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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第四章 神の箱庭
49/52

12

 何の変哲もない元旦だった。銀朱は以緒に見送られ、秋水舎の自室へ戻った。

 住み慣れたへやは留守のあいだに整えられ、新年を祝う花飾りが棚に添えられてあった。これから以緒は幣として式典に参加するのだろうが、幼少の銀朱は雅栄が後宮を訪れるまですることがない。縁起を担いだ朝食を摂り、女官が特別に用意してくれた菓子を食べたら暇になってしまう。

 かたわらに母や乳母がいれば別なのだろうが――実際、異母妹の殿舎は賑やかしく、父王との謁見にそなえて衣裳選びに余念がない。一方の銀朱は英子に任せきりで、用意された物を黙って着るだけだった。紗手が知恵を貸してくれることはない。

 ――やはり、昨夜のできごとは夢だったのだろうか。

 千由子から託された耳飾りがなければ、夢だと完全に信じてしまっただろう。

 耳飾りは見咎められないよう、小箱の中に大切にしまってあった。用途から考えるに一対のはずなのだが、千由子は銀朱には分けてはくれなかった。ふたつあるならこんなことはしないのに、とつい恨めしくなる。

 翌日の衣裳の確認をして早めに床に就いたが、なかなか寝つけず、銀朱は何度も寝返りをくりかえす。

 紗手と会うのはすでに多大な緊張を要する一大行事となっていて、終わるたびにくたくたに疲れてしまうのだった。ほんの少しの間違いが母の逆鱗に触れるのではないかと考えると、出される料理も砂を噛んでいるようで、当然箸も進まない。しかしそれを気取られるのさえ恐ろしく、もくもくと食事を続けるしかない。

 そういうとき、銀朱は必ず千由子を想った。ともに新年を過ごせたらどれだけ楽しいだろうと想像した。

 彼女は屋敷で、家族とどんな正月を過ごすのだろう。千由子は銀朱のために衣の色を一緒に選んでくれるだろうか。

(あぁ……、でも、千由子も以緒の方がいいのだった)

 彼女は以緒を取った。ごめんなさい、とはそういう意味だろう。

 誰も自分を見てくれない――必要としてくれない。唯一の理解者である以緒にさえ嫉妬してしまう。以緒は悪くない。でもうらやましい。千由子に選ばれる以緒が。

 成長しつつある暗闇に悩まされながらも、いつの間にか眠っていたようだった。突然肩を揺さぶられ、夢と夢の合間から強制的にうつつへ意識を引き戻される。

 明けの気配も遠い夜陰の中、以緒の青眼が銀朱の目前に迫っていた。一瞬、驚きにごくりと息を呑む。

「銀朱……、銀朱どうしよう」

 たどたどしいながらも切羽詰まった口調に、銀朱は何かあったのだと悟った。

「どうしたの?」

「どうしよう銀朱」

 以緒は泣いていた。暗くて涙は確認できないが、袖で目をこすっているし、鼻水を啜る音もする。びっくりして身体を起こすと、以緒の喉から嗚咽がこぼれた。

「どうしよう、千由子がどこにもいないの……。どうしよう……」

「どこにもいない、って……。千由子が来たの?」

「ちがう。どこにもいないの」

 真白の寝衣に包まれた肩が細かく震え出す。

「昨日まではたしかにいたの。でも、さっき急にいなくなった。消えちゃったの」

 銀朱には意味がわからず、すっかり困ってしまった。悪い夢でも見て天関いわくらを飛び出してきたのだろうか。

 思えば、以緒が泣いているのを見るのは初めてだ。物心ついたときから泣くのは銀朱で、以緒は一貫して慰め役だった。紗手に冷たくあしらわれ、または空腹に泣いていても、泣き止むまで側にいてくれた。大丈夫、大丈夫だよ、と――そう言ってくれた以緒が今、涙をぼろぼろと流して泣いている。

「以緒……」

 銀朱は指の腹で以緒の目尻をぬぐった。それでもこぼれる涙は止まない。鼻水を拭いても、頭をなでても、ひくひくとしゃくり上げている。慰めになっているかは不明だったが、ただひたすら以緒がしてくれたことをなぞりつづける。

「ねえ、何があったの? なんで泣いているの?」

 問いかけても返答はない。すでに銀朱の袖は涙と鼻水でぐしょぐしょだ。

 身体中の水分を絞り出しながら、全身で以緒は嘆いている。まるでひとりで野山に放り出された子どものように、なす術もなくむせび泣く。このままではきっと目が溶けてしまうだろう。

「以緒。お水持ってくるから、ここで待ってて」

 放っておくと干涸らびてからからになってしまう気がして、銀朱はささやいた。寝室のどこかに飲み水が用意してあるはずだ。

 泣きじゃくる以緒がかすかにうなずいたのを確認してから布団を出ると、ちょうど女官が居間から頭をのぞかせており、ばちりと視線が交わった。他人と目が合い、これほど安心するのは初めてだ。

「幣様は? こちらにいらっしゃいますか?」

「うん。泣いているの」

 彼女は礼を言うでもなく、ずかずかと寝室へ上がりこんできた。室の主である銀朱に断りもしないのは失礼だったが、自分ひとりで以緒を慰められる自信がなかったので、不満は後回しにする。

 以緒はやはり泣きやんではいなかった。女官がなんとか宥めようとしているが、聞く耳を持たずに駄々をこねている。落ち着かせるために背中をさすろうとする女官の手さえも拒んでいた。

「幣様、天関へ戻りましょう。寿春様も驚いておられます」

「いや、銀朱の側にいたい。銀朱と一緒に千由子を探すの」

「皇太子陛下が幣様をお探しです。今日は朝から大切なお役目がございますのに、陛下の御心を乱してはなりません」

「やだ、戻らない。千由子に会いたい」

 どうして、と細い喉が唸る。

「どうしてどこにもいないの? ずっと側にいてくれたのに……っ」

 以緒の慟哭が壁を打ち、帳を震わせる。返る音はなく、つつ闇に泣き声だけが虚しく響きわたる。

 永隆の名を出しても戻ろうとしないなど、あきらかに様子がおかしかった。以緒にとって彼は絶対の主であり、意にそぐわぬことは決してしないと銀朱もこの七年で学んでいる。〈幣〉とはそういうものなのだ。

 だというのに、本能ともいえる永隆への忠誠心に抗ってまで、以緒は何を訴えているのか。なぜ、こんな夜中に銀朱の室までやってきて、千由子がいないと泣き叫ぶのか。そもそも、千由子がいないとはどういう意味なのか。

 気づくと以緒は過呼吸になりかけていた。銀朱は硬直している女官を押しのけて、痙攣する身体を抱きしめた。きっと彼女ならそうするだろうと思ったからだ。

 けれども千由子にくらべたら、自分の腕も身体もあまりにも幼い。だが、以緒はつたなすぎる慰めを受け入れて、銀朱の寝衣に縋るようにしがみついた。

「……け……ませ……」

 耳朶に触れた羽虫の鳴き声ほどの音に疑問を覚え、顔を持ち上げる。直後、銀朱はぎょっと目を剥いた。女官が幽鬼のごとく真っ青な顔で、くちびるをぶるぶると震わせていたのだ。

「――っ、申し訳ございません! どうかお許しください!!」

 突然叩頭した彼女に、ふたりはにわかに息を詰めた。

「申し訳ございません、私にはどうすることもできなかったのです。一介の女房の私が、国王と皇太子に逆らえるはずがないのです。私は産婆に目を付けられた時点で、協力するしかなかったのです……!」

「……な、なにを、言っているの……?」

「以緒様。あなた様は滋雅様と千由子様のあいだにお生まれになった、日瑞ひみず家の媛です」

 告白する女官の瞳は、ぎらぎらと怪しく光っている。まるで何かに取り憑かれたかのようだ。

「私は日瑞のお屋敷で、千由子様の女房として仕えておりました。ですが、雅栄殿下が遣わされた産婆に、千由子様のお子を皇宮へ拐かすために協力するよう命じられました。私のような中流貴族の娘が、殿下の命に逆らえるわけがございません。屋敷の家人を産室からいっさい追い出し、すべてを殿下の息のかかった者に任せて、私は千由子様にお子は亡くなったと言いました。そうして混乱に乗じて、以緒様を使者とともに皇宮へお連れしたのです。国のためと言われたら従うしかありませんでした」

 銀朱には即座に理解できず、ただただ茫然とするしかなかった。思考力がどこかへ吹き飛んでしまったらしく、頭がまるで働かない。

「……千由子は、わたしのおかあさまなの?」

 ぽつりと、腕の中で以緒が問うた。『おかあさま』という音が耳の奥に染みを落とす。

「はい、そうです」

「わたしにも、おかあさまがいたんだ」

 どきりと銀朱の心臓が跳ねた。それに気づいたのか、以緒の手にいっそう力が込められる。

「……どうして、千由子はいないの?」

「わ、私には……」

「どうして? どうして千由子の『気』がどこにもないの」

「――それは、どこにもおらぬからだ」

 ここにはいないはずの少年の声に、以緒の全身がびくりと戦慄する。居間と寝室を区切る帳の向こうで、いくつもの手燭の火灯りが浮かんでは揺れていた。ぼんやりとした橙の光にふちどられた影が、空を滑るように寝室へ侵入してくる。現れた黄金の双眸に、銀朱は知らず以緒にしがみついていた。

「おまえにもわかっているだろう。この世のどこにも気が存在しないのは、死んだということだ」

 急に室内の温度が下がった気がした。以緒の身体もみるみると冷えていく――それとも銀朱が凍えているのだろうか。指先が悴んで相手をしっかりと抱きしめられない。

「千由子はおまえを攫おうと天関に忍びこみ、捕らえられた末に罪を恥じて、さきほどみずから舌を噛んだ。あのような稚拙な術でわたしを欺けると、まことに信じておったようだな。滋雅も混乱を招くため火をつけたことを認めた。兄と予への叛意もだ」

(そうか。千由子は、以緒がほしかったんだ)

 ようやく銀朱は把握した。だから千由子は耳飾りをひとつしか託さなかったのだ。以緒は、千由子が溢れんばかりの愛をこめて呼んだ〝いお〟なのだ。

 生まれてすぐに死んでしまったと思っていた娘を、彼女は命がけで取り戻しに来た。それが神に叛く行為であっても、娘のために行動せずにはいられなかったのだ。

「千由子……死んだの……?」

「滋雅にも直に刑が下される。極刑だ」

「きょっけい」

 意味はわからないが、あまりいい響きではない。きっととても恐ろしいことが起きるのだ。

 以緒の双眸からみるみると光が失われてゆく。これほど虚ろとした青を見るのは初めてだ。

「徒党を引き連れ予に叛いたのだ、致し方あるまい。神の物である幣を盗もうとする者には死を与えねば秩序が保たれぬ。これほどの浅慮だとは思わなかったが……愚かなことだ」

「死ぬの……? 永隆様、滋雅も死んじゃうの?」

「そうだ。おまえを拐かそうとした罪で」

 永隆の言葉は、槍となって躊躇なく以緒を貫いた。

 これ以上は何も言わないでほしい。そうでなければ以緒まで死んでしまう。抱きしめた身体からあらゆる力が失われてしまう。

 助けを求めて視線をさまよわせると、異母兄の背後に雅栄と英子がいることにようやく気がついた。火の色に染まる父の瞳が銀朱を映すが、彼は視線を逸らすことで無言の訴えを無視した。

 伝わっていないとは思わなかった。それでも雅栄は伸ばした手を振り払ったのだ。

「以緒、おまえは予の幣だ。予のために存在するのがおまえの最上の幸福である――そうであろう?」

 以緒は抜け殻のような表情で主を仰ぎ、やがて糸が切れたかのようにこくんとあごを引いた。永隆は満足げにあごを引いて応じた。

「天関へ戻る。銀朱、邪魔をした」

 以緒も腰を上げかけるが、力が入らないのかもぞもぞするだけである。いまだにしがみついてる銀朱に離すよう頼むわけでもなく、逃れるわけでもなく、寝間着を掴んだまま足を動かしてはへたりこむのをくりかえしている。

 何がこれほど以緒を従わせるのか――どこか本人の意思とは別の力が、操り人形のように手足を動かしているのではないだろうか。

 見かねた雅栄がようやく腕を差し伸べてきたが、今となっては銀朱も頼る気にはなれなかった。

「……銀朱、離しなさい」

「いや」

 とっさの拒絶に、雅栄の眉がひそめられる。

「……お、お父様。今日だけ、あ、朝まで、で……。以緒、な、泣いていた、から」

 父に意見するのは初めてだ。そもそも、正面から向き合った記憶さえない。彼がこれほど長く自分だけを見ていることも今までなかっただろう。

 誰にも叱られなかったので、銀朱は腹に力をこめて続けた。

「今日だけ、一緒に寝たいです。以緒、泣いていたから。きっとさみしいから……わ、わたしが側にいないと、きっと悲しいから」

「おまえが気にかける必要はない。以緒には世話役が大勢ついている」

 雅栄は冷淡に切り捨て、以緒の腕を取った。熱を失った身体がするりと銀朱から離れていく。捕まえようとした手が宙を掻いた。

「すべて忘れなさい、銀朱。おまえは何も知らなくていい」

 これほど衝撃的なできごとを忘れられるわけがない――なのに忘れろとだけ一方的に言い置いて、父は以緒とともに立ち去ってしまった。訴えに耳を傾けてくれたのは仮初めで、やはり銀朱の願いなど取るに足らないのだ。

 ぼんやりと自失する銀朱に声をかけたのは、わずかな女官とともに残った英子だった。

「お茶を飲んで、もう少し眠りなさい。夜が明ければ宴の支度をしなければなりません」

「正妃様……」

「目を閉じ、耳を塞ぎなさい。そなたは関わらなくてもよいのです。……雅栄殿下もそう望んでおられるはずです」

 英子の手のひらが髪を撫でる。慣れないできごとに肩が竦んだが、やわらかな指先は予想外にやさしく思えた。しかしそれをたしかめる前に指が離れる。

 英子は衣を一枚脱ぐと、ぐるりと銀朱を包みこんだ。そこでようやく身体が冷えているのに銀朱は気づいた。

「お茶を飲んだらすぐに休みなさい。そうしていつもどおりに過ごしなさい。わかりましたね」

 誰にも言うな、忘れろ、という意味だろう。戸惑いを覚えたものの、彼女は返事を強要しなかった。何度か銀朱の肩をさすってから立ち上がると、いまだ隅で震えていた女官に重々しく命じる。

「立ちなさい。処分は追って陛下にうかがいましょう。これ以上宗室の仇にならぬよう、ふるまいには気をつけなさい」

 千由子の女房だった彼女はよろめきながら腰を上げると、そそくさと室を出ていった。入れ替わりに茶器を携えた女官が入ってきて、湯気の上る器を手渡される。口に含んだ液体はいつもより苦かった。

「ゆっくりお休みなさい。ほんの少し、寝過ごすのを許します」

 眠れるはずがない。そう思っていたが、横になった途端に睡魔に襲われる。極度の緊張に疲れたのか――それともお茶に何か入っていたのか、とろりと蕩けはじめたまぶたはあっという間に落ちてしまう。

 夢は訪れず、重苦しい無のあとに銀朱は朝を迎えた。寝落ちる前の痕跡は、室内のどこにも残っていなかった。

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