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ビリジェに五日間滞在したのち、銀朱たちはヘリオスの王都アストルクスへ向けて出発した。ジラールは最後まで最高のもてなしを提供してくれたので、旅の疲れはすっかり癒え、万全の体調でビリジェを発つことができた。
数日後にはヘリオスに入り、旅は格段に楽になった。季節は初夏だったが太陽の陽射しは和らぎ、外に出る際も日よけの外套をはおらなくてもいい。風はさわやかで、蒸し暑い桐の夏に比べたら快適だ。
何よりも、ヘリオスへ入った途端に整備された街道を通れるようになったことが大きい。街道沿いには宿場が形成されているので、天幕を張り野宿をする必要がなくなった。ビリジェのようにはいかないが、温かい食事も毎日取れ、余裕ができたせいか献立は一気に豪華になる。
風景は緑豊かで、果てまで続く丘陵には青々とした小麦畑が広がり、残雪のような羊の群れが遠くに見えた。ときおり雨が降ると景色は灰色にくすんだが、濡れそぼった紫の花びらは清楚さを増して好ましい。晴れ間が見えれば草葉の上の雨粒が煌めき、その向こうに礼拝堂の尖塔が顔をのぞかせた。
穏やかに流れる風景は眠気を誘い、ひと月はあっという間に過ぎ去っていった。銀朱がアストルクスの郊外にある離宮へ到着したのは、七月も半ばの頃だった。
門前には大勢の兵がずらりと並び、敬礼をもって銀朱を出迎える。馬車に乗ったまま彼らを見送り、庭なのか野原なのか区別のつかない場所をしばらく行くと、蜂蜜色の大理石で作られた宮殿がいきなり現れた。二階建ての建物は左右対称に翼を広げ、玄関前で立ち並ぶ人々が人形に見えるほど巨大だ。
馬車が止まり、以緒の手を借りて石畳に降り立つと、白髪まじりの男が進み出た。
「お初にお目にかかります、ダニエル・コルトサードと申します。寿春皇女様には、ご無事のご到着お喜び申しあげます」
「寿春皇女銀朱と申します。盛大なお出迎え、ありがとうございます」
コルトサードは、顔立ちもまとう空気も堅実かつ厳格だった。ビリジェの領主とはちがい、慇懃ではあるが表情は和らげない。年の頃は五十ほどだろうか。国王の母方のいとこだと、カリンから聞いている。
「さぞお疲れでございましょう。まずはお部屋へご案内いたします」
うながされ、銀朱は宮殿の入り口をくぐった。
入ってすぐは吹き抜けの広間になっていて、その奥の階段から二階へと上がる。彫刻や油絵の飾られた廊下を通り、案内された部屋には同じように壁一面に絵画が飾られていた。天井からはシャンデリアが吊られ、射しこんだ陽光がちらちらと弾ける。壁や窓枠、天井に至るまで、飾り枠はすべて金箔で鍍金されていたので、部屋に入った瞬間にある種の威圧感を抱いた。
銀朱が内装に呆然としていると、コルトサードが部屋の隅に控えていた人物を呼び寄せた。女性は淡い空色のドレス姿で、銀朱の前へ進み出ると優雅に腰を落とした。
「こちらは寿春様のお世話をいたします、ジゼル・サジュマン伯爵令嬢でございます。陛下の御前へお出でになる際も、こちらの令嬢が介添をいたします」
「ジゼル・サジュマンと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
声は耳心地によく、物腰と同様に顔立ちも穏やかだった。微笑むと品のいい華やかさがある。
すると突然、銀朱の背後から奇妙な声がした。びっくりして振り向くと、カリンがこちらを見て固まっている。
「なっ……!」
騎士は魚のように口をぱくぱくさせていた。このひと月で、初めて見た顔だ。
「皇女様の御前ですよ、カリン様」
ジゼルが容赦なく叱責する。状況を思い出したのか、カリンはようやく口を閉じたが、表情は苦いままだった。
「……失礼いたしました」
何が起こったのかわけがわからない。銀朱は眉をひそめたが、カリンはそのまま口を閉ざすことを選んだ。ジゼルが何事もなかったように、ふわりと笑みを咲かせる。
「お騒がせいたしました。ただいまお茶のご用意をしておりますので、どうぞおかけください」
ジゼルもどうやら話すつもりはないらしい。以緒は関心がないのか、いつもどおり壁際に控えている。
理由を追及するのは諦め、銀朱はおとなしくソファへ腰かけた。コルトサードはそのまま一礼すると、廊下へ姿を消す。そのあとを、カリンが足早に追っていった。
しばらくすると、女官が軽食を運んできた。よい香りのする紅茶と焼き菓子がテーブルに並べられる。ちょうど昼頃だったので銀朱は食べてみたかったが、直接手に取っていいものか悩んだ。食器らしいものも見当たらないのだ。
とりあえず注がれた紅茶を飲むと、嫌みのない芳醇な香りが口に広がった。
「ご入浴の準備が整っておりますが、いかがいたしますか?」
結局菓子は諦め、紅茶を堪能して一息ついたころ、ジゼルが申し出てきた。王宮へ上るのは明日の昼だ。いち早く旅の埃を落としておきたい。
「ええ。お願いするわ」
「かしこまりました。では、ご案内いたします」
「あ、あの、銀朱様」
部屋の隅に控えていた洋に引き留められる。言わんとすることを察し、銀朱は渋面になった。
「……大丈夫よ。おそらくね」
「銀朱様?」
「大丈夫よ。だから、以緒も少し休みなさい」
銀朱と同様に、以緒たちの予定も立て込んでいる。今のうちに部屋へ案内してもらい、とりあえずの疲れを癒さないと時間の隙間がないのだ。初見の人間に洗体されることにはやはり抵抗を覚えたが、ビリジェで経験しているのでどうにかなるだろう。
ジゼルに連れられ浴室へ向かう間に、銀朱は腹を括った。
案内された浴室は、特に内装が特殊というわけでもなく、よくある小部屋に浴槽を置いただけといった体だった。
室内はほどよく暖められており、目隠しの衝立の裏に入浴の準備が整えられている。真っ白のシーツをかぶせた木製の浴槽にはたっぷりのお湯が張られていて、見た目にも気持ちよさそうだった。
入浴の介助をしたのはジゼルとは異なる女官たちで、彼女は銀朱の支度が調うまで衝立の向こうで待機していた。ビリジェとはちがい、バラの花びらが浮いているわけでもなく、香油を使った按摩をするわけでもなかったが、女官は手際よく丁寧だった。
着替えにと用意されたのは、ジゼルが着ているような腰のしぼられたドレスではなく、胸から下がゆったりとしたものである。おそらく部屋着の類だろう。生成の絹地に全面小花模様が刺繍されていて、意外なことに絹の質はビリジェより優れていた。可憐な小花も愛らしい。最後に変わった香りの香水をかけられ、銀朱は部屋へと戻った。
室内にはすでに必要最低限の物が運びこまれており、洋が忙しそうに采配を振るっている。未良は荷運びを担い、以緒は洋と一緒に銀朱の衣裳を衣桁にかけていた。
「ごめんなさい、騒々しくて」
洋が衣を広げながら言う。二人とも着替えを済ませていたので、多少の休息は取れたのだろうか。螺鈿の櫃から幾枚もの衣を出して空気を通している。明日、銀朱が身につける正装だ。
「ずっと広げられなくて気になっていたんですけど、痛んでいるところもないみたいで安心しました」
ふわり、と懐かしい香りが鼻をくすぐる。銀朱が毎日使っていた薫物だ。虫除けもかねて櫃の中に入れておいたものだが、ほどよく衣裳に染みこんでいる。
ふと慣れ親しんだ桐の自室を思い出し、心臓がきりりと締めつけられた。まさか郷愁の念に駆られるとは銀朱も想像していなかったので、あとから苦々しさがついてくる。
「これが……皇女様のご衣装ですか……?」
衣裳から視線を逸らすと、ジゼルが頬をほんのりと上気させて衣を凝視していた。瞳は興奮のせいか、輝きを増している。
彼女が驚嘆するのも無理はない。桐の絹織物は世界一と絶賛される、秀逸かつ貴重な品なのだ。特に国交が断絶してから、西側の国々は桐の絹製品を手に入れることができなくなり、見よう見まねで作り出したのが現在ヘリオスで流通している製品である。それでも銀朱が感心するほどの質を保っていたが、やはり本場には敵わない。
織物の光沢から染色の鮮やかさ、織りこまれた地紋とその上に紡がれる丸紋。桐でも珍重される特に細い絹糸を使っているため、とても軽く手触りもいい。ヘリオス人が喉から手が出るほど欲しがる一品だ。
「とても……とても素晴らしいものですね。エセルバード殿下もきっと喜ばれます」
よほど感激したのか、声が上ずっている。そこからは純粋な好意しか感じられなかった。
「……殿下は、どういうお方なの?」
銀朱が不安を抱いていると思ったのだろうか。ジゼルはすぐに落ち着きを取り戻し、女性らしい慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「とてもおやさしい方だと思います。お立場上、辛辣な態度を取られることもございますが、女性に対してはいつも礼儀正しく振る舞われて、皆から敬愛の念を集めておいでです。実はわたくしを寿春様の介添にご指名なさったのも、殿下のご配慮でして」
「そうなの?」
「はい。わたくしなら異国から嫁がれる寿春様のためになれるだろうと、陛下を説得してわざわざ屋敷に使いをくださったのです。まさか、わたくしのような小娘をそこまで殿下が信頼してくださるとは思いも寄らなかったので、お話をいただいた時はあまりの感動に挙動不審になってしまいました」
その時のことを思い出したのか、ジゼルは恥ずかしげに頬に手を添える。
「エセルバード殿下からこれほど大切なお役目をいただけるなんて、わたくしには身に余る栄誉でございます。恥ずかしながら桐のことも詳しくはありませんし、ご覧のとおりどこにでもいるただの娘でございますが、殿下のご期待に添えるよう皇女様には誠心誠意お仕えいたしますので、どうぞ何でもおっしゃってくださいませ。些細なことでもかまいません。不自由な点がございましたら、ご遠慮なくお申し付けください」
「……わかったわ。ありがとう」
エセルバードの人選が正しかったのかは、銀朱にはまだわからない。ただ、少なくともジゼルが桐人に対して嫌悪をあらわにしていないだけ、正解だったのかもしれない。いまだヘリオスからはっきりとした敵意を示されていない分、これが普通なのかそれとも恵まれているのか――それさえも銀朱にはわからないのだ。
明日の王宮入りに際して必要な物を並べ、欠けている物や破損を念入りに確認していく。銀朱も立ち会い、装飾品の最終確認をしていると、あっという間に夕餉の時間になっていた。
今日は登城のための準備による滞在ということで、特別な宴もなく、ひとりで使うには広すぎる食堂で銀朱は食事を摂った。味は独特だったが食べられないことはなく、肉や魚も口に合う。特に新鮮な魚を食べるのは桐を出て以来だった。
銀朱が食事を済ませて部屋へ戻ると、すでに支度は調っていて、衣装を入れてきた櫃などの片づけも済んでいた。いまさらながら、室内装飾と広げられた衣裳の不調和に気がつき、胸の内で自嘲をこぼす。
どれほど褒めそやされようと自分はこれだけ異分子なのだと、銀朱は心に刻みつけた。