壊滅、落下
熱が通り抜けた。
森が二キロに渡って炭化し、直撃を受けた一人は半身を焼失した。
一人減った十二人が相対するのは形のある火炎。
森の人に火竜と呼ばれる存在である。
十二人の間で短く手信号による意思の疎通が成され、一人欠けた部分を補う様に火竜を取り囲む。
そうしている間に森は損壊した部分を二割程も再生した。
三人が同時に魔法を詠唱した。
その声は頭部を覆う金属製の兜に遮られて、意味のある音は漏れない。
本来は対人用であるその機能は火竜に対して何も意味を成さないが、だからと言ってその兜が無ければ顔は焦げ落ちるだろう熱が周囲を満たしていた。
それ程の熱を打ち消すための魔法が三方から発動した。
生み出され続けるのは大量の水。
再生し始めた森も無傷な森も巻き込んで押し寄せるその濁流は、火竜をその場に押し留める。
それ程の濁流でも、押し留める事しか出来ない。
火竜に触れた濁流は水蒸気に変わって行ったが、濁流はその上から際限無く押し寄せ、水蒸気すらも押し留める。
十二人から少し引いた場所でその様子を俯瞰していた赤根油は、兜の下で呟いた。
「これをいつまでやるのだろうか」
その答えは分かっていた。使気竜を全て処分するまでだ。
しかしそれを、帝国軍に対応した装備でする事に何の意味があるのだろうかと。
最初の数ヶ月であれば理解出来るのだが、それが一年以上も続くと老人会にはまともな輩はいないのではないかとも思えた。
頭の古い連中にまともな対応を求めるのが酷なのかねと、そう呟いた赤根油は熱線を避ける為に横へ移動した。
「森から森へ」
その短い詠唱で発動する魔法は森の人が使う魔法。
肉削樹木が群生する森でしか使えない移動魔法。
まるで中空に不可視の軌条があるかの様に、赤根油は何も無い場所を滑った。
熱線が先程まで赤根油が居た場所から後方一キロに渡ってを炭化させた。
全てではないが、時折水圧の薄い部分を熱線が貫通するのだ。
洒落にならないねと呟きながら使い捨て同然の部下達を見遣ると、先程半身を焼失された一人が戦線に復活していた。
焼けた半身は完全には復活しておらず、装備も不十分なその状況では即死してもおかしくないのに、何故か他の誰よりも動きが良く見える。
「またあいつか」
赤根油は部下の中でも最も古い転生体に意識を向ける。
ある種異常な程使える転生体であった。
しかしその名前までは覚えていない。
転生体は兜によって疑似的に感情を殺される為か、戦闘による死亡率は純血の森の人より遥かに高い。
停戦協定後補充が滞っている転生体を使い潰すのも如何な物かねと、赤根油の呆れ気味な呟きは兜の機能で外へは漏れない。
赤根油が注視する中、その転生体は濁流の中へと自ら飛び込んだ。
何を考えているのかは良く分からない。
分からなくなる程複雑な感情がある筈は無いのだが、分からない物は分からないと赤根油は諦める。
良く分からない転生体が濁流に飛び込んだ直後に爆発。
炎は伴わない。
水蒸気爆発であった。
魔法を行使していなかった九人が吹き飛ばされながら捻じれた棒を投擲する。
投げた腕が壊れるのを厭わないその投擲が、爆発を押し抜けて炎の核へと消えた。
結果は白い水蒸気に阻まれて見えない。
「一人ぐらいは死んだかな?」
兜で恐怖も感じないから死んでも平気だろうしと、樹の幹を盾に身を護った赤根油は投げ遣りに呟く。
実際には死ぬと困るのだが。
最近は転生体の補充が致命的な程少ないのだから。
赤根油の頬を汗が伝う。
それは、冷や汗だったのか、熱気による汗だったのか。
樹の幹からちらりと様子を伺うと、良く分からない転生体が一人で奮闘していた。
火竜はその大きさを二回り程小さくしていたが、それでも即時封殺は不可能な規模であった。
「流石に十三人一度に死んだら顛末書書かされるかも」
誰が聞く訳でも無いのに努めて陽気に呟く赤根油だったが、それも生きて帰れたらの話だけれど、と言う言葉は縁起が悪くて口には出来なかった。
そう言えばと、他事を考えている余裕も無いのに赤根油は頭の片隅からある記憶を引っ張り出す。
八百年程前に逃げ出した水竜を滅殺した傭兵がいたなと、諜報班が持ち帰った古い資料の事を思いだす。
対竜対策班二班班長の辞令を受ける際に渡された、使気竜の開発資料に別紙として添付されていた古い資料だ。
使気竜を無力化する方法は形状を維持出来なくなるまで消耗させるしかない。
通常それは集団で行うのだが、エルダ=サウラと言う名前の傭兵はそれをたった一人で成し遂げたと言う。
「だから貴様らも本来なら一匹に対して一人で十分な筈だ」
老人会が言い放ったその言葉を思い出して、赤根油は絶対この場を生き延びてやると心に誓う。
その時の怒りがふつふつと呼び起こされる。
七人で初期対応に当たった対竜捕獲班が壊滅した直後の言葉とは思えないのは、今も昔も同じであった。
「木の枝は、万能である」
赤根油の詠唱により、周囲の肉削ぎ樹木から複雑に捻じれた棒が大量に捻り出される。
「私の喉は、渇いていた。揺らすな、飛ばせ」
大量の棒を起点に細く速い水流が生み出された。
良く分からない転生体に当たらない様に調整されたその水流は、火炎の動きを巧みに制限する。
しかし、個々の水流は細い為、先程の様に発生する水蒸気を閉じ込める事は出来ない。
水蒸気によって視界はどんどん白くなって行った。
火竜から響く火炎の唸る音が、赤根油にはまるで苦悶の鳴声である様に聞こえた。
「不十分ね」
そんな声が真下で聞こえた。
そこにはいつの間にか気絶した十二人が積み上げられていて、唯一意識のある良く分からない転生体が赤根油を見上げていた。
その口周辺は兜の装甲が薄くなっていた。
「この兜、高温にさらした後に水被ると誤作動する」
赤根油は一瞬それが何の事だか分からなかったが、直ぐに転生体に支給される兜の制御権が自身にあった事を思いだした。
「あと、何でか知らんけど私はこの兜の影響受けにくいみたい。普通に精霊魔法使えるし」
良く周囲を見れば、無限に生み出される水蒸気が赤根油の周囲には寄って来ない。
それは死なない訳だと、赤根油は得心した。
こんな便利な物蔑視するなんてあの呆け老人共も無能よねと、良く分からない転生体は笑う。
被っているのは感情を殺す兜じゃなかったのかなと、そんな暢気な事を赤根油は考えていた。
「お前は、何だ?」
色々と思う所があったが、言葉にすると簡潔だった。
お前って、一応私にも名前はあるんだけどねと、良く分からない転生体は不満気に呟いて右腕を掲げた。
何だ、の部分は完全に無視された。
火竜が出鱈目に放っていた熱線が赤根油を炭化させる軌道に乗っていたのだが、それは弾ける様に霧散した。
押し潰されそうな熱が赤根油の周囲を満たした。
その熱は死傷させられる様な類の温度では無かったが、年中涼しい森の中で暮らす森の人は体験した事の無い、日中の砂漠に匹敵する熱だった。
即座に影響は出なかったが、赤根油の魔法が徐々に威力を減衰させて行く。
「死にたくなければさ」
焦燥感に追い詰められて行く赤根油とは対照的な涼しげな声で良く分からない転生体は笑う。
笑いながら自身の兜を右の拳で小突いて、外せよとそれだけ言ってまた笑った。
赤根油は本能的に、老人会の思惑は関係無く、この良く分からない転生体を解放してはいけないと、そう確信していた。
一方で、今自分が解放しなくてもいずれ自力で何とかするだろうとも思っていた。
何より、死ぬのは嫌だなと思った。
結局の所やけっぱちの投げ遣りな衝動に赤根油は負けて、自身を見上げながら笑う転生体の兜に干渉する。
良く分からない転生体を制限していた、その兜が持つ全ての機能は停止した。
兜は編み込んだ髪が解かれる様に崩壊して、その下にあった陰鬱な笑い顔が露わになる。
こいつ女だったのかと、赤根油はそんな事を考えていた。
「別に獲って喰いやしないからそんな顔しなさんな」
私はジルって言うんだ覚えておけと、そう言われた赤根油の顔は引き攣っていた。
先程までは居なかった精霊が、蚊柱の様に湧き出していた。
「八百年ちょい前に呼べなくなったんだけどね、最近普通に呼べるようになったんだよ」
赤根油の顔が引き攣ったのは、老人会が目の敵にしている精霊が大量に顕現したからでは無い。
水蒸気の中に赤い火炎がちらちらと見え始めたからだ。
勝ち目はあんまりないんだけどねと、ジルは無責任な事を言いながら雨の様に土砂を降らせた。
水流の奏でる轟音とは趣の異なる轟音を聞きながら、赤根油の魔法が途切れた。
その場に寝転がりたい衝動を辛うじて抑えながら、いい加減火竜も疲れて逃げ帰るだろうと、そんな事を考えていた。
無心で降り注ぐ土砂を眺めていた赤根油は、ジルに蹴り飛ばされた。
「ごめん、無理だったわ」
そんな無責任な声は土砂を溶かして姿を現した火竜に気を取られて聞こえていなかった。
「何でこれだけやって弱ってないんだこいつ?」
死が喉元を撫でる様な状況に、赤根油は恐怖よりも疑問が先に出て来た。
その恐怖心の欠如が兜の感情抑圧による物だとは気付いていない。
「竜共は馬鹿じゃないんだから、いい加減こっちのやり方は学習して対策してるんでしょ?」
そんな当たり前のことを今更とでも言いたげなジルをよそに、赤根油はこの人災を帝国に隠し通す事は無理だなと、柄にも無く老人会の事を心配した。
老人会はただ単に帝国に対して弱みになりそうな事を場当たり的に隠蔽しているだけだと言う事も良く分かっていたが、なんだかんだで老人会は帝国に向けた顔でもあるのだ。
森の人の繁栄を望む赤根油としては、老人会の頑固頭を忌々しく思うのと同時に、老人会が無くなってもそれはそれで困るのだ。
その取り留めの無い思考は走馬灯の一種であったが、次の瞬間それらの思考は機能不全に陥る。
空から無数の目玉が降って来たからだ。
正確には、無数の目玉が埋まった巨大な何かが降って来たからだ。
轟音が赤根油の聴覚を狂わせ、衝撃波の一部はジルの障壁を破った。
樹から落ちて空を仰ぐ赤根油には、目玉の塔が見えていた。
その目玉はばらばらに動いて周囲を見ていた。
赤根油とジルも見られていた。
「気持ち悪い」
ジルがどこか懐かしげにそう呟いたが、赤根油にそれは聞こえていない。
[見知った顔があったから、落ちた]
赤根油の狂った聴覚が、そんな声を拾った。そんな気がした。
どこから声を出しているのかと言う疑問は浮かびもしなかった。
広範囲に渡って破壊された森が、淡々と再生を始めていた。