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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第四章 神の箱庭
47/52

10

 箱庭を風が渡る音を、とても遠くで聞いた。木々のさざめきが沈黙にかすかな波をもたらすが、長くは続かない。

 千由子は床板をひしと見つめながらその時を待っている。幾重にも重ねた正装の下で、汗が滝のように肌を流れ落ちるのは、なにも残暑のせいだけではない。そよりと入ってきた微風が生々しく襟首をなでた気がして、背筋がわずかに粟立った。

 千由子の隣では、やはり正装の滋雅がじっと床の一点を見つめていた。雅栄と皇太子に謁見を申し入れたのは数日前で、兄王は日時を指定した返事をすぐに寄こした。

 本来ならばひと月ふた月とかかるものを、彼は片われのためならば即日対応する。常ならありがたいだけだが、今回は短期間で腹を据えなければならなかった。

 やがて、侍従が出御を告げる。控えめな衣ずれに、ふたりは同時に額ずいた。

 現れたのは雅栄と永隆、英子の三人だった。顔を上げるように命じ、待たせたことを詫びる雅栄は、いつもと変わらない。一方、千由子と滋雅は着いた手を離すことなく、視線を落としたままでいた。

「――それで、用件とは」

 弟の常ならぬ様子になにか察したのだろう。雅栄は世間話を挟まずに本題に入った。

「暇乞いに参りました。夫婦ともに役職を返上し、玄燿げんようを出て田舎で暮らそうと思います」

「いきなり何を言う、滋雅」

 滋雅が深く頭を垂れるのに、千由子も倣う。額に触れた床はひやりと冷たい。

「……何があった?」

 ひれ伏すふたりへ、雅栄は問いかける。だが相手は頑なに動かない。

「何もございません。千由子と話し合い、決めました」

「屋敷はどうする。住む場所の当ては」

「屋敷は殿下より賜ったものですので、職とともにお返しいたします。新しい家は伝手を頼りにこれから探す予定です」

成煕なりひろは? 玄燿で育てた方が、あの子の将来にも良いだろう」

「皇都が国のすべてではありません。将来、成煕が望むのなら玄燿に戻る日もございましょう」

 滋雅の意思が固く、やすやすとは説得できないと悟ったらしい。兄王は重く息を吐き、顔を上げるように再度命じた。今度は素直に従う。

 ちらりとうかがえば、雅栄の面にも困惑が認められた。無二の片われが相談もなく都を去ると言うのだから、動揺するのも無理はないだろう。

「……おまえの生まれが関係しているのか」

 いえ、と滋雅は否定する。

「そのようなことは決してありません。たとえ巧言を並べ立てられようと、私の忠誠は揺らぐものではございません」

「では、なぜだ。なぜ唐突に都を去ろうとする?」

 千由子は義兄の懸命の説得に対し、おのれでも驚くほど冷ややかな感情しか覚えなかった。彼が自分たちを気遣ってくれているのは痛いほどに知っている。だが、その裏で彼は以緒を奪い、七年もの間秘めてきたのだ。

「……無礼を承知で申し上げます。兄上」

 まぶたを下ろし、喉を突こうとするものを呑み下す。袖に隠した手先が予感めいたかのように震えだした。

 もう引き返すことはできないのだ。いびつであったが表面上は均衡の取れていた関係には。流した涙は血に変わり、くちびるは裂け、苦しみに耐える力も失った。だから訊ねなければならない。

「幣様――以緒様は、七年前に千由子が産み落とした、私たちの娘ではございませんか?」

 空気の凍りついていく音が聞こえた気がした。あるいは薄氷を踏み砕く音だ。汗に濡れていたはずの千由子の身体は、一転して鳥肌を立てていた。予想はしていたものの、それ以上に肌に刺さる冷気は鋭利で容赦がない。

 上座に座す三人の表情を確かめる勇気はなかった。継ぐ言葉を、目を伏せたまま待つ。

「――何ゆえ、そう思う?」

 ようよう亀裂を入れたのは雅栄だった。平静を装っているが、動揺に声がかすれているのを聞き逃しはしなかった。

「……千由子は神司かみづかさを輩出する家の出でございます。ゆえに、気を読むのに人より長けているのです。以緒様からは私と千由子の気を感じたと言いました」

「それだけか」

「いえ。以緒様を天より授かったのは、七年前の三月の末日と聞いています。千由子が娘を産み落としたのも同じ日です。あの日は、兄上からの使者が屋敷にて待機していました。赤子を取りあげたのも、兄上が遣わした産婆です」

「産婆を遣ったのは、千由子殿を思ってのことだ。姪の誕生に尽力して何がおかしい」

「兄上。あの日、私の屋敷から女家人がひとり、姿を消しました」

 滋雅の双眸がすっと細まり、雅栄を捕らえる。

「千由子の身の回りの世話をしていた者です。落ち着いた頃に頭役が家の事情で辞めたと報告してきましたが、ほかの家人に聞くと、ちょうど娘が生まれた直後から姿が見えなくなったそうです。おかしいとは思ったそうですが、なにぶん葬儀の支度に追われていたのですぐに忘れてしまったとか」

 ついこの間まで、その家人の存在を千由子も忘れていた。なにせ彼女は錯乱していて、当時のことをほとんど覚えていない。件の家人に着目したのは滋雅で、あらためて調べれば、彼女は後日文で退職の意と理由を伝えてきただけという。

 家の外の人間が、人をひとり連れ出すのは、たとえ新生児といえど難しいだろう。だが、内部に協力者がいれば。

「兄上からの使者は娘を皇宮へ攫う任を請けた者で、産婆は私や千由子に気づかれぬように使者へ娘を渡す者。いなくなった家人は、彼らが屋敷内を動けるように手配した者――ではありませんか?」

「戯れ言を。おのれが何を言っているのかわかっているのか」

「どうか真実をお話しください。私は兄上を信じます」

 それきり滋雅は口を閉ざした。兄へ定めた瞳はわずかも逸らされない。

 成人し、子を儲けても、ふたりはうりふたつだった。近しい者でなければ見分けるのは困難だろう。それだけに、互いが互いの一番の理解者でありつづけてきたのを、千由子は知っていた。常に傍らにいたおのれの分身を、彼らは尊重しつづけてきた。信じる、という弟の真意を、兄は正確にとらえているはずだ。

 雅栄の顔に葛藤の一端が染み出たときだった。今までひとことも発さずに静観していた永隆が、ふ、と息を吐いた。

「もはや隠す必要もなかろう。――滋雅、おまえの申すとおり、以緒はおまえたちの娘だ」

「陛下!!」

「みずから察し、問うてきたのだ。真実を知りたいと言うのならば教えてやればよい」

 諫める雅栄を永隆は目で制す。少年の姿をまとう皇帝かみは、はるか高みから千由子らを見下ろしていた。

「たしかに、産婆や使者には赤子を天関へ連れるよう命じた。幣がおまえの娘として生まれるのは、以前から決まっていたのだ。滋雅。おまえが生まれ、双子ゆえに殺められようとしたときには、すでにわたしには見えていた。ゆえに、予はおまえを生かした」

 まさか、と千由子は耳を疑った。そんなはずはない。

 雅栄と滋雅が生まれたとき、先代皇帝にはすでに死の影が迫っていた。皇帝は床からわざわざ遣いをやって、双子の弟を王子として育てるよう命じたと聞く。

 それは肉体の滅びに瀕した皇帝が、新たな命を惜しんだからだと。双子の弟は皇帝の慈悲で生き延びたのだと。みなが語り、讃美してきた話だ。

「予に赤子の命を惜しむ理由などない。器が滅びようと、予が神でありつづけるかぎり『死』は訪れぬのだ。仮初めの死など恐れるわけがなかろうに……」

 よほど不服なのか、もしくは呆れているのか、永隆がゆるりと首を振る。

「滋雅がおらずとも、幣はほかの人間を父として生まれただろう。だが、以緒よりは時が要った。おまえが幣の父としてもっとも適していたのだ」

 人々が口に上らせ、囃されてきた美談は、当人によってあっさりと否定されてしまった。しかし少年に罪の意識はなく、むしろ興味深そうに揃いの黄金が細められる。

「だが、よもや気を嗅ぎわけるとはな。あれは器の気のはずだが、よく悟ったものだ。やはり多少は人間の気が残っているのか」

 頭や手先や全身から、砂がこぼれるように血の気が引いていった。一瞬視界が真っ白に弾ける。気づけば千由子は永隆の玉顔を直視し、ガタガタとわななきながら歯向かっていた。

「あ、あの子は、あの子は人です。人、なのです。陛下の、物、ではございません……っ!」

「あれは生まれ落ちたときから予の幣だ。否、おまえが身籠もったときから予の物だった」

 権高に告げる相手に、必死の反抗でさえひるんで喉に張りついてしまう。これほど恐ろしい存在に対面したことは今までになかった。命を奪われるわけでも、身を傷つけられるわけでもない――しかし千由子は恐怖に戦慄せずにはいられない。絶対的な存在を前に、自分は卑小だと突きつけられ、怯えている。

「父上――雅栄もだが、なにゆえあれに執着する? 今までにも幣は存在した。おまえたちはそれを受け入れ、予に捧げた。もし、あれが滋雅の血を引かなかったとしたら、おまえたちはそこまで以緒に執着したか? 偶然にも滋雅の娘であったからこそ、気にかけるのであろう」

 ちがう、と否定できたらよかった。だが、まさにその通りなのだ。

 桐人にとって、幣とは数百年に一度、神に捧げる“もの”だ。それがどこで生まれ、どうやって捧げられるかなど、大概の人間は考えない。神司の娘として生まれ育った千由子でさえ、幣に特に興味はなく、青眼の人形ひとがたを取ると知ったときには気味悪く思ったほどだ。以緒に対しても、再会までの三年間で関心を寄せたことなど一度もなかった。

 幣は、桐の平穏と安寧を維持するための“もの”にすぎない。言葉が通じようとも、誰もおのれと同じ人間だとはとらえていない。

「滋雅。おまえは以緒の父であるがゆえに生き延びた。おまえたちは幣をこの世に産み落とし、桐のために予に捧げる。ほかの誰にも為し得ぬことだ、誇りに思うがよい」

 その瞬間、千由子は神を捨てた。蜘蛛の巣のように罅の入っていた忠誠や信念、信仰が音を立てて砕け散った。激痛と憤怒は炎となって気道を駆け上がり、裏切りへの怨嗟は視界を真っ黒に塗りつぶしてゆく。

 しかし完全に千由子が獣と化す前に、大きな物音がそれを制した。十と一を数えた小柄な永隆の隣で、黒い影が揺らめいた。

「っ、雅栄様!」

 制止とも悲鳴とも取れる英子の叫声が響く。永隆は床に転がった脇息を見やり、それからゆっくりと雅栄を仰いだ。

「……いかがした、雅栄? おまえもすべて承知の上だろう」

 青黒い顔色の男へ永隆は問いかける。雅栄は何を言うでもなく、息子を見下ろした。たとえ父と言えども皇太子を見下ろすのは不敬だ。ましてやその顔が筆舌しがたい感情に歪んでいたら、とても好意的には取れない。

 しかし、永隆はつと口の端を吊りあげた。雅栄の肩がぶるりと震えた。

「雅栄様、おかけください! 顔色が悪うございます!!」

 さっ、と英子が雅栄の袖に飛びつく。

「お疲れなのでしょう、すぐに医者を呼びます。陛下、悪い気に触れるのは御身によろしくございません。どうぞお戻りください」

「……なるほど、母上の申すとおりだ。おとなしく天関へ戻ろう」

 永隆は笑んだまま滑らかな動作で立ち上がると、物音もさせずに廊下へ姿を消した。侍従の足音だけがひそやかに遠のいていく。

「千由子殿。そなたたちの辞意、たしかに承知しました。のちほど正式に遣いをやりますから、今日は速やかにお戻りなさい。滋雅殿のお顔の色も優れません」

 我に返って夫を確かめると、彼女の言うとおり、滋雅の顔は土気色をしていた。穏やかなはずの目は澱み、まるで焦点が合っていない。呼びかけても芳しい反応はなかった。触れた手は氷のようだ。

「誰か、滋雅殿と千由子殿を車まで案内あないしなさい。誰か!」

 控えていた女官と侍従が数人、姿を現す。千由子は彼らの手を借り、いまだ自失している滋雅とともに広間を後にした。

 雅栄は歯を噛みしめ、弁明するでもなく、引き止めるでもなく、ただその場に佇んでいた。彼の視線が追ってくるのを背に感じていたが、片われが振り向くことは永久になかった。



 自室へ足を踏み入れたと同時に、滋雅は膝から崩れ落ちた。千由子ひとりで支えられるはずもなく、ともにへたりこんでしまう。

 慌てふためく家人に水と着替えの用意を命じ、いったん人払いをした。滋雅の全身はやはり凍えているのに、額には玉のような汗が浮かんでいる。呼吸も荒く、何度名を呼んでも千由子を見ない。

 おのれの人生の意義は、娘を生け贄に捧げるためだけにあった――そう知らされ絶望せずにいられる人間がいるだろうか。結局、永隆にとって滋雅と以緒は道具でしかなかった。命を拾ってくれた皇帝を崇拝し、妻の悲嘆に胸を痛めていた彼にとって、これほど酷な仕打ちがあるだろうか。

 あぁ、と千由子のくちびるから嗚咽が漏れる。慰めの言葉を彼女は持たなかった。ただ側にいて、ともに激痛にもがくことしかできない。

 家人の用意した水を飲み、何度かえずいてから、滋雅はようやく落ち着きを取り戻した。あいかわらず顔は蝋を塗ったようだったが、したたる汗を拭うために布を当てると、充血した瞳がのろのろと千由子を探す。ここです、と応えると、ひび割れたくちびるから細く息が漏れた。

「……奥様、あの」

 壁代の隙間から、女家人に付き添われた小さな影がのぞいていた。一瞬、黄金が煌めいた気がして髄に寒気が走る。だがすぐに錯覚だと理解した。成煕だ。

 同じ年に生まれた彼は、背丈が永隆とそっくりだった。どこから騒ぎを聞きつけたのか、父親譲りの目元が緊張に強ばっている。

「父上、母上、何があったのですか?」

「何もないわ。へやにお戻りなさい」

「母上、なぜ泣いているのですか」

 うずくまる両親へ成煕が駆け寄ってくる。泣かないで、と言った以緒が脳裏に浮かんだ。目の色も、顔の造作もちがう。以緒は両親の面影を継がなかったのに、なぜこれほど似ていると思うのだろう。

 千由子は息子をおのれの胸へ抱き寄せた。泉のように滾々と湧き出でるこの愛おしさは、決してまがいものではない。滋雅と夫婦になったことも、成煕と以緒を産み、愛するこの気持ちも、決して皇帝のためにあるのではない。すべて自分の意識から生まれ、選択し、自分の足が歩んできた結果だ。たとえ神であっても冒涜できるものではないのだ。

「……、……ない。すまない、千由子」

 血を吐くように滋雅は謝罪した。彼が詫びる責任など、どこにあるのだろう。

 涙をこぼしながら無言で首を振る妻へ、滋雅は何度も何度もくりかえし――そうしていまだ青ざめた顔をもたげて、言った。

「あの子を、取り戻そう」

 千由子は悟った。彼も、おのれの神と兄を捨てたのだ。

 滋雅は片手で千由子を引き寄せると、片手で成煕の手を取った。

「成煕、……おまえは、あの子に会いたいかい?」

「あの子?」

「そう。死んだと思っていた、おまえの妹。本当は生きていたんだよ」

 突然の告白に動揺が走る。会いたくないと言ったなら、滋雅は諦めるだろう。千由子もそのつもりだ。

「おまえが会いたくないのなら、いいんだ。やすやすと会いに行ける場所でもない。ただ、もし会いたいのなら、なんとかして会わせてやりたい。……どうだろう?」

 迷ったのはほんの数秒だった。あどけなさを残したあごを引いて、成煕は応じる。

「会いたいです、父上」

「そうか。――わかった」

 滋雅は微笑を浮かべた。その晴れやかな表情にまぶたを閉じ、夫の肩に額を寄せる。

 身体の中心で心臓がけたたましく暴れている。迫りくる大軍の軍鼓のようでありながら、しかし不思議と恐ろしくはない。何も見えない暗闇は案外心地よく、あれほど怯えていた泥濘もひとりではないとわかればとてものどやかだ。

 抱いたふたつの熱に千由子は存分に浸り、遠く離れたひとつへ想いを馳せた。

 ――今、この瞬間から、自分たちは国賊になる。

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