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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第四章 神の箱庭
45/52

8

「千由子殿」

 沈潜していた千由子は、名を呼ばれて我に返った。声の元を求めて辺りをうかがうと、紗手が妻戸の影に佇んでいた。

「……紗手様。いかがなさいましたか?」

 おのれの白々しさを苦く思いつつも平静を装う。扇の下に隠された美貌が不快に歪んだ。

 話し相手という名目で参内している千由子だが、最近では銀朱のもとへ通うのみで、紗手と会話をすることはない。銀朱に傾倒する彼女を、紗手の方から拒んだのだ。

 しかし解職を英子に乞えば、必然母子の確執まで話さなければならず、結果千由子の行動は黙認されている。気のない紗手の相手を勤めるのは難しく、肩身が狭いだけだ。よって挨拶を済ませると早々に銀朱の殿舎へ移動している。

「よほどあれが気に入っているのですね」

「いえ、そういうわけでは……」

「差しあげると言いましたのに」

 批難を帯びる声は、千由子の胸に一矢を放つ。

「……紗手様、そのようなことを仰っては」

「千由子殿。わたくしはあなたのためを想い、提案しているのです。娘を亡くされたあなたは寂しいのでしょう? では、あれを連れ帰ればよいではないですか。あれも懐いているようですし、なんら問題はありません」

「銀朱様はあなたの媛ではございませんか。雅栄殿下が知ればお怒りになります」

「殿下はあれに興味がございませんから。いなくなろうと気がつかないかもしれません」

 ふい、と紗手の視線が逸らされる。そこに糸口があると読み、千由子は一歩を踏みこんだ。

「なにゆえ、そう思われるのですか? 殿下は紗手様をあれほど寵愛しておられたではありませんか。寵妃のお産みになった媛君に興味がないとは、わたくしには思えません」

 甥の誕生を祝い、今でも細やかに様子をたずねてくるほどだ。雅栄がおのれの子を疎む理由がわからない。

 彼の性格ならば銀朱を宝のようにかわいがるのではないか――と思えど、実際世話をしているのは英子だ。彼女が夫から頼まれているのか、それとも正妃の義務を果たしているだけなのか。知る術はない。

 紗手は黒目がちの双眸を鋭くして千由子を睨めつけた。動じることなく、ただ黙って見つめかえせば、しばらくののちに彼女は結んでいたくちびるを開いた。

「……後宮に住まう女の務めは、殿下の御子を産むことです」

 何かを思い出すように、または目を背けるかのように、長い睫毛が影を落とす。

「国王の御子を産む――大層なお役目を頂けて、わたくしはとても幸せでした。殿下みずからわたくしを選んでくださったのですもの。誇りに思わぬおなごがどこにいるでしょうか? わたくしは有頂天で、……ゆえにあれを身籠もったときは、国一番の果報者だと思いました」

 ではなぜ、と問いたいのを堪える。下手に口を挟み、紗手の気を削いではいけない。

「殿下はお喜びくださいました。新しい衣も寝具も産着も、厄除けの護符も、必要なものはすべて整えてくださいました。わたくしの体調を気にして頻繁にお出でになりましたし、食事にも気を遣ってくださいました。ですが、いつの頃だったか――その足がぱたりと止んだのです。それからあれが生まれ、七日の祝いまで殿下はわたくしのもとを訪れませんでした。ようやくお目にかかれたというのに……殿下はあれを抱いて喜ぶどころか、眉をひそめられたのです。労いも、言祝ぎもなく、ただ『寿春』と名をつけて立ち去られました」

 ふたたび千由子をとらえた瞳には、行き場のない憤懣がくすぶっていた。紗手は扇を持つ手に力を込め、わずかに声を震わせながら続ける。

「側妃であるわたくしの役目は、殿下の御子を産むこと。だというのに、殿下はわたくしの仕事を認めてはくださいませんでした。なにが殿下の意に沿わなかったのか、王女だったから認めてくださらないのか。……わたくしには雅栄様の胸中はわかりませんが、あれは愚作なのです。殿下はあれを必要としておられません」

「紗手様、おそらく理由が――」

「殿下があれを必要とされないのなら、わたくしも要りません。わたくしの汚点ですもの、なるべく目につかない場所にやりたいのです。……わかりますでしょう?」

 ことんと首を傾げる様は一見愛らしいが、美しいかんばせは負の感情に覆われていて怖気を震う。妖しげにぎらつく双眸に、千由子はごくりと喉を鳴らした。

「わ、わたくしには……」

 ――わかるはずがない。

 以緒に焦がれる千由子に、紗手の気持ちが理解できるはずがない。手の届く場所にいる娘をみずから遠ざける紗手が妬ましくてならない。そして彼女にも千由子の想いは理解できないのだ。紗手は本気で千由子のために銀朱をやると言っているのだから。

「千由子!」

 突如乱入した声は、この場にはいないはずの者のそれだった。心当たりに驚いて振りかえると、廊下の曲がり角から以緒の顔がのぞいていた。走り寄ってくる顔には笑みがあったが、紗手の姿を認めると霞のように淡く散ってしまう。何歩も離れた不自然な位置で、以緒は足を止めた。

「……化け物」

 はっ、と背後の紗手を見る。千由子のみぞおちに灼熱の塊が生まれた。

「化け物が後宮を歩き回るなど……。おとなしく天関に捕らわれていればよいものを」

「紗手様!!」

 千由子の激昂に対し、紗手は冷ややかだ。それどころか哀れみさえ投げてくる。

「千由子殿、あまり幣には関わらない方がよろしいですよ。所詮は化け物、災厄を招く鬼です。わたくしの娘が低劣なのもこの鬼のせいですもの。近い日に生まれたから厄を蒙ってしまったのだわ」

 紗手は呪いに似た言葉を吐き捨てると、するりと戸の影に身を滑りこませた。気配は遠ざかっていったが、甘い残り香だけがいつまでも鼻を突き、主の呪詛をくりかえす。いまだ燃えさかる瞋恚が荊となって突き刺さり、心臓は悲鳴を上げたが、それを以緒に悟らせるつもりはない。

 乱れる心を整えて紗手の気が辿れないのを確認すると、千由子は平静を装って声をかけた。

「以緒様、いかがなさいましたか」

「あ……、うん。あのね」

 ほっ、と緊張を解く以緒が痛ましい。千由子が膝を折り、小さな肩に手を添えると、わずかに笑みが戻った。が、すぐになにか思い出したのか口元が強ばる。

 以緒とふたりきりになるのは、これが初めてだった。英子かまたは皇帝の命か、女官は千由子と〈幣〉が必要以上に近づかぬよう、常に目を光らせている。そのため、どうしても銀朱の相手が多かった。姪でもある王女が懐いてくれるのは嬉しかったが、やはりおのれの娘が目の前にいるのにふれあえないのは歯痒くてたまらない。

 以緒は一度くちびるを結んで決意を固めると、おそるおそると言った。

「千由子、……銀朱のこと、きらいにならないでね」

 予想外の訴えに千由子は驚いた。だが以緒は白い眉間にしわを寄せて、もじもじと袖をいじっている。

「銀朱のお母様が冷たいのは本当なの。……紗手様、怖いし……。でも、本当は銀朱だってお母様のこときらいじゃないの。お習字をほめてもらいたいし、多分一緒にお菓子を食べたり遊んだりしたいの。でも紗手様はちっともかまってくれないから……、さみしいんだと思う」

 もし、自分が秋水舎に通わなかったら。紗手は銀朱に関心を持てたのではないかと、千由子は時折考える。

 汚点だ低劣だと貶しながらも、彼女はどこかで銀朱の存在を認めたいはずだ。日常から追い出し、乳母もつけずに放っておいたとしても、はたしておのれの子に対して完全に無関心でいられるだろうか。

 なんらかのきっかけがあれば、紗手は娘を受け入れられたのかもしれない。だが、その前に銀朱の関心が千由子に移ってしまった。腹を痛めて産んだ子が、自分以外の女に懐いていれば快くは思わないはずだ。

(わたくしこそが、ふたりの仲を裂いているのかもしれない……)

 だとしても、千由子は銀朱の室へ通わずにはいられなかった。

 会える保証などどこにもなかった。それでも、以緒に会いたかったのだ。

「……わたくしが銀朱様を嫌うことはございません」

「本当?」

「はい。ですから、ご安心ください」

 以緒から緊張が消え、ようやくいつもの笑みが戻る。

「また遊びに来てね。わたしも天関からこっそり出てくるから。今日も『気』を消してね、未良に見つからないように出てきたの」

「まあ……。守人殿に叱られませんか?」

「そんなに怒らないよ。未良は怖い顔をしてるけど、謝ったら許してくれるから」

 首を傾げて笑う様子はいたずらっ子のそれだった。しかしわがままばかりでなく、銀朱や周囲への気遣いにも長けている。罵言を知らぬはずはないのに、紗手を嫌いはしないのは、銀朱の母親だからだろう。

「……以緒様は」

 千由子の呼びかけに、うん、と無邪気な相づちが返る。

「以緒様は、皇宮が……、天関がお好きですか?」

 瑠璃の瞳がくるりと円くなった。いきなりこんな質問をしても戸惑うだけだろう。しかし、一度発露した想いは止められない。

「なにか不自由をしたり……食べたいものが食べられなかったり、しませんか? 女官はやさしいですか? 守人殿は本当に怒らないですか?」

 至高の存在である皇帝のための空間なのだから、千由子の想像よりはるかに豪奢な環境のはずだ。実際に立ち入ったことはなくとも、以緒を見れば衣食住や周囲の人間に恵まれているのはわかる。わかるが、千由子の不安を吹き消す要素にはならない。

「千由子、どうしたの? 悲しいの?」

 よほどひどい顔をしているのか。以緒が心配そうにのぞきこんでくる。

「先ほどのように、誰かに乱暴な言葉をぶつけられはしませんか?」

 ぱちりと瞬いた双眸に、一瞬よぎった困惑の意味を察するのは、あまりにも容易かった。

 頑なに装っていた仮面が剥がれ落ち、長年秘めてきた感情がついに爆発する。その衝動は両腕を無意識に動かし、小さな身体を千由子の胸へ抱き寄せていた。

(この子は、こんなにもあたたかかった――)

 以緒の熱を、身体の大きさや線を、匂いを、すべてを余すことなく覚えるために、七年の空白を埋めるために、千由子は必死にかき抱く。突然のことに以緒の肩がびくりと跳ねたが、やがて雪が溶けるように緊張も消えていった。

 髪に鼻を寄せると薫物の匂いがした。うなじの薄い皮ふに透ける血管から、赤々とした生命の息吹が聞こえた。――以緒はたしかに生きている。

 なのに、この子は家族も性別も取りあげられて、短い生を強いられるのだ。子どもにしては細い身体も、幣が性質上あまり食事を摂らないせいだと思い至れば、口惜しさに喉を掻きむしりたくなる。

 なぜ、この子が。どうしてこの子なのか。

「……千由子、泣いているの?」

 丸い指先が、そっと目尻を辿る。以緒の桜色の爪を濡らす雫を見て、千由子は自分が泣いていることを知った。ほろほろとこぼれる涙は幼子の手のひらでは受け止めきれずに頬を打つ。途端、澄んでいた青眼に暗雲が立ちこめた。

「泣かないで、千由子。泣いたらだめ」

 以緒は精一杯に腕を伸ばした。

「わたしはここが好きだよ。お菓子もたくさん食べられるし、玩具もたくさんある。……わたしのこと、怖がる人もたくさんいるけど、でも、銀朱や永隆様がいるから。未良は鞠遊びの相手もしてくれるの。それに、たまにだけど千由子に会える。だから、大丈夫だから、泣かないで」

 拙い慰めを連ね、どうにかして涙を止めようとする様子に、千由子の胸はますます血を流した。

 ちがう。本当は、――思わず真実が口をつきかけ、それとともにこみ上げてきた鉛の塊に喉を詰まらせる。

 以緒が与えられているものは、すべて偽物だ。彼女が神へ捧げる唯一無二の贄だから、皆、宝として丁重に扱うのだ。それは本物の愛情ではない。無償の愛を、本来の人生を、教え与えてやりたい。

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