硬化、錯誤
魔力性硬化症。
この時代では単に開拓症と呼ばれた奇病。
それは帝国開拓区五十二区から六十三区において約二百年間散見された特殊な風土病である。
この時代の人族はその仕組みを解明する事は叶わなかったが、その病気は体内に蓄積された魔力が許容量を超えると発症する。
発症条件は魔力が濃い環境、例えばキタミ山跡地の様な環境においてその危険は増す。
初期症状として筋肉が異常に強化され続ける為、兆候は怪力や外傷に対する特異な耐性となって現れる。
兆候が表れてから発症するまでの期間は個人の魔力保有量と使用量に応じて変化し、精霊融合現象時にその影響を受けたラルと幼馴染エスカは比較的長生きした。
エスカは享年九十二歳。ラルは百二十一歳。
それでも魔力保有量の多い個体として百二十年は短命であったが、この時代の人族はまだその事を知らない。
ただ、仮に知っていたとしても、その頑丈さを利用して結晶石を研究していたラルに負の感情は湧かなかったであろう。
「ラル技師、お久しぶりです」
療養所で寝たきりのラルは、既に喉が機能していない。
その口には吸血蟻の産卵管を利用した管が通されており、その管を通じて肺に空気を送り込む事で辛うじて命を繋いでいた。
「既に喋れないそうですね。でも今日は一方的に話をしに来たのです。少し、昔の公設秘書の無駄話に付き合ってくれませんか?」
ラルは心の中で構わないよと返事した。
若干顔が老けたシルナは、穏やかな表情でラルの横に腰掛けた。
「この八十六年、色々と考えてきました。ええ、あのオルム平和教襲撃事件の事です」
オルム平和教襲撃事件と言うと、オルム平和教が襲撃されたみたいですねと、シルナは苦笑した。
ラルも八十六年程ずっとそう思っていたので、声を出せない事が少しだけ残念だった。
「あの事件はおかしな事だらけでした。絞り弓の入手経路とか、フリッツ侯爵家の断絶とか、でも、色々考えると一つ辻褄の合う説明が出来るんです」
真剣な視線を向けるシルナに、ラルの若干緊張した視線は天井を向いていた。
「黒幕は、ラル技師、貴方ですね?」
若干の間を置いてシルナはそう言った。
少しの間静寂が流れる。
シルナが喋らず、ラルは喋れないので当然だが。
木製の天井がカタカタと揺れた。
今日は風が強いですねと言って、シルナは自らの推測をラルに話し始める。
「オルム食堂を利用していた理由は安いからではないのですよね?毎日私が髭のキャサリンに渡していた封筒の中身は紙幣では無かったのでは?」
ラルが返事する代わりに、カタカタと天井が揺れた。
「あの襲撃の際に死んだ人達は殆どが森の人への軍事的侵略を推進していました。そして不十分な証拠で被疑者死亡のままフリッツ侯爵はその首謀者であり、オルム平和教側は十分な支援が得られたからフリッツ侯爵を裏切ったと、こちらも帝国軍機動弓兵隊によって関係者は全員死亡しているのに、決まっていた様に決め付けられた」
決まっていた様に決め付けられたって変な言い回しだなと、ラル技師はそれを指摘出来ない事にもどかしさを感じる。
「そして、本当の首謀者であるラル技師はルダを使って髭のキャサリンを謀殺した。その隙を作る為に言わなくていい性癖を暴露されたアルキ技師は不幸な被害者ですよね」
髭のキャサリンは固有名詞として確定なのかと、そう言いたくても声帯が機能しないラルの気持ちを代弁する様に、天井がカタカタと揺れた。
最近のアルキ技師は開き直って非戦闘用の幼女や美少女の自律人形を量産して変態呼ばわりされていますよと、シルナは余分な情報を付け加えた。
「皇帝は、停戦推進派だったんですよね?絞り弓導入後は帝国軍の死傷者が急増したと言われています。それはこれまでは余裕をもって帝国軍を追い払っていた森の人が形振り構わず反撃して来たからなのでは?そして、虎の子の絞り弓を導入した帝国軍は引き際を見失っていた」
全て推測ですけどねと、シルナは言葉を締めた。
そしておもむろに、一冊の本を取り出した。
「私の回顧録です。まだ著者校版ですけど」
シルナはある頁を開くと、ラルが見やすい様に、顔に被せる様にそれを見せた。
「ラル技師の研究関係の情報は、検閲条項1121に指定されています。でも、ここを見て下さい。“例えば【検閲条項1120該当】思えばあの研究室には私以外に常識人は居なかったのだ”ここはルダが設置したあの防壁とその治癒魔法について記載してあったのですが、それに対して検閲条項1120と記載されて検閲を受けています。これが、私が回顧録を書く事で知りたかった情報です。何が知られては不味い情報なのか、それを知る事で全ての推測に裏付けを得る事が出来ます」
僅かな沈黙。シルナは深く息を吸って、その予想を言葉にする。
「ルダは、帝国の諜報員ですね?」
ゴンと、天井で音がした。
その音に墓鼠でも居るんですかとシルナは嫌悪する様に呟き、ラルは色々と諦観の念に包まれていた。
「もうどこかに公表する気はありません。停戦によって帝国はより豊かで安全になりましたし、何より全ては推測ですから」
シルナはそう言葉を締めて、ラルを見下ろす。
どこか偉そうに見下ろす。
ラルが声を失ってから十年が経っていたが、これ程までにそれを悔やんだ事は無かった。
手が動くなら、その苛立ちにシルナを殴っていたかもしれない。
それ程シルナの顔と口調は偉そうだった。
ドヤ顔と言う概念は、この時代には無い。
その気持ちを代弁するかの様に、天井がガタガタと揺れた。
それから少しだけ昔を懐かしむ話をして、シルナは病床のラルに別れを告げて療養所を去って行った。
シルナが辺鄙な場所に建てられた療養所から一定距離離れた時。
正確にはラルの横で叫んでもその声が絶対聞こえない距離まで離れたその時。
天井で大きな物音がした。
時折どこかに何かをぶつける様な音が混じったその物音は横に移動した後上へ消えて行き、入れ替わる様に激しい足音が上階から階段を駆け下りて、ラルの元へと勢い良く滑り込んで来た。
「何なんだ!!!!あの見当違いに自信満々な女は!!!!」
貯めていた感情を吐き出すその人物は帝国諜報室主席である。
名前は抹消されて存在しないが、便宜上ハル20と名乗っている。
「部分的に合ってるけど大体違うじゃないか!!!確かにあの襲撃は我々の企画だし!!!オルム平和教を煽って推進派を殺させたのも我々だが!!!」
大げさな身振りと大音量で心情を吐露する様子をラルは少し羨ましく思った。
ラルもまた、ハル20と同じ心境だったのだから。
「でもその協力者はアルキ技師だし!!!アルキ技師は加害者だし!!!それを横からつついて邪魔したり皇帝脅して六十区の助成金を増額させた悪党はラル技師お前だよっ!!!」
口角泡を飛ばしながら、ハル20は人差し指をラルに突き付けた。
しばらく肩で息をしていたハル20が、唐突に膝から崩れ落ちる。
顔を抱えてうずくまり、アルキ野郎もあの失態で諜報部から切られて以来開き直ってやりたい放題やりやがってと、漏れ出るその呻き声の様な言葉にどこか羨望が混じっていたのを、ラルは勘違いと言う事にして聞き流した。
聞き流しながら、技師と言う括りでアルキと自身を一括りにして非難するのは止めて欲しいと伝える術がない事に対する苦悶も一緒に流し去れれば良いのにと思っていた。
「検閲条項1120だってそう言う意味じゃねーし…あれは結晶石の爆風に堪える研究室内壁の材質が検閲条項だしー…帝国諜報室は間違ってもあんな出自不明の小娘採用しねーし…大体何で六十区に引き籠ってるお前等に計画がばれたんだよ…」
それはラルの研究所に対して諜報活動をしていた諜報員から演算スライムが抽出したからなのだが、それはラルも知らないので説明は出来ない。
そして最早泣き言でしかないハル20の言葉に、ラルは演算スライムの事を、ラルにはエルダ=サウラと名乗っていた懐かしい人物を思い出す。
(あれが人族かどうかも怪しいのだけれどな)
あの日、結晶石を目の前で爆発させてしまったあの日、ラルは一人の不思議な旅人に治療された。
ルダを引き連れたエルダ=サウラと名乗る人物、つまり演算スライムにだ。
[精霊に呼ばれた]
エルダ=サウラの声は不思議な声だったと、ラルはまだ何か喚いているハル20を無視して、回想にふける。
(ああ、でも、液状化して研究室の内壁になったりシルナの防壁になったりした時には、びっくりしたなあ…)
実際どんな素材よりも頑丈だったけどと、ラルは人生で最も衝撃的だった光景を思い出して、遠い目をした。
(でも形状変容に関してはルダの方が優雅で美麗だったよな。あの仕込み杖とか秀逸だった。機構を模らなくても結晶石の爆発を引き起こせるのに、わざわざ複雑な機構を模ったのはエルダ=サウラに対する対抗心だろうな。ああ、かわいいなあ)
回想はルダの事へと及んでラルは心の中の頬を緩ませた。
[擬態種。人族の天敵]
エルダ=サウラはルダの事をそう表現した。
結局死の間際になっても尚、ラルにその言葉の意味は理解出来なかったが。
理解出来ようが出来まいが、皮膚を変化させて服を作り、硬化させれば至近距離の結晶石の爆発にも耐えるその存在を、ラルは公表する訳にはいかなかった。
良く分からないモノに防がれるようでは、ラルの研究は帝国に認められないだろうと言う事は容易に想像できたし、何よりもルダが危険視されるのは避けたかったからだ。
だからラルは研究所の内壁とルダの技術は自身の秘術として帝国に報告していた。
帝国はラルの秘術を検閲条項1120とし、その後に完成した結晶石に関する情報を検閲条項1121とした。
因みに、オルム平和教による襲撃事件は検閲条項1117に指定されている。
諜報室が一連の計画を仕込んだのは襲撃事件の三年前の事だったからだ。
「大体貴様がその全てを吐く前に病気に負けるから俺は!!!俺は!!!」
今日も今日とてお仕事ご苦労様と、自分の胸倉を掴んでがくがくと揺らすハル20にラルは心の中でそう言った。
揺さぶられながら、ルダの事を思い出すラルの胸中に満たされて行くその感情は、淡く純粋な好意だった。
(一度も声を聞けなかったのが少し心残りだけど、良い人生だったな)
幸せな気持ちに包まれながら、ラルは故郷の発展を願いながら穏やかに死んだ。
ハル20がラルの体温が下がり始めた事からその死に気が付いて、顔面蒼白で焦燥感に襲われた事はラルの知る所では無い。
誰も知らない事だが、ハル20の行為があっても無くてもラルの死はその時間に訪れた現象であった。
余談だが、その後帝国諜報室内でシルナが史上最高の馬鹿として有名になる。
自称知的な常識人であるシルナがそれを知る事は無かった。
無知とは幸せなのだろう。
心の枷を取り払ったアルキ技師と同じくらいには、きっと。
序章Dに連なる話は完結。序章Eに続きます。