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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第四章 神の箱庭
46/52

9

(……ここから連れ出すことは、できないのだろうか……?)

 ふと、その可能性が脳裏をかすめた。

 皇宮を脱し、玄燿げんようの空を仰ぎ、美しい山河を見せることはできないのだろうか。日瑞ひみずの屋敷へ帰り、女児の衣と本来の名を与えて、日々をともに暮らせないだろうか。家族四人で平穏に生きたいと思うのは、それほどわがままな願いだろうか?

 妹が生きていたと知れば成煕なりひろは喜ぶだろう。妹の誕生を誰よりも楽しみにして十月とつきを過ごしたのだ。きっと以緒を受け入れ、かわいがってくれる。

(わたくし、は)

 背中を嫌な汗が伝う。黒い靄が視野を狭め、以緒の澄みきった双眸に意識を縫いとめられる。

 重い泥に身を浸し、潜っていくようだった。遠くで警鐘が鳴っていたが、千由子は気に留めない。理性が呑みこまれていくのを、冷や汗に震えながらじっと見つめている。

「――幣様!」

 耳をつんざく喚声に、千由子の意識は現実へ引き戻された。まとわりついていた泥は消え失せ、白く開けた視界に注意すれば、女官が鬼のごとく眉を吊り上げていた。

 千由子はあわてて涙を拭い、以緒を解放した。涙の跡に気づいてはいないだろうが、抱きしめていたのは見られたはずだ。女官は以緒を保護すると、親の仇に会ったとでも言うように噛みついてきた。

「千由子殿、いったい何をなさっていたのですか!? 畏れおおくも幣様に触れるなど……!!」

「やめて、千由子は悪くない」

 遮ったのは以緒だった。まるで帳が下りるかのごとく、スッと顔つきが変わる。

「わたしが千由子と話したくて追ってきたの。ふたりきりで話したかったから、誰にも気づかれないように気を消したの。だからこれはわたしの意思」

「で、ですが、千由子殿は幣様のお身体に……」

「わたしの言葉がわからない?」

 かすかに以緒が首を傾げる。一方で、女官は怖畏に戦慄した。

 ――この豹変ぶりは何だろう。さきほどまで年相応の子どもであったはずが、今ははるか高みの存在としてこの場に君臨している。まるで――皇太子のように。

 ぞっ、と千由子の背中を怖気が走る。これが神の宝と呼ばれる幣の本性なのだろうか。今まで娘にしか見えなかった以緒が、娘の殻をまとった別物に思え、その感情に二度怯えた。

「千由子」

 はい、と唾を飲みこみながら応える。以緒の表情は、すでに子どもに戻っていた。

「わたしのせいで怒られてしまってごめんね。わたしが悪いから、気にしないでね?」

「いいえ。――わたくしが、悪いのです」

 胸裡の嵐を衣の下に押しこめて、千由子は床に手を着いた。

「身をわきまえず、大変なご無礼をいたしましたこと、お詫び申し上げます。どうか、天関いわくらへお戻りください。守人殿がきっとお探しです」

「……うん。千由子、顔を見せて」

 乞われるままに顔を上げれば、不安に揺らぐ視線とぶつかった。

「また、会える……?」

「はい、必ず」

 微笑みを返すと、いくらか不安が消えていく。以緒はひとつうなずき、どこかうしろ髪を引かれるように天関へ踵を返した。小さな水干姿が確認できなくなるまで見送ってから、千由子はようやく腰を上げた。

 しゅっ、しゅっ、と捌く緋袴の衣ずれだけが鼓膜を爪弾く。各所ですれ違う人の顔も、内廷の喧噪も頭には入ってこなかった。意識と肉体が分かたれたと思うほど、五感が鈍い。

 どの道を通り、どうやって牛車に乗ったのか。気づけば馴染んだ車内に座し、千由子はぼんやりと虚空を眺めていた。

(……わたくしは、なんて恐ろしいことを――)

 〈幣〉がなければ、皇太子の即位は叶わない。すなわち桐は神を得られずに、幣の誕生をふたたび待つことになる。

 それが十年後なのか百年後なのかは、誰も知らない。皇太子が即位できなかった先例はないのだ。

 ただ、先の皇帝が崩御して以来続いている天災を鑑みれば、次の幣が現れるまでにどれほどの人間が非業の死を迎えるのかは想像にたやすい。皇帝は世界を統治する唯一神であり、世界の枢軸なのだ。中心となる者がいなければ、日々目まぐるしく巡っている世界はいともたやすく混乱してしまうだろう。

 信じていると英子は言った。千由子が大罪を犯さぬ人間だと――娘の命より、何千万の命を選べる人間だと。

 目の前から急速に光が失われていく。千由子は催す吐き気を懸命に堪えながら、一刻も早く屋敷へ着くのを願った。



「……千由子?」

 低く、心地よい声音が千由子の琴線にふれる。まぶたをそっと持ちあげると滋雅がいた。

 心配する家人を遠ざけ、ひとり居室で脇息にもたれかかっているうちに眠ってしまったらしい。壁代の隙間から漏れいる光はこがねを帯び、鴉の鳴き声が夕暮れを告げる。千由子は滋雅の手を借り、ゆるりと身体を起こした。

「顔色が悪い。……熱はないようだけれど」

 顔に張りつく髪を除きながら、大きな手のひらが頬をなでる。慣れた夫のぬくもりに、千由子はふたたび目を閉じた。

 皇宮から連れてきた吐き気と眩暈は、いまだ治まらない。呼ばれてのろのろと睫毛を上げると、眉根を寄せた滋雅と目が合う。

「どこが悪いんだい? 医者を呼ぼうか」

「いえ。……医者は必要ありません」

 紙のように白い顔色で拒んでも説得力はないだろう。案の定、滋雅は渋ったが、千由子は首を振ったのち広い胸へと身体を委ねた。

 布越しに伝わる熱は冷たい頬を温め、低く太く打つ鼓動は喘ぐ心をわずかに慰めてくれた。深く息を吸い、凝っていたものを吐き出して、無言の問いかけに答える。

「……このままでは、わたくしは神に叛きます」

 口にしただけでひどい背徳感を抱き、さぁっと血の気が引いていく。滋雅の胸にも緊張が走ったのがわかった。

「もう限界なのです。わたくし、今日はあの子を拐かそうと思いました。どうしたら見咎められず、陛下にも気づかれずにこの家に連れて帰れるだろうと、すべての知識を駆使して道順と時間を計算していました。そんなこと、わたくしひとりでできるはずがないのに。陛下に勘づかれずに、幣を皇宮から出せるはずがないのに――!」

 できるはずがない、不可能だ――そう理性は働いても、本心から唾棄することはできなかった。どうしたら可能なのか、なぜできぬのか。そればかりを考えて、今にも以緒を連れ去りそうだった。

「あの子に会えるだけでわたくしは幸せです。わたくしを母だと知らずとも、千由子と呼んで慕ってくれるだけで充分なはずなのに、どうしても考えてしまうのです。なぜ、あの子はわたくしの手元にいないのか。なぜあの子が死ななければならないのか……!」

 抑えきれなかった涙が眦からこぼれ、ふたりの衣にしみを残す。

 以緒の運命に涙するのは一度や二度ではない。参内する際、千由子はとても明るい表情で車に乗るが、戻るとたいていは消沈していた。夜更けに訳もなく枕を濡らし、目を腫らして朝を迎えるのもめずらしくはない。

 だが、成煕には悟られぬように、以緒や銀朱には笑顔を絶やさぬように努めた。滋雅は出仕を辞めるべきだと再三説得したが、以緒に会えなければ会えないで不安に襲われるのだ。何も知らぬまま、今度こそ失うことこそ最大の恐怖だった。

「わかっているのです。恐ろしい……言葉にもしてはならない大罪だと。ですが、あの子を見るたびに疑問を抱かずにはいられないのです。わたくしはこのまま、あの子が死ぬのを沈黙のまま受け入れるしかないのかと。本当に諦めるしかないのかと。あの子はわたくしの目の前で、たしかに生きているのに、また見捨てなければならないのかと」

「千由子……」

 さめざめと落涙する妻の肩を、滋雅は力を込めて抱き寄せた。すでに千由子の妄言ではないと、彼も理解している。

 七歳を迎えた幣は、祭祀に臨席することが多くなった。その際、滋雅も以緒の気配を感じ、または姿を垣間見る機会があったのだろう。彼も皇帝の血を引く者なので、人より勘が優れていてもおかしくはない。理性ではなく根幹の部分で、以緒と共鳴するものがあったのだ。

「もうやめよう。もう参内しなくていい。これ以上苦しむ必要はない」

「できません。あの子、わたくしが来るのを待っているのです。また行くと約束したのです」

 かぶりを振り、拒絶するのも何度目だろう。出口のない迷路に、みずから迷いこんでいるようだった。進んでも、戻っても、どちらも血を吐くほどに苦しい。長年苛まれてきた心はすでに限界だった。

「千由子、……今度、私とともに暇乞いに参ろう」

「できません。それだけは……っ」

「その時に、私は陛下に問うてみる」

 固い声音に、千由子は夫を仰いだ。普段温厚な彼には似合わない、緊張と決意に張りつめた色をしていた。

「あの子が私たちの娘なのか、私は尋ねてみよう。なぜ、どういう経緯であの子を連れ去ったのかを。彼らが否定するのなら、私はそれを受け入れる。肯定しても国のためだと甘んじよう。宗室に生まれ、宗室に仕える私にできるのは――それだけだ」

 肩に食いこむ指が痛みと苦悶を訴えてくる。自分たちにできるのはそこまでだ。それでさえ、叛意ありと取られてもおかしくはない。

 おのれの無力さに打ちひしがれながらあごを引くと、木枯らしのようにさみしい声が謝罪を紡いだ。耳朶がひやりとする。それなのに熱い。

「……わたくし、今日、初めてあの子を抱きしめました。とてもあたたかかった」

 滋雅に縋りつき、胸に顔を埋めながら、千由子は今までのことをつぶさに語った。以緒の好み、以緒の癖、以緒のころころと変わる表情。どちらの特徴も受け継いでいないはずだが、笑うと滋雅の面影がある。爪の形も滋雅譲りだが、指の長さは自分に似ている――。

 夕餉を挟んで床に入っても、話が尽きることはなかった。口に上らせるのは今夜が最後だとわかっていたからこそ、彼女はわずかも取りこぼさないよう、ていねいに語りつづけた。

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