清算、継承
森の人の集落に、一匹の落下蜘蛛が降って来た。
群れでも無いただの一匹の落下蜘蛛は脅威にもならない為、事前に知っていた者以外は誰もその事に気が付かなかったが、その落下蜘蛛を中心に魔法が発動した瞬間、集落のほぼ全ての森の人がその存在に気が付いた。
気が付くと同時に幾つかの悲鳴が上がる。
何故集落の中に使気竜がと。
老人会は使気竜が人造魔物である事は秘匿していたが、その存在自体は公にしていた。
風竜と名付けられたその竜は、核となる落下蜘蛛を中心に圧縮された暴風で形成される。
生きている竜巻と比喩されるその身体は、内部に取り込めば攻撃ですら粉々に引き裂く。
他の竜の様に力押しで実体を削いで行く対処法が取れない為、老人会が最も警戒していたのはこの風竜であった。
「あー、あー、試験発声、試験発声、本日快晴、本日快晴」
悲鳴は、響き渡った声によってざわめきへと移行した。
その声は少年の様な無邪気な響きを伴っており、その響きに毒気を抜かれた森の人は意味不明な内容と相まって困惑した。
何故なら今日は小雨なのだから。
「ご存知の通り、ご存じですか?私風竜と言う者ですが。ええと、この度ここを中心に活動する事になりまして、なったんですか?まだですか?」
どうにも要領を得ない風竜の話に一部の森の人が苛立ちを見せる中、軽武装した二人の森の人が風竜に寄り添う位置に歩み出た。
「あー、もういい。こっちで説明する」
軽武装した一人が頭を振ってそう言った。
その森の人は夢杵柄と言う名前の人物だった。
齢四百年余りとかなり若いが、的確かつ理路整然とした事を話す事から若き賢者として知られていた。
夢杵柄は緩んだ空気を振り払うかの様に毅然と背筋を伸ばし、こう宣言した。
「我々進人会は、老人会に変わって森の人を導く事を宣言する」
森の人の寿命をもってすら遥かな昔より、森の人の代表として一族を導いて来た老人会に対する明確な反逆行為に、森の人達は騒然とする。
その行為は重罪とされ、秘匿牢獄に最低千年とされる期間拘留される事になる。
森の人の平均寿命が千五百年程である事を考えると、殆どの囚人は終身刑を言い渡されるのに等しい。
若き賢者が何故その様な自殺行為に及んだのかと言う疑問は、続く言葉で順番に解消されて行った。
「我々進人会は老人会の幾つかの咎を公表する。一つは、対話可能であった風竜殿に対して無暗に敵対する事で我が集落を無用な危険に晒した事。その証拠として、安全な居住域を用意する事と引き換えに、風竜殿には他の敵対的な竜から我々の集落を護る事を同意して頂けた」
驚愕に思考を停止させつつあった森の人達に、風竜は軽い口調でよろしくと挨拶をした。
夢杵柄は傍らに控える残糸籠以外に聞こえぬ様に、どうしてこうも軽々しいのだと悪態を吐いた。
残糸籠は視線だけで堪えて下さいと懇願した。
夢杵柄は軽く咳払いをして雑念を振り払うと、淡々と老人会の咎を告発して行く。
曰く、不正に私腹を肥やした件。
曰く、意味も無く精霊魔法を禁じて外の人に対して魔法技術に後れを取った件。
曰く、邪悪な魔法実験によって外の人の囚人を使い潰した件。
曰く、反逆罪によって捕えられた同胞をその実験に利用した件。
その声は良く通り、集落のどこに居ても聞く事が出来た。
赤根油は老人会が利用する建物の中でその言葉を聞いており、夢杵柄を神輿に担いだのは正解だったと十四年に及ぶ自身の活動を自画自賛しながら、吐いた。
吐瀉物が床に撒き散らされる様子を見ながら、老人会の頂点に君臨していた弱音櫓は情けない若造だと呟いた。
その呟きは幾分かの強がりを含んでおり、その証拠に弱音櫓は顔面蒼白で僅かに震えている。
この場で二番目に気丈なのが弱音櫓であり、惨状を産み落としたジルは情けないねえと赤根油に嘲笑的な視線を向けた。
「…やけに手馴れているな」
胃液すら吐き尽くした赤根油が口元を拭いながらそう言うと、ジルは手馴れている輩に隷属していた時期があったのさと自嘲気味に嘯いた。
老人会の構成員は皆生きていた。
何故生きているのかはジルにも良く分からなかったが。
ジルはどの程度の損傷なら暫くは生きていられるかを経験から知っているだけで、人体の構造に詳しい訳では無い。
身体の半分以上を喪失した状態であっても生きている物は生きているのだと、ジルは快活に笑った。
初めて見る晴れ渡る空の様なジルの笑顔に新鮮さを感じながら、赤根油は老人会の面々へと視線を向ける。
十二人から成る老人会は全員が五体満足から掛け離れた状態で転がっていた。
「赤根油よ」
弱音櫓は諭す様に、しかし挑発的に、赤根油の目を真っ直ぐに見据えた。
「外で演説する夢杵柄はお前が唆したのか?」
当面の生存と受け答え以外に不必要な部位が悉く削ぎ落とされた弱音櫓を見た赤根油は、尽きる様子の事の無い吐き気に堪えながら小さな声で肯定の意を伝えた。
つらいなら帰るかと茶化すジルは双方から無視された。
「精霊魔法の弊害については理解しておるのかな?」
弱音櫓は試すような視線を赤根油へと向ける。赤根油は真っ向からそれを見返し、大した影響は無いと切って捨てる。
「恩恵の方が大きい。精霊被曝症で死ぬ事は無いが、精霊魔法で同族が殺される事は、この先必ずある」
赤根油の打って変わって強い語調に、弱音櫓は不敵な笑みを浮かべてその覚悟があるなら試してみればいいと言ってから、我々にそんな無責任な決断は許されないのだからなと、諦観の念を含ませながら付け加えた。
「老人会は臆病なだけだ」
「若造に思慮深さを求めるのは酷だろうな」
ぎりぎりと歯を噛み締める赤根油に、死に掛けの弱音櫓は泰然とした口調を崩さない。
「転生技術に関してはどうするつもりだ?」
弱音櫓の言葉に、赤根油は即答する事が出来なかった。
転生体は、森の防衛に有用過ぎるのだ。
「ふん、所詮は我々と同類と言った程度か」
つまらない奴等だと、弱音櫓は血と共に侮蔑を含ませた言葉を吐き出す。
「吐血しながら喋るとか、器用だね」
ジルが場違いな感想を呟くが、誰も相手にしない。
「…我々森の人は、生き残らなければならない」
赤根油は苦し紛れにそう言い放つ。
真の人に成るその日までと言う最後の一言は、赤根油の口の中だけで呟かれた。
もし、その呟きが弱音櫓に聞こえていたのなら、続く言葉は違っていたのかも知れない。
「そう言った若造の情熱が覚めた頃に後悔するのだよ。我々老人会の様にな」
赤根油は何か言おうと口を開きかけて、何も言わずに口を噤む。
何か言えば、弱音櫓に負けてしまう様に感じた。
赤根油の思考を察して、弱音櫓もまた沈黙を羽織る。
「それにしたって、我々を殺した所で、竜の存在はどうやって隠蔽するのです?」
沈黙を破ったのは赤根油でも弱音油でも無く、澱期待と言う名の老人会の構成員だった。
澱期待の眼球は二つとも抉り出されている為、代わりに血のこびり付いた空洞が赤根油を見据えた。
「何もしない」
澱期待の疑問に対して、赤根油は即答する。
「あれは元から存在した魔物だ、と言う事になる。水は討伐されて火と雷は処分したのだから土と闇は外の人に何とかして貰う」
外の人に被害が出るのは気にもしないと言う事かと、非難を孕んだ低い声が血に塗れた澱期待の唇から紡がれた。
赤根油はその怒気に気圧されて仰け反り、ジルと弱音櫓はそれぞれ情けないと呟いた。
図らずとも発言内容が一致した事に、両者の視線も噛み合う。
弱音櫓が貴様の入れ知恵かとジルに問うと、ジルはさてどうだろうと嘯いた。
弱音櫓はジルを凝視し続けていたが、ジルは素知らぬ顔で窓の外を眺めていた。
窓の外には幼い森の人が風竜に空高く吹き上げて貰って遊んでいる光景が見えていた。
ジルは危機感に欠ける連中だと思いながら、ちょっとした疑問を思い出して言葉にする。
「水竜ってまだ死んでないよな?」
ジルの言葉に、その場に居た全員がきょとんとした顔を向けた。
「あれって根無草が核だったんだろ?だったら火吐鳥や帯電蝶みたいに潰しても死なないよな?」
気まずい沈黙がその場を支配した。
そんな事も気が付かなかったのかと言うジルの追い打ちの様な問い掛けが、鉄臭い空気を更に不味い物へと変える。
「そ、外の人に、何とかして貰おう」
赤根油は目を泳がせながらそう言い放った。
「ま、死んだ後の事など知った事では無いのだがな」
弱音櫓は泰然とそう言った。
お前等同類だと言うジルの感想が言葉になる事は無かった。
「結局、些細な事で動揺するお前は我々より不安な統治者にしかならん」
安心して死ねもしないと、弱音櫓は周囲を見渡して吐血しながらそう言った。
それが弱音櫓の最後の言葉になった。
既に老人会の半数は息絶えていた。
「一つだけ忠告しておきましょう」
澱期待が、何も言えない弱音櫓に代わって赤根油に言葉を紡ぐ。
「老人会は、秘匿牢獄に収容された事にしなさい」
貴様等と同じ事をしろと言うのかと、赤根油はその叫びを寸前の所で呑み込んだ。
その手法の有用性は、赤根油の理解出来る所でもあったのだから。
森の集落が安定する為には秘匿されなければならない事もあるのですと、澱期待はその言葉を紡ぐ前に息絶えた。
赤根油は、十二の死体に囲まれて無表情で立ち竦んでいた。
こうして、森の人の文化的停滞は解消された。
それを歓迎したのは、演算スライムと老人会の末路を秘匿された人々であり、そこに赤根油だけは含まれなかった。