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焔駆けつ  作者: 鏑木恵梨
3/11

 小野原集落の北側、小高いところに広い屋敷がある。

 その屋敷の側の、川から引いた井より水を汲む娘がひとり、いた。

 水は汲み終えたのだろう。娘が背中を反らせて甕を抱える。水がこぼれ落ちる。その痕はすぐに乾きもせず斑に標となっていった。

 娘は、ふと首を傾けた。

「今戻りました」

 その娘、さえは大きく目を見開いた。

「さえ殿」

 私がもう一声かけてもなお、その人は無言で足を止めたまま、ただ目元を輝かせていた。


 二十年ばかり前のこと。

 荘官は、その館を私の母のために建てさせた。

 荘官の本屋敷のように垣に囲まれてもいないし畑もごく小さいのだが、この小野原の集落ではどの家より広い。主屋・台所・便所を備え、庭木もあり、草畳を一畳置いた部屋もある。

 だがそれは、ひどく分相応な住居であった。

 今住まうのは母と私のみ。二十年の歳月、われわれ母子にはただ広いばかりのがらんどうの館であった。

 私が村を出るにあたり、心配は母だけであった。

 元来体の弱い人であったが、この冬はとくに伏せることが多かった。

 私には迷いが生じた。

 一年の半分を峠の窯で過ごした上、さらにこの空虚な館に母を残していくということ。

 それがどれだけ親不孝であり、母の心に負担となるだろうか。

「ご心配なさいますな」娘は私にはっきりと言った、「隣には私がおります。私では心配ですか」

 私は思わず大声で答えた。

 いや、そうではない。そんなはずはない。

 それどころか、幼馴染の娘がこれほど頼もしく見えたことはない。

「おのれのため荘に尽くすことを迷うておらるるとお知りになれば、いっそうお心を痛め申しあげることになりますよ」

 それも分かっていた。

 分かっていながら、辛かった。

 だが、この娘なら心配ない。後顧を憂うことなく任せられる。

「ありがとう。お頼み申し上げる」

「なんです、改まって。幼馴染ではありませんか」

 娘は軽く笑った。

 本当にありがたかった。

 感謝の念をあらわすのももどかしく、抑えがたく堰を切って目よりあふれ出る。

 そうだ、娘を見下ろすようになったのはずいぶん昔のことだった。

 しかし今、娘は私を見守るような視線を送っている。小さな子供を見下ろすように。

「本当に、ありがとう」

 私は温かく包まれた。

 わらの山の中に寝そべった、そんな気持ちであった。


 ……久方ぶりの対面である。

 柔らいだ気持ちが再び戻ってきた。まるで昨日のようにも遠い昔のようにも覚える。

「よくご無事でお帰り。お疲れでしょう」

「母は」

 私が一言発すると、娘は目を細めた。

「ご健勝です」

「良かった」

 あなたのお蔭だ、と云うのは気恥ずかしい。

 代わりに私は云った。

「甕を持ちましょう。運ぶ途中やったでしょう」

 遠慮がちな娘から甕を無理に受け取ると、私は歩を進めた。

 追いつき、追い越そうとする娘の頬は、ほのかに紅を差しているように見える。だが麻に隠した体は、以前に増してやせ細っていた。

 早くお顔をお見せなさいな。ええ、そうします。お心は強く持たれておいででしたけど、首を長くして待ってらっしゃるに違いありません。そうですね、早く安心してもらわねば。毎日蔭膳を据えておいででした、ご自分のお食事から。まったくあの人は、私ももっと早く帰ってこれたなら。

 ことばの絡み合いはしばらく続いた。

 だが私が甕を台所に置くと、娘は静かに、断ち切るように云った。

「ありがとうございます。ではわたしはこれで」

 私は慌てて娘の行く手をさえぎった。

「さえ殿。どうかお寄り下さい」

「今日ばかりは水入らずでお過ごしになられて下さい」

「そうはいきません」私は強く云った、「私からも母からも改めて御礼をせねば」

 娘の目は戸惑いを隠せないようだった。

 私もまた、無言で私を見返す人に次のことばを継げないでいる。

 ふと、館の外で騒ぐ声が聞こえた。

 お互いに意識を外に逸らした。

「大変じゃあ、大変じゃあ」

 不穏な空気を壁越しに感じ取り、私は外に出た。



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