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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第四章 神の箱庭
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14

「その後、母は精神を病んだとして、玄燿げんようから離れた宮殿に幽閉されたわ。幣を襲撃して死罪を免れたのは、父が皇太子に減刑を嘆願したからだと噂が立ったけれど……真相は知らない。彼女は今も鄙びた宮で心穏やかに暮らしているわ。わたしが桐を出たことも知っているのかどうか」

 国を出る前に一度会ってはどうかと英子から打診され、断れぬまま足を運んだが、母娘の対面はひとことも交わさずに茶が冷める前に終わった。ヘリオスへ嫁ぐとも伝えなかった。

 彼女はもう銀朱のことを忘れているだろう。世俗から隔離された場所で、少ない女官と大勢の牢番に囲まれながら、紗手は静かに生きている。後宮にいた頃よりよほど慎ましやかだと聞く。

「以緒の出身も、滋雅と千由子の真の動機も、知る者は皇宮でも少ないわ。彼らが幣の産みの親だと周知されるのは宗室そうしつにとっても好ましくはないでしょうし……。成煕なりひろの行方は掴めないままよ。多分、事前にふたりが逃がしたのでしょうね」

 着衣を整え、隣に腰かける以緒の手を握ったまま、銀朱は語る。

 紗手に負わされた怪我は幣の生命力があってか、女の非力な攻撃であったゆえか、見た目ほど深刻ではなかった。だがおのれの血の臭いに悩まされ、結果的に以緒はひと月近くを後宮で治療に明け暮れた。一方で、永隆は穢れが完全に落ちるまで、以緒を天関へ戻さなかった。

「それからわたしは幣について可能なかぎり調べた。幣が単なる贄ではなくて、太古に地に堕ちた月神の力を持っていること。皇太子はその力を得たのちに、神として完成すること。力を失った幣は存在を保てないこと」

 問い詰めれば、以緒は銀朱の仮定を認めた。幣が神の力を補うものであるのは知られているが、女神の力を由来とするのは知られていない。

 思えば以緒は幼い頃から月の満ち欠けに敏感で、新月より満月を好んだ。月が満ちれば満ちるほど、女神の力も増すのだ。

「いおを生かす方法はないか、必死で探し、考えたわ。でも幣が生き延びた記録は残っていないし、わたしには何も浮かばなかった。目の前に女神が現れでもしないかぎり望みはない――そう思っていたときに、女神の末裔を名乗るこの国の存在を知った」

 玄燿よりはるか西方、皇帝の威光が届かぬ地で、女神の血を継ぐ者がいる。天を追われた女神は人間と子を生し、その子孫はいまや一国の王としてその名を馳せている。

 桐では女神の名は禁忌であり、史書は多くを語らない。当然、存在を知ってもそれ以上の情報を得る手立てはなかった。

 しかし何の因縁か、ヘリオスの使者は桐の国境を越え、玄燿へ迎え入れられた。銀朱にとってそれは唯一の光明で、提示された道を歩まないほかはなかったのだ。

「あなたたちは女神が天へ帰ったと考えているけれど、彼女が天上にいるという話は聞いたことがないわ。そもそも、神の力を失った女神が天上へ戻る術など持つはずもない。正しいのはビリジェの領主よ。女神は今も、この地上のどこかにいるはず」

 交易都市の領主、その領民や草原の民が語るように、数々の伝承は女神の足跡だ。人間の器を借りる皇帝とは異なり、彼女は力を失いつつも、肉体は神のままである。人のようにたやすく滅びはしない。

「わたしは、女神を捜したいの。彼女にいおを救う方法を教えてほしい。いおを本来の姿に戻してほしい。そのためにここへ来たの。あなたには夢物語に聞こえるでしょうけれど、わたしは本気だし、そのためなら見知らぬ土地で言葉も通じない男の妻になってもいいと思った。――いおのためなら」

 きつく握った手に、縋るように力を込める。続ける言葉はもはや見つからない。

 銀朱が口を閉ざしても、それを受け継ぐ者は現れなかった。視線は感じていたが、相手をたしかめる勇気も気力もない。重くのしかかる沈黙が答えなのだ。

「……これですべてよ。何も言うことがないのなら出ていって」

「わかった」

 エセルバードは足を崩すと、身を沈めていた椅子から腰を浮かせた。仄暗い中に落ちるぼんやりとした影が銀朱のつま先をかすめる。

「今後については後日話し合おう。こちらも情報を整理する時間が必要だ。なにせ、あまりにも信じがたい内容だからね」

 銀朱は頑なにおのれの足下に焦点を固定する。音を伴わずに影は踊り、またすぐに制止した。

 そろいの翠眼が自分を見下ろしている。向けられる色は槍のように鋭く、情がない。

「まったく――とんだ嫁入り道具だ」

 燻る憤懣を皮肉とともに言い捨てて、エセルバードは退室した。閉ざされていた帳が開くとともに雨音が戻り、水波に押されて全身が脱力する。

 残ったのは後悔だった。取り返しのつかないことをしてしまった、過ちを犯してしまったと、自責の念が渦巻いては銀朱の胸や喉を締めつけてくる。今までまとってきた鎧をすべて脱ぎ捨て、急所もすべて晒した不安は、ただでさえ衰弱した彼女をことさらに苛んだ。

「……銀朱様、少しお休みください」

 蹲る銀朱の耳朶をやわらかな声がくすぐった。いつもなら安心する以緒のそれも、今は慰めにはならなかった。

 ――以緒がきっかけを作らなければ。

 今さら馬鹿馬鹿しいと唾棄しつつも、可能性を考えずにはいられない。

 以緒が話さなければ、謀ってエセルバードを連れてこなければ――。

 あるいはごまかせたのかもしれない。しかし以緒が決断したとおり、すでに限界だったのだ。今、正直に話さなければ、以緒の釈明はできず目的も果たせずにその日を迎えるしかなかっただろう。

 わずかに身体をよじると、目の先を朱の房飾りがよぎった。銀朱を取りまく世界のすべてが変わった夜、託されたときの彼女の記憶が色褪せずに蘇る。

 千由子は銀朱に願った。どうか幸せになってほしいと。最後まで娘の側にいてほしいと。

 だから、銀朱は何があっても以緒を選ぶ。



  ◇◇◇



 銀朱は独り、ぼんやりと虚空を見つめていた。

 昼夜の区別はなく、虚ろな瞳はどこにも焦点を結んでいない。熱心に取り組んでいた手習いも、硯に埃が溜まるほどに遠のいている。

 千由子が死んで、紗手が都を去り、以緒も天関へ戻れば、銀朱には何も残らなかった。以緒が怪我を負って数日は室を貸したが、別の殿舎に寝所が整えられるとそちらへ移り、その後は一度も顔を見ていない。天関へ戻れば門扉は固く閉ざされ、銀朱のもとには噂さえ入らなくなった。ひとつだけ聞いた話では、以緒は門の出入りをいっさい禁じられたという。

 千由子も以緒もいない日々に、周囲への関心も薄れていった。英子が配してくれる女官は今までどおり無駄なく世話をしてくれたが、ふたりの代わりになるはずもなく、適切な距離を保ちながら淡々と仕事をこなすだけだ。

 一歩下がった位置で、自分と取りまく環境を傍観しながら、銀朱はまたひとつ欠片を埋めた。外界から隔てるために築かれた殻は一日ごとに成長し、そのたびに意識はまた一歩、現実から遠ざかった。

 その殻に手をかけ、中をのぞく気配があった。蹲っていた銀朱は侵入者をたしかめるために頭をもたげた。

「――銀朱」

 ひさしぶりに焦点を結び映し出した世界には、以緒がいた。途端に世界は色を取り戻し、奈落の底で眠っていた感情が揺り起こされる。熱く、止めどない奔流に銀朱は喘ぎ、身体をわななかせながら両腕を伸ばした。

「っ、以緒、ごめんなさい。ごめんなさい!」

 ほどけた想いは大粒の涙となって発露された。嗚咽の合間にひたすら謝罪を重ねたが、許されるはずがないのも充分にわかっている。

 銀朱の親は以緒から両親を奪い、命を狙った。銀朱をはじめ、桐の民は以緒から人としての生を奪った。そして命までも捧げよと言うのだ。贄の負う傷など顧みず、至極当然の顔をして。

 以緒は膝を折り、震える銀朱のこぶしにそっと触れた。

「なんで謝るの? 銀朱は悪いことをしていないのに」

「そん、な……こと、ない。わたしも、悪いの」

 何も知らなかった。銀朱も以緒を犠牲にするひとりなのだと。以緒を踏みつけて生きていくのだと。

「銀朱はなんにも悪くないよ。わたしこそ謝らないといけない。ごめんね銀朱。……銀朱から紗手様を奪ってしまった」

 お母様なのに。

 ぽつりとこぼれた言葉はあまりにも儚く、一瞬で空気に溶けてしまう。

「っ、ちがう、逆だよ。わたしたちが以緒からお母様を奪ったの。千由子はお母様だったのに……!」

「でも、しかたがないの。誰も悪くない。もし悪いとしたら……」

 ほんの刹那、言葉を切る。以緒はひと呼吸をかけてゆっくりと瞬くと、首を傾げて銀朱をのぞきこんだ。

「……銀朱、雅栄様はわたしを見るのがいやだったんだよ。紗手様や、銀朱のことを嫌っていたんじゃないの。わたしが滋雅の子どもだから。わたしを見るのが怖かったから、後宮に来なかったの」

 いきなり何を言い始めるのか。銀朱は目を丸くして青眼を凝視する。

「雅栄様、わたしを見るといつも悲しそうだった。つらそうだった。顔ではわからないけど、『気』でわかるの。雅栄様はずっと苦しんでいた。本当は銀朱のことが大切なのにわたしがいるから……、うしろめたかったから」

 わかってあげて、と言われている気がした。雅栄を、紗手を許してあげて、と。

「銀朱がお父様と仲良くしたいなら、わたしは二度と銀朱には関わらない。銀朱のことは忘れるから、銀朱も忘れて。そうすればきっと雅栄様も……」

「いや! 以緒に会えないのはもういや!!」

 両親からの愛を感じたことは一度もない。ふたりは常に、銀朱に対して無関心だった。孤独に涙を流し、抱きとめてくれる胸をせがんでも、彼らは娘の泣き声にさえ耳を傾けなかった。

 事情など知らない。理解も必要ない。銀朱には手を差し出してくれた千由子や以緒がすべてだ。

 拒絶に以緒の表情が歪んだ。だがそれもわずかのことで、短い沈黙を経てふたたび口を開く。

「……それなら、わたしを守人にしてくれる?」

「……え?」

「以緒様!?」

 聞き覚えのある声に、銀朱はようやく未良が以緒の背後を守っていることに気づいた。しかし、血相を変える守人の訴えを主は無視する。

「未良がわたしを守るみたいに、わたしが銀朱を守るの。そうしたらずっと一緒にいられる」

「以緒様、何を仰るのですか。あなた様が守人になるなど正気の沙汰ではございません!」

「うるさい。黙って」

 ぴしゃりと命じられ、未良はそれ以上の言葉を呑んだ。だが銀朱も同意だ。

 幣として育てられてきた以緒が守人になるなど――剣を持ち、人を傷つけるなど、土台無理な話だ。なのに以緒が冗談を言っている様子はなく、この場の思いつきでもないらしい。

「守人になれば、銀朱がつらいときも悲しいときも、ずっと側にいられる。何かあってもわたしが守ってあげられる。もうひとりにならなくていいの。――永隆様にはまだお話ししていないけれど、必ず許してもらうから」

「そん、な……、だって」

「銀朱は、わたしが守人になるのはいやだ?」

「だ、だって、以緒が守人だなんて」

 穢れを嫌う幣が、戦闘に耐えられるはずがない。先日まで自分の血に苛まれていた以緒が、他人を傷つけられるわけがない。

 そもそも永隆が許さないだろう。幣が王女の盾になるなど、この世界の誰が認めるだろうか。

「あのね、銀朱。銀朱には幸せになってほしいの」

 銀朱の迷いを打ち払うように以緒は語る。懇々と諭す口調はどこかおとなびていて、彼女の中ではすでに結論が出ているのだと銀朱は知った。

「銀朱には笑っていてほしい。ひとりで寂しく泣いていないで、いつも笑って、毎日楽しく暮らして、そうして幸せになってほしい。そのためにわたしは守人になる。だからどうか――側に置いて」

 乞い、願う双眸の強さに固唾を呑む。これほど真剣な色を見た覚えがあるだろうか。

 それに、と銀朱は疑問を持った。どうして以緒は「幸せになろう」と言わないのだろう。銀朱に幸せになってほしい、笑っていてほしいと連ねるだけで、自分については言及しない。まるで、銀朱のためにおのれを捧げるような言葉ばかりだ。

(そうか……以緒は諦めてしまったんだ。だから)

 だから代わりに、自分にだけは幸せになってほしいのだ。

 それはおかしいと銀朱は思う。自分のために以緒が犠牲になるのは間違っている。

 以緒とともにいられるのはうれしい。しかしそれはともに笑い、ともに幸せになって、初めて意味を成すのだ。互いに幸せだと笑いあえるような関係でなければならないのだ。どちらかの犠牲の上に成り立つ幸福になど、石くれほどの価値もない。

 ほつり、と、銀朱の中で何かが灯った。

 生まれて初めて抱いた、いとけなくも激しい火に臆病な自分を焼べ、天へ届くほどに赤々と燃え盛らせる。狼狽と不安に惑っていた瞳は覚悟を宿して炯々と輝き出す。

 銀朱は以緒を見つめ、幼いあごを引いた。

「わかった。以緒を、わたしの守人にする」

 以緒が持てる時間のすべてを自分に捧げるというのなら、自分は以緒に人生のすべてを捧げよう。以緒のためなら神にだって叛こう。

 彼女さえいれば、ほかに何もいらない。

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