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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第一章 邂逅
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8

 王宮から遣わされた馬車は二頭立ての装飾性に富んだもので、車体の流線的な形状だけでなく、車輪との均衡まで計算された見目麗しいものだった。ベルベットの張られた椅子は座り心地もよく、車輪の振動も小さかったが、快適だと思えるほど銀朱ぎんしゅには余裕がなかった。

 支度を終えた以緒よりつぐはすぐに変化を察したのか、銀朱の望んだどおりに側に付き添った。やさしく微笑まれていくらかは安堵したが、いざ王宮へ向かう道中に立つと不安が舞い戻ってくる。

 いまさら馬鹿らしい、と一蹴したかったが、心臓は高鳴るばかりで、袖の下に隠した手のひらは汗ばんでいた。

 王宮は王都アストルクスの北に位置し、離宮と同様、左右対称に翼を広げる造りだった。しかし、灰色の石を積みあげた外観は城砦に近く、瀟洒というよりも重厚な趣である。

 実際、城砦として機能していた時代もあり、王宮として利用されるようになってから増改築の末に今のような姿になった。その頃の名残か、中央には塔の突端のようなものが見える。

 馬車は正面の入り口へ寄せられた。コルトサードが先頭に立ち、そのうしろを銀朱とジゼルが続く。長く引く裾をようが持ち、その背後に以緒と未良みよしが並んだ。

 洋も銀朱と同じような衣裳だが、金の髪飾りは挿さずに髪は軽くまとめて背中に流したままだ。裾も引きずらないようにたくし上げている。守人もりびとの正装は幅広の袖の袍にゆったりとした袴を合わせたもので、二人とも佩剣はしていなかった。

 内部は外観からは想像できない優美さだった。なめらかな乳白色でまとめられた大階段を、ゆっくりと慎重に進んでいく。長い廊下にはやはり絵画が飾られていた。要所ごとに兵が配置されており、通りすぎるたびに銀朱は彼らの視線を感じた。

 やがて、背丈の三倍はあるだろう扉に突きあたる。しばらくするとその向こうで声がして、控えていた衛兵が巨大な木戸を押し開いた。

 扉からはまっすぐに緋毛氈が敷かれていた。広間の中央を貫く道は、最奥まで続いている。毛氈の両側には所狭しと人が林立していて、扉が開かれると同時に、一斉に銀朱へ注目が集まった。

 わずかに顔を伏せぎみにして、彼女は一歩を踏み出す。さきほどより衣裳の重みがやけに増している。足を動かすのも一苦労だ。

 さざ波のように、周囲から声が寄せては引いていった。内容は聞き取れたが、銀朱はわざと耳を傾けなかった。無遠慮な視線が、全身にねっとりとまとわりつく。玉座までの道は、歯がゆくなるほど遠い。

 ――今すぐ手に持っている扇で、衆目から逃れたい。もしくは、袖で覆うだけでもいい。

 しかし腕は鉛のように重く、ついに銀朱の願いが叶えられることはなかった。

 ようやく到着したのか、先頭に立つコルトサードの歩みが止まるのに倣い、銀朱も足を止める。垂れ下がった髪飾りが、ちりちりとかすかに鳴いた。

寿春じゅしゅん皇女様をお連れいたしました」

 コルトサードの低い声が響く。広間に寄せていたさざ波が引いていき、わずかのあいだ、空気の振動が無くなった。

「――ご苦労様、コルトサード侯」

 その声は落ち着いた男性のものだったが、銀朱が想像していたより口調は親しげであった。彼は国王のいとこだから特別親しいのかもしれない、と思考を巡らす。王の労いに、コルトサードは、はいと答えただけだった。

「顔を見せてくれるかな。東の美しいお姫様?」

 顔をあげろという意味だろうか。ちらりと横に付き添うジゼルをうかがうと、彼女は目で肯定した。ゆっくりと姿勢を正し、視線を階の上の玉座へと向ける。

 まずは深紅のマントが目に留まった。胸元には金鎖の首飾りが連なり、手に金剛石を戴いた王笏を持っている。数種類の宝石でふんだんに飾った王冠を被り、くつろいだ様子で玉座に腰かけた人物は、銀朱と視線が交わるとにこりと笑みを湛えた。

「初めまして?」

 年は四十八と聞いている。面立ちも相応だったが、どこか年若い印象を受けた。笑顔が幼く見えたせいかもしれない。

 思わぬ歓待に、銀朱は戸惑いながら名乗りを上げた。

「ヘリオス国王陛下には、初めてお目もじつかまつります。桐国、先の国王雅栄まさはるが娘、寿春皇女銀朱と申します」

「私がヘリオス国王、シグリッド・ヘリオスだ。君の義父になる人間だよ。実の両親だと思って、困ったことがあったら遠慮なく頼ってくれればいいからね」

 銀朱はますます困惑した。国王の言は事実だが、王族同士の挨拶で言うようなことだろうか。それとも自分が世間知らずなだけで、これが普通なのか。

「ところで何と呼べばいいのかな。……ジュシュン? ギンシュ?」

「あ……。どうぞ、銀朱とお呼びください」

 自失していたことに気づき、銀朱はあわてて平静を取り戻した。シグリッドはうれしそうに笑顔を浮かべたままでいる。

「銀朱か……素敵な名前だね。それに書簡に書かれていたとおり、とても綺麗なお姫様だ。遠国の桐に莫大な援助をした甲斐があったよ」

 戻りかけていた銀朱の思考が、一瞬で霧散する。かわりに、取り巻いていた言葉のさざ波が、大波となって銀朱に押し寄せてきた。好奇と軽侮の波に攫われないように、きつく歯を食いしばる。


(――膨大な借金を姫一人で済ませようなどと、何とおこがましいことか)

(所詮、金で売られた姫だ。由ありげなのだろう)

(いくら見映えよく飾りたてようとも、内側に流れる血の穢らわしさは隠せやしない。その証拠に……)

(本当、何か臭いますね。やたらとくさい。鼻が曲がりそう)

(よくもまぁ、陛下の御前に参れたものだ。エセルバード殿下もあのような女を妃にしなければならないとは……)


 近くにいた貴族の会話が、銀朱の鼓膜を強打した。衝撃に脳がくらくらして、いまにも両足が萎えそうだ。

 だが、ここで醜態を晒すわけにはいかない――ぐっと腹に力をこめ、銀朱は背筋を伸ばしたまま答えた。

「……貴国の慈悲深いお申し出には、宗室をはじめすべての桐の民が感謝しております。皇太子陛下にかわり、わたくしから御礼申しあげます」

「困った時はおたがい様と言うからね。こうしてまた桐と誼を結べることは、ヘリオスにとっても国益に繋がる」

 シグリッドは、貴族の不満や銀朱の動揺にまるで気づいていないようだった。それがますます銀朱の不安を煽る。

「それにしても、傾国とはよく言ったものだねえ。私が若かったら自分の妃にしたいぐらいだよ。ねぇ?」

 シグリッドが、のんきな口調で隣の王后へと尋ねかけた。国王と同じ、深紅の貂のマントに王冠を戴いた女性は、蒼い瞳で銀朱を見下ろしていた。だがそこにあるのは、氷に覆われた厳冬の湖だった。銀朱の背筋がぞくりと粟立つ。

「ええ……そうですわね。きっとお似合いですわ」

 くちびるに載せられた声は、まろやかで甘い。表情も穏やかで、冷酷な色はどこにも見当たらなかった。

 ただの見間違えだったのだろうか――だが、冷や水を浴びせられたような寒々しさはたしかに残っている。

「ディアンもそう思う? そうだなぁ、あと二十年生まれるのが遅かったらなぁ……さすがにこんなおじさんでは銀朱もかわいそうだよね……。まだ心は若いつもりなんだけれど……」

「おそれながら、陛下」

 突然、張りのある声が朗々と響き、シグリッドの言葉をさえぎった。聞いたこともないのに、なぜか心惹かれずにはいられない声音だ。まだ若い男のものである。

「私の面前で、未来の我が妻を口説かないでいただけますか?」

 全身の緊張が静まっていく。銀朱はゆるゆると声のした方へ顔を向けた。

「エセルバード」

 彼自身が名乗らなくても、銀朱にはそれが誰なのか、はっきりと理解できた。濃紺のマントに榛色の上下の揃い。右肩からは綬を掛け、胸には王族の証である太陽の徽章。淡く日だまりの光をまとう髪に、芸術のごとく整った顔には瑞々しい新緑の双眸が収まっている。

 話に聞いていたとおりだ――しかも誇張などどこにもない。

「……もしかして、やきもちを妬いた?」

 からかうような国王の問いに、彼は形のよいくちびるを弧に描く。

「焦がれつづけた姫を陛下に奪われてしまったら、私のこの燃えるような想いはどこへ向ければよいのですか?」

 気取った様子は見られず、これが挨拶なのだと言われれば銀朱も納得する。それほど自然で、銀朱も深い意味を考えなかった。

 シグリッドにうながされて列から進み出た青年は、銀朱に向きあい優美に礼を取った。

「ヘリオス国王シグリッドが第三子、エセルバード・フィッツァラン・ヘリオスと申します。お会いできる日を心待ちにしておりました」

(この男が……)

 周囲が崇めたてるのも無理はないかもしれない。女でさえ隣に並びたくないと切に願うだろう。

 顔立ちはどちらかというと王后似で女性的な面もあるが、決して線が細いわけではない。男性的な凛々しさと見事に共存している。

「寿春皇女銀朱と申します。至らぬ点が多々あるかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」

 銀朱はなるべく優雅かつていねいに見えるように、慎重に礼をした。

 すると、白い手套に覆われた手が、銀朱の右手をそっと取った。いざなわれるように顔を上げると、翠緑の視線にぶつかる。エセルバードは華やかな笑みをうかべると、銀朱の白い手にくちびるを落とした。

「な……っ!!」

 手の先から全身に怖気が走る。悲鳴とも取れる叫び声とともに、銀朱は思いきりエセルバードの手を振り払った。重々しい衣ずれの音が遅れて響く。

 腹の底から湧いてくる羞恥と怒りに、銀朱の細い肩がぶるぶると震えた。いくら婚約者といえど、初対面の相手にくちづけるなどあまりにも非常識だ。つり上げられた目元がじわじわと朱に染まっていく。

 何をするの、と相手を詰ろうとしたとき、背後にいたはずのカリンが素早く歩み出てきた。その姿を見て、銀朱は冷静に返った。

 エセルバードの行為はヘリオスでは女性に対する挨拶なのだ。教わっていたはずなのに、いきなりのことですっかり忘れていた。音を立てて血の気が引いていく。

「大変申し訳ございません、ご無礼を……!」

 エセルバードは目を丸くしているだけで、腹を立てた様子はなかった。だが、とても見ていられずに銀朱は顔を伏せた。

 口の中が苦い。あらゆる方向から突き刺さる視線が、銀朱の精神を抉りとる。

「おそれながら、エセルバード殿下」

 かたわらで騎士の声がした。エセルバードの影が身じろいだ。

「カリンか。ずいぶん顔を見なかった気がするな」

「殿下。寿春様は、桐にて深窓の姫君としてお育ちになったのです。ようやくお会いになられてうれしいのはわかりますが、そのように振る舞われては寿春様が驚かれるのも無理はありません。どうか、寿春様のご心情もお察しください」

 カリンの口調は固く、エセルバードへの批難も含まれていた。濃紺のマントの端がゆらりと揺らぐ。

「なるほど、おまえの言うとおりだ。姫、お許しを。顔をあげてください」

 ジゼルにもうながされ、銀朱はゆるゆると顔をあげた。

「先ほどの行為は、ヘリオスでは女性に対する挨拶なのです。ですが、我が騎士の言うとおり、喜びのあまり姫のお気持ちを汲みとることができませんでした。どうか非礼をお許しください」

 いえ、と銀朱は首を振る。

「わたくしこそ、失礼いたしました……」

 銀朱の白い顔にはすでに血の色はなく、手足は氷のように冷え切っていた。相変わらず貴族の視線は鋭く身を切るようだ。それからかばうように、エセルバードは銀朱のかたわらに並んだ。

「仲直りはできた?」

 なりゆきを見守っていた国王が、階の上から問いかける。はい、とエセルバードが応じた。

「おかげで、嫌われずに済んだようです」

「私からも謝るよ。ごめんね、銀朱。エセルバードはできた子だけど、こういう性格だから誤解を招くこともあってね。桐とは文化も違うし、些細なことで行き違いが起こるかもしれないけれど、大目に見てやってほしい」

「いえ……御前を騒がせてしまい、申し訳ありませんでした」

「謝ることはないよ。銀朱はいい子だねぇ」

 何と返したらよいのかわからず、銀朱は口ごもった。どうも調子の狂う性格をしている。

「君みたいな美しくて心のやさしい姫の父親になれるだなんて、女神に感謝しなければならないね」

 ありがとうございます、とだけ返し、銀朱はけぶる睫毛を伏せた。頭がくらくらする――誰かに腕を貸してほしい。

 だが、ひそかに視線をめぐらせた先には、求めた姿は見当たらなかった。かわりに、ジゼルのたおやかな手が銀朱の袖に触れていた。

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