箱舟、帝国
[大きな船を造れ]
これは夢だと、カインは気が付いた。
「これは…その昔女神禄補遺と呼ばれた禁書じゃ」
明晰夢と呼ばれる体験であるが、カインはその言葉を知らない。
「この新しい弓はすげぇな!雪吐きの皮どころか鎧雪の外殻が雪みたいに貫けたぜ!」
様々な場面が移り変わって行くが、カインはそれを制御する事は出来ないし、する気も無い。
「兄さん、あの異人は危険だと思う」
ただ流れる光景に身を任せながら、ふといつからこの夢を見ていたのかが気になった。
[同じように考える。その技術は有用だが、使う者の負担が膨大]
そもそも、何故眠っているのか。何か大きな事件があった記憶が、僅かだが記憶が。
「カイン、その技術は有用じゃ。使用者も苦痛を覚悟で使うじゃろうて」
山が、揺れたのだと。その事にカインが思い当たると、夢の世界が徐々に曖昧になって来た。輪郭がぼやけて、形が曖昧になる。
「ギナギ技師。収容体03がここの所覚醒の兆しを見せています」
それは目覚めの兆しであると、カインは自覚していた。
[船に逃げ込め。スラグの民も可能なだけ乗せろ。ゲルヌは間に合わない。疑問は捨てろ。スラグの民にはお前から指示しろ。船に逃げ込め。スラグの民も可能なだけ乗せろ。ゲルヌは……]
このまま夢の中に居た方が良いのではないか?そんな思考がカインに目覚めを躊躇させた。
しかし、その思考が夢の妨げとなって、カインは浮き上がる様に現実へと舞い戻る事になる。
「二年も眠るとは、相当な怠け者だな」
ケケケと、不気味な笑い声がカインを完全に覚醒させた。
眼を開く。最初視界はぼやけて判然としなかったが、徐々に物の輪郭がはっきりとする。
まず無機質な天井が眼に入って来た。
灰褐色で、どこか薄暗い。
身体のあちこちを触られる感触があった。
動こうとしても、身体が動かない。声を出そうとしても、喉が動かない。
もどかしい速度ではあるが、眼は動いた。
ゆっくりと視線を横へ向けると、細い手が見えた。
その手がカインの身体を触っている。
手の先には女の身体があった。
赤い服を来たその女は、感情を感じさせない表情でカインを診ていた。
「ギナギ技師。目視と触診をした限りでは筋肉の衰退と硬直以外に収容体03に特筆すべき異常はありません」
女の視線がカインから別の何かへと移る。
ゆっくりとその先へ視線を向けると、赤い服を着た男が居た。
男。背格好は少年であったが、カインはそれが子供である様には見えなかった。
「カインと言うのだろう?エダから貴殿に対する詳細は聞いているよ」
声は若い。しかし、纏う雰囲気はゲルヌにどことなく似ていた。
一言で言うなら、年寄り臭い。
スラグの民は長命な者で四十年程生きるが、カイン達技術者の家系はその倍生きる。
そのカインの祖父に当たるヘギの日記に記述があったゲルヌは果たしてどれ程の月日を生きているのか。
以前本人に聞いたが、その時ははぐらかされた。
「貴殿を含めてスラグの民は合計四十二名が生き残っている。六名は残念ながら、あの箱舟の中で死んでいた」
ギナギの言葉で急速にカインの記憶が蘇る。
カインの命の恩人が、今度はスラグの民の命の恩人になった。
巨大な船を造る様に言われた時には面食らったが、しかしあの光景を思い出すと、それが無ければ誰一人生き残れなかった事は明白だ。
雪が山頂から勢い良く流れて来るその光景を思い出して、寒くも無いのにカインは身震いする様な寒気に襲われた。
身体が動かないので身震い等出来なかったが。
箱舟に乗り遅れた住人が二十人程。箱舟の中も、荒波の様な雪崩によって激しい揺れに襲われた。
何度目か数えるのも億劫になる程の衝撃を受けて、その何度目かの衝撃を踏ん張り切れずにカインは壁に叩き付けられて意識を失った。
今度は手摺を沢山造ろうと、意識を失う寸前にそんな事を考えていた事も思い出す。
冷静になって考えてみれば間違っても今度等来て欲しく無いのだが。
「キタミ山の噴火は帝国にも甚大な被害を齎してね。穀倉地帯が壊滅状態で深刻な食糧難になっている訳だ」
キタミ山は貴男方が住んでいた山の事ですと、女が小声で説明した。
「あの山は魔力の塊みたいな物だったからねぇ。周辺で魔物の大量発生もあって人的被害も深刻」
魔物が食い扶持を減らしてくれるのは僥倖だがねと、ギナギは笑いながら付け加えた。
「それが幸いしてね、貴殿を筆頭にしたスラグの民を帝国は飼う事にしたのだよ」
武器が有用でしたのでと、女が小声で補足した。
カインは絞り弓の事だなと思いながら、ちょっとした疑問を声に出す。
「て…こく、…は?」
「あー…。ヒヒ帝国の事から説明しないと駄目だったねぇ。二年振りで忘れてた」
言葉としては不完全な声を、ギナギは正確に理解した様だ。
「帝国とは人口五十万人程の大きな集落の事です」
女が噛み砕かれて原型の残っていない説明をする。
皇帝が聞いたら渋い顔しそうな適当な説明だねと、ギナギは呟いた。
実際他のスラグの民に一番有効な説明がそれだったので、訂正する事はしなかったが。
「その大きな集落の長がね、技師として貴殿を抱え込みたいと、そう言っているのだよ。ああ、技師ってのは優れた技術を持っている人を優遇する仕組みだよ。俺もそうなんだがね」
要するに権力のある人が自分を雇いたいと言っているのだと、カインはそう認識した。
断ればスラグの民が生き残れ無さそうだとも理解した。
「最近森の人との戦闘も増えてるからね、陛下も色々と大変なんだよ」
森の人とは帝国を侵略せんと攻め込んで来る逆賊の事ですと、女が小声で説明した。
最初に攻め込んだのは先帝だけどねとギナギは暢気に呟いた。
「森の人ってのはちょっと変わった人種でね。外見の特徴は耳が長くて大体美男美女でね……」
ギナギが森の人について細かく説明を始める中、カインの意識は徐々に睡魔に絡め取られて行った。
[いつか山の外に出ろ]
ギナギの声が遠のく中、カインは得体の知れない恩人の言葉を思い出していた。
[いつかその技術を持って山の外に出ろ]
恩人は、人族かどうかも判然としないあの恩人は、今どうしているのだろうかと。
雪が集落を呑み込む時、恩人は外から箱舟の扉を閉めた。
五人掛かりで開閉させる扉を片手で閉める事自体がまた異常なのだが。
あの恩人に異常とか常識とか普通とかの基準を当て嵌める事は無意味だと、七年間の付き合いでそれは身に染みていた。
だから、カインは恩人が死んでいる何て考えもしなかった。
どうせ、普通に生き延びているだろうと。
気になるのはエダがそれをギナギ達に伝えたかどうかだったが、それは今気にしても何も変わらない事である。
カインがギナギの話を聞いて感じたのは、カインが帝国に帰属するかどうかを測りかねていると言う感触だったが、カイン自身は帝国に帰属する事を決めていた。
カインは生粋の技術者であり、自らの持つ技術を高められるのならそれ自体が何よりも高い報酬に値する。
しかし、それと同じ位恩人の言葉を履行する事に意味を感じていた。
[その技術は、絶やすな]
箱舟の扉を閉める直前、恩人はそう言っていたのだから。
その年の暮れにヒヒ帝国軍の兵科に機動弓兵が追加される事になる。
後に帝国軍の主力部隊となる機動弓兵は、森の人との戦闘をより過酷な物へと導くのだが、全てはカインが死んだ後の話である。
序章Cに連なる話は完結。序章Dへと続きます。




