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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第四章 神の箱庭
48/52

11

 遠くで人の気配がする。凍てつく大気に沈む真夜中、ふっくらとした月の光を浴びながら人々が蠢いている。

 冬至の夜は、新年を迎えるために様々な儀式が行われる、特別な夜だった。太陽が最も衰える日――つまり皇帝の力が最も減退する日だからこそ、皇宮では神司かみづかさを始めとした官吏がはらえを兼ねて、夜通し神事を執り行う。皇宮の最奥部である天関いわくらにも、そのざわめきはさざ波のように伝わってきた。

 慣れない寝具に、銀朱は寝返りを打つ。冬至は忙しなく、深夜であろうと人の行き来が絶えない。幼い銀朱は神事に参加することはないが、皇太子である永隆や国王の雅栄、后妃たちは、内廷の正殿に詰めているのだろう。外が賑やかしい分、天関は普段よりいっそう静まりかえっていた。

 凍りついた湖の底のような夜気にふるりと震えてから、寝具の内で手をまさぐる。隣で眠る以緒から暖を分けてもらおうと思ったのだ。

 だが、いくら手を伸ばしても、求める熱は見つからなかった。疑問にまぶたを持ちあげると、わずかな衣ずれと人の気配が帳の向こうでひそめいた。おそらく女官だろうと結論づけ、気にせずに小さな影を探す。しかし目で確かめても、以緒は寝具の中にはいなかった。

「以緒……?」

 銀朱は上体を起こして周囲をうかがった。すると天蓋から下がる薄絹が持ち上がり、冴え冴えとした月光が足下に濃い影を落とした。

「だれ?」

 人影は以緒よりもはるかに大きく、逆光のせいで顔がわからない。女官にしては様子がおかしい、と訝しんでいると、影はぽつりと呟いた。

「……銀朱様?」

 聞き覚えのある声だ。しばらく耳にしていなかったが、とても大好きで大切な人の声。

「――千由子?」

 そっと、影へ問いかける。しばしの沈黙のあと、彼女はあごを引いた。

 銀朱は影の懐へいきおいよく飛びこんだ。膝に顔を埋めると覚えのある香りが鼻先をかすめ、小さな胸がせつなく鳴く。やわらかくあたたかなそれにほんの少し甘えてから顔を上げると、影はやはり千由子だった。

「千由子、もうとっくに菊は散ったよ。わたしずっと待っていたのに」

 彼女はほんのり笑んで、銀朱の髪に指を伸ばした。拗ねたつもりだったが、触れる手が心地よいので長くは続かない。

「起こしてしまったようですね。申し訳ありません」

「ううん、ちょうど寒くて目が覚めたの」

「そうでしたか。……ところで、こちらは以緒様の寝室ではございませんでしたか?」

「そう。今日は冬至だから一緒に寝ようって以緒が言ったから、こっちに来たの」

 めずらしいこともあると、銀朱は思った。以緒が天関へ誘うことはほとんどないのだ。

 天関と後宮のあいだには巨大な門壁よりも大きな隔たりがあって、いくら以緒が銀朱のもとへ頻繁に通っていても逆はなかった。それだけは以緒もわきまえていて、銀朱のわがままではどうにもならないと捉えていたのだが、今日だけはちがった。何を思ったのか唐突に自室へ招き入れたのだ。

「では、以緒様はどちらに? お姿が見当たらないのですが」

「うん……。一緒に寝たはずなのだけど……」

 しかし室内に以緒の気配はなく、寝具をあたためるぬくもりも銀朱のものだけだ。おそらく、ずいぶん前に床を抜け出したのだろう。

「……ねえ、千由子。どうして千由子はここにいるの?」

 予想外の再会に喜びが勝ってしまったが、こんな深夜に女官でもない千由子が皇宮にいるのはおかしい気がした。しかもここは天関だ。普通の女官でも、なかなか立ち入ることはできない。

「表で火が上がったのです。さほど大きくはないのですが……」

 彼女はひそやかにささやいた。内容に反し、声は落ち着いている。

「火……? どうして?」

「詳しくはわたくしにもわかりません。英子様から申しつけられ、銀朱様と以緒様のご様子をうかがいに参ったのです。大事にはならないでしょうが、万が一に備えて正殿へ移った方がよろしいかと……」

「以緒は? 以緒も一緒でしょ?」

「はい、もちろんです。以緒様がどちらにいらっしゃるか、おわかりになりますか?」

 少し考え、銀朱はかぶりを振った。天関のことはよく知らない。手水でないのなら見当はつかない。

「……では、わたくしは以緒様を探してきます。銀朱様はこちらでお待ちくださいますか」

 千由子はそう告げると、すくりと腰を上げた。一瞬、垣間見た横顔に得体の知れない不安を覚える。気づけば目の前でひるがえった袖をとっさに捕まえた。

「わたしも行く。置いていかないで」

 今、取りすがらなければ、永久に会えなくなってしまう気がした。なにより火事が起こっているのならひとりにしないでほしい。

 まだ騒動の気配はないが、恐怖はたしかに銀朱を脅かしていた。もし千由子が戻ってくる前にここまで火が回ったら――そんな想像が膨らんでは気弱な心を苛むのだ。

「……わかりました。では、一緒に行きましょうか」

 寝間着の上に袿をはおり、しっかりと手を繋いでふたりは室を出た。

 殿舎内は閑散としており、ふたり以外誰もいなかった。床は冷たく、裸足にはつらかったが、ぐっと我慢して一歩一歩を踏みしめる。すべての室をのぞいて以緒がいないのを確認すると、濡れ縁となっている廊下へ進んだ。

 白銀の月影に浮かぶ天関は、深い眠りの中にいた。まるで外界から打ち捨てられたかのように静まりかえっている。耳をそばだてても何も拾えない。

 もともと女官の少ない銀朱の殿舎ならいざ知らず、皇太子と幣の在所には数多くの侍従が配置されているはずだ。神事のため永隆が正殿に赴いているにしても、ここには以緒がいる。不寝の番をする女官と行き合ってもおかしくない。

 隣の殿舎の板扉をおもむろに押し開く。きぃ、とくるるが悲しげに鳴いた。

 千由子のうしろから銀朱も中をのぞいたものの、やはり人影はなかった。無言で通りすぎ、また隣へ進んでも、鼓膜を震わすのはふたりの衣ずれと足音だけだ。小鳥のようにさえずる床板の音を他からも探すが、なぜか自分の足元からしか拾えない。

 四棟目に入り、銀朱はいよいよこの奇怪さに耐えられなくなってきた。たいていの殿舎は広い室の周囲を取り囲むように小部屋があって、そこに女官が詰めているのだ。なのに、今まで見てきた建物には、女官の気配どころか残り香さえない。そよりと風もなく、時の流れさえここを避けている。

 のぞいてはいけないものをのぞいてしまったのでは、と、さきほどとは異なる不安が脳裏をよぎる。入ってはいけない世界へ間違って迷いこんでしまったのではないだろうか――立ち入ったが最後、永遠に元の世界には戻れないのではないだろうか。

 銀朱は汗の滲んだ手に力を込め、千由子を確かめた。そして、彼女の手がとても冷たいことに気づいた。

「千由子?」

 千由子の目は誰もいない室内を向いていた。足は床に縫い止められたかのようにぴくりともせず、呼びかけても反応がない。

 暴力的な月光の下で、彼女の顔から血の気が失われていくのを銀朱は見た。

「……気づかれている?」

 まさか、と千由子は自分で否定する。そんなはずはないと、くちびるがわななく。

 しかしどこからか湧いてきた動揺は瞬く間に全身に達し、繋いだ手から銀朱にまで波及してきた。忙しなく眼球を動かして周囲をうかがいながら、空いた手で懐を探っている。

「あ」

 はらり、と眼前を何かがかすめた。細長い、女性のてのひらほどの紙だ。これを探していたのだろうか。

 捕まえようと銀朱は腕を伸ばす。指先でひらりと翻る。もう一度挑んだがなかなか捕まらない。

 それは蝶を思わせる動きで宙を舞い――月影に触れたとたん、粉雪のように床に散った。

「なに、これ……」

 無残に破かれた紙片には墨の跡があった。何か記されていたのだろう。だが、紙は誰の手を借りることなくみずからちぎれてしまったのだ。

「――銀朱様」

 突然千由子に掬いあげられ、近くの室へ連れこまれる。足早に居間を通りすぎて寝室の御簾をはねのける。

 壁に囲われた室内はやはり無人だったが、千由子はまた突然に足を止めた。しがみついた肩越しにまわりを見回してその理由を知る。見覚えのある調度に薫物の匂い――そこは、さきほど出てきたはずの以緒の寝室だった。

(あそこからずいぶん歩いてきたはずなのに、どうして)

 自分を抱く腕が震えている。おそらく、寒さのせいではない。

 急に聴覚が役割を思い出したのか、物々しい足音と気配を銀朱に報せてきた。隔絶された世界からようやく現実へ戻ったのだ。なのに期待した安堵はなかった。より恐ろしい予感が自分たちを目指してやってくる気がした。

「――……銀朱様」

 千由子はくずおれるように足を折り、銀朱を床へ下ろした。向かい合う白いかんばせにはすでに動揺はない。だが、同時になにか大切なものまで消えてしまっていた。

「銀朱様、少し話を聞いてくださいますか?」

「話?」

「はい。わたくしの娘の話です」

 影を落とす目元が、愛しさに細められる。初めて見る母親の表情だった。

「わたくしには、銀朱様と同じ歳の娘がいました。銀朱様と同じ、桜の季節に生まれました。ですが娘は生まれて間もなく儚くなってしまいました。夫も、息子も、あの子の誕生を心待ちにしていたのに、わたくしたちは失ってしまったのです。名は、三人で伊緒と決めていました」

「いお……?」

「はい。伊緒です」

 とても大切に、宝物のように千由子はその名を紡ぐ。銀朱を呼ぶときとは響きがまるでちがった。

「伊緒を亡くして、わたくしは一年塞ぎこみました。あの子を守れなかったおのれを責めました。夫はわたくしを労ってくれましたけれど、彼も傷ついたはずです。息子も泣いたはずです。わたくしたちはみな、あの子に会いたかったのです。あの子を抱きしめたくてしかたがなかったのです」

 握り合った手をほどき、彼女はひとつの装飾品を取り出した。朱色の房飾りがついためずらしい耳飾りだ。

「お願いがあります。これを以緒様に渡してください。そして、いつまでも、何があってもあの子の側にいてあげてください。どうか、どうかお願いします」

 手渡された耳飾りを銀朱は見つめる。物は古いが、何度も手入れして大事に使われてきた品物だ。千由子にとって思い入れのあるものなのだろう。

「……わたしには? わたしにはくれないの?」

 千由子が絶句したのがわかった。それだけで充分だった。

 結局、みんな以緒だけなのだ。自分はいらないのだ。

「なんで? どうして以緒だけなの? わたしはやっぱりいらないの?」

 千由子だけは自分を見てくれていると信じていた。紗手や、雅栄や、ほかの大人とはちがうのだと。

 しかしやはり彼女は以緒を選んだ。以緒には形ある物を分け与えるが、銀朱には何もくれない。

「ごめんなさい……っ」

 顔をぐしゃぐしゃにする銀朱の頬を、たおやかな両手が包みこむ。映し鏡のように、千由子も顔を歪ませていた。ごめんなさいと彼女はくりかえしながら頬を髪をなで、あたたかな胸へ銀朱を抱き寄せる。

「あなたはとてもかわいくて、いとおしい姪でした。わたくしを慕ってくれて本当にうれしかった。どうか幸せになってください。あの子とふたり、いつまでも幸せに笑っていてください」

 跫音はすぐそこまで迫っている。彼らは迷うことなく、まっすぐとふたりのいる室を目指してやってくる。

 やがて乱暴に御簾がはね上げられ、男の怒声が銀朱を頭から打ちすえた。ひゅっ、と喉を鳴らしたかたわらで、見慣れぬ閃光が走る。その正体がとても恐ろしいものだと、外界を知らずとも本能が察知した。

「――千由子殿」

 千由子は銀朱を解放すると、ゆっくりと侵入者を仰いだ。抜き身の太刀を携えた数人の武官を従え、英子がふたりを見下ろしていた。いつも気丈かつ冷静な彼女がこれほど動揺し、そして悲痛な面持ちでいるのを見るのは初めてだ。

「千由子殿、残念です」

 千由子は両手を突き、その場に額ずいた。

「申し訳ございません。わたくしたちには無理でした」

「……やはりあのとき、是が非でもそなたの出仕を止めるべきでした」

 伏せた千由子からの返答はない。ひたすらに平伏する姿に、英子は歯を食いしばる。

 しばしの沈黙を置き、彼女は控える従者へ重々しく命じた。

「千由子殿をお連れしなさい。おまえたちは王女を室まで届けるように」

 千由子はみずからの足で立ち上がると、武官に囲まれて振りかえることなく室を出ていった。

 なぜ彼女が罪人のように扱われるのか。銀朱にはわからなかったが、説明を求めたくても答えてくれる人などいない。英子は千由子らとともに姿を消してしまったし、うろたえているあいだに有無もなく室から連れ出されてしまう。

 着いた先には、寝間着姿の以緒が守人とともに銀朱を待っていた。以緒は姿を認めると天蓋から出てきて、心配そうに手を握った。

「銀朱、どこへ行っていたの? 寒くなかった?」

「え?」

 まるで銀朱がいなくなったかのような発言だ。

「以緒こそ、どこにいたの?」

「どこって、ずっとここにいたよ」

「嘘。だって」

 たしかに一緒に寝ていて、気づいたら以緒の方が消えていたのだ。そこに千由子が現れ、ふたりで探しに出たはずなのに――。

 だが、人のぬくもりが息づくこの室こそ天関であり、さっき千由子とともに歩いた空間の方が異質だった。幣である以緒が人々の中心にいる、それが天関の本質のはずだ。

 もしかしたら、夢を見ていたのかもしれない。たとえば千由子は火事があったと言っていたが、誰も騒いではいないではないか。

「……でも、やっぱり」

 口を開きかけ、しかしとっさに噤む。未良の目が何も語るなと牽制している気がした。青年の鋭利な視線は、銀朱を脅すには充分だった。

「銀朱?」

「……何でもない」

 以緒は首を捻っていたが、女官にうながされておとなしく布団に潜りこんだ。銀朱の手が冷えていたのか、両手で握ってあたためてくれる。

 ぬくもりは千由子よりもわずかにあたたかく、皮ふは無垢で薄かった。おやすみ、と当然のように声をかける。それが銀朱にとっては何よりも嬉しいだけに、おのれの中に生まれた感情に罪の意識を抱いてしまう。

(……でも)

 以緒に気づかれないように、懐に隠した耳飾りを探った。いくら以緒が好きで、千由子を好きでも、素直に差し出す勇気はどうしても湧いてこない。

(……ごめんなさい、千由子)

 先にまぶたを下ろした以緒を見つめ、銀朱もそれに倣った。なぜか心臓のあたりがとても痛かった。

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