声から女皇帝のそれへと変容していた。
「…知っている」
ネヴは苦々しい声で低くそう呟いた。
「籠城する前の報告だと東ユル地区は壊滅したね。ま、重要な観光資源を失ったあの地区はどうあっても壊滅した筈だけど。六十区周辺はラル技師の聖遺物が保護していると報告を受けている。あそこは規格外の治癒師が居るからよっぽど大丈夫だろう。それでも食糧が尽きる前には救出して欲しい所だが――」
帝都が陥落する直前だと言うのに、エダはまるで他人事の様に帝国の現状をネヴに伝えて行く。
その内容は事実上帝国の終焉を告げる物であるが、そこに悲観的な響きは無い。
「――と言うのが帝国の現状だ。後は地下に重罪囚人と言う名の実験素材がまだあるから、活用すると良い」
エダの報告を全て聞き終えてから、ネヴはどこか躊躇う様に口を開いた。
「西側はナナユユ共和国が半ば領地目当てだが救援に向かっている。西側は闇の浸食が軽微らしいいからグラン諸国側に比べれば防衛は簡単だろう。エルフは森全体の保全のみを行う宣言をしたから、事実上北と南は問題無い。東側は髪流しの起点に近いせいかグラン諸国を以ってして闇を押し留めるのが限界だ。次の重武装使節団の派遣は数カ月後になるが、六十区とその周辺に関しては必ず対応しよう」
重々しくそう言って、毅然と踵を返すネヴの背後に、エダの言葉が投げかけられた。
「エルダ=サウラ、と言う人物を知っているかな?」
振り返ったネヴは少しの間自らの膨大な記憶を漁って、フロイ=サウラなら知っていると答えた。
「エルダ=サウラは兄の恩人なんだがね、多分髪流しの氾濫はそいつの仕業だ」
エダの言葉に、ネヴはその表情に怒りを浮き出させた。
「数日前にここに来てね、ゴシキリュウはまだ一つあると教えてくれたのさ。髪流しを防いだらその千年後にもう一つ放つとね」
そいつの望みは何だとネヴが叫ぶが、エダは飄々とした声で知らないよと言い捨てた。
望みも正体も知らないけれどと前置きして、エダはどこか楽しそうな視線でネヴを見詰める。
「私より遥かに長生きな存在がお前以外に居る事は確かだな」
エダの言葉に、ネヴは複雑な表情をした。
案外そいつがお前の求める伴侶だったりしてなと言ってからかうエダに、ネヴは冗談じゃないと言って嫌悪感を露わにする。
ネヴが別れの言葉も言わずに執務室を去って行った後、エダは深々と溜息を吐いた。
「私の倍近くは生きていそうなのに、何と言うか、若いのだよな」
先程までネヴが居た場所に、演算スライムがエルダ=サウラの姿で出現していた。
「私の解析によればネヴ純人教会教皇は二百周期を超えている。人族にしては長生きの部類だと推測される」
エダは知らないが、その声はルーの声と同じ物である。
エダは顔で笑った。
硬質化した顔面は罅割れて剥がれ落ち、黒く濁った体液が滲み出た。
「心の問題さ」
その心は三千年以上生きている筈なのにねと、エダは不思議そうにごちる。
「ネヴ純人教会教皇に関する寿命の認識に矛盾を検知した。実際はどの位生きているのだ?」
演算スライムの疑問に対して、エダは本人に聞いてみればいいと応え、演算スライムはいずれそうしようと言ってその形状を変えた。
流動体が触手の様に全方位に伸び、執務室の機械群を片っ端から破壊していった。
「これで十分か?」
演算スライムの確認に、エダは感謝の言葉を述べて、約二千年の生涯を終えた。
エダの身体は崩壊して砂状になり、破壊された延命装置から流出した青黒い液体の流れに乗って拡散して行った。
演算スライムはそれらに興味は示さず、壊れた扉から執務室を出る。
割れた窓からは帝都を見下ろす事が出来、そこには帝国機動弓兵隊と重武装使節団が協力して生き残りの帝国民を逃がそうとしていた。
ネヴが剣を振るう事により帝都の街並みは破壊され、障害物の無い平坦な道が形成される。
その様子を見て、全体の三分の二は脱出可能だと演算スライムは算出した。
先頭を駆けるネヴが振り返り、城を見上げた。
その視線は確かに演算スライムを捉え一瞬首を傾げたが、意識は直ぐに現実へと引き戻された。
その姿が闇の壁に消えてからも演算スライムは割れた窓から帝都を見下ろしていた。
ネヴの振るう剣から発生する魔法を解析した演算スライムは、少し落胆した。
未知の魔法かと思われたそれは、四千百年前にルドアリ平野で貯水草の根を消し去ったそれと同じ物であったからだ。
演算スライムの予想通り全体の三分の一を失いながらも闇を抜けたネヴが、人族の宿敵となる魔王エルダ=サウラの存在を公表した。
脱出から十五日後の事であった。
序章Hに続く話は完結。序章A´に続きます。