十一
荘園は灰燼に帰した。
住む屋は無い。殺された者もいる。犯された女人もいる。
しかし、食べ物はある。
「米を出さなんだから、かような目にあったのだ」
と怒りを他者にぶつける者もいる。その一方で、
「出したところで『大松明の策』は行われたであろう」
と返す者もいる。さらには、
「いまさらそんなことを云い合ってもしようがない」
と、したり顔で語る者もいる。
かくの如く荘は壊れた。壊れたのは外見だけではなく、人心まで壊れたのだ。
特に小野原は酷かった。
居るべなく、凍える指を瓦礫を燃やして暖める子供。
食うものはあるが、それだけだった。集落の再建は遅々として進まない。
私は小野原窯の創設をあきらめた。
母がいないからではない。
小野原ではなく、窯のある三本峠への川筋に居を移す者があらわれたからだ。多くは耕す土地を持たぬ者たちであった。
小野原を捨てる者が現れたということが、私に小野原窯を断念させた。
だが内心はあきらめ切れなかった。日々腹の大きくなるさえをひとりにするのは心配だった。さえもまた、親は既に亡い。
「わたくしのことは心配なさらずに」
さえは力強く、私を送り出してくれた。
だが、その瞳には私への遠慮が見えるような気がしてならない。
――この児は、あなたの児ではないのだから。
それは私のうがった見方だろうか。
再び三本峠の窯に火が入ったのは、山桜の話を聞くころであった。
そのころ、諸国荘園への兵糧米を徴発を停止する触れを、鎌倉の源氏が出したという話も耳にした。あとひと月でも早くその触れを出してくれていたら、今田荘は灰にならなかったのではないか。……否。いつでも力ある者は都合が良い。平氏の攻め手、御家人の勝手な振舞いを封じるための触れであり、荘のことを考えての触れではないのだ。「もしや」と考えても仕方のないこと。この荘が平氏を攻める道筋にある限りは、避けえぬ運命であったのだ。
焼物の製作は軌道に乗ってきた。
青い稲を手入れした次の日、窯を守る。隔日交代で、私は小野原と三本峠を往復した。
その年は不作とはならなかった。
器もそこそこの物が揃っていた。
秋。人々が落ち着きを取り戻したころ。私は提案した。
新しき窯を構えよう、と。
私はまた、焼物を住吉社に売り込みに行くこととなった。
今度は値切を求められるやも知れぬ、という不安はある。私も、昨年の質を越えてはいないことに気づいている。だがそうはさせない。
旅立ちの前、朱い空の夕刻。
母子は静かに座っていた。かつて、御曹司義経さまが座していた場所である。
「私は父の顔を知らない」
さえは静かに乳を飲む児から目を上げる。
私はその児に視線を落とすと、他愛の無い繰言を続けた。
「この児は実の父は知らないかもしれない。だが父と呼べる人がいる。それが私はうらやましい」
彼女たちを幸せにしたい。
心の中でいつも、隣にいる。そんな存在になりたい。
私はそう願った。
さえは微かに微笑むと、再び抱く児に視線を落とした。
(了)