13
正月は銀朱の頭の上を通りすぎていくだけで、気づけば新年を迎えて半月が経っていた。
新年特有の、粛然としながらも活気に満ちた雰囲気は皇宮から次第に遠のき、日常の落ち着きが戻ってくる。
しかし銀朱はひとり、置いてきぼりにされた気分だった。ぼんやりしたまま参列した宴で、雅栄や英子、そして永隆がどうしていたのかはまったく覚えていない。当然紗手へも気が回らず、襲の色さえ記憶にない。
淡々と過ぎていく日々の裏で、以緒の父親が絶命しているのかもしれなかった。滋雅がどうなったのか、知りたくとも情報をもたらしてくれる者はおらず、無力な銀朱には得る術もない。あの朝以来、以緒とも会っていないので、様子は一様に掴めなかった。
(たしか……、お父様の弟だって言っていた)
顔も知らない叔父と、銀朱をかわいがってくれた千由子の娘。ということは、以緒は血の繋がったいとこなのだ。
〈幣〉が人の形をしているのは以緒を見れば一目瞭然であったが、銀朱には――彼女のみならず周囲の人間すべては、〈幣〉は同じ〝人〟ではないという前提にあった。
銀朱にとってそれは些事であり、いつのまにか植えつけられた価値観だったが、性を持たない肉体や背中に刻まれた皇帝の印を知る者にとって、青眼は人ならざる者の証だ。ゆえに人は幣を、背後にまみえる皇帝を怖れる。
両親へ向ける以上の思慕を抱きながら、以緒の特殊な境遇に対して違和感を覚えたことは、今の今までなかった。親がいないのも自然に受け入れていたが、生まれたからには生みの親がいるはずなのだ。そして、その存在を知った直後に失ってしまった。
(以緒に会いたい……)
得も言われぬ恐怖に粟立つ肌を、銀朱は手でこすって宥めた。以緒は身を引き裂かれんばかりの苦しみを、小さな身体に持てあましているだろう。何もできないが、せめて側についていたいのに。
棚に置かれた白木の箱へと、自然と目が引き寄せられた。千由子と以緒の関係を知ってから、胸はじくじくと膿みはじめていた。
耳飾りは返すべきなのだろう――だって千由子は以緒の母親で、つまりあれは形見なのだから。
理解していながら箱に手をつけられずにいるのは、どこかで渡したくない気持ちがあるからだ。
黙っていれば、あれは銀朱の物になる。以緒は千由子の実の娘なのだから、耳飾りぐらいくれたっていいじゃないかと考えてしまう。以緒はあんなにやさしい母親に恵まれたけれど、紗手は新年の挨拶さえしてくれない。だから、ほんの少しでいいから譲ってほしい。
(ばかみたい)
視界を歪ませる涙に、くちびるを噛んで抵抗する。いくら妬んでも、両親に蔑ろにされる事実は覆らないのだ。
「――寿春様。幣様からの遣いがお見えでございます」
女官が几帳の向こうから声をかけてきた。使者は、銀朱の訪いを求めるものだった。あわてて顔をぬぐい、千由子の耳飾りをそっと懐に忍ばせて、銀朱は天関へ向かった。
濡れ縁を伝って後宮の中央部へ進むと、豪奢かつ荘厳な門のもとに、女官と守人を従えた以緒の姿が見えた。まだ距離があるので細かな表情はわからないが、迎え出る元気はあるようだ。ほっ、と安堵の息がこぼれる。
「以緒」
呼ぶと相手もこちらに気づき、わずかに緊張を解いた。いてもたってもいられなかったのか、以緒が足を踏み出し、双方から距離を縮めはじめた。
童水干の袖が風に踊る。ゆるやかに反った橋を下り、廊下へと差しかかる。あと三、四歩の距離だ。
その隙間さえもどかしくて、銀朱は腕を伸ばした。だが指先をかすめたのは以緒の手ではなく、庇から飛び出してきた黒い影だった。
はっとして足を止めるものの、影の意識は小さな銀朱には注がれていない。ひるがえる雅やかな袂から、覚えのある薫物がくゆった。甘く、酔うほどに妖艶な。
「――お母様」
紗手は目の前で立ち竦んだ以緒の腕を掴むと、頭上に掲げた右手を勢いよく振りおろした。
一瞬の静寂のあと、女官の悲鳴が迸る。よろめいた紗手の手元から水滴が散り、床をはたはたと叩いた。いったい、母はなにをしているのだろうと茫然とする銀朱の目に、鈍色の閃光が射す。
つい先日見た光と同じだと本能的に悟った。いつのことだったか――そうだ、冬至の夜。千由子の腕の中から見た武官の太刀だ。それと同じものを紗手は右手に握っている。
ふたたび腕を振りあげた彼女を取り押さえたのは未良だった。もがき、倒れこむふたりの下敷きとなった御簾が悲鳴を上げながら弾け、衝撃に足元が揺れる。
ようやくひらけた視線の先に飛びこんできたのは、真白の衣を血で汚す以緒の姿だった。
「っ、以緒!!」
かたわらの女官がくずおれた身体を受けとめていたが、動転してがたがたと震えるだけだ。
肩から胸へと咲いた真紅の花は、みるみると育ち、血の臭いをあたりに撒き散らしていた。男女の怒号と駆けつける衛士の足音が遠くで騒がしい。我に返った誰かが侍医を呼べと叫んだ。
何が起こったのか、銀朱にはいまだにわからなかった。キィンと耳鳴りが思考を劈いて、今にも頭が割れそうだ。紗手のまとう花と以緒の咲かせる花、両方が混じりあい、妖しげな匂いで周囲を蝕んでいく。
(きっとこれは夢だ……。悪い夢を見ているんだ)
耳鳴りに混じって女の低いうめきが聞こえた。拒絶する理性に反し、身体は声の主を探してしまう。
衛士に手足を捕らわれて床にへばりつく紗手がこちらを見ていた。まるで惹きつけられるように目が合い、爛々とした光で銀朱を縛る。
「……を、あの化け物を殺しなさい、銀朱!」
びくり、と銀朱の肩が大きく跳ねた。
「あれさえいなければ――あれのせいで、あの異形のせいで! あの忌々しい化け物が宗室に災いを招きよせる!! あれさえ排除すれば――!!」
殺せ、殺せ、と紗手は狂人のごとく喚いた。
実際狂ったのだと銀朱は思った。ようやく関心を向けてくれたのに、彼女がくれたのはおぞましい怨嗟だけだった。男たちの腕の下で醜く暴れる女が母親だとは思えない。思いたくない。
母への憧憬や期待や愛情が、一片も残さずに涙に溶けて流れ落ちるのを、銀朱はどこか他人事のように感じていた。ずっと求めてきた、目もあやな母はもうどこにもいなかった。
「……ん、しゅ……」
名を呼ばれ、はっと我に返る。横たわった幼なじみの、死人を思わせる顔色に小さく悲鳴を上げてから駆け寄った。血まみれの手は冷たかったが、這う血はいやに生温かい。
「……ね、銀朱。ごめんね……」
「よりつ、ぐ」
なんで謝るの、と問うても答えはなく、紫色のくちびるからは喘鳴が漏れるだけだ。応急処置により流血の量は抑えられたが、以緒の衣は半分ほどが鮮紅に染まっていた。
「死なないで、以緒! 死んだらだめ……!!」
謝るのは銀朱の方だ。紗手の動機は知らないが、自分の胸の内に抱えた薄暗い嫉妬に母の醜悪な憎悪、以緒の胸に咲いた大輪の花――心当たりは山とある。いったい以緒に何の非があるだろう。
滂沱と溢れる涙が汚れた手の甲を打った。透明な雫はやがて血を滲ませて肌を滑り落ちた。雪白の袖口にひとつふたつと染みを落とし、不穏に新雪を溶かしていく。まだらで不吉な染みが広がるのをなんとかして阻止したかったが、涙も嗚咽も止まらなかった。
「馬鹿な、幣である以緒様が陛下の穢れになると!?」
苛立ちを隠そうともしない呼号に、銀朱は嗚咽を呑みこんだ。ひくひくとしゃくりあげている隣で、未良が鬼のような形相で男に詰め寄っていた。
「陛下にとって、血は総じて穢れです。ゆえに天関へはお運びできません。なるべく皇太子陛下から離れた殿舎に寝所を設けるよう手筈を……」
どうやら天関の侍従か神司と揉めているらしい。銀朱は歯噛みする守人の袖を引っぱった。
「……わたしの室、ここから遠いから。早く運んであげて。お願い」
以緒の室にくらべたら粗末だろう。しかし廊下の床よりはましなはずだ。
未良が逡巡したのは一瞬で、うなずくと意識を失いつつある以緒を抱えあげた。
「寿春様の殿舎をお借りする。皆、ついてこい!」
守人を先頭に、女官や侍医が秋水舎へと急いだ。銀朱も後を追おうと腰を上げ、ふと庭へ意識をやる。
うしろ手に拘束された紗手が、衛士に連れられていくところだった。靴も履かずに緋袴を土で汚し、乱れた髪を引きずる背中はただおぞましい。もはや傾城と謳われた女性の面影はどこにも見当たらない。
うなだれ、娘の視線にも気づかない母に、銀朱は袖の下でこぶしを握った。
もう他人だ。二度と顔も合わせないだろう。
黙って別れを告げればそれで終わりだった。銀朱は秋水舎へと踵を返した。




