5
礼拝堂は、ビリジェの中央部のもっとも高い場所にあった。
領主の屋敷から馬車に乗ってすぐの距離で、隣にはビリジェの心臓部である庁舎が並んでいる。礼拝堂の外見はいたって簡素で特に装飾性は見られず、椀を伏せたような屋根の天辺に金の円盤がつけられているのが目立つのみだ。役人の多い場所のためか人の影はまばらで、銀朱らが馬を寄せても衆目を集めることはなかった。
ジラールに案内されて内部へ入ると、雰囲気ががらりと変わり、銀朱は認識を改める必要があった。
まず目を惹きつけたのは、床に敷かれた絨毯の上を踊る七彩の光の砕片だった。窓には色ガラスがはめこまれていて、そこから射しこむ陽射しが虹となり、礼拝堂を満たしていた。堂内は奥に向かって長く、石材の柱が等間隔に並び、高い天井を支える。その最奥部には祭壇が設けられており、女神のためにろうそくが灯されていた。
「造りはヘリオスと似ていますね」
カリンが言うと、ジラールは自慢げに首肯した。
「同じ女神を崇めているのですから、似通うのも当然でしょう。ですが、これはヘリオスにはないと聞いています」
ジラールの視線を追って中央の天井を仰ぐ。直後、銀朱は真夜中の草原に戻ってきたのかと錯覚した。
ドームには溢れんばかりの星空が広がっていた。あらゆる幾何学模様を駆使して展開された宇宙には金の星粒が瞬き、堂内を満たす静寂が夜の空気を思い出させる。藍を基調としたタイルで構成されたモザイク画は遠目には絵画にしか見えず、しかし筆で描いたものとは異なる精密さを表現していて、茫漠とした感覚も本物の星空を見上げて抱くものと同じだ。ただ単に星空を描写した絵画よりよほど写実的で、なによりも神々しかった。
「――我々は原初、『星の民』と呼ばれる集団だった」
ジラールが謳うように唱える。眩暈を覚え、銀朱は視線を戻した。
「失われた月の女神のために、我々星の民は何百年も女神を捜し求めていた。そして、星の民の長であるイシュメル様が、女神と出逢い彼女の冤罪を雪いだ。夜空には月が戻り、世界に平穏が訪れたと伝えられています」
世界は混沌で無秩序だった。そこに、太陽の男神と月の女神が生まれ、彼らは秩序の下に世界を整えた。これは、ヘリオスでも桐でもかわらない、世界創世の神話である。
太陽の神と月の女神は、それぞれ役割を担っていた。兄の太陽神は昼を治め、自分たちが構築した秩序に忠実であり、善を重んじた。妹の月神は夜を治め、秩序を尊びながらも間違いを犯した者に償いの手を差し伸べた。
ふたりは何の問題もなく世界を治めていたが、慈悲深い女神はある時大罪人に情けをかけてしまい、重大な罪を犯してしまう。兄神は怒り、女神を清浄なる天から人間の棲まう地上へと堕とされた――ここからの解釈が、二つの国、しいては二つの宗教で分かれてくる。
桐を中心とした大陸の東では太陽神を崇めていて、月の女神は大罪を犯して天から追放されたのだと信じている。そのため、堕ちた神を信仰しているヘリオスに対して侮蔑の念を抱くのだ。
逆に、ヘリオスを頂点とした西側では、女神は冤罪だと信じている。兄神の残虐な仕打ちに嘆き悲しむ女神を救い、彼女の神格を取り戻したのがイシュメルだとされているのだ。女神を陥れた太陽神を忌避するのは当然と言えた。
「星の民の長であるイシュメル様と、主シェリカ様の末裔であられるのが、現在のヘリオスの王族でございます。女神とイシュメル様のご威光に集った者は多かったのですが、我々は女神を崇めながらこの地に残ることを選んだ星の民でした」
「詳しくお聞きしてもいいでしょうか?」
銀朱がたずねると、ジラールは笑顔で応じた。
「もちろんでございます。イシュメル様が女神をお救いになった時、大勢の人間がおふたりのもとへ集まり、王国の一員になることを願いました。中には自分こそが正当な星の民の長であると主張し、女神は騙されていると吹聴する不届き者もおりましたが、神を惑わせられる人間などこの世には存在しません。自然とそういう者は淘汰されました」
そのあたりは、聖典にも書かれていたことだ。もっとも、ジラールの言はだいぶ簡約してあり、原典では劇的に描かれている。イシュメルが女神を救った英雄だといわれる由縁だ。
「我々――ヘリオスより東に根を下ろす者は、イシュメル様とシェリカ様を崇めましたが、王国に列することはいたしませんでした。もともと星の民は遊牧を営んでいて、その生活が捨てがたく、おふたりもその意志を尊重してくださったのです」
それから彼は、ついとあたたかい灯穂に囲まれた祭壇を見た。
「女神は、まだ地上に留まっていると、我々は信じているのです」
銀朱は息を呑んだ。てのひらがじっとりと汗をかく。
「……失礼ながら、聖典には女神はイシュメル様と天へ帰られたと」
「ヘリオスではそう言われているそうですね。ですが、このあたりでは昔から多くの伝説が残されていまして、すべて女神の起こした奇跡だと信じられています」
領主は振り返り、ヘリオスの騎士であるカリンに向きなおった。
「我々は王族の方々を、女神と同じように尊いお方だと考えています。ヘリオス国王陛下の御意志は、女神の御意志でもある。こうして我々がこの地で繁栄を築けるのも、太古の昔に主がお許しくださったからです。革命の際にも我々の領土を侵されなかった。感謝しております」
「それは、陛下もよくご承知のことです。陛下は、ビリジェは我が国にとって大切な友人だと認識しておられます。だからこそ今回ご協力をお願いしたのですから」
「畏れおおいことです」
ジラールはカリンに謝辞を述べると、立ちつくす銀朱に微笑みかけた。日に焼けた目尻に、しわがくっきりと刻まれた。
「寿春様は、『ヘリオス』の意味をご存じですか?」
「ええ……。太陽のことだと教わりました」
「はい。女神がイシュメル様に授けられた名です。兄神にかわり、自分の『太陽』になってほしいと願われたのです」
女神は兄である太陽を失い、夫のイシュメルを太陽とした。
だが桐にはすでに太陽がある。唯一絶対の神だ。神の意志は絶対であり、正義である。神に逆らう者は、必然的に悪となる。
「桐のご出身でいらっしゃる寿春様を疎んじる者もおりましょう。ですが、私はこれも女神のお導きだと思うのです。桐とヘリオスがこうして縁を結ばれる――それは桐の神が女神をお許しになったからこそであり、我々は桐に対する敵意を解くべきだという、女神の思し召しではないでしょうか」
ようやく銀朱は、ジラールが自分とカリンを同席させた理由を理解した。
彼は、ビリジェは味方だと主張したいのだ。ヘリオスにとっても、異教の桐にとっても。おそらく、銀朱がうなずかなくても、彼は自分を礼拝堂に連れてきただろう。
今後、桐とヘリオスの行き来は爆発的に増加する。そのとき、異教だからと言って桐人を拒んでいては、巨万の富をみすみす見逃すのと同意だ。交易で栄えるビリジェにとって、それは死活問題である。銀朱の心証をよくしておけば、桐に対してもヘリオスに対しても覚えがよくなるかもしれない。
「……神のことは、わたくしにはわかりません。ですが、陛下がこの縁談を望まれたから、わたくしはヘリオスへ嫁ぐのです。陛下のお心には、もはや女神への怒りは存在しないのかもしれません」
内心舌を巻きつつ、銀朱はジラールの望みそうな回答を連ねた。さすがに単なるお人好しでは、この大都市を治められるわけがない。
「やはりそうでしたか。喜ばしいことです。寛容な桐の神に感謝いたします」
ジラールは銀朱に頭を垂れたが、感謝されても困惑するだけだった。
カリンを含め、女神を崇める顔ぶれが祈りを捧げるのを、銀朱は背後で見守った。祈りの場に実際立ち会うのは初めてである。聖句を唱えて神を讃えるのは、桐もそれほど変わらない。ヘリオスへ渡った暁には、銀朱も彼らの一員として参加するのだ。脳内で想像してみたが、その姿はうまく描き出せなかった。
礼拝を終えて外へ出ると、ジラールが思い出したように半球形の屋根を指さした。
「あの金の円盤は、星を表しています。我々はヘリオスとはちがい星の民ですので、礼拝堂内にも星を描くのです」
銀朱は明星のようにきらめく円盤を仰ぎながら、彼に問う。
「女神は、本当に今でも地上に留まられているのでしょうか」
領主はやはりにこやかな笑顔で答えた。
「我々はそう信じています。実際、今でも奇跡と呼ばれる現象は報告されているのですから」
そうですか、と銀朱は無感動に呟いた。だが、いつもより血の流れが熱く、衣服の下で全身が静かにざわめいているのを感じていた。
外へ開いたガラス窓の向こうに、夕日に赤く染まる庭が広がる。涼しげな水の音がどこからか聞こえ、暑気から解放されたそよ風が後れ毛を揺らした。
居間には、銀朱と以緒しかいない。洋は晩餐の前に休憩を取っているし、ほかの使用人は下がらせた。未良の姿はしばらく見ていないが、以緒が何も言い出さないので責任は果たしているのだろう。
もともと銀朱の守人は以緒ひとりなのだが、皇太子に命じられて未良も連れてくることになったのだ。知己ではあるが、それほど親しいわけでもない。命の心配はするが、姿が見えなくて気にかけるほどではなかった。
庭に咲きこぼれる花のせいか、夕風が馨しい。銀朱は大きなクッションに凭れ、風に遊ばれる葉を眺めていた。
昼間、ジラールから聞いた話が頭から離れなかった。女神は地上に留まっている――そんな夢物語をにわかには信じられなかった。帰路でも銀朱は詳細をたずねたが、ジラールの話はあくまで一信徒の視点であって、第三者からすれば作り話だと一笑してしまいそうな内容だ。実際、口には出さなかったが、カリンもあまり信用していない様子だった。
銀朱は神を信じていないわけではない。女神の神格を否定する気もない。むしろ、カリンやジラールよりよほど神がどういうものか知っているだろう。なにせ、桐の皇宮には神が御座すのだから。
『……以緒は、さっきの話をどう思う?』
律儀に礼拝堂までついてきた守人は、かすかに首を傾げただけだった。左耳にだけした耳飾りが、ゆらりと動く。
『さあ……私にはわかりません』
そう、と銀朱は小さく呟く。
奇跡と呼ばれるものは、草原に点在しているらしい。たとえば、雑草さえ生えない岩山に一本だけたたずむ大樹。何百年も涸れることのない泉。真冬にだけ現れる花畑。他所では見たことのない実をつける植物。
学者が研究すれば原因を突きとめられそうな〈奇跡〉だが、もし本当に女神がまだ地上にいるのなら、彼女の仕業かもしれない。神ならそれぐらいたやすいだろう。
『……見に行けないかしら』
『なりません』
めずらしく強い語調で遮られる。銀朱は、厳しい表情の以緒と向きあった。
『どうして? 以緒も一緒に行けば、女神の起こした〈奇跡〉なのか、ただの偶然なのかわかるでしょう?』
『銀朱様』
普段は穏やかな以緒の眉間に、しわが生まれる。
『女神へ興味を持たれるのはかまいません。ですが、銀朱様はヘリオスへ嫁がれる身なのです。どうかそのことをお忘れなきようお願いいたします』
『関係ないわ』
『銀朱様のお役目は、ヘリオスへ赴き、エセルバード殿下の妃になられることです。女神が今も存在するのか否か、奇跡と呼ばれるものが本物なのか偽物なのか、銀朱様には関係ないことでございます』
『何よそれ!』
かっ、と頭に血が上り、銀朱は声を荒らげた。
『関係なくはないでしょう! わたしが何のためにこんなところまで来たと思っているの! いおだってわかっているでしょう!?』
『存じております。ですが、どうか今はヘリオスへ辿り着くことを優先なさってください』
『嫌よ。わたしはそんなことより、おまえを……』
『ヘリオスへ行かれることが、銀朱様の幸せに繋がるのです』
異母兄である皇太子にも同じことを言われた。おまえは桐にいるより、あちらへ行った方が幸せになれるだろう、と。
たしかに故国は息苦しかった。母には疎まれ、父にも見向きされず、女官にさえ御簾の影で嗤われていた。側にいてくれるのは以緒だけだった。
『……わたしが、ただ単にヘリオスへ行くだけで幸せになれると、おまえは本当に信じているの? ヘリオスは理想郷じゃないのよ。ひょっとしたら桐より悲惨な立場に追いつめられるかもしれないわ。今は皆わたしにへつらっているけれど、それはわたしに利用価値があるからで、それが無くなったらただの邪魔者よ。掃いて捨てられるかもしれない』
『そんなことはございません。必ず銀朱様が幸せになれるよう、私がお側でお守りします』
『嘘つき。今のままではずっと側にいられないくせに!』
銀朱は精一杯腕を伸ばし、必死で以緒の袖を握った。
『わたしは自分が幸せになるために来たわけじゃない。一緒に幸せになるために来たのよ。それぐらい、おまえだってわかっているでしょう!!』
「――失礼します」
声のした方を振り向くと、戸口には男の影があった。桐人よりはるかに背の高いそれは、カリンのものだった。
「……お邪魔でしたか?」
我に返り、銀朱はあわてて以緒から手を離した。
いつから立っていたのだろう。以緒とは桐の言葉で話していたが、カリンは理解できる。人払いをしたからと、完全に油断していた。
「いえ、お気になさらず」
動けないでいる銀朱から離れ、以緒が戸口へ向かう。カリンよりは高く、銀朱より低い声は、すでにいつものように凪いでいた。
「カリン殿がわざわざ足を運ばれるとは、何かございましたか」
ふたりが並ぶと、やはり騎士の方が大きかった。以緒は桐人としては平均的だが、それでもカリンの口元あたりまでしかない。ルッツや隊列の者も以緒より頭半分ほど高いので、ヘリオス人は桐人より上背があるのだろう。
「いえ、周囲に使用人が見当たらなかっただけです。ジラール様が、今夜も寿春様のために宴を開きたいとおっしゃっているのですが、ご体調はいかがでしょう」
カリンは特に追求してくることもなく平静だった。もしかして聞こえていなかったのだろうか、とわずかに胸を撫でおろす。
「大丈夫よ。お受けすると伝えてくれるかしら」
「かしこまりました。ではのちほど」
室内に入ることもなくカリンは立ち去った。足音が遠のいていくのを、息を潜めて確認する。
たしかに気配が消えたころ、銀朱はようやく身体から力を抜いた。戸口に立っていた以緒が、ふたたび銀朱の目の前に膝を着く。
「使用人を呼んでまいります。ついでに洋殿にもお声がけを」
「いお」
名を呼ばれ、以緒は慈しむように目を細めた。
「銀朱様のお気持ちは、とてもうれしく思っております。ですが、今はどうか、何事もなくヘリオスへ到着することをご優先ください」
「わかっているわね?」
「わかっております」
断言されても、とても安心できなかった。一度顔を出した不安は、銀朱の胸でじわじわと巣くいだす。
以緒が部屋を出ていくと、使用人たちが戻ってくるまでのわずかの間、銀朱は膝を抱えてうずくまっていた。