牢獄、施設
何度来ても代わり映えのしない場所だと言うのが、四度目の森の人の集落に対する感想だった。
集落の景色は元より住人の顔触れにも殆ど変化が無い。
帝国軍の侵攻は幾度と無く繰り返されていたが、未だに集落の発見にまでは至っていなかった。
その為建造物への被害は皆無であり、集落の非戦闘民が帝国軍により死傷させられる事も無い。
多少住民は減っている様に演算スライムは感じていたが、それも全体から見れば誤差の範囲である。
そしてそれらの住人から排他的な視線を受けるのは予想の範囲内だった。
決して近寄らず、かと言って無視する訳では無い。
遠巻きに監視するかの如く視線を送って来る。
スラグの民よりその反応は静かであり陰湿でもあった。
それは演算スライムが森の人とは違った身体的特徴を模倣していたからでもある。
森の人は総じてその耳が尖っていて尚且つ長い。
演算スライムが解析した限りではその耳は魔力の感受と放出の効率を上げる器官として作用していた。
森の人もまたその事を理解している様で、純血の森の人が使用する兜は耳の部分の装甲が若干薄く作られている。
装甲が薄い分防御性能は少し下がるが、森の人は長い経験で魔法効率と防護効率が均衡する装甲の厚さを割り出していた。
演算スライムを遠巻きに見る森の人達は皆その耳が活性化していた。
それでも、演算スライムの位置を正確には認識していなかったが。
森の人達が見る演算スライムは、幻覚魔法によって幻視する演算スライムである。
明確な異分子である演算スライムは僅か一ヶ月程集落で生活しただけで、森の人の中で具体的な偶像が確立されていた。
その状態で幻覚魔法と隠密魔法を併用する事によって、演算スライムは当初の予定より大幅に速い段階で衆人環視から逃れる事に成功していた。
五年程掛けてその確実性を検証した演算スライムは、その後十年に渡って森の人の生態を観察していた。
その観察も佳境を迎えていた。
集落の中でも限られた森の人しか入れない場所、老人会の領域へと演算スライムの観察は及び始めていた。
集落の地下に位置する牢獄。
両側に鉄格子が続くその通路の中腹で、演算スライムは隠密魔法を解除した。
男の様にも女の様にも見える衆目美麗な人物が、その姿を露わにする。
鉄格子の中には兜と拘束鎧によって手足を封じられた者達が収容されていた。
演算スライムが唐突に現れて驚いたのは最初の数度で、今は全く反応が無い。
二人の例外を除いて。
「また来たのかい?」
こんな場所に何度も何度も物好きだねえと、ジルは陰湿な笑みを浮かべた。
少し黙っていてくれないかと答えたのは演算スライムでは無く赤根油だ。
火竜を圧倒的質量で押し潰して討伐した事で森の人から表面上は歓待された演算スライムは、雷竜も同様に討伐していた。
その結果赤根油は転生体を収容する牢獄の管理者に配置換えされたのである。
部外者を引き入れた事に対する引責とその部外者が問題を処理した功績を相殺した上で、老人会の嫌がらせにより下されたその辞令を赤根油は甘受した、と老人会は思っている。
赤根油は老人会の決定を甘受したと見られる様に演技し続けていた。
その甲斐があり、監視は一年で解かれた。
老人会にとって齢千年未満の若造が自分達に逆らわないのは当たり前であり、それに比べれば食事にどれだけ薬物を盛っても平然としている演算スライムの方が遥かに由々しき問題であった。
演算スライムの生態は基本的に不定形種である。
有毒ガスすら栄養源として活用する不定形種に薬物が通用しないのは当たり前の事であり、不定形種から激しく解離した特徴を持つ演算スライムを不定形種だと看破出来ないのもまた当たり前の事であった。
老人会が指示した魔法による演算スライムの解析は、その結果を不定形種だと正しく判別していたが、老人会はその解析結果を提出した者を役立たずと断じて左遷していたのだから、いつまでたっても演算スライムの正体を看破出来る筈も無い。
取り敢えず森の人でも外の人でも無い何かだと、老人会の演算スライムに対する認識はその程度で停滞していた。
演算スライムにとってその事はどうでもいい事であり、赤根油にとっては僥倖であった。
「何か手に入れたのか?」
赤根油の眼差しは真剣そのものであった。
[これが助けなら]
演算スライムは何の感情も無く分厚い和綴じの書類を差し出した。
表紙には転生体製造履歴五と記されていた。
赤根油はその書類を引っ手繰る様にして受け取る。
「あたしがここから解放される日も近いのかねえ?」
ジルの自嘲的な笑いを無視して、赤根油は食い入る様にその書類を読み進めた。
その姿を、極僅かな期待の感情を発して見る転生体が数人いた。
その数人はかつて赤根油が指揮していた対竜対策部隊第一班に配置されていた転生体である。
赤根油は転生体を外の人を素体とした使い捨ての駒と教育されていた。
転生体は外の人を素体としている為、特別製の兜により反抗の意思を発生させない事は集落の保安と防衛上必要な措置であるとも、赤根油は教育されていた。
だから演算スライムが火竜を討伐した際、赤根油は気絶した転生体の一人が装備していた兜が破損していた事に肝を冷やした。
老人会は明言しなかったが、転生体が森の人を上回る身体能力を持っている事は明白だったからだ。
しかしながら、破損した兜の下に見えたのは見知った顔でもあった。
百七十年前老人会に対する反逆罪によって秘匿牢獄に収監された筈の水紅葉と言う名の森の人と、兜の下に見えたその顔は全く同じだったからだ。
老人会が演算スライムを集落に連れ帰った赤根油に対して下した左遷人事は、形容し難い不安と不信を抱いていた赤根油には渡りに船であった。
「…あった。被験体の名前は黒塗り…捕獲経緯未記入…使用薬物、栄養剤、森の設計図、融合促進剤…編成期間半年…」
監視が無くなるまで一年。監視が再開されないと確信するまで三年。演算スライムに再接触するまで六年。
赤根油は書類から顔を上げて演算スライムを見ようとして、そこにその姿が無い事に気が付いた。
「その書類渡してすぐに消えたよ」
ジルが嘲笑う様にそう言った。
結局の所、赤根油から演算スライムに会う方法は無く、演算スライムが来るのを待つしかなかった。
赤根油は演算スライムが老人会によって非公開指定とされた情報をどうやって入手しているのかも、何故赤根油にそれらを提供してくれるのかも知らない。
ただ一つ赤根油が経験から確信している事は、演算スライムから提供される情報が赤根油の求める真相に関連していると言う事だけだ。
「あれを過信するのは感心しないけどね」
ジルは陰鬱な笑みを浮かべて的確に正論を呟いた。
通路の最奥。
三重の鉄格子に阻まれた部屋の中で、演算スライムはジルの呟きに同意した。
演算スライムはそこに収容されている一際厳重に拘束された転生体がただの人形であると認識していたし、その奥の壁が魔法によって偽装された入口である事も認識していた。
通路に仕掛けられた侵入者に対する罠の数々を全く作動させる事も無くその奥へと辿り着くのは、今回で六十五回目であった。
そこは帝国との停戦後百年近く稼働していない施設であり、そこに設置された棺型の機械は老人会からは転生器と呼ばれていた。
横一列に十機並べられた転生器は、標準的な人族を問題無く収容出来る大きさがあり、一本の液管が接続されていた。
液管は三方向に分岐して施設の天井に設置された三つの巨大貯蔵器に接続されており、演算スライムが解析した結果その一つには人族の体組織に類似した特徴を持つ液体が入っていた。
別の二つの貯蔵器は空だった。
空の貯蔵庫の内部は綺麗に清掃されており、どの様な性質を持つ液体が貯蔵されていたのかは不明確であったが、演算スライムはこの施設がどの様な特性を持っているのかを大凡把握していた。
この施設は人族を根本から作り変える装置であると、演算スライムは推測していた。
それはこの施設の成果物と推測される牢獄に収容された転生体を解析すれば簡単に辿り着ける結論であったが、演算スライムはこの施設をどう扱うかはこの時点では決め兼ねていた。
この施設は森の人の停滞を破壊する可能性があると思うのと同時に、この施設を凡そ千年利用して来た森の人が停滞していた実績も存在する。
過去六十四回の侵入でこの放棄された施設を再稼働可能な程度には調整してきた演算スライムは、様々な試算の末に一つの決断をしようとしていた。
それは決断であると同時に、思考の放棄でもあり、不可逆的な実験でもあった。
演算スライムは人族が非常に個体差の大きい種族である事は理解しており、その特性は人族が創造した様々な道具を使用する際にも顕在化すると考えていた。
同様の機構を持った道具を使用してもその結果は様々なのだ。
異なる人族に同じ結果を出させるには学習行為が必要であり、学習行為も個体差が大き過ぎれば無意味である場合がある。
ならば、道具を使った結果が演算スライムの望まない結果であった場合、道具の使用者を強制的に変えさせる事で違った結果が期待出来ると、その結論に演算スライムが辿り着いたのは当然の帰結であった。
演算スライムはこの施設の利用者が森の人に老人会と呼称される集団であった事を把握していた。
その老人会から行動様式の掛け離れた個体を、演算スライムは一人手懐けていた。
赤根油と言う名前のその個体は老人会に対して否定的な言動が散見され、この施設に関する情報に対して高い関心を示した。
その個体から発せられる感情が多種の複雑な感情が混合された物であり、行動の予測が立て辛い事が若干の懸念材料ではあったが、演算スライムはそれを重大な懸念材料とは考えなくなりつつあった。
もう少しだけ情報を収集してから結果を試算して決定しようと、演算スライムはそう結論を出した。
「何と無く、近いうちに楽しい事が起きそうじゃないか?もしそれが荒事なら、手伝えると思うんだけどね?」
通路の中腹で鉄格子越しに赤根油へと向けられたジルの声を、演算スライムは通路の最奥から聞いていた。
赤根油はその言葉を、肯定も否定もしなかった。